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幼女と元ニートの怪異録 口裂け女

 昔からそうだった。

 いつも、言いたい言葉は口から出てきてくれない。

 胸の奥にずっとわだかまって、消えていく。

 恐らく、勇気が無いのだろう。

 だからいつも、肝心なことが言えずに手遅れになるのだ。

 せめて、一言分の勇気だけでも、あればいいのに。



●●●



 煙草は高い。

 つくづく、川崎かわさき 孝嗣たかつぐはそう思っていた。

 煙草を一箱買うのを我慢すれば、コンビニ程度だったら一食ぐらい買えてしまう値段だ。古本屋に行けば、大判の漫画本だって買えてしまう。

 たった一箱、煙草を我慢するだけでそれだけの得があるのだ。

 一方、煙草はほとんど害しかない。そりゃ、多少なりとも集中力が高まったり、苛立った気持ちが落ち着くことはあるが、大抵、それは中毒症状が原因なので、そもそも煙草を止めればいいだけの話だ。健康に悪いわ、教師に見つかったら面倒になるわ、で孝嗣は煙草が嫌いだった。


 そもそも、味もよろしくない。

 うまい煙草も探せばあるのだろうが、そも、未成年で子供舌な孝嗣に、煙草の違いなど判るわけがない。精々分かると言ったら、ニコチンの含有量程度だろう。カレーだって常に甘口オンリーなのだ。中辛以上はカレーと認めていない。


「…………やめてぇなぁ」


 孝嗣は数少ない小遣いをやりくりし、成人した姉に頼んで煙草を買って来てもらっている。その際、ただでさえ高い煙草に手数料もぶんどられるので、ひたすら損しか感じない。


 ならば煙草を止めればいいだけの話なのだろうが、これでも孝嗣は不良である。髪は金色に染め、耳にもピアス。校則違反は日常的に。授業は適度にさぼっていて。まぁ、そんなわけだから、当然、悪い仲間も出来て、付き合いで煙草を吸うようになったのだ。今更、一人だけ煙草を止めました。なんて言えば、少なくとも心象は良くない。だらだらと、誰か仲間の家で、煙草を吸いながら時間を潰す時など、孝嗣の肩身が狭くなってしまう。


 だったらせめて、その時間以外は煙草を吸わないように気を付ければいいのだろうが、孝嗣の薄弱な意思では、ニコチン依存の苛立ちに耐えられず、ついつい、隠れて吸ってしまうのだ。


 今日、この時も孝嗣は午後の授業をさぼって、コンビニ前でこそこそと喫煙をしていた。もちろん、こっそりと家に帰って私服に着替えて、だ。おまけに、普段使わないちょっと遠めのコンビニにわざわざ出向いて。

 孝嗣は不良の癖に、停学や退学が怖いので、そこら辺は気を付けている。もっとも、普段の素行や、外見で内申点は最底辺ほどであるが。


「……はぁ、いいことねぇなぁ、最近」


 煙草は値上がりする。

 ついでに姉からの手数料も値上がりする。

 不良仲間から『悪いこと』の誘いがあって、断ったら最近はぶられ気味。

 クラス内では、その『悪いこと』に関わったのではないかと、疑われて浮いている。

 止めに、とある事情で夜出歩けなくなってしまい、自然と両親からの視線が辛くなってきていた。恐らく、近日中に最近の素行に関してガチ説教が入る。


「…………はぁ」


 再度、ため息を漏らす孝嗣。

 元々、孝嗣はそこまで根っからの悪というわけではなかった。酒、煙草をやり、授業をさぼろうが、誰かを傷つけることや、害することはとことん嫌っていた。ぶっちゃけ、不良なんてただのポーズであり、誰かに『怖がられたい』だけのファッションだったのだ。


 しかし、根が良かろうが悪かろうが、そういう外面を被っているのなら、当然、寄ってくる人間は悪い者になるし、クラスからは浮くのは当然だ。悪因悪果。悪いことをすれば、悪い結果が生まれるのは必然である。

 良い結果を求めるのならば、良い行いをするしかない。


「…………今更、だよなぁ」


 ただ、今の孝嗣には、凝り固まってしまった自分の不良像を崩す勇気なんてものは無くて。


「はぁ…………宝くじとか当たらねぇかなぁ? いや、買ってないけど」


 どこからか降って湧くような幸運を、ため息交じりに望むだけだった。


「あははは、それって俺らが『空から美少女が降ってこないかなぁ』って思うのと同じだぜ。孝嗣君」

「――お?」


 不意に、孝嗣は己の独り言を拾われ、声を掛けられた。

 軽快な男の声だ。

 柔らかく、気安く、そして知った声だったので、少し驚いて目を丸くする。


「お前…………真昼か?」

「よっ、久しぶり、孝嗣君」


 にへら、とした気の抜けた笑みを浮かべながら声を掛けてきたのは、孝嗣の同級生だった月山真昼という少年だ。灰色のパーカーに藍色のジーンズという、凡庸な服装。加えて、中性的な上に、ぱっとしない顔つき。身長は男子の平均よりも小さくて華奢だから、たまに女子と間違われることもあるぐらいだ。

 煮え切らない奴、それが、孝嗣が真昼に抱いていた印象だった。


「またサボり? ダメだぜ、ちゃんと授業出ないと。俺みたいに中退になっちまうぞー」

「いや、お前のは、自主退学みたいなもんだったろう? つか、お前こそ今、何やってんだよ?」

「ん? ニートみたいなもんかなぁ?」


 へらへらとあっさり言う真昼であったが、孝嗣としては気が重い。

 高校中退に加えて、現在ニートなど、下手をしたら自分よりも未来が暗いじゃねぇか、と。


「うへへへ、一日中ネットやゲーム。好きに漫画を読める幸せ。うん、ニート最高って感じ」

「ニート最高ってお前……親からは何か言われないのか?」

「うん。ついこの間、手切れ金渡されて勘当されたからねぇ」

「お、おう」


 孝嗣は思わず真昼から目を逸らした。

 まさか、数か月前に学校を辞めた同級生の未来が、こんなにダークネスになっているとは思っていなかったのだ。ただでさえ、よろしくなかった孝嗣の気分が、思わぬ再会によって、さらに低下していく。


