第六話 同居人の告白
放課後になり、嘆息しながら教室を出る。
一体、これで今日、何度目のため息になるだろうか。
ため息つくと幸せが逃げるぞ、と孝広には言われたが、僕には、幸せに逃げられたからこそ嘆息してるんじゃないかな、と思えて仕方がなかった。
朝、深山さんとは、会話どころか会うことすらできなかった。
義母さんに訊いてみたら、先に学園に向かってしまったとのこと。
僕も急いで朝食をとり、あとを追うように学園へと向かったのだけれど、そもそも彼女と教室で話すことはできないわけで。
もちろん、深山さんも気にはしているのだろう、休み時間はもちろんのこと、授業中にも何度か視線を向けてきていた。
そのときの彼女の瞳に、いつもの冷たい輝きはなく。
けれど、なぜだろう、途方に暮れた迷子のような弱々しさを感じることも、また、なかった。
その瞳に宿っていたのは、彼女がいつも学園でみせるものとはまったく逆の、どこか決意に満ちた、熱い輝き。
深山さんとの同居のことを、休み時間に孝広と天宮さんに説明し、やがて、こうして下校の時刻となった。
ふと、ほっとしている自分と、悔しさを覚えている自分が、心の中に同居しているのを自覚する。
正直、彼女を追うように登校したくせに、面と向かって話をする自信が僕の中にはなかった。
嫌われた、ではなく。
深山さんを悲しませた、という思いが僕の心にずっと根を張っていて。
そのせいで、何度となく向けられた視線からも、ついつい顔を背けてしまった。
昨夜、顔面蒼白になって『やだ』と繰り返していた彼女の表情が忘れられない。
絶望に打ちひしがれたような、すべての希望を奪われたかのような表情が頭から離れない。
でも、それほどまでの表情をさせるようなことを、僕は、言ってしまったのだろうか。
自分の妄想がたぶんに入った解釈だということは承知の上で、考えてみる。
もし、仮に。
仮に、深山さんが僕のことを好きだったら、と考えてみる。
いつから好きだったのかは、わからない。
でも、いつからであろうと、僕たちは姉弟だ。
それが一昨日から始まったことであっても、戸籍上はまだ他人同士であっても、僕たちは家族なのだ。
だというのに、僕に向けられた好意を、受け入れる?
彼女と、つきあう?
そんなこと、していいものなのだろうか。
そんなこと、許してもらえるものなのだろうか。
でも、この仮定が真実だったとしたら。
僕は……僕は、どうしてそれに、少しであっても嬉しいと感じているのだろう。
もう、なにもかも、終わってしまっていることのはずなのに。
彼女が僕の家に来た日に、終わってしまったことのはずなのに。
姉弟である以上、そういう気持ちを持っていたとしても、お互い、封印して生きていかなきゃいけないのに。
学園での彼女を思いだす。
冷たいけれど、いつも颯爽としている、格好いい少女。
無愛想だけど、積極的に周囲を傷つけるようなことはしない少女。
孤立していて、いつも孤独で、けれど、必要があれば……そう、同じ学級委員の僕には、話しかけてきてくれる少女。
そんな深山綾という女の子を、僕は、好きになってしまっているのだろうか……?
わかっている。
これは、僕の仮定が当たっていることが前提の問いかけだ。
でもたとえ、自信過剰のうぬぼれ屋と言われても、彼女が傷ついた理由は、それ以外、思い浮かばなかったのだ。
だから、向き合っておかなければならないと思う。自分の心と。
だって、彼女は昨夜、今夜も僕の部屋に来ると言っていたのだから。
そうしたいと、望んでくれていたのだから。
そもそも、それがなくても深山さんとは顔を合わせることになるのだ。
それが、家族であるということ。
それが、姉弟であるということ。
逃げることはできない。
絶対に、逃げることはできない。
だから、向き合わないと。
自分の心と。
なにより、彼女の気持ちと。
それを、スマートにできる自分では、ないけれど。
それでも――。
気がつけば、家の近くの交差点までやってきていた。信号が赤になっていることに気づいて、立ち止まる。
そして、目の前から伸びる横断歩道の向こう側には、『彼女』の姿。
学園指定の白いブラウスに、黒のミニスカートといういでたちの、『彼女』の姿。
小柄な深山さんからは、学園にいるときと比べて、少しだけ『弱さ』のようなものを感じる。
あるいは、遠近感の問題で、そう感じるだけかもしれないけれど。
やがて、信号が青に変わった。
こちらに向かって、彼女が歩いてくる。
僕も、おっかなびっくりながら、歩を進める。
まるで、果たし合いでもするかのように、距離を詰める二人。
