春 -10-
第九話のあらすじ
運命を語るうさんくさい男、千葉に言い寄られたじたじな千歳。あくまでも警戒心は解かず、妖怪か人間かを探るうちになぜか親密な仲に…。
人間の汚れが垣間見える第十話
「思い返してみれば篝さんは先ほど私のことを信頼してくれていましたし、何よりあと三回も本題に入らずに会うのは面倒だと言われたので。」
ついさっき別れたばかりの男が、地蔵の曲がり角からにゅっ、と湧いてきた。一瞬、地蔵が恨みを晴らすべく化けて出たのかと思い、衝撃のあまり息が止まった。しかし、どうせなら地蔵の方がましであった。妖怪地蔵の出現を願い地蔵の頭を叩いたのだから。
「あんたがそれでいいなら、僕は構わない。が、僕の信頼度は今のあんたの一言で最低値まで下がったぞ。」
「どうしてです?」
「どうして僕の名前を知っている?」
「事前調査の賜物です。」
悪びれもせず、さらっと言ってのけた。
「奇跡の出会いでもなんでもなかったじゃないか。」
「あれは信頼を得るための手段ですから。それに、今どれだけ篝さんから僕への信頼度が下落しようとも、無問題です。一度心を許したら、何度裏切られようとも、無条件にその人をまた信じてしまう。人間の浅ましいところです。」
やはり妖怪ではなかろうか。
「では、運命の出会いを果たしたところで、改めて自己紹介と行きましょうか。私、こういうものです。」
僕を置いてきぼりにしたまま、男は話を続ける。男は草木色のコートのポケットから名刺を取り出した。両手で名刺を持つ妙に人間臭い、もう見慣れてしまった挙動で渡してくる。条件反射的に、名刺を受取ってしまった。
『妖怪探偵 千葉』
「千葉県出身の千葉です。以後、お見知りおきを。」
千葉は恭しく頭を下げた。
「御覧の通り、妖怪探偵なるものを生業としています。」
再開直後から話について行けず、半ば強引に名刺を渡された上でのこの不意打ち。急な流れにさすがの僕のパニックになる。
「妖怪……えっ? 妖怪探偵出身の千葉、あれ? ご覧の通り妖怪?」
「千葉県の千葉です。覚えやすいでしょう?」
「あれでも、あんた妖怪じゃ。妖怪の探偵?」
「私は列記とした人間ですよ。千葉市役所には私の経歴が保管されているはずです。」
「えっと、じゃああんたは……妖怪?」
「混乱しているみたいですね。」
立ち話もなんですし、と言う千葉に引きつられ、近所のコインパーキングまで歩かされる。パーキングには全部で四台の車が停まっていた。千葉がよれよれのコートからリモコン式の鍵を取り出して車群に向けると、四台のうち千葉のコートと同じ草木色をした二人乗りの軽がヘッドライトを光らせた。
「先に乗っていてください。精算を済ませてしまうので。」
言われるがまま、助手席に乗り込む。タクシーの匂いがした。
飾りっ気のない車だった。買った直後であるかのような、無機質で味気ない清潔さがある。車は持っていないが、普通バックミラーや日よけには何らかの装飾をつけるものだと思っていた。ストラップだったり、サングラスだったり。それが無いにしろ、何らかの小物を置いたりするものだろう。
トランクスペースとなっている後ろの空間はがらんどうで、失礼とは思いつつも好奇心を押さえきれず開けてしまったダッシュボードには塵ひとつ落ちていなかった。
この車には、物が何も無かった。
どうして、と考える。どうしてあの男は身だしなみに限ってああも不審で適当なのか。持ち物も、車も、言動は所々怪しいが基本的には丁寧で清潔すぎるほどなのに、どうしてその気を髪や身なりに使えなかったのか。第一印象さえ変えれば、信頼を得るのも容易かろうに。
そこからさらに思考を巡らせる。考えることをやめていた頭も、回り始めてきた。
僕は今からどこへ連れて行かれるのだろうか。ただ車の中で話すだけなら、料金を払う必要はない。きっと僕を連れてドライブに出るに違いない。何も考えず普通に乗り込んでしまったが、持ち主を置いておいて先に人の車に乗り込むというのも変な話だ。それを許してしまう千葉と言うのも、やはり変だ。
千葉は自分のことを妖怪探偵と言っていたが、妖怪を調べる人間の探偵なのか、人間を調べる妖怪の探偵なのか、はたまた妖怪を調べる妖怪なのか見当もつかない。千葉は本当に人間なのか。その一点に置いて、僕は考えに行き詰る。
「お待たせしました。」