「あー、気にしなくていいぜ、孝嗣君。どーせ、学校やめなくても俺、勘当されただろうし」

「や、さすがに不良の俺でも、それは気にするって。つーか、ただでさえお前、あんな事件があった後だろ? 大丈夫かよ?」


 心配されたのが予想外だったのか、真昼はきょとんと目を丸くした後に、くくくと含み笑う。


「君は相変わらず、不良の癖に優しいんだなぁ、孝嗣君」

「なんだよ、不良の癖に、って。つか、元同級生なんだから、心配するのは当たり前のことだろうがよ」

「いやいや、別に馬鹿にしたつもりじゃなくてね、これでも褒めているんだぜ? だから、そう拗ねるなって」

「拗ねるか、阿呆」


 とは言いつつ、唇を尖らせて機嫌が悪くなっている孝嗣。


「あはは、拗ねているじゃん?」

「ぐっ……」


 思えば、孝嗣は同級生だった頃から真昼の事が苦手だった。

 へらへら飄々と、煮え切らない態度をしているかと思えば、気が付くと、ずばずばと言いたいことを当たり前に言う。空気が読めていないというよりは、あえて読んでいない。自分勝手だが、それが許されるようなさじ加減が上手い、そんな奴だったと、孝嗣は苦々しく思い出した。


「あ、そうだ、孝嗣君。この後暇?」

「なんだよ、いきなり……いや、一応、まだ午後の授業があるし……」

「どうせサボるだろ? だったら、再会の記念に遊びに行こうぜ。俺、たまには同い年の男子とも遊びたいし」

「だったら、お前の友達でも――――」


 途中まで言って、はっ、と孝嗣は口を抑えた。


「悪い」

「良いって、気にしなくても」


 重々しく謝る孝嗣に対して、真昼の反応は軽い。


「それより、遊びに行こうぜ。ほら、最近新しくゲーセン出来ただろ? 中退してニートの俺と一緒なら、補導の心配ないぜ? 何かあったら、俺と口裏合わせてニートってすればいいし」

「それは別の意味で問題になるだろうが」


 孝嗣はその、真昼の軽さが妙に怖かった。

 だから、僅かに気圧されるような形で、孝嗣は真昼の誘いを受けることにしたのである。

 元同級生として、このまま放っておくのが、どうしても忍びなかったから。



●●●



「いやぁ、今日は楽しかったぜ。まさか、あのゲームのアーケード版が出てるとは」

「ん? お前らオタクってそういうのとか、詳しいんじゃねーの?」

「あははは、俺はオタクといっても、軽い方の奴だからさ。知らないことの方が多いんだよ。間違っても、ディープな方とは呼べないし。中途半端なのさ」

「ふぅん、そういうものかよ」


 最初は心配だから仕方なく、真昼に付き合っていた孝嗣だったが、意外と真昼と遊ぶ時間は速く過ぎ去って行った。どうやら、孝嗣が思っていたよりも、真昼と遊んでいた時間は楽しかったらしい。少なくとも、自分がどれだけ悪いかを、自虐的に自慢する不良仲間とよりは、孝嗣は楽しく遊べたと思っていた。


「飯、どうする? ファミレスかどっかで食ってく?」

「金ねぇよ、俺。つか、テメェニートの癖に金あんのかよ?」

「うへへ、寿命と同義の貯金がなー」

「寿命を削ってまでファミレス行くなよ、自炊しろよ」


 二人は夕日で照らされた道を、他愛のない会話を交わしながら歩いている。

 周囲には、次第と学校帰りの学生たちが増えていき、二人の姿はだんだんとその中に埋もれていた。ニートであろうが、不良であろうが、若者という枠の中で括ってしまえば、二人の個性など所詮、ありきたりなのかもしれない。


 だから二人は、ありきたりな思春期の男子のように、実りの無い適当な雑談をしながら、帰路についていたところだった。


「んじゃ、そろそろお別れか。明日からはちゃんと授業に出るんだぞ、不良」

「お断りだ、ニート。お前こそ働け」

「働きたくないなぁ、マジで」


 二人は冗談交じりに別れの言葉を交わし、互いに背を向けた。

 久しぶりの同級生との別れだろうが、男子同士ならばこんなもんだ。わざわざまた遊ぶ約束を取り付けるほど仲良くないし、縁があればまた会うだろうと思う程度。精々、悪態を吐きながら別れるのが愛嬌と言ったところ。


 けれど、その時、互いが背を向けた瞬間、二人とも揃って気付いた。


「あれ? おかしいなぁ」

「…………おい、なんだこりゃ?」


 人が、居ない。

 つい先ほど、一瞬迄まで夕焼けに染まった道には、たくさんの学生やその他たちが居たはずだった。けれど、今は見渡す限り誰もいない。車道に自動車すら通らない。がらんと、無人の道が、広がっているのみ。

 しん、と周囲には音が無い。

 空気の質すら違う。

 二人は肌が泡立つような、奇妙な寒気を感じ始めていた。


「これは……また……」

「ふぅむ? 孝嗣君、またって? というか……あれ、何かな?」


 孝嗣は急に、怯えるように震え始めた。それとほぼ同時に、二人の目の前の空間が、何か、ぽっかりと穴が開いたように、暗くなり始める。まだ、夕日は沈んでいないというのに。

 どろり、と空気が粘性を持ったように重くなった。寒気も増していく。だというのに、孝嗣の背筋からは冷や汗が止まらない。知っているのだ、孝嗣は。知っているからこそ、目の前の現象に、恐怖しているのだろう。