充分に近づいたところで、少しの間を空けて、見つめあう。
流れるメロディは『かごめかごめ』。
それがもうじき鳴りやもうというところで、僕はようやく口を開いた。
「あー……っと、さ……」
出てきたのは、なんの意味も成さない呟き。
けれど、それがきっかけになったのか、深山さんも口を開いてくれる。
「……とりあえず、渡りきろう?」
彼女が目で示すほうに顔を向ければ、青が点滅している信号機。
深山さんと一緒に元いたほうに戻りながら、どうでもいいことが頭をよぎる。
青が赤に変わるなんて、なんだか昨夜とは真逆だな、なんてことが。
点滅が終わり、僕たちは信号機の下で、二人並んで立ち止まる。
流れだすメロディは、今度は『夕焼けこやけ』。
それを耳にしながら、深山さんは静かに瞳を閉じる。
そして、そのままで唐突に尋ねてきた。
「ねえ、堀口くん……。堀口くんは、親の再婚にまったく反対しなかったって聞いたんだけど、それは、本当……?」
思わず面食らうも、瞳を開いた彼女に上目遣いで「……本当?」と再度問われ、ドキリとしながらも、うなずきを返す。
「……うん、まあ。これといって反対はしなかったかな」
「……どうして?」
「どうしてって……。別に、反対する理由もなかったし……」
「相手の人……お母さんがバツイチだってことは、知ってた?」
「うん、それはちゃんと聞かされてた」
「じゃあ、子連れだってことも、わかってた?」
「もちろん、わかってた」
「だったら……」
そこで、再び流れる『かごめかごめ』。
彼女は前を向いて歩を進めながら、呟くように。
「だったら、それがわたしだってことも、聞かされてた……?」
「いや、それは知らなかった。歳の近い、義理の姉になる女の子だってことは聞かされてたけど、それ以上のことは教えられなかったし、聞こうとも思わなかった」
一瞬、『義理の姉』という言葉にピクンと肩を跳ねさせるも、少しだけ後ろを歩く僕のほうは振り向かずに、彼女は問いを重ねてくる。
「女の子と一緒に住むことになるって聞かされて、不安にはならなかったの……? 上手くやっていけるのかなぁ、とか……」
「ならなかった、といえば嘘になるかな。でも、父さんも自分の幸せを見つけるべきだっていう気持ちのほうが、大きかった。孝広には、物わかりがいいって言われたけど」
「うん、わたしも『物わかりいいな』って思うよ。お義父さんは、すごくありがたかっただろうし、嬉しかっただろうね……」
「深山さんのほうは、違ったの?」
探りを入れるように、僕のほうからも問うてみる。
彼女の気持ちを推し量るために。
「賛成は、できなかったの?」
「初日に言ったよね、お母さんに、だけど。――『いい』とは言ったけど、わたしの『いい』は『仕方ない』の『いい』だって。
わたしは、堀口くんのように物わかりのいい『いい子』にはなれない。お母さんに幸せになってほしい気持ちはあるし、お義父さんにも悪感情なんて微塵もないけど、それでも……それでも、なんでこうなっちゃうのって、何度も思った……」
横断歩道を渡り終え、彼女は再び立ち止まる。
そして「だって」と続ける深山さん。
「わたしたち、もう子供じゃないんだよ? 人格形成なんてとっくに済んでて、男女関係なく一緒に遊ぶ時期もとっくにすぎてて……。なのに、いきなりクラスメイトの男の子と一緒に暮らすことになるって言われても、そんなの……」
ああ、それは実に当たり前の反応だ。
わかっていたことではあるけれど、この点においては、僕のほうが非常識。
そりゃ、上手くやっていけるのかとか、そういう気持ちを抱きはしたけど、それでも、嫌だなって思うことは、一度もなかったから。
でも、それはきっと、男である僕だから。
深山さんからしてみれば、それは苦痛ですらあったのかも。
もちろん、僕と一緒に暮らすのを嫌がってるとまでは、さすがの僕も思わないけれど。
でも……初日くらいは、嫌な気持ち、あったんだろうな。
と、そんな同情的な思いが、勝手に僕の口を動かした。
「……まあ、わからなくは、ないよ。僕だって、一緒に住む女の子が同じ学園のクラスメイトだって知っていたら、もしかしたら、少しは反対していたかもしれない」
もちろんそれは、父さんとちょっと話し合っただけで賛成を選択してしまえる程度の、本当に形だけの反対なのだろうけど。
「それに正直、これから上手くやっていけるのかなって不安は、いまが一番大きかったりするし……」
「……だよね。昨夜、わたしがちょっと感情的になっちゃったから……」
「いや、あれは感情的っていうのかな……?」
