春 -12-
第11話のあらすじ
帰ってきたらいつも以上に散らかっていた家に愕然とする千歳。ミコと白露の手料理に舌鼓を打ちながら小さな決意を彼女たちに語ります。桜の精霊はもう手の届くところにいるのです。
小さな春を見つける第12話
翌朝、犬神に乗って一っ跳びと洒落込む。と言っても、昨日の今日で千葉の目もあろうだろう、大犬に化けた犬神の背に乗っていくわけにはいかない。幸い、昨夜の大掃除にてちょうどいい物をミコが見つけていた。
犬神が引くリアカーに乗って、一っ跳びと洒落込む。
人間に化けた状態とはいえさすが妖怪。乗客を二人も乗せてなお、自転車を凌ぐ速度で町中を疾走していった。これには、京都鎌倉界隈で腕を鳴らしている人力車の引手も驚嘆するに違いない。
むわっと湿り気を帯びた春の陽気が顔に当たる。
気温こそ高いが吹く風はまだ冷たさを残していた。座布団から湯呑までちゃっかり用意し、観光気分で乗り込んでいたミコも見当が外れ不服そうである。速度は出るが快適さは皆無だ。元よりリアカーも古いので、揺れることこの上ない。ミコは意地になって茶を飲もうとしてはいるが、弾む車内では茶が零れないようにバランスを取るのが精いっぱいらしい。精一杯あたふたしていた。
「犬神、少し速度を落としてくれないか。もう急がなくてもいいだろ。」
リアカーはもう隣町まで来ていた。ここからは人目もあるから、人力車らしからぬ行軍速度は控えるべきだろう。それに、あまりミコに意地悪すると後が怖い。
「自分、まだまだ走れるっすよ! ちゃっちゃと済ましちゃいましょう!」
「いや、人に見られるとあれだから。」
「気品の無い走行は恥じゃからの。」
落ち着きを取り戻したミコが悪態を漏らす。
「ちっ。どうして僕が女狐を乗せて走らなければいけないんだ。こんな屈辱、早く終わらせてしまいたい。」
「まあそう腐るなよ。帰りはミコに引かせるし。」
「なっ! そんなの聞いておらんぞ!」
「あいやしばらく。先輩の車を引くのは自分の仕事っす。どこの馬の骨とも知れない女狐には任せられません!」
「馬でない! 狐じゃ!」
「はん! お前なんか糞馬で十分だ。糞馬め!」
「ようし分かった。表に出ろ!」
不安定な荷台の上である。
整備された道とはいえ、リアカー自体ぐらつく仕様だ。そんなところで立ちあがったものだから、案の定荷台は大きく揺れ、ミコも体勢を崩した。
「っと、危ない。」
どうせこうなりだろうと予見していたので、倒れかけたミコを転がり落ちる寸でのところで受け止めることができた。
「れ、礼を言う。」
「大人しく座ってろって。それとも歩くか? そろそろ近いぞ?」
口答えもすることも無く、ミコはもと居た座布団の上に正座した。
「もうすぐなんですか?」
リアカーを引く犬神が、余裕綽々といった様子で振り向く。
「地図に寄れば、もうすぐ小学校が見えてくるはずだ。ああ、ほらあそこの角。」
指をさした方向に、校舎らしき建物が見えてきた。
生徒棟の裏手から来てしまったらしい。何かの植物の蔦が絡まっているフェンスに手をかけて、中の様子を窺った。曇りガラスのせいで中の様子は分からないが、なんとなく子供が大勢いる気配がする。防犯上の都合なのだろうか。今の子供たちは授業中に空を流れる雲を見て黄昏ることもできないらしい。アンニュイな自分を演じることは早めに経験し、そして早めに卒業しておかないと、中学生に上ってから暗黒の門を開きかねない。そういうことを率先して熱心に教育しておくべきだと思うが、安全第一なこのご時世ではそうもいかない。
校舎の壁に寄り掛かるように、プラスチック製の鉢植えが数十個横に並んでいる。まだ何も咲いておらず、綺麗な土が盛られたままだ。これから何か咲くのだろうか。さらにこちら側には立派な花壇が設けられていた。所々に刺さっている花の名を記した支柱の足元では、絶対にその花ではない植物が青々とその葉を伸ばしている。
どこかで見たことある植物だなと思い、合点する。
ニラだ。
チューリップの花壇にニラが咲いている。食べるのだろうか。
「そうしておると、変質者みたいじゃのう。」
ミコの声に、慌ててフェンスから離れる。
リアカーを横付けした状態で中を窺っている男が不審者として通報されないのならば、世の中は思いやりの心で満ちているに違いない。