「来るな、来るな、来るな、来るなよぉ……っ!」

「おい、孝嗣君? 落ち着け、一体何だってのさ?」


 孝嗣は真昼の言葉に応えない。

 ただ、目の前の暗闇は徐々に収まっていき……否、小さく人型を象っていく。


『…………ネェ、ワタシ、キレイ?』


 やがて現れたのは、赤いポンチョを着た幼い少女だった。

 可愛らしい少女だろう。口元が、ぱっくりと両頬まで裂けていなければ。


「やめろ、やめろやめろやめろぉ! 来るなぁ!」


 口裂けの少女が現れると、孝嗣の恐慌はますますひどくなっていった。

 目の前の存在が、明らかに条理から外れたモノだとしても、明らかに過剰な怖がり方である。足が震え、腰が抜け、両眼からは涙がとめどなく溢れ出す。恐怖以外にも、狂気を感じさせるような反応だ。


「おかしいねぇ。孝嗣君はこの手のホラーは得意でもないけど、ここまで苦手じゃ

なかったはずなんだけどなぁ?」


 一方、真昼の方はというと、多少なりとも顔は顰めているが、落ち着いていた。というよりも、『慣れている』という表現が正しいだろう。

 真昼は震えて座り込む孝嗣と、その目の前で笑う口裂け少女を見比べて、観察する。


「んー? 特に危険は感じられないけど。少なくとも、致死性じゃない。口が裂けているのは、なんだろうね? 口裂け女を媒体にしたのかな? それにしては、やけに大人しいけど。マスクもないし。それとも、問答に応えたら豹変するタイプだったり?」


 冷静だ。

 冷静過ぎるほどの、行動だった。

 突如として、わけのわからない気味の悪い空間に入れられ、怪異の類に出会った人間にしては、真昼の反応は異常である。

 だが、その異常な冷静さを指摘するだけの余裕は、孝嗣には無い。


『ワタシ、キレイ?』


「やめろやめろやめろやめろぉ! 俺に近づくなぁ!!」

 喚き散らし、ダンゴムシのように丸くなって震えているだけだ。

「ふむ?」


 真昼には少女にしか見えないが、ひょっとすれば、孝嗣にはもっと恐ろしい物に見えているのかもしれない。あるいは、あの口裂け少女は孝嗣しか相手していないということを考えると、個人を対象にした存在なのか? 疑問は尽きることは無いが、真昼はそろそろ観察を終わりにすることにした。さすがに、そろそろ助けに入らなければならない。


「害意は無さそうなんだけど、うん、とりあえず追っ払わせてもらおうか」


 そう言うと、真昼は――――おもむろに丸まっている孝嗣の背を蹴り飛ばした。


「ごはぁっ!?」

「おら、孝嗣君。背中を丸めて格好悪いぜ? それでも、不良かよ?」


 にこやかに、笑顔で蹴り飛ばすと、真昼はそのまま混乱する孝嗣へと歩み寄る。


「な、ななな?」

「ほら、さっさと煙草を出す」

「た、煙草……な、なんでだよ……?」

「いいから」

「…………だ、駄目だ……手が、震え、て……」

「しゃーないねぇ」


 真昼は震える孝嗣の服を漁り、勝手に煙草とライターを取り出す。


「俺って、煙草嫌いなんだけどさぁ。緊急対処って奴だぜ」


 しゅぼっ、とライターが煙草に火を点す。じじじ、と赤く煙草の先が燃えていき、紫煙が重苦しい空気の中へと混じる。


『…………けほっ』


 口裂け少女は、紫煙に巻かれると、途端に渋面を作って咳き込んだ。


「悪いね、マナー違反で」


 にやりと真昼が不敵に、口裂け少女へと笑いかける。


『…………』


 口裂け少女は、不服そうに真昼を睨んだ。だが、結局何もせずに、そっぽを向く。


『忘れないで』


 最後に、そう言い残して、口裂け少女は再び暗闇となって消えて行った。


「…………あ?」


 口裂け少女が消えた途端、周囲に喧噪が戻ってくる。

 道行く人々は涙目で座り込んでいる孝嗣を見て、不思議そうな視線を向けていた。


「あの手の奴は、煙草の煙を嫌うんだよ」

「…………へ?」


 呆然と半口を開ける孝嗣の隣で、真昼は悠々と煙草を吸い、


「げほっ! あー、くそ、やっぱりまずいな、これ。人が吸うもんじゃねーぜ」


 思い切り咳き込んで、顔を顰めた。


「や、いきなり肺で吸うのも悪いと思うぞ?」

「なにそれ?」


 そんな真昼の気の抜けた行動で、孝嗣はやっと、正気を取り戻したのである。



●●●



 まだ足元がふらつき、孝嗣は体の震えを抑えることは出来ない。


「やれ、そんな状態じゃ一人で帰宅は危ないねぇ。俺のアパートに寄りなよ。あったかい物でも食べれば、ちょっとは落ち着くだろうさ」


 孝嗣は真昼に言われるがまま、肩を貸してもらう形で、何とかアパートまで歩いて行った。

 真昼の住んでいるアパートは、木造作りで、少々年季が入っているが、きちんと隅まで管理の行き届いた建物だった。管理人が小まめに掃除しているのだろう。外装に蜘蛛の巣が張っていたり、ゴミなどが周囲に落ちていない。


「おおい、ただいまー。ちょっと訳アリの知り合いを一人連れて来たぜー」

「はいはい、お帰り。貴方はいつも厄介事を持ち帰ってきますね、まったく」


 玄関で二人を出迎えたのは、黒髪おかっぱで、着物にエプロン姿という、奇妙な出で立ちの少女だった。いや、幼女と呼んでも差支えの無い年齢だろう。少なくとも、孝嗣の見た限りでは小学校高学年程度に見えた。