別に怒鳴り散らしたわけでも、わめき散らしたわけでもない。
ヒステリックになったわけでも、物にあたったわけでもない。
僕が困っているのは事実だし、その原因が彼女にあるのもそのとおりだけど、それでも深山さんには、悪感情を抱かせるような部分なんて欠片もなかった。
少なくとも、僕はそう感じる。
「まあ、どうしたものかなって思っては、いるけどね」
うつむいてしまった彼女に苦笑を向ける。
それに深山さんは真剣な目を返してきた。
「わたしも、思った。どうしたものかなって……。でも、わたしの取る行動なんて、決まってたから。だから……うん、悩むなんて、いまさらだった。そんな必要は、全然なかった」
そして二人、歩きだす。共通の我が家へと向かって。
「昨夜、部屋に帰ってから、覚悟を決めた。おかげで今日は寝不足で、お世辞にも、ベストを尽くせる状態じゃなくて……。でも、それはいままでずっと、わたしが足踏みしてたせいだと思うから……」
覚悟を決めた、か。
なんの覚悟を、だろうか。
仮に、僕が予想しているとおりのものだったとしたら、僕も覚悟を決める必要があるんじゃないだろうか。
……彼女を、昨夜以上に悲しませる、覚悟を。
家の前までやってきて、中に入る直前、深山さんはこちらに振り向いて告げてきた。
「……もう、『姉さん』なんて二度と呼ばれたくないから。その言葉だけを恐れて、わたしはこの家で生活していたから。それを終わらせるために、わたしは今夜、堀口くんの部屋に行く。……もちろん、魔術講座も兼ねて」
それは、建前なのだと認める言葉。
魔術講座は、二人きりになるための建前なのだと、認める言葉。
だからお互い、ひとまずは『いつもどおり』にしていよう、と。
どんな接し方が僕たちにとっての『いつもどおり』なのかなんて、わからないけど。
それでも、二人ともがそうであると信じる『いつもどおり』でいよう、と。
そう、僕たちは無言でうなずきあった。
……建前なんかじゃなかった。
彼女の言葉は、全然建前なんかじゃなかった。
なるほど、深山さんは確かに『いつもどおり』では、いてくれた。
「じゃあ今日は、昨日教えそびれた、魔力を高める修行の方法から。まず、これには三種類の方法があって――」
でもそれは、いっそ悲しくなるくらいに『いつもどおり』の態度で。
時刻は午後九時半。
深山さんの服装は、おなじみの白いパジャマで、僕もお風呂に入ったあとのラフな格好。
正直、時間が巻き戻ったのではないかと錯覚してしまうほどだ。
けれど、授業内容は先に進んでいるので、当然、時間が巻き戻ったわけはなく。
「まず一つ目は、魔術を使うことによって上げる方法。これは一番手軽で簡単だけど、一度に高められる魔力量がとても少ないという欠点がある。
二つ目は瞑想法。大気に含まれている魔力に意識を集中して、それを自らの中に取り込む。同通の練習にもなるから、やるならこれが一番お勧め。欠点は、瞑想ができないと、そもそも魔力を内に取り込むことができないこと」
彼女は淡々と、昨夜や帰り道でのことなんてなかったかのように続けていく。すでに右手の人差し指と中指はピンと立てられており、続いて薬指も天井に向けられた。
「そして三つ目。これはたった一度で魔力を大幅に高められるんだけど、危険も大きい方法。自分で、あるいは他者が術者の精神に圧迫をかけ、それを跳ね返すの。もちろん、跳ね返せなかったら術者は死亡。圧迫に耐えられず精神が潰れるんだから、生きていられる道理はない。
けれど、圧迫を跳ね返すことができたのなら、術者の魔力は飛躍的に上昇する。圧迫に負けまいと本能的に、大気に満ちる魔力と体内の魔力、両方を術者の限界まで取り込み、膨らませ、反発を起こす。……火事場の馬鹿力、みたいなものかな。結果、魔力が飛躍的に上昇。もちろん、これを行うことはお勧めできないし、やらせるつもりもない。でも、効率のいい方法ではあるから、この手段を選ぶ魔道士は多い、という話」
……パワーアップするか、それとも死ぬか。
まるで少年マンガの世界みたいな話だな、なんて思う。
そして、その展開自体には燃えるものがあるけど、自分がその立場に立たされたらとも考えて、背筋が寒くなった。
「深山さんはさ、やったことあるの? その三つ目の方法……」
僕の問いに、彼女はヒラヒラと手を振って、
「まさか。やろうと思ったこともないよ。だって、怖いもの……」
「……だよね。――とりあえず、僕に一番適してるのは、一つ目の方法、かな?」
「うん。どちらにしろ、まず、ひとつくらいは魔術を使えるようになるべきだとも思うし」