「通りすがりの大道芸人だと言ったら、見過ごしてもらえるかもしれない。」
「うちらの誰が芸をする?」
「一人は体力馬鹿だから普通に見物だな。」
「先輩のためなら千里くらい走りきってみせるっすよ。」
「本当にやりそうで怖いの。」
「ミコは耳でも生やしてろよ。」
「なんでそんな投げやりなのじゃ!」
件の社は小学校の周辺にあるということだったが、近くには見当たらなかった。
「小学校を一周しながら、辺りを探してみよう。」
「そう言って主、実は幼子が見たいだけではないじゃろうな?」
「そういう変態チックなのはユキとかに任せておけ。犬神、頼む。」
「合点です!」
のろのろと小学校の周りをリアカーが走る。時折、教室から子供たちの歓声が漏れてきた。元気なのはいいことだ。クラスによって鉢植えの色が決まっているらしい。青赤黄紫橙……。虹色の鉢植え道でも作るつもりかもしれない。
ふと、小学時分の記憶が蘇った。
妙に暗い階段。どこまでも続いた気がする廊下。図書室は何階だったか。よく遊びに行ったはずだが、上手に思い出せない。校庭のブランコがお気に入りだった。あの頃はまだ、友達とよく遊んでいた。無邪気極まりない。
とある教室の窓が開いていた。
驚いたことに、僕がいた。
アンニュイな男の子が、頬杖を突きながら空を眺めている。リアカーの音に惹かれ、その目がだんだんと下りていき、僕と目があった。
このご時世、リアカーに引かれる男一人女一人。そして満面の笑顔で引いている男が一人。内二名に獣耳あり。内一名に自己主張の激しい尻尾あり。
慣れ過ぎていて忘れていたが、これは可笑しい。
隠すも何もあったものじゃない。ばれて当然ではないか。そういえば、この前の朝にミコと散歩したときも、そのままの姿だった気がする。
物憂げだった男の子の目が驚きで丸くなる。
とりあえず手を振ってみた。
振り返してくれた。
そのままその教室を通り過ぎる。
「おい。今気づいたのだが、お前ら耳隠せ。そしてそこの狐っ娘は尻尾を取れ。」
「着脱不可じゃ。」
「隠蔽不可っす。それでも先輩が隠せと言うのなら、耳の一つや二つ引き千切りましょう。」
「無理なら帽子とかかぶればいいんだが、参ったな。持ち合わせがない。」
「どこぞの阿呆犬は妖術に乏しいからのう。」
「ああん? 手前こそその尻尾さっさと消せよ。見苦しいだろ? それとも何か、消せないってか? 噛み切ってやろうか?」
「ふん。うちほどの高度な妖怪になるとじゃな、一般の人間には見えんような細工くらいお茶の子さいさいなのじゃ。そしてできる女ことうちは、犬神の分まで結界を広げておる。ありがたく思うがいい。」
「なんたる屈辱!」
犬神が喘いだ。
「まじか。」
「まじじゃ。まあ、少し霊感のある者なら感づいてしまうじゃろうがの。」
「普段はそれでいいが、今はそれだとダメだ。」
「何故じゃ。」
「陰陽師がいるかもしれん。」
「安心せい。犬神?」
「お前に命令されるのは癪だが、まあいい。先輩、大丈夫っす。それらしい匂いはまだしないっすから。ただ、ちょっとばかし嫌な予感がするっす。」
「嫌な予感?」
「多分、なんでもないと思うんすけど。」
「……まあ、それならいっか。」
「取り越し苦労じゃったの。」
「取り越しなら何よりだ。完全に隠すこともできるんだろう? 正月に神社で化けていたみたいに。」
あの時は耳も尻尾も無かった。
「神社などの霊験あらたかな場所じゃと、普通の人間も鼻が利くようになる。そういうところでは、結界を強くしておるのじゃよ。」
「便利ですこと。」
一つ目の角を曲がる。
給食の、何の料理かは分からないが、食べ物と分かるあの独特の匂いがさらに記憶を呼び覚ます。
思い出に浸りたいわけでも小学校が懐かしいわけでもない。しかしとめどなく記憶は溢れだし、心の内を攫って行く。自分が通っていた校舎ではないはずなのに、既視感のような懐かしさを感じてしまう。曇り空から注ぐ淡い日光が、クリーム色の校舎を光らせる。その色合いが、似ているような気がした。
まだ大丈夫。
まだ、思い出しても平気だ。
頭の中を無意識に流れる映像を楽しみながら、川のようにゆっくりと流れる風景を眺めていた。
学校に家が近かった田ノ内君は元気にしているだろうか。