「そこのお客人。真昼からメールで事情は伺っています。ええ、怖かったでしょう? 今、温かい物を出しますから、横になっていてください」

「あ……は、はい」


 幼女らしからぬ丁寧な対応と口調に圧されて、思わず敬語になる孝嗣。なんちゃって不良だとしても、幼女に敬語を使っている時点でもはや、面子もあった物ではない。


「とりあえず、この長い座布団敷くから、そこに横になれよ。まだ温かいし、毛布とかは掛けなくても大丈夫だよな?」

「おう…………悪い」

「なに、困った時はお互い様って奴さ」


 座布団に横になる孝嗣に、真昼はにへら、と気の抜けた笑みを向けた。

 煮え切らない、苦手な笑顔。だが、弱っている所為か、それほど気にならない。なんて、現金な人間なんだろう、と孝嗣は自嘲する。


「はい、お待たせしました。お好みで黒コショウとラー油を選んでかけてください」


 しばらくすると、着物エプロンの幼女は、お盆に人数分のラーメン丼を乗せて持ってきた。器からは、白い湯気が天井に吸い込まれるように上がっている。


「お? ラーメン?」


 インスタント大好きな真昼が笑みを浮かべて訊くが、幼女は首を横に振って否定した。


「いいえ、ポトフです」

「…………食器新しいの、その内買うよ」

「万能ですよ、ラーメン丼は」


 借家では基本的に、大は小を兼ねる的に器を併用するのである。これは収納スペースの問題と、諸々の時間短縮につながるのだが、せめてお客様用の食器は欲しいと思う真昼だった。一応、ニートでも相手によっては気を遣うのである。


「さぁ、食った食った! 腹になんか入れれば、震えも収まるだろ」

「や……さすがに休ませてもらった上、飯までもらうなんて、悪いだろ……」


 孝嗣としては、ニートである真昼から食事まで施されるとなると、物凄く心苦しいのだ。なにせ、まだ家族に助けてもらえる余地がある分、比較的マシな立場だというのに、相手は控えめに言ってもお先まっしぐらな経歴だ。心が痛んで、食事が喉を通らないこと請け合いである。


「遠慮しなくていいんだがなぁ。だがまぁ、どうしても気になるってんなら、後で金を寄越せ。それでチャラにしてやる。お前もそっちの方が気が楽だろ?」

「…………すまん、ありがとう」

「おいおい、金を払ってチャラになるんだから、お礼はおかしいだろうが」


 けらけらと真昼は笑っているが、それでも孝嗣はその気遣いに感謝をしたかった。元同級生とはいえ、友達でもなかった相手。しかも、こちらが勝手に苦手だと思っていた相手に助けられて、気遣われて、無性に自分が情けなく思えたから。そして、それ以上に、助けられて嬉しく思えたから。


「では、冷めないうちに食べましょう。いただきます」

「うい。いただきますっと」

「…………いただきます」


 真昼と幼女は、日常的に使っているであろうマイ箸で。お客さんである孝嗣は、用意されたプラスチックのスプーンで、それぞれ、ポトフを食べ始める。


「――うめぇ」


 一口、スープを啜って、孝嗣は思わず唸ってしまった。

 優しく、それでいて力強さを感じる味付けだった。コンソメの風味が最初に来たと思ったら、野菜とベーコンの油の甘味が舌の上で馴染む。ジャガイモや玉ねぎなどの野菜は、柔らかく煮込まれてほくほくとしている。芯まで熱が通っていて、はふはふと、白い息を吐きながら、孝嗣は具材を咀嚼していく。


「んぐ……んぐっ、ぷはっ」


 一息ついたと思ったら、今度は黒コショウなどの調味料などに目がいった。躊躇うことなく、黒コショウ、ラー油とポトフへ投下。その後、スープを啜り、満足げに頷く孝嗣。優しい味付けから、今度は少しスパイシーな物へと変わっている。そして、それは食べるたびに食欲が増していく孝嗣にとっては、喜ばしいことだった。