「確かに。僕もひとつくらいは覚えて、格好つけたい」
苦笑を交わす。
それにしても、と別のところに向かう、僕の思考。
夕食の席でも、深山さんは何事もなかったかのように振る舞っていた。
あれか、男よりも女のほうが肝は据わってるってことなのだろうか。いざとなると男よりも、というやつ。
僕なんて、こうして授業を受けている間も心臓がバクバクいっているというのに。
本当、『いつもどおり』でいることのなんと難しいことか。
深山さんが平然と講座を進めてくれているから、僕も表面上は落ちついていられるけど、それでも、このあとのことを考えると気が気じゃない。
だって、家に入る前に交わした会話は、『姉さん』と呼ばれたくないというあの言葉は、どう考えても『今夜、告白する』って意味だろうから。
ああ、世の鈍感主人公が羨ましい。
彼らなら、『主人公補正』とやらの力で、あの場でも、都合のいい強風が吹いてきて、『え? なんだって?』で済ませてしまえるイベントになってしまうに違いない。それが幸せなことなのかどうかは、別として。
まあ、もちろん僕は自分のことを鈍感なほうだと思っているのだけれど、それでも、そこまで致命的には鈍くはないわけで。
「……くん? 堀口くん、どうしたの?」
「あ、ああいや、なんでも……」
僕のほうは『どうして、深山さんはどうもしてないの?』と問いたいくらいなんだけどな……。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女は「じゃあ」と授業を続ける。
「昨日やれなかったもうひとつのほう。『希術』について」
このままでは失礼かと思い、浮ついた様子が微塵もない深山さんの声に、真剣に耳を傾ける僕。
とりあえず、いまはこちらに集中しよう。
切りだしてくるのは彼女から。
だから、それまでは『いつもどおり』にしていないと。
お互いが、それを望んでいる限りは。
「昨日は、単純に『魔術よりも上に位置する術』って言っちゃったけど、希術って、正確にはそういうものじゃないの。人間の善性を力の源とする術っていうのかな、基本的には『創造主の力を借りて行使する術』と表現されるんだけど」
「つまりは、神の力を借りた術ってこと?」
「……うん、単純に言っちゃえば、そういうこと。でも、創造主に祈って奇跡を起こす術ってわけじゃない。こちら側から近づいていく必要があるの」
「こちら側から、近づいていく……?」
「……えっと、わたしがこの家に来た日に堀口くんが訊いてきたこと、憶えてる? 選ばれた人じゃないと魔術を極めることはできないのかって」
正直、うすぼんやりとしか憶えていなかった。
でも、言われてみれば確かにそんなことを尋ねたような……?
「わたしはそれに、『そうともいえるし、それは違うともいえる』って返した。なぜなら、魔術を極めた先にあるのが希術だから。そして、その領域――『本質の柱』に辿りつける可能性は誰にでもあるけど、生まれついての魔術属性によって、手段――そこに辿りつくまでの『道』が変わってくるから。
希術は現在、わたしの知る限りでも五つが存在する。それはつまり、『道』の開き方が最低でも五つは存在しているっていうこと。……ううん、ちょっと違うかな。希術を使えることは『道』を開いたということと、必ずしもイコールではないから……」
そこで深山さんは少しだけ目を伏せる。
「……でも、なんとなくはわかるでしょ? 『選ばれた人じゃないと魔術を極めることはできない』って言葉を、肯定もした理由が」
「……まあ、たぶんでよければ。……いくつもある方法のひとつを、自分から選んで極めることはできないっていうこと、だよね?」
「そういうこと。自分に合った方法でしか『道』は開けないし、二つ以上の魔術系統を同時に極めることも、絶対にできない。そういった意味で、すべての魔術を『極める』ことは、絶対に不可能なの。でも、希術を使えるようになることや『道』を開くことを指して『極めた』というのなら、それは誰にだって可能。自分にもっとも適している魔術を学んでいけば、意識しなくても、いずれは嫌でも極めることになる。……もちろん、極めるまでには何百年とかかるだろうけど」
「何百年!?」
途方もない数字を出されて、さすがに驚く。
それはつまり、どんなに頑張っても不可能ってことじゃないか。だって、どんなに多く見積もっても、人間の寿命は百三十歳がせいぜいなのだから。
それともなにか? まずは自分の寿命を延ばす魔術を覚えることが、魔道士には最優先で、必要不可欠だとでもいうのか?