隣の席になってからなんとなく気になっていた川上さんは結婚したと風の噂で聞いた。
中学も一緒だった井坂は……。
そこで意図的に思考を止めた。これ以上思い出しても、いいことなんて一つもない。あのころからだったろうか、人の汚さばかりに目がいってしまうようになったのは。
二つ目の角を曲がる。最初に着いた辺の向かい側に来た。生徒棟を背景に校庭が広がっている。周囲を囲むように遊具が設置されていたが、僕の好きだったブランコは無く、代わりに僕の学校にはなかった登り棒が聳えている。ちょうど体育の時間だったらしい。校庭では白い体操服を着た子供たちが、小動物のように動き回っている。あっちへちょこちょこ、こっちへちょこちょこ。先生に駆け寄っていった子供が、その目前でこけた。泣き始めた子供をなだめる先生の元へ、その子を心配したのか子供たちが寄ってくる。小鳥みたいだ。
小学校の反対側、道路の向こう側は畑と線路である。二両編成の私鉄電車が通ると、畑の中を滑っていくように錯覚する。目印の地蔵はまだ見えない。最後に残した辺にあるのだろう。
遠くの電車の音を聞きながら、子供たちの賑やかな声と懐かしい気持ちに包まれて、静かに時は流れる。ミコの茶を飲む姿がようやく様になっている。上品だ。顔を上げれば、相変わらずの曇り空ではあるが、雲が薄いために太陽の位置は分かる。太陽に透かされ、雲が疾走していくのが見えた。上空は風が強いらしい。
視線を犬神の向こう、進行方向に戻す。
最初は春の陽気に当てられ寝ぼけているのかと思った。
「ミコ、頬をつねってもらえないか?」
「急にどうした? 変態かや?」
「目を覚ましたいだけだ。何でもかんでも性癖扱いするな。」
僕がそういうと、ミコは飲んでいた湯呑に茶を注ぎたし、僕に渡してきた。湯呑からは湯気が立ち上っている。じんわりとした暖かさが掌に広がる。
「なぜ茶を寄越す。」
「『太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず』昔読まれた狂歌じゃ。」
「上喜撰って?」
「お茶のことじゃ。高級なお茶と黒船を掛けているのじゃが、今はよい。これも上喜撰ほどではないが、いい茶じゃ。眠気覚ましになろうて。」
「コーヒーみたいなものか。」
「それと並べるでない。」
礼を言い、一気に飲み干す。熱い物が食道を通っていくのが分かった。心なしか、目もさっぱりした気がする。
改めて、前を見直す。
やはりいた。
身をかがめ、フェンスに張り付き校庭を観察している、まごうことなき不審者が前方にいる。何に目を疑ったかといえば、その不審変質者が知り合いとよく似ているということだ。隠すことすら放棄した黄色い羽。相変わらずビビットな色彩の毛髪。存在を確認しただけで肩に重荷がのしかかったかのように、うんざりとする。
犬神が震えていることにはたと気づいた。
「お前、だからゆっくり歩いていたのか?」
突然の問いかけに、ミコが首をかしげる。僕と犬神のただならぬ雰囲気を察知し、ミコも前を向いた。
そして顔をしかめた。
「かたじけないっす。だけど自分、どうしてもあいつだけは苦手で。でも先輩の行軍を滞らせるわけにもいかず。」
「今からでも遅くない。引き返すのじゃ!」
「手遅れだ……。」
僕らに気がついた芙蓉が、満面の笑みを浮かべて手を振っていた。
この場所であの姿であの笑顔。逮捕されたとしても、言い逃れはまずできまい。
肌を艶々にし目を爛々と輝かせ、今まさに生命エネルギーを充電しておりました、と言わんばかりに元気はつらつとなった芙蓉が、高らかに笑う。
「いやあ、偶然だね! こんなところで会うなんてさ。何々? あんたたちも補給に来たの?」
「何の補給かは聞かないからな。」
「そんなの決まってんじゃん! ちびっ子成分だよ!」
「ちびっ子って……。」
「私はロリっ子からショタっ子まで。とりあえず小さければストライクさ!」
鳥胸を張って言うことではない。
まさか身近にこんな変態がいたとは思わなかった。ユキも大概だしコロポックルのおっさんもエロ親父ではあるが、それでも弁えるべきところは弁えている。芙蓉は、その横を笑いながら突っ走っている。
「頼むから自首してくれ。」
「なんで? 見ているだけじゃん。」
「うわ、こいつもう駄目じゃ。」