「…………ふぅ、はぁー。うん、美味かった。マジで、美味かった……ご馳走様」


 やがて、丼の底に一滴も残さないばかりの勢いで平らげた孝嗣は、満足げに息を吐いた。


「はい、お粗末様です」


 自分の作った料理を豪快に平らげられたことで機嫌が良かったらしく、幼女はにこやかに頬穂縁で、食器を片付けていく。


「どうだ? 落ち着いたか?」

「ああ、やっと震えも止まって、大分、マシになった」


 先ほどまで青ざめていた孝嗣の血色は、今は赤く血が通っていた。胡乱だった目つきも、今はきちんと定まり、活気を取り戻している。


「それで、さっきの出来事について、話せそうかい? 君、何か確実に知っていそうな取り乱し様だったし」

「それは別に構わない。むしろ、こちらから相談できるなら頼みたいところなんだが……その」


 孝嗣は言葉を一旦切ると、覚悟を決めたような目つきで真昼へ尋ねた。


「さっきは余裕がなかったから訊けなかったが……なんで、お前のところに幼女が居るんだ?」

「…………ふむ」


 オタク趣味のニートの部屋に、幼女が一人。

 しかも、容姿は全く似ていないので、兄妹という線は薄い。孝嗣が怪訝に思うのも、仕方ないだろう。


「や、お前には助けられたし。事情があるんだろうけど。一応な? 言いたくな

かったら答えなくてもいいけど、訊かないのも不自然だと思って」

「んー、そうだねぇ」


 しばらく目を細めて思案すると、さっくりと真昼は言った。


「母親だからかなぁ?」


「――――は?」


 それは、あまりにも常識外の答えだった。

 孝嗣の予想していた物の中に、一切入っていなかった答えだったので、思考が空白に染まり、


「…………なんてね、冗談だよ。合法ロリの人間なんて、現実に存在しないよ」

「ビビった! 今俺、すげぇビビった!」

「あはは、ごめん、ごめん」


 胸を押させて顔を引きつらせる孝嗣に、真昼は肩を竦めて見せた。


「本当はただの親戚の子供だよ。ちょっとした事情で預かっているんだ。名前はミズチ。礼儀正しくていい子なんだけど、ちょっと家庭の事情が複雑でねぇ」

「そうか……悪かったな、詮索して」

「いやいや、素直に言ってくれた方がこっちの気分も楽なのさ。後、付け足して言うならば」


 すぅ、と視線を孝嗣と合わせて、真昼は見据えた。


「君が遭遇しているあの現象。その手のことに、滅法強い家系の子でね」

「ええ、ですから安心して相談していいのですよ」


 気づくと、真昼の隣には幼女が――ミズチが佇んでいた。きちんと、背筋を伸ばした正座で、孝嗣へ優しい笑みを向けている。


「い、いつの間に?」

「ついさっきですよ。真昼の冗談にお客人が驚いている時です」

「ミスディレクションって奴だよ。手品の基本だぜ」

「そうか……」


 何かが明らかに違うようだったが、此処で突っ込んでも仕方がないと孝嗣は割り切った。


「んじゃ、ミズチもこっちに来たし。そろそろ話してもらおうか」

「ええ、お客人。どうぞ、話してくださいな」


 声を揃えて、二人は尋ねる。


「「遭ってしまった怪異のことを」」


 この世ならざる、現象について。

 されど、古くから続く怪異に遭ってしまった話を。


「…………そうだな、最初に俺があれと合ったのは。放課後、珍しく誰ともつるまずに、家に帰ろうとしていた時だった――――」



●●●



 始まりは違和感程度だった。

 背後や周囲に、誰もいないのに人の気配がする。そんな奇妙な感覚が数日続いたかと思うと、次は、孝嗣の前に黒い靄のようなものが現れたのだ。どうにも、それは孝嗣にしか見えていない物らしく、孝嗣は目の錯覚を疑ったのだが……結局、眼科まで行って調べてみたが異常は無かった。


 だが、段々とその症状は悪化していく。

 黒い靄が人影に。

 人影がやがて、輪郭を帯びて。

 最後には、赤いポンチョの口裂け少女になった。


『ネェ、ワタシ、キレイ?』


 口が裂けた少女に、定番の文句。

 当初、まだ心に余裕があった孝嗣は即座に「ポマードォぉおおおっ!」と雄叫びを上げて対応したのだが、まるで意味が無かった。口裂け少女はけろりとした表情で薄笑いを浮かべていて、何度でも問うのだ。


『ネェ、ワタシ、キレイ?』


 何度でも、何度でも。

 孝嗣が逃げれば、どこまでも追い続けて、問い続けるのだ。

 どれだけ、孝嗣が助けを求めても周囲の人は気づかない。声を掛けたとしても、怪訝そうな顔をして対応するだけ。まるで、口裂け少女など見えていないように。

 やがて、そんな現象が続いていくにつれて、段々と孝嗣は口裂け少女に恐怖を覚えるようになっていた。


 何か危害を加えられたわけでは無い。

 ただ、問われているだけ。

 しかし、どうにも、孝嗣はその問いに『イエス』だろうが『ノー』だろうが、答えることが出来ず、ただ、怯えるような言葉しか出なくなったのだった。

 口裂け少女に遭遇するごとに、その恐怖は増していくような気がして、今では会っただけで腰を抜かして、何も出来なくなってしまうのだという。


「ただ、今回みたいに訳の分からない空間に飛ばされることなんて、今まで無かった。それに、俺以外の奴にあいつが見えているのも」

「ふぅん、なるほどねぇ」


 真昼は孝嗣の話を聞き終えると、何かを思案するように片目を瞑った。


「回数によって状況が悪化? 退散の言葉は意味がない。都市伝説の形を装っている。だが、口が裂けている。赤いポンチョ。最初は違和感。誰にも見えない…………どうだい? ミズチ、君の意見は?」

「話の通りだとすれば、大体検討はつきますね。けれど、正体がわかったからといって、解決方法まではわかりませんよ」

「最悪、力づくとかでは?」

「やめた方がいいですね。本人にどんな負担がかかるか分かりません」


 真昼とミズチは幾つか言葉を交わした後、孝嗣へと向き直る。


「孝嗣君。その口裂け少女が現れるより前に、何か変わったことはあったか? 些細な事でも、なんでもいいんだ」

「ええ、もしかしたらそれが解決の鍵かもしれませんので」

「…………って言われてもな」


 孝嗣は額に皺を寄せて、記憶を手繰る。

 けれど、思い出すのはどうでもいいことばかり。くだらなく、価値が無く、泥の川に浸かったような日常の記憶だけだ。

 ただ、強いて変わったことを挙げるのならば。


「最近は俺、ついていないことが多くてな。口裂け少女に付きまとわれているのもそうだが、それより前に……ちょっと、嫌なことがあったんだ」


 それは、いつも通りに孝嗣が不良仲間とつるんで暇を潰していた時の事だった。


「不良の先輩っつーか、今はもう社会人やっている、明らかにやばい人が仲間と俺らのところにやってきてさ。援助交際の仲介人をやれって言われたんだ」


 元々、高校に居た時から黒い噂の絶えない先輩だったという。不良というのは、縦社会のような面もあり、先輩の言うことには基本的に従う者だ。それが、明らかにやばいと噂されている人なら、尚更。


「けどよ、さすがに援助交際は普通にやべぇよ。俺はやってないけど、仲間の馬鹿どもがやって捕まっている万引きなんかとは、重さが違う。しかも、なんかその先輩の背後がかなりキナ臭くてさ……俺、真っ先に断っちゃってよ」