ほんのちょっとだけ、『これから』のことが頭の中から飛びだして、気づけば僕は、そう問いかけていた。
「確かに、延命の術を研究してる魔道士は多いよ。転生の研究をしてる魔道士もたくさんいるし。でも、どれもあまり現実的じゃない。確実なのは、自分の子供か弟子に、自分の研究を継がせること。ロスは生じるけど、それでも単純計算で百代も継がせれば『道』を開ける魔道士が完成するはず。……実際には、逆に遠ざかることもあると思うし、わずか数代で『道』を開く場合もあると思うけど」
「いや、それにしたって……」
正気じゃないだろう、それは。
魔道士の家に生まれたら、一生を魔術の研究だけにあてて生きていけっていうのか?
そこに個人の幸福は存在するのか?
いや、そもそも。
「子供に継がせるって言ったよね? 深山さんは義母さんに魔術を教えてもらえなかったらしいから別として、普通の魔道士の子供っていうのは、そのためだけに生きて、結婚して、子供を残すの? その人の恋愛感情とか、そういうものは全部、無視されるの?」
「それは……どうだろう、洗脳めいた教育を受けて、結婚とかの意義そのものが一般のそれとは違っちゃってる場合も多いって聞くし、魔術属性は遺伝しないけど、生まれつきの魔力量は遺伝で決まるところもあるから、より多い魔力量を持った子孫を残そうと、魔力量の多い魔道士同士が結婚することも、よくあるらしいし。――なにより、幸せの形って、本当に人それぞれだから……」
「それでもさ……!」
なんだか、とてもやりきれない。
生きるために魔術を学ぶのではなく、魔術を学ぶために生きるという、その、どこか歪んだ生き方が。
魔道士は誰だって性格破綻者。
いつだったか、そんな言葉を僕は聞いた。
ああ、なるほど。確かにそのとおりだ。
『道』とやらを開くために、好きでもない相手と結婚するだなんて。一昔前に流行った政略結婚じゃあるまいし。
そして、もし深山さんがそんな道を強制的に歩まされていたらと考えると、目の前が赤くなる。
過程の話なのに、それでもカッと頭の芯が熱くなるのが抑えられなかった。
そんな僕の頭に冷水を浴びせるかのように立てられる、深山さんの人差し指。
「話を戻すね。これは、ひとりの人間がどうこう言っても始まらない問題だから」
……まあ、それは確かにそうだ。
幸い、目の前の少女はそういった道を歩んでいない。歩まされていない。
とりあえずは、それをよしとして、納得するべきか。
人差し指を立てたまま、深山さんが続ける。
「さっき言ったように、わたしの知ってる希術は、全部で五つ。ひとつ目は、昨日の朝の話にも出てきた『記憶封印』。
これは人間個人の記憶に干渉し、そこから『世界の記録』――『アーカーシャー』に介入・操作して、そちら側から記憶を違和感なく封じる術。かけられた人が思いだしてしまう可能性はもちろんあるけど、その確率はとても低い」
「個人の記憶から世界にって……そんなことができるものなの? どう考えても、繋がってないような……」
「繋がってるの。この世界は、根底で、すべてのものが……すべてのものと。それに『アーカーシャー』の別名は、『創造主の頭脳』。『アーカーシャー』に干渉することは、創造主に辿りついたこととイコールになる」
完全に理解できたわけではないけれど、うなずいて続きをうながす僕。
「二つ目は『アカシック・プレーヤー』。これは『アーカーシャー』に接続して、そこにある記録を見る、主に未来予知として使われる術。もちろん、過去のことも見ることができるらしいけど。
ここまでの二つは、『本質の柱』に辿りついた『真理体得者』が使うもの。残りの三つは、それを使って『道』を開こうとしているにすぎないもの」
そこで彼女は一度立ちあがり、コーヒーを淹れるからと部屋を出て、階下へと降りていった。
まるで、意識的に昨日と同じことを繰り返しているかのよう。
やはり、彼女も落ちつかずにいるのだろうか。……まあ、外に出していないだけで、内心はドキドキしていたり、ビクビクしていたりするのが普通なんだけど。
少しして、コップを二つ持った彼女が戻ってくた。
片方を僕に渡し、ベッドに改めて腰かけて、話を続ける。
「三つ目は『熾天の門』。単純に言ってしまえば、過去や未来に行くことを可能とする術。でも最近、これで『異世界』とされるところにも行けることが判明し始めたの。聖教会で、そういう発表があったって、お母さんが」
「異世界に……。そういえば、その術のことは桜井と義母さんも何度か口にしてた。なんかゲームみたいな話だけど、本当にそんなところがあって、行けるものなんだ……。あ、一番簡単な術なんだっけ?」
確か、それっぽいことを義母さんが言ってたような。
コップの中の黒い液体を口に含みながら、深山さんはうなずく。
「うん。だからこそ、この術じゃ絶対に『本質の柱』には辿りつけないって言われてる。『門』ってつくぐらいだから、『行く』ってイメージには一番近いんじゃって、わたしは思ってるんだけど……。
