春 -2-
爺ぃ!
なだらかなカーブを描く長い下り坂の中腹にその公園はあった。
バスを逃がし、ただ待つだけなのも癪なので次のバス停まで歩いていたところだった。カーブの弧の内側は崖に面していて、埋め立て地の爽やかな景色が眺めることができる。それを横目にとぼとぼ歩いていると、いつもバスから見える公園にたどり着いた。
普段は意識しなかったが、なかなか広くて立派な公園だ。坂道にあるせいか周囲にはこじんまりとした民家しかなく、唯一の遊具であるブランコが風に吹かれてひとりでに揺られている。
そして公園の中央に、一本の大きな樹が生えていた。
敷地内を全て覆わんとするかのように大きく枝を伸ばす大木。
出勤中であることも忘れ、その樹の下まで寄ってみる。
「これ、桜じゃないか。」
桜の老木だった。もうずっと前からここにあるのだろう。四方に広がった枝は地面に深く根を刺していることを示し、いくつもの蕾が花咲く時を今か今かと待っている。
「よく御存じで。」
突然の声に振り向くと、後ろには僕の腰くらいの背丈の老人が立っていた。紫色の烏帽子とチョッキを着た、白いひげの似合う、絵本で見たことあるような爺だった。
「こいつはもう百歳にもなる桜でのう。わしが生まれたころからここにおる。」
「じいさんの友達か?」
「友達。」ふぉっふぉっふぉ、とこれまた絵本で読んだような声で笑う。「そう。古くからの付き合いですわ。わしはこいつと一緒に育ってきた。わしとは違って、こいつは老いるほどに太くたくましくなっていきましたがの。」
「じいさんだって図太そうじゃないか。」
悩みもなさそうだ。
「ふぉっふぉっふぉ。」
ひげを揺らしながら、爺は僕の横へ歩いてくる。横に立たれると、ついさっきまで小さく見えていたのが、同じくらいの背丈に感じるから不思議だ。絶対に錯覚なのだが、これが年の功のなせる技か。僕も歳を取ればこれくらいの貫録と言うか、圧力を醸し出せるのか。
「蕾が膨らんでいるように見えるが、開化は近いのか?」
「いつものように咲いてくれるというのなら、そうですな。もうじき、と言ったところですか。蕾も可愛らしく育ってきて、ああ早く見てみたい。」
「……今週末に花見をする予定なんだが、この桜は咲いてくれるか?」
「ふぉふぉふぉ。それはあなた次第ですわ。」
「僕?」
「ふぉっふぉ。あなただけではござりません。春が近づけば、春を誘い込むように、春を讃えるように、春を喜ぶように、この桜は綺麗に咲いて見せるでしょう。この桜は、春を呼び込む桜。この桜が咲けば、春は訪れる。」
もしかしたら危ない爺に捕まったのかもしれない。
「それは、この桜がここら一帯で一番早く咲くということか?」
「そうとってくれても構いませんわ。所詮、お爺の戯言です。」
「お爺?」
「皆、わしをそう呼びますのでの。」
「じゃあ、僕も。で、お爺。この桜はいつ咲くんだ?」
「春はすぐそこまでやってきておりますでの。もうじき、ふぉっふぉっふぉ。」
にこやかに笑いながら、顎に蓄えられた立派な白ひげを弄るお爺の姿は、妙に様になっている。
「少し、老いぼれの昔話を聞いてくださいますかな?」
それにしても大きな桜の木だ。生命力こそ感じられないが、たぶんきっと、全部木の中に内包されているのだろう。
「いいんじゃないか?」
桜に思いを馳せ、まさに心ここにあらずであったから、つい空返事をしてしまう。言ってからしまった、と気づいたがもう遅い。話好きな爺さんのエンジンはかかっていた。
「では、遠慮なく。あれはわしがまだ十にも満たないくらい幼い頃でしたかな。そのときから、すでにこの木は大人でして、それはもう感嘆の声しか漏れないほどに美しく、華やかな花を咲かせておりました。幼心にも強く響く美しさにわしは目を奪われました。白い輝きに包まれて、全てを包み込むように広がった桃色の空から、吹雪のように桜の花弁が舞い落ちてきて、この世のものとは思えない風景でした。後にも先にも、あの光景を見たのはそれっきり。あの風景が、今も目に焼き付いております。わしはもっと見ていたかったのですがの、当時は国も荒れており、近くに軍港もありまして、家族総出で田舎に逃げることになっていたのです。」
戦時中の話なのだろうか。この爺、歳はいくつなのか。
「わしは目を離すことができませんでした。渋るわしの手を、両親は必死になって引っ張っておりましたが、わしはてこでも動くつもりはありませんでした。ついには、両親ともに愛想を尽かし、わしを置いて行ってしまった。今思えば、天邪鬼だったわしを誘き寄せる作戦だったのでしょうが、子供にはそんなこと分かりません。最初のうちは意地を張っておりましたが、そのうち涙がほろりと零れてきて、けれども潤んだ瞳でずっと桜を眺めていました。そこでわしは出会ってしまったのです。見てしまったのです。涙で歪んだ景色の中で、まるでよどみから生まれたように、桜の木から小さな妖精が現れてくるところを。」