「あー、それって大丈夫なのか?」


 孝嗣は苦笑して答えた。


「殴られるかと思ったけど、意外と大丈夫だった。ただ、誰かに話したら、どこまでも探し出してリンチにするとか言われたけど」

「うっわぁ。裏社会系の人間だぜ、その先輩絶対。関わらなくて大正解。一度そういうのに足を突っ込んだら、それがまた弱みになってずるずる泥沼だったと思うよ?」

「ええ、その手の輩は底無しの闇です。下手に覗こうとすれば、引きずり込まれますよ?」

「だよなー」


 ただし、その選択の代償として、孝嗣は不良仲間の大半からは仲間はずれにされた。もちろん、全員がその先輩の話を受けたわけでなく、孝嗣と同様に断った者も居たのだが、元々そいつらとは特に親しくも無く。加えて、孝嗣はその時、仲間はずれにされたことよりも、もっとうんざりするようなことがあったので、自暴自棄になっていたのだ。周囲を気にして、取り繕うことなんて出来なかった。


「んでさぁ、それだけだったらまだ『やばかった』で済む話なんだけどな? ちょっと、嫌なことに気付いてしまったんだ」

「嫌な事?」

「おう、それなりにな」


 孝嗣はどこか乾いた笑みを浮かべて、空々しく説明する。

 詳しく説明を受けたわけではないが、主に援助交際を手伝う相手というのは、家出をした未成年の少女たちが対象らしい。様々な事情で家に帰れない、もしくは帰りたくない少女たちが、日銭を稼ぐために体を売るのだという。


「その先輩な、分かり易く説明するために、実際にそういう『家出少女』の何人かを俺たちの前で紹介したんだよ。胡散臭い語り口調で、いかにも同情を誘うような身の上話を交えてさ。んでもって、その中の一人に」


 一度言葉を区切って、孝嗣はため息と共に言葉を吐き出した。


「俺の初恋の人も居たんだよ」


 合縁奇縁という言葉があるが、こんな縁なんてなければいいと、孝嗣は苦笑する。


「でも、俺は何もしなかった。何もせず、ただうんざりして見なかったことにしたんだ」

「…………そっか」


 痛々しい孝嗣の横顔に、真昼は掛ける言葉を見つけることが出来なかった。せめ

て、もっと親しい仲であれば、友達と呼べる関係であれば、もっと違っていたのだろうが。

 だから、真昼に出来るのは話を進めるだけ。


「お前はそれを、今でも気にしているんだな?」

「……ああ、しばらくは忘れられそうにも無い。まったく、ゴキブリでも踏んだ気分だ」

「そして、その頃から口裂け少女の現象が始まった、と……ミズチ、これか?」

「はい、そうでしょうね」


 ミズチは静かに頷いて、語り始めた。


「お客人。どうやら、貴方に付きまとう怪異とやらのきっかけは、その傷のようです。その傷が癒えない限り、きっと口の裂けた少女は、いつまでも貴方に付きまといます」

「んじゃ、さっさと忘れるように努力するのが懸命か?」

「いいえ」


 すぅ、とミズチは白魚の如き指先で、孝嗣の胸を指す。


「その傷は膿んでいる。だから、時が経つにつれて、貴方の恐怖が増し、怪異が悪化しているのでしょう」

「何を…………」


 確かにうんざりしたが、そこまで傷ついた覚えなどない、と孝嗣は反論しようとした。けれど、喉から声は出ず、ただ、ミズチの眼差しに戸惑うだけだ。


「人の心こそ、何より鬼が住む。人が居なければ、怪異も生まれない。故に、人の心から生まれた……いいえ、『膿まれた』怪異が作られてもおかしくないのですよ」


 ミズチの眼差しは年老いた年長者が、子供を諭す物と似ていた。

 知っていることを、出来るだけ分かり易く教えられるようにと、心配りをしている時の目だった。


「要するに、色々決着を付けなきゃ口裂け少女は消えないってわけさ、孝嗣君」

「決着って……真昼、俺に何をしろって言うんだ?」


 決まっている、と真昼は不敵に笑って孝嗣に告げた。


「決着を付けるためには、対決しなきゃいけないんだぜ、孝嗣君」



●●●



 孝嗣の初恋は小学校低学年の頃だ。

 まだ、孝嗣の姉がやんちゃ盛りであり、よく弟である孝嗣を苛めていたので、大多数の女子に対して苦手意識を持っていた頃。

 孝嗣は同級生の女子に恋をした。

 理由は至って簡単な物。たまたま自分の好みの可愛らしい少女で、後は他の女子より優しくしてくれたから。単純で、純粋な、子供らしい初恋の理由だった。


 ただ、ここで問題が一つ。

 孝嗣の初恋はとある事情により、告白する前に終わってしまったのだ。それも、傍から聞いていたらコントにしか見えない理由で。

 それが、孝嗣の一番古い傷だ。

 そして、一番新しい傷と繋がっている。


「心の傷の治し方知っているか? 一つは、時間を待つこと。意外とこれが万能でさ、大抵の傷なら時間が癒してくれる」


 孝嗣は今、真昼と共にその傷と向かい合おうとしていた。


「もう一つが、その原因ととことん向き合って、打倒すること。克服すること。これは辛いが、心が潰れなければ一番効率的だ」


 二人は翌日の夕方、黄昏時と呼ばれる時間帯に、口裂け少女と会った場所までやってきていた。昨日と周囲の状況は変わらず、雑多に人が行き交う道だった。


「つまり、俺から孝嗣君に進められる怪異の解決方法はこれ一つだけ。『口裂け少女と真正面から向き合って、そいつの質問に答えてやればいい』ってわけさ」

「控えめに言っても、頭がおかしいだろ、その解決方法」

「ある意味正攻法って感じじゃん?」


 にへら、と笑う真昼に、もはや孝嗣は呆れるしかなかった。

 もちろん、そんな真昼の言葉を素直に信じてしまった自分自身にも。


「こういうのってもっと、お経とか、呪文っぽいのとかを呟きながら『破ぁ!』って解決するもんじゃねーの?」

「生憎、俺らはそういうのはやってなくてね。後、問題の解消よりも、解決の方が君のためになるからねぇ」

「そうかよ」


 これから怪異と、口裂け少女という訳の分からない存在と会うと言うのに、真昼は飄々とした態度である。まるで、緊張の欠片も無い。一方、対照的に孝嗣はこれまた、露骨なほどに緊張していた。肩から背中にかけて筋肉がこわばり、手のひらがぬめりを帯びて湿っている。緊張を紛らわすために、真昼と会話をしていなければ、今頃、叫び声を上げて逃げ出していたかもしれない。