四つ目は『新生の盟約』。術の効果はとても単純で、この世でさまよってる死者の霊を成仏させる。……たったそれだけの術なのに、いまのところは一番、『本質の柱』に辿りつける可能性の高い術なんだって」
「まあ、あの世とかは確かに、神の領域とかに近い感じはするけど……」
「――あ、そっか。そういう見かたもあるんだ……。術の効果があまりにも単純だから、それくらいのことは魔術でもできるんじゃないかって、そっちばかり考えてた、わたし……。
最後は、昨日の夜にもちょっとだけ話に出た『通心波』。『心を通わせる波動』って書く。これは術者が相手と精神を繋げて、相手の心を読み取り、また、相手に心を送り込むことで成立する通話術。遥か昔には、使える人が大勢居たって話を聞いたことがある」
そこまで語り終え、ひとつ、深山さんは息をついた。
そして、彼女が来るまえに出しておいた、折りたたみ式の小さな丸テーブルにコップを置いて、こちらに向きなおる。
「わたしの知っている希術は、この五つだけ。でも当然、希術は魔術属性の……ううん、人の数だけあって、わたしの知らないもののほうが多いんだと思う。……そして、きっと誰にだって、すぐに使うことのできる希術というものも、あるんだと思う」
とても、とても真剣に。
これこそが今日の本題なのだとでもいうように。
深山さんは正面から、僕の瞳に自分のそれを合わせてきた。
「もちろん希術と称せるほど、すごいものじゃない。ただ、わたしという人間が、勇気を振り絞って使うだけの、自分の想いを人の心に届けるだけの術。けれど、きっと人の心に届いてくれるはずの術……」
なかなか合うことのなかった、澄んだ綺麗な瞳。
それが、すぐ目の前にある。
吐息がかかりそうな、というほどではないけれど、それでも、とても近い距離。
学園で話をしているときには、絶対に近づけない……踏み込めない、心の距離。
それを、彼女のほうから縮めてきた。
そうして、彼女は。
「――どうか、想いが届きますように。からかいだと思われず、まっすぐに、伝わりますように……」
祈るようにそう呟き、彼女は。
「――あなたが、好きです……」
彼女は、その言葉を、発した。
「……今日こそは告白しよう、そう思って学園に行って、勇気が出せなくて、失敗することすらできなくて、毎日毎日、明日こそは告白しようって眠る前に決意しなおして。そうしているうちに、一緒に住むことになってしまって……。
もしかしたら、もう、なにもかも遅くなってしまったのかもしれないけど、それでも、ずっと前から、好きでした……」
その言葉を、もし、一緒に住むことになる前に言ってくれていたら、僕はどんな返事をしただろう。
無意味とわかっていながらも、そんなことを考えてしまう。
受け入れていたとしたら、きっと、一緒に住む段階になってから後悔することになったに違いない。
恋人と姉弟の関係になるだなんて、悪夢以外のなにものでもないと思うから。
なにより、この場における僕の返事は、もう、すでに決まっているわけで。
「……ごめん。告白されても、つき合うことはできない。こういう言い方は悪いとも思うけど、深山さんの気持ちは嬉しいよ。それは本当。けど、僕たちは姉弟だから。倫理上とか法律上とか、色々な問題が、あるわけだから……。
だから、ただつき合うだけであっても、それを受けることは……できない」
はっきりと、口にした。
それが、勇気を振り絞ってくれた少女に対する、せめてもの誠意だと思ったから。
深山さんのことは嫌いじゃない。それは事実だ。
好きか嫌いかの二択を迫られれば、迷いなく好きだと答えられる。
けれど、やっぱり無理なんだ。
僕の気持ちが『恋心』ではなく『好意』という言葉で表せてしまう、この段階では。
そして、もし仮に『恋心』にまで、僕の気持ちが育つことがあったとしても、僕たちは姉と弟で。
その気持ちは、絶対に封印していかなきゃいけないものなわけで。
もしかしたら、この選択をしたことを後悔する日も、くるのかもしれない。
僕の気持ちが膨らんでしまい、抑えられなくなってしまっても抑えなきゃいけない状態になって。
そのときになって初めて、あのとき受け入れていれば、なんて思う日が、くるのかもしれない。
だったら二人で手を取り合って、いつか必ずくる障害を乗り越えようとしてみるのもいいかもしれない、なんて考えたりもした。
でも、ひとつだけ言えることは、『かもしれない』ばかりじゃ答えは出せないってことだ。
僕は情けない人間だから、二つある『いつかくる日』を想定して、秤にかけて答えを出すなんてことはできなかった。
世間一般の価値観や倫理観、一般常識に則って行動を選択することしかできなかった。
だって、想像した二つの未来には、どちらにも耐えがたい苦痛が待っていると思えたから。
馬鹿な話だ。
僕はさっき、魔道士の子供が洗脳にも近い教育を受けて育つことに憤った。
でも、倫理観や一般常識のみを鵜呑みにしてこの選択をした僕はどうだ?