「触ってないからいいじゃん。こう、触れないからこそ、逆に興奮するみたいな? お預けした分さらに燃え上がるというか。」
「犬神、捕縛しろ。」
「くっ、先輩の頼み先輩の頼み先輩の頼み……やっぱ無理っす!」
以前そんなことを漏らしていたが、本当に苦手らしい。犬神がここまで拒否反応を示すなんて、意外だった。
「おう、犬神じゃん! 久しぶり!」
リアカーの影に隠れていた犬神を目ざとく見つけた芙蓉は、狩猟犬のごとき素早さで犬神に文字通り擦り寄った。羽が肌に擦れてむず痒そうである。
「どうしたのさっ、最近顔を見せないで。」
「こうなることが見え見えだから避けていたんっすよ!」
「つれないこというなよー。」
「芙蓉、お前犬神も許容範囲なのか?」
恐る恐る尋ねる。
「だって見てよ。童顔じゃん!」
嬉しそうに答えやがった。
言われてみれば確かに、犬神は幼さが残るも綺麗な顔立ちをしている。人間に生まれていたなら女性関係には苦労しなかったであろう必殺のベビーフェイスも、芙蓉の前では仇となった。
「こいつはある意味見境ないからの。今日ばかり犬神が不憫じゃ。」
犬神の悲鳴が轟く。頼むから少し静かにしてほしい。誰かに見つかったらどう言い訳をすればいいのだ。
―――ふふふっ―――
その時、笑い声が聞こえた。
慌てて辺りを見回す。
子供にでも見つかったかと思ったが、それにしては笑い方が大人びている気がする。どちらにせよ、今人目につくのは非常にまずい。
だが不思議なことに、それらしい人影は近くになかった。
されど笑い声は続いていく。
『うふふ、ふふっ。』
育ちの良さを感じさせる控えめな、けれど堪えきれずに思わず漏れ出したような笑い声は止まらない。一心不乱に犬神を弄っていた芙蓉も、一旦静まって笑い声の出場所を探しだした。
「ここからっす。」
「こっちじゃの。」
耳のいい二人がある一か所を同時に指す。そこは、フェンスのこちら側までしぶとく伸びてきた雑草によって形成された小さな茂みだった。よく見ると、葉や草の合間から岩肌が覗いていて、笑い声はそこから聞こえてくるようだった。
群生する雑草をかき分けると、茂みの中から石の壁と木製の三角屋根で作られた、小さな社が出てきた。簡単な造りで出来ているその中には、とても地蔵とは言い難い、拳二つ分の大きさの卵のような石が鎮座している。
四人揃って屈みこみ、小さな社を覗きこんだ。
笑い声は、この卵石が発しているように思えた。
『ふふっ……あ、すみません。おかしくて、つい。』
ミコが石に声をかける。
「うちらはここから真っ直ぐ南東にある、桜の木の精を探しておるのじゃが、そちがそうかや?」
少し間をおいてから、石が答えた。小鳥のような、可愛らしい声をしている。石が震えることによって、振動を介して音を発しているわけではなく、頭に直接届くような声だった。
『そう呼ばれていたときもありました。今は一介の話せる小石ですけれど。』
「え、これがあの桜の?」
芙蓉が目を丸くした。事情を知らずここにいるのだから、無理もない。あの老木の本当の精がここにいるとは夢にも思わなかっただろう。
「そうみたいじゃな。」
「なら話は早い。」
ずい、と僕は顔を寄せた。
「あんたに頼みたいことがある。」
『私に、ですか?』
りん、と石は鳴った。
「ああ。もう一度、あの桜を咲かせてほしいんだ。あんたが宿っていた、あの桜を。」
「お願いするっす。」
「お願い!」
「うちからも、頼む。」
四人で顔を寄せる。一瞬、石が委縮して小さくなったように見えた。
畑の方から風が吹き寄せる。電車の走行音が運ばれてきた。社を覆っていた草木がさわさわと揺れる。
ほどなくして、桜の精は答えた。
『ごめんなさい。』
しゅんとした、弱々しい声だった。
「っ……、どうして?」
『約束、したんです。』
「約束? よければ、話を聞かせてもらえないか?」
『ふふっ。ええ、もちろん。誰かとお話をするなんて、何十年ぶりでしょう。私の方こそ、お願いしたいくらいです。私の話、聞いてくださいますか?』
「ああ、もちろん。」
『うふふ。では、少しお話を。』
そして石は語りだした。
儚くてちくりと刺さる、思い出話を。
更新遅れて申し訳ございませぬ
個人的に一番できが良い章がここ2~3だと思う