「つーかよ、真昼。本当に口裂け少女は現れるのか? 今のところ、法則はランダムなんだが」

「現れるさ、絶対。なにせ――――」


 真昼の言葉の途中、スイッチが切り替わるかのように、がらりと周囲の空気が入れ替わった。雑多な音に溢れ返るそれから、無音の静寂を秘めた物へ。


「孝嗣君が望んだんだ。なら、君から生まれた怪異ならそれに応えるはずさ。ほら、こんな風に、ね」

「…………っ!」


 二人の眼前に、昨日と同じように闇が招来する。

 けれど、昨日よりもずっと早く人型を象り、真っ赤なポンチョを着た口裂け少女へと姿を変えた。


『ネェ、ワタシ、キレイ?』


 けたけたと、孝嗣を嘲笑うように、口裂け少女はいつもの問いを口にした。


「ひっ……」


 この時点でもう、孝嗣の頭は混乱し、パニック状態に陥っていた。覚悟していたとはいえ、ほぼ条件反射のような形で、体が勝手に震えだし、思考が白く染まってしまうのだ。勝手に、涙が頬を伝って来るのだ。


『ワタシ、キレイ?』


 なぜか、目の前の幼い少女が。

 この問いが、孝嗣は恐ろしくてたまらないのだ。


『ワタシ、キレイ?』

「う、あ……」


 繰り返された三度目の問いで、孝嗣は後ずさり、そのまま座り込んでしまう。故に、自然と目線は口裂け少女を見上げるような形になる。


『ワタシ、キレイ?』


 四度目の問い。

 もはや、孝嗣に何かを考えるだけの余裕はない。このまま丸くなって、怯えて、嵐が過ぎ去るのを待つように、恐怖に耐えるだけしかできない。



「だっせぇ、真似してんじゃねーよ、孝嗣君」



 遠慮なしに、真昼が孝嗣の背中を蹴り飛ばさなければ。


「がふっ!?」


 手加減が少なめにされたその蹴りは、孝嗣を二回ほど路面に転がらせるほどの威力を持っていた。もはや、恐怖よりもいきなりの衝撃で、呼吸が出来なくなった方が孝嗣には問題になっていた。


「……はっ……く……はぁー」


 痛む背中をさすり、涙を浮かべながら孝嗣は真昼に『何しやがる』と叫ぼうとした。


「だっせぇ真似すんなよ、孝嗣君。俺のとっての君はさ、かっこいい不良なんだから」

「…………あ?」


 珍しく、気の抜けた笑みの浮かべていないその眼差しに射抜かれた。


「ちょいとグレていても、人の道を外れたことはしない。周りに流されていようと、本当に大切な事は見失わない。君はそういうかっこいい奴なんだからさ。たかが口が裂けた幼女一人ぐらいに、そんな怖がるなよ」


 身勝手な評価に、心が沸き立った。

 お前に何がわかる? たかが同級生の癖に。友達でもない癖に。そんな言葉が孝嗣の胸中で渦巻くが、結局、出て来た言葉は一つだけ。


「うるせぇ」


 ただの強がり、だけだった。

 けれど、孝嗣にとってはそれで充分だった。


「おいこら、そこのグロテスクな幼女」


 荒々しく手の甲で涙を拭い、孝嗣は口裂け少女を見据える。

 立ち上がる必要はない。ただ、目線を合わせるように体を起こした。不思議と、目線を合わせた途端、恐怖心がすとんと落ち着いた。まるで、嵌るべき場所に、パズルのピースがすっぽり収まったような、安定感すら抱いている。