これだって、一種の洗脳だといえるんじゃないのか?
つき合ってみてから決める、なんて当たり前のことができたら、どんなに幸せだっただろう。
まずは友達から始めてみよう、なんて言えたら、どんなに楽だっただろう。
でも僕たちは、すでに友達以上の関係にあって。
家族という……義理の姉弟という関係にあって。
そんな言葉は、とうに言えない間柄になってしまっていて。
どうして同居が決まる前に告白してくれなかったんだ、なんて身勝手なことは言わない。
いま以上の辛い気持ちを味わうことになっていたに決まっているし、なにより、それは深山さんが振り絞った勇気を否定する言葉だからだ。
でも、僕のいまの返答も、やっぱり彼女の勇気を否定する言葉なわけで……。
僕の返事は予想できていたのだろう、深山さんは身をすくませることも、瞳を逸らすこともせず、なぜか悪戯めいた笑みを浮かべ。
「理由を、教えてもらえないかな? どうしてダメなのか。……倫理とか姉弟とか、そういう言葉を使わないで」
「――えっ……?」
思わず目を見開いてから、理解する。
そうか、そういう言い訳じみた言葉も、彼女の勇気を冒涜することになるんだ、と。
でも正直、困った。
僕が彼女の告白を断る理由は、正直、それくらいしかなかったのだから。
自分が本気で好きになった人としかつき合わない。
僕はそこまでお固い価値観を持ってはいない。
性格の不一致というのが起こりうる可能性は絶対にあるのだし、それはつき合ってみないとわからないと思うからだ。
だから、倫理だの姉弟だのといったことを抜きにすれば、深山さんとつき合うのは充分にアリだといえた。
けれど、そんな前提条件は意味を成さない。
事実として、僕と彼女は姉弟なのだから。
だから、たとえ嘘であっても、彼女とつき合えない理由を探して、答えないと。
心にもないことであっても、それがお互いのためになる。そのはずなのだから。
しかし、僕の口は動かない。どうやっても動かせない。
颯爽としていて格好いいと思っていた少女だった。
密かに憧れていた少女だった。
クラスの誰も、彼女のいいところに気がついていない、そんなことに優越感を抱くことすらあったんだ。
そんな彼女が、僕に告白してくれている。
困ったことに、僕はその事実を『嬉しい』と感じてしまってもいるらしい。
だから、僕の口は動かない。
言い訳じみた言葉しか紡げない。
そして、それを封じられてしまったら、僕に残された選択肢は沈黙しか存在しない。
ずっと黙ったままでいる僕に、彼女が笑みを深める。
「……よかった。それだったら、まだ望みはある」
そして、決定的な、僕の背を押すような、助け舟となる一言。
「ちなみにね、血が繋がっていない『きょうだい』は、たとえどんなケースであっても、結婚できるんだって。……昨夜、ネットで調べたの。おかげで、寝不足になっちゃったけど。だから、あとは堀口くんの……ううん、わたしたちの気持ちの、問題……」
それでも、僕に返せるのは沈黙のみ。
そこまで調べてから、今日このときに臨んでくれたのは、素直に嬉しいと思ったけれど。
なにかを勘違いでもしたのか、少しだけ焦ったように深山さんが続けてくる。
「……あ、もちろん、だから結婚を前提にって話じゃ、ないよ? ただ、つき合うかどうかは、個人の意思に委ねられてるってことを伝えたかっただけ。法律とか倫理とか、そういうのに邪魔されることはないってことを、知ってほしかっただけ。
……昼間にも言ったけど、わたしたちはもう、子供じゃないんだよ? 一緒に住むようになって、姉弟になったとはいっても、同居生活は今日でまだ三日目。それで世間一般の姉弟と同じように接しろって言ったって、そんなの無理だってこと、周りの人たちだってわかってるはずだよ。もちろん、お義父さんやお母さんも……」
「そう、かな……?」