千葉が来た。ドアを開けて覗き込んでくる千葉の顔を見て、はっとする。細長くて切れ長の目。趣味の悪い黄色のコート。
まるで狐みたいではないか。
マラソンでゴールが見え始めてきたような、結末を目前にした高揚を感じて鼓動が早まる。
「ああ。なあ、ついさっき会ったばかりの他人を先に車に乗せるなんて、不用心じゃないか? 僕が盗るものだけ盗ってさっさと逃げ出すとか考えないのか?」
「信頼していますから。それに、盗るものってなんです? ハンドルとかですか?」
これ外れるんですかね、と目の前のハンドルを引っ張る。
「確かに何もないけどな。いつもこんな風に乗せるのか。」
「仕事のときは、そうですね。車に乗ってもらいますね。」
実は信頼なんてしていないのかもしれない。物が何もないから、先に車に乗せることができた。
ということは、だ。
「これも作戦のうちか。」
「何がです?」
千葉がにっこりと笑う。その笑みも、取ってつけたようにしか見えなかった。
「何でもない。」
そっけなく答える。こちらがすり寄ってやる必要もない。
これは僕の推論ではあるが、千葉は他人を先に車に乗せることによって、その人物を信頼しているということをアピールしているのではないだろうか。例えば、千葉が標的を僕のように先に車に乗せたとする。すると、標的は『私のことを信じてくれているのだ』と勘違いを起こし、自分を信頼してくれている千葉を信頼するようになる。ここまでは千葉の作戦だが、当の車には物が何一つ無いから盗まれる心配が全くいらない。保険をかけているのだ。
千葉はこちらを信頼していない。そう思わせる何かがある。
回りくどい搦め手を使い、あの手この手で外堀を埋めながら信頼を得ようとしている。
高揚による動悸が、不快感によってさらに加速される。心臓が早鐘のように自分を打ち鳴らし、過剰に血液を巡らせる。眩暈がした。頭蓋骨を汚水が見たし、脳を圧迫しているような気分だ。
不気味にちらつきだした視界の中で、過去の記憶が走馬灯の如く投影される。
ああ、知っている。
こんな回りくどくて、汚らしい、自分の悪意を気取られぬようひた隠しながら、相手を手のひらの上で踊らせるやり方を僕は知っている。
人間のやり口、そのままだ。
車は僕が来た道を知っていたかのように、寸分違わず逆送し、僕の家を通り過ぎて今度は出社コースをなぞり始めた。ラジオも鼻歌もない、タイヤがアスファルトを削る音だけが車内に響く。
やがて車は、桜の老木がある公園の前で止まった。
「……お前、何を知っているんだ?」
「何って、何も? 私はここから見る景色が好きでしてね。ほら、港の方が一望できるでしょう?」
公園には見向きもしないところが、白々しい。妖怪探偵が何を知っているのかは知らないが、妖怪と僕を絡めてきた以上、あの家や桜のことについて聞きに来たに違いない。だが、狙いは一体なんだ?
「篝さんは、幽霊や妖怪の存在を信じますか?」
「知らんな。」
素っ気なく答える。
「そうですか。では、もし私が妖怪はこの世に実在すると言ったなら、信じてもらえますか?」
「は?」
「こういう職業柄ですから、なかなか本題の方を信じてもらえないのですよ。始めに妖怪の話をしたところで、誰もが嘘だ法螺話だと相手にしてくれない。」
「だから、信頼を?」
「そうです。仕事のためには、信頼してもらうことが必要なんです。」
「詐欺師と一緒じゃないか。」
「詐欺師は、その人をだまし続ける必要がある。私の場合は、一度信じてもらえばもうそれでいいんです。妖怪の話さえ本当と思っていただけたのなら、それ以外のことは疑われても構わない。信頼の用途が違うんです。」
「お前の場合は、仕事をする前提のための嘘、と?」
「詐欺師は仕事が嘘じゃないですか。私は嘘を売っているわけではありませんから。ところで、私の呼び名があんたからお前になっているのですが、どういった心境の変化で? 距離、近づきました?」
「……次からは千葉と呼ぶ。」
「まあこの際どちらでもいいですが。」
仕事の話になってから、千葉は信頼してもらおうとする素振りを一切見せなくなった。今までのことは本当に手段にすぎなかったらしい。
「それで、信じてもらえますか?」
「……いるとして、話を進めてくれ。」
「では、いるということで。私は俗に言う、怪奇現象というものを解決する仕事をしています。」