「お前は誰だ?」


 次いで、孝嗣は初めて、口裂け少女へと問いかけた。

 ごく当たり前の、存在認識の問いかけを。


『ワタシは、アナタ』


 帰ってきた答えは、実に明確にこの怪異の本質を示していた。

 だからこそ、孝嗣はようやく目の前の存在について、理解することが出来たのである。


「ああ、そうか。お前は俺か…………初恋をしていた頃の、俺か」

『…………』


 嘲るようにでは無く、祝福するように微笑む口裂け少女。

 存在が認められて嬉しいのだろう。口裂け少女は何度も頷くと、何時もとは違う問いかけを孝嗣へと投げかける。


『思い出した』

「そうだな、思い出した、全部」

『もう泣かない?』

「おうとも、俺はかっこいい不良らしいからな」


 みっともなく泣いてなんかられねーよ、と孝嗣は苦笑した。


『じゃあ』


 口裂け少女は再び問いかける。

 己の存在意義を。

 口が裂けている理由を。



『ネェ、ワタシ、キレイ?』

「んなもん、口が裂けても言えるかよ」



 孝嗣の答えに、口裂け少女は目を丸くする。

 目を丸くした口裂け少女を見て、孝嗣はやっと一矢報いたとばかりに、愉快そうに笑って。答えの続きを言った。


「だって俺は男だ。綺麗や可愛いより、かっこいいって言われる方がいいと思わないか? というか、自分で自分を綺麗とか、ナルシストじゃあるまいし」

『…………あはっ』


 口裂け少女の傷が消えていく。

 避けた頬が、真っ赤な傷痕が逆再生でもしているように修復されていき、やがて、口裂け少女は、普通の可愛らしい少女になった。

 そして、可愛らしい笑顔で言うのだ。


『確かに。それもそーだね、私』

「だろ? 俺」


 少女と孝嗣が揃って笑ったところで、世界はスイッチを切ったように戻される。

 行き交う人々の雑多な音が戻り、孝嗣の目の前にはもう、赤いポンチョの少女は居ない。いや、少女は戻ったのである。己のあるべき場所に。


「で、俺はかっこいい不良だったか? 真昼」

「おうともさ、孝嗣君」


 こうして、奇妙な自問自答の怪異は終わったのだった。



●●●



「昔、俺女装していた時期があるんだよ」

「マジか」

「マジだ」


 孝嗣と真昼は、無事に怪異を祓った記念として、近場のファミレスでささやかな乾杯をしていた。もちろん、ドリンクバーで、ノンアルコールである。公然の目の前でアルコールはいけない。


「昔、男子を女装させるのが大好きな奴に惚れてな……まぁ、前に話した初恋の人がそいつなわけだが」

「おう、女を見る目が無いな、控えめに言っても」

「我ながらそう思う。んで、俺は健気にも毎日、小学校へと女装して通って、その娘の気を引こうと頑張っていたんだが…………なんの因果か、その娘が好きな男子が、女装した俺に惚れてしまってなぁ」

「うわぁ」


 今でも思い出す度、孝嗣の胸が痛むトラウマだった。

 ちょっと変態だけど、優しい女の子。その娘の興味を引くために女装をしていたのに、なぜか男子に『男でもいい!』と告白されて。孝嗣は小学校低学年にして、女子に『泥棒猫!』と罵られる貴重な体験をしてしまったのだ。


「それ以来、女子がさらに苦手になって。後、女装の件で苛められていたから、まぁ、その影響で今は不良なんてやっているのかもな。誰にも舐められたくねぇ、って」

「傍から見れば喜劇だけど、当事者としては悲劇だねぇ」

「まさにそれだぜ」


 苦笑して、肩を竦める孝嗣。

 その顔はどこか、晴れ晴れとしていた。


「今までの俺は、その傷をずっと押し込めて、碌に見ようともして無かった。だから、かもな。小さい頃の俺が、あんな形で出てきたのは」

「警告、だったのかもしれないね。心の傷は外傷と違って見えづらいから。きっと、自分を守るために出てきたのかもしれないよ」

「そんな自分を今まで怖がっていたとはな、お笑い種だ」


 孝嗣はしばらく何か考えるように黙り込むと、意を決したような顔つきで真昼に言った。

「なぁ、真昼。俺な、やっぱり初恋の人ともう一回話して来ようと思う。うん、少なくとも、援助交際とかやめさせるわ」

「へぇ、何のために?」

「もちろん、自分のため」


 にやり、孝嗣はとびっきりに格好つけた笑みを浮かべた。


「見なかったことにする俺より、そっちの方がずっとかっこいいだろ?」

「確かにね」


 道徳心よりも、恋情よりも、孝嗣は見栄を張ることを選んだ。

 だが、その見栄はやがて誇りに変わるだろう。

 乗り越えた傷痕が、勲章のように輝いて見えるように。


「けど、かっこつけるにはちょっと遅かったな」

「は? どういう意味だ?」


 首を傾げる孝嗣へ、真昼はファミレスの入り口を指差して告げる。


「その問題はもう、俺の相方が解決済みだ」


 真昼が指差した先には、和服姿の幼女――ミズチと。その背後から、申し訳なさそうに顔を伏せて付いてくる少女が。


「どうだった?」

「見た、来た、勝った――という感じでしょうか。色々あくどい事ばかりしていた輩ですからね。ちょっと因果をスムーズにして、自業自得砲を食らわせただけで圧勝でしたよ」

「さすがミズチ」


 周囲の視線などまるで気にせず、サムズアップするミズチと真昼。

 どうやら、男二人が怪異を対決している間、ミズチは影で仕置き人をしていたらしい。なお、その結果、不良どもは病院送り。悪い先輩とやらは行方不明という結果だ。なお、援助交際を行おうとしていた女子たちの大半は補導されたりしたが…………ごく一部。そういう行為を最後の最後まで躊躇った少女は、警察でこってり絞られた後に解放されたのだとか。


 そう、ミズチの背後に隠れる茶髪の少女も――――孝嗣の初恋の人もその内の一人だ。


「…………あの」


 少女は何かを言おうと口を動かし、結局、何も言えずに黙り込む。

 だが、孝嗣はそんな少女に向かって、気さくに声を掛けた。


「よぅ、久しぶり。色々大変だったな」

「…………うん」


 色々負い目があるのか、少女は小さな声で頷くだけ。


「どんな事情があるのかはわからないが、あんまり自分を安売りするのはやめろよ? というか、犯罪だし、健康に悪い。後、女装男子好きはまだ続けているのか? あれ、小学校低学年だから許されだけど、さすがに高校生だと――」

「し、失礼な! そういうのはちゃんと二次元で我慢してる!」

「分別は付いているけど、性癖は直ってないのか……」


 変わっていないな、と孝嗣は微笑む。

 少女はそれを馬鹿にされていると感じたのか、頬を膨らませて言う。


「た、孝嗣君は変わったよね! 昔はあんなに可愛かったのに!」

「はははっ、当たり前だ。だって俺、男子高校生だぜ。そりゃ、可愛げも無くなるわ」


 少し前まで、激昂したかもしれない台詞を孝嗣は笑って受け流した。

 そして、冗談交じりに問いかけるのだ。


「でもまぁ、昔よりはかっこよくなっただろ、俺」


 ずっと昔に言いたかった言葉を、ささやかな誇りと共に。



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