桜に憑いた妖怪か、それとも桜自身が妖怪化したものだろうか。後者に至っては珍しくもない。長く生きた無生物や植物が心を持つということは、古くから言われていることだ。この桜は戦火の中を生きのびたのだし、若いころからそういう力を持っていたと考えられなくもない。むしろ、そういう不思議な力があったから、今まで生きてこられた、とも考えられる。
「行きなさい、と小さき者は言いました。鳥の歌うような、綺麗な声でありました。『ご両親のもとに、お行きなさい。また咲かせますから。だから、春になったら、またおいで』。姿ははっきりとは見えませんでしたが、その約束は今でもしっかりと覚えております。あの時の桜の風景のように、老いぼれてもそれだけは、忘れない。また来る、とわしは約束し、両親の元へ行きました。途中振り返ると、そこにはやっぱり大きくて綺麗な、まるで桃源郷の入口のような桜が咲き誇っていて、幹のすぐよこでさっきの者が手を振っておりました。」
想像してみる。眩いばかりの光に透かされた、輝く桜の光景を。
たとえ思い出補正が掛かっているのだとしても、子供の時分に見たそれを一生忘れられないのも、無理はないだろう。きっとその光景はお爺の心の一番深い部分に、強く根付いて今なおその輝きを増しているのだ。思い出とは、そういうものだ。
「で、翌年には来られたのか?」
「いいえ、残念ながら。わしはあの子を随分と長い間待たせてしまった。次にここに来たときにはもう、あの子に会うことは叶わなかった。」
「そうか。」
「若いの。どうして桜というのは、こうも美しく、儚げで、記念や約束や、思い出が似合うのでしょうねえ。」
お爺の目に、うっすらと涙が滲んでいる。
「……たくさんの記念や約束、思い出が桜の下で行われたからだろう? この国の季節や行事の事情もあるし。桜に本来そういう力はない。ただ、僕たちが桜の下でたくさんそういうことをやってきたから、自然とイメージがついてしまったんだ。」
出会いや別れの季節に咲くから、この国ではそういうレッテルを貼られるようになったのだと僕は思っている。これがアメリカだったら、話は別だ。
「……ロマンが無いと、よく言われませんかね?」
「余計なお世話だ。」
「雰囲気がぶち壊しです。ふぉっふぉっふぉ。若いの。」
お爺と一緒に、頭上の桜を見上げた。剛腕のような太い枝もあれば、鳥が止まっただけで折れてしまいそうな細い枝もある。そのそれぞれに、うっすらとした桃色を覗かせる花の蕾がたっぷりとくっついている。きっと、満開になった暁には圧巻ものだろう。
「見てみたいな。」
……大学のころからこの町に住んでいるが、現に考えるだけで身が震えるほどの立派な満開の桜を、はたして僕は見たことがあったであろうか。
こんなにも大きな桜の木である。通学に通勤にと、この道は僕が海岸の方へ降りるのに使うバスの通り道だ。一度くらいここの桜を見たことがあってもいいような気がした。
「覚えが、ないな。なあ、お爺……?」
目線を下げると、先ほどまでそこにいたお爺が音もなく消えていた。
そして自分の置かれた状況にはたと気づく。
出勤中じゃないか。
真後ろを、バスが走っていった。逃すと遅刻してしまうぎりぎりのラインの、最後のバスだ。冷や汗が流れる。
こんなとき
「先輩!」
犬神さえいてくれれば……。
「……犬神、なぜここに。」
「主人に呼ばれたのならば、たとえ火の中水の中、どんな状況に置かれていたってすぐに馳せ参じます!」
「まだ呼んでいなかったぞ。」
「先輩が心の中で自分を必要としてくれるだけで、すぐにでも。」
「思ってすらいなかった。むしろ思おうとしていたところだった。」
「先輩のためですからっ!」
度が過ぎる忠義が少し怖い、それが犬神だ。
「さ、先輩、乗ってください。」
「ま、ありがたいけどさ……、とそうだ。犬神、お前、この桜の木から妖力とか感じるか?」
「はい?」
僕は背後の桜の木を指差す。人一倍妖怪と接しているという、できることなら生涯でつけたくなかった自信を僕は持っているが、生憎妖力探知などと言った高度なことはできない。したくもない。できたところでいいことなんて一つくらいだろう。こいつらの存在を事前に察知し、逃げられる。それだけだ。
「そうっすねえ。木の内側から微かに気配だけはするっすけど、そんな強いもんじゃないっすよ。」
「ということは、この木自体が妖怪化しているということか。」
「そういうことっすけど、でもこれって。」
「む、そろそろ行かないとさすがにまずいな。犬神、頼むぞ。」
「合点す!」