「それと妖怪がどう関係ある。」
「関係も何も、当事者です。遥か昔からこの国で語り継がれてきた妖怪という者達。ですが、奴らはお伽話のだけの存在という訳ではありません。奴らはいます。この文明社会の影に今も巣食っているのです。」
一々癇に障る言い方だった。
千葉は饒舌になり始める。
「怪奇現象とは、妖怪共が私たち人間の社会に干渉する故に起こるものです。ラップ音なり祟りの類なり、程度の可愛いものからもっと大きい事柄まで。総じて奴らの仕業です。私の一族は代々そういう事件を解決してきました。陰陽師といった方がわかりやすいですか? 漫画の世界のような、法力などの超能力じみたものは使いませんが、妖怪の存在と同じくらい昔から、陰陽師は妖怪共を退治してきたのです。」
「退……治?」
「もちろん、いつもという訳ではありません。妖怪の中には手に負えないくらい強大な力を持つ輩もいますし、そういう奴は大抵話が通じるので説得して帰ってもらっています。」
「弱い奴なら、消してしまうのか?」
「それが一番手っ取り早いですしね。力が弱い妖怪っていうのは、まだ概念だけの存在だったりして、話ができませんから。」
春風が窓ガラスを叩く。息を詰めるような緊張のなか、ぴしっ、とガラスが鳴った。車が煽られ、公園の樹木が葉を大きく揺らす。
「そうか。奇遇だな。」
「はい?」
「実は僕も妖怪が見える家系なんだが。」
真実ではなかった。僕の家系は少し特殊ではあるけれど、霊視なんて殊勝な力は持っていない。僕の霊視は、後天的なものだ。
「陰陽師の一族ですか?」
「いや、ただ見ていただけだ。そこにいる、自然なものとして接してきた。台風とか、風邪みたいなものだよ、怪奇現象なんて。気にするほどでも、対峙するほどでもない。僕らはそう思って、彼らと一緒に過ごしてきた。」
「自然災害も病気も、できれば無縁な方がいいと思います。私たち陰陽師は、人間社会の安定のために奴らを滅してきました。」
滅す。
千葉のニュアンスが変わる。それまで淡々としていた口調に、若干の棘が混じり始める。
「妖怪は妖怪の社会でだけ、過ごしていればいいんです。こちらに居る必要はありません。」
「なら帰ってもらうだけでいいだろう?」
「一々帰すのは面倒なんですよ。」
「それはお前たちの都合だろう?」
「食べていくには、そうするしかないのです。」
価値観が違う、だけかもしれない。むしろ、千葉の方が人間側からしてみれば正常だ。僕だって、夏場に蚊を見かけたとして、説得して帰ってもらおうとはしない。たぶん、いや、絶対に叩いている。今までそうしてきた。
しかしこうして問題がすげ変わると、理屈では分かっていても気持ちが治まらない。毎晩夜明けまでどんちゃん騒ぎをしている奴らを知っているから、簡単に退治するなんて言えない。言わせたくなかった。
「鬼門、というものをご存知ですか?」
反り立ち押し寄せる津波のような言葉の圧力が僕を責め立てる。動揺してはいけない。平静を装い、答える。
「あの世とこの世をつなぐ扉みたいなものだろう?」
「正確には、人間界と妖界を繋ぐトンネルです。」
「どっちだっていいだろ。」
「そうですね。代々私たちの一族は各地の鬼門に結界を貼り監視をしてきましたが、ここ最近鬼門の妖力が増大していることが発覚しました。いくつかの結界は破られ、そこから妖怪共が侵入してきた形跡も見られます。」
「それは千葉、お前たちの落ち度だ。」
「そうかもしれません。しかし、私たちだって歴史に取り残された一族です。言い訳みたいですが、日本全国を万全の状態で監視することなんてできません。」
「言い訳みたいじゃない。言い訳そのものだ。」
「そうですね。年々人数も減少し、衰退の一途を辿る私たちですが、これでも創意工夫を凝らして頑張っているんですよ。」
「どうだか。」
「現にこうして、私は探偵まがいのことをやっている。」
「妖怪退治屋の称号も形無しだな。」
「食べていくためには、仕方のないことです。」
「だからって妖怪を滅していいわけじゃ―――」
「篝さん。」
これまでにない冷たく、強い語調で千葉が言葉を遮る。冷徹な雰囲気に、思わずおののいてしまう。
「篝さんの自宅には、鬼門があるのではありませんか?」
唐突な問いかけであった。
頭を殴られたような衝撃が走る。
一瞬言葉に詰まった。が、何とか言葉を紡ぎ返答する。
「あ……、あるわけないだろ、んなもん。あったら今頃家は妖怪屋敷だ。」
そのままだった。
でも今はちゃんとあいつらを妖界に戻しているから、まだ屋敷化はしていない。待合所だ。
「そうですか。」
拍子抜けするほどにあっさりと、千葉は引き下がった。
「僕の見当違いでしたかね。この付近でも妖怪の被害は多発しているのですよ。ここらで一番雰囲気あるのって、篝さんのお宅くらいですからね。」
「失礼だぞ。あれでも、気に入っているんだ。」
「そうでしたか、すみません。広いですものね、あの家。いいな、私も住んでみたい。」
「お断りだ。」
「それは残念です。六畳一間からは卒業したかったのですが。」
いつの間にか、雰囲気が出会って直後のものに戻っていた。人当たりの良い、低姿勢で丁寧な調子。食ってかかってくると身構えていた分、肩すかしを食らった気分だった。
「信じるのか?」
「何をです?」
「鬼門のことだ。」
「それは、信じますよ。だって私たちの仲じゃないですか。」
にこり、と細い目を瞑って笑う。
今気づいた。この顔には見覚えがある。
まるで狐みたいじゃないか。
急に笑いがこみあげてきた。必死に噛みしめながら、堪えきれずに喉の奥で笑ってしまう。
「くっ……、そうだな。偶然止まりの仲だ。」
「運命ですって。運命へ、近道をしました。」
「卑怯だ。」
「創意工夫です。」
「あそ。」
外の空気を吸おうと思い、パワーウィンドウのボタンを探す。僕の様子に気づいたのか、千葉が身を乗り出してきてドアノブ脇のハンドルを指差した。
「それを回してください。」
「いまどき手動なのか。」
「探偵稼業は意外と儲かりませんので。」
「……そうか。」
ハンドルを回して、ウィンドウを下げる。暖かな春の風が吹きこんできた。
千葉が運転席の方のウィンドウも下げると、空気の流れが変わった。ツンとするハッカノ香りが漂ってくる。
許せないことに変わりはない。
しかし、怒鳴り散らすことなく話を続けられるほどには冷静になれた。これでも一応大人だ。食べていくことの辛さ、現代社会を生き抜くことの大変さは知っている。許せないが、個人の価値観を押し付けて罵倒することは、大人げない。
分かり合おうとしなければいいことだ。
それになにより、どうも狐顔の笑顔には弱かった。
「篝さん、知っていますか?」
「何をだ。」
「あそこの桜にも、昔妖怪が住んでいたのですよ。」
千葉が公園の真ん中に佇む桜の老木を指差す。咲かさずの爺の木だ。
「でも今はその妖怪がいなくなってしまったので、長い間花を咲かせていないそうです。」
「一度見てみたいな。」
つい、呟いてしまう。
「見られると思いますよ?」
千葉が至極簡単なことのように言ってのけた。
「どうやって。咲かないんだろう?」
「妖怪に頼めばいいのですよ。私、件の妖怪の今いる場所、知っていますよ?」
―――こいつ。
何を考えているか分からない。
何を知っているのか、何を分かっているのか読めない。
食えない男だとは思っていたが、これほどまでとは。
どうして、僕の欲しい情報を知っている。的確にそれを伝えてくる。
一体何が目的なのだろう。
「どこにいるんだ?」
食い気味にならないよう気を付けて、尋ねる。
少し待ってくださいね、と千葉はコートから手帳とペンを取り出し、白紙のページに何やら地図を書きだした。大まかな図の下に細かな住所を書き、鋏を用いて綺麗にページを破いて僕に渡した。
「どうぞ、ここです。ここに目印のお地蔵様があるのですが。」
丁寧な地図だった。フリーハンドで書いていたはずだが、まるで定規を使ったかのように真っ直ぐとした線が引かれており、字も粗雑さのない美しい書体だった。
本当に、身なり以外はしっかりとした男である。
「ところで地蔵と言えば、手は大丈夫ですか?」
「は?」
思わず聞き返すも、背筋を冷たいものがすっとなぞるのが分かった。誰かが僕の墓の上でも歩いたのかもしれない。
「先ほど地蔵を思い切り叩いていたようですけれど、まさかそういう趣味でも?」
途端顔が熱くなる。
やはり―――。
「随分遠かったはずだが。」
「私、目はいいのですよ。」
やはりこいつは妖怪なのか?
物語も終盤戦へ。変わらぬ愛読に感謝します。