「うん、きっと……。もちろん、最初は驚くと思うし、できるだけ内緒にしたほうがいいのかもしれないけど。でも、お母さんだったら『一番悩んで痛い思いをした当人たちが、決めるべきだ。文句を言う権利なんて、痛みを知らない人間にはない』って言ってくれると思う」
なんて男前なセリフだろう。
でも確かに、義母さんならそう言っても不思議じゃない。
「それで……どうかな? わたしじゃ、ダメ……?」
さすがに縮こまって、僕を見上げるようにする深山さん。
自然、瞳は上目遣いに。
それに僕が何度、ドキドキさせられたかを、知りもしないで……。
「――あっ……」
気がつけば、僕は彼女を抱きしめていた。
あまり、力は入れずに。
彼女が拒絶するようだったら、逃れられるように。
けれど、深山さんは拒むことはせず、そっと僕の背に腕を回してきてくれた。
ホッとして僕は言葉を紡ぐ。
「……僕のいまの気持ちは、きっと『恋』じゃなくて、『好意』止まりなんだと思う。それでもいいって、深山さんが言ってくれるのなら……」
「……うん、それでいいよ。わたしだって、去年のいまごろから『好意』を温めていって、それが『恋』になったんだから……」
「そっか。じゃあ……」
ぎゅっと、少しだけ力を込める。
深山さんの腕にも、力が篭もる。
それが、お互いの返事。
言葉ではなく行動で示す、返事。
やがて、深山さんが満たされたように呟く。
「……よかったぁ。手遅れにならなくて、本当に、よかったぁ……」
「手遅れ……?」
「……うん。昨日、堀口くんに『姉さん』って、呼ばれたでしょ?」
「ああ、うん。あのことは、本当、ごめん……」
僕の謝罪に、ふるふると深山さんは首を横に振って。
「堀口くんが謝ることはないよ。本当なら、それが自然なことなんだから。……でも、わたしにとっては、なによりも聞きたくない言葉だった。堀口くんに『嫌いだ』って言われるのと、一、二を争うくらいに、聞きたくない言葉だった」
「……なんか、ますますごめん」
思わず謝ってしまう僕に、彼女は「ふふっ」と心底、楽しそうに笑って、
「そう呼ばれて、手遅れになっちゃうって、わたし、思ったんだ。でも部屋に戻ってから、まだなにも伝えてないんだって思いなおして。そして『明日こそは』って思う日々に終止符を打とうって、そう、決めたの」
僕に抱きしめられたまま、深山さんは静かに言葉を紡ぐ。
「わたし、よくノートに名前を書いてた。『綾』って名前を書いて、その上に『堀口』って書いて、それで、幸せな気持ちに浸ってた。一年近くも続くと、それが日課みたいになっちゃってた。
……でも、お母さんから再婚の話を聞かされて、一緒に住むのが堀口くんだってわかって、『堀口綾』が自分の望まない形で現実になるって知って……。目の前が、真っ暗になったよ。『堀口綾』という名前になることが、こんな絶望に繋がるなんて、予想もできなかったから……」
ああ、なるほど。
確かにそれは、絶望だろう。
繋がりたい相手がいる。
繋がれない相手がいる。
その相手とようやく繋がれると思ったら、本当に望む形では、永遠に繋がることができなくなってしまうかも、だなんて。
「だから、いまはとっても嬉しいの。ようやく想いが通じて、叶うはずのない願いが、叶ったんだから……」
僕なんかとつき合うことが『叶うはずのない願い』だなんて、ささやかだなぁ、と思う。
けれど、いまの環境を考えれば、確かにそれは『叶うはずのない願い』だったのだろう。
事実、僕は自分たちを取り巻く環境を理由に、一度、彼女の告白を断ったのだから。
この想いが、これからどうなっていくのかはわからない。
最初に危惧していたとおり、もっと強いものに……『恋心』に変わっていってくれるのかもしれない。
逆に、性格が合わないとか、相性が悪いとか、わかりたくなくても、そういうのがわかってしまうのかもしれない。
けれど、たとえどうなるとしても、いまは。
いまは、こうして『恋人』としての二人でいたい。
いつまでも、抱きしめあっていたい。
いまは心から、そう思えた――。
ようやく告白、両想いの状態になるところまで書くことができました!
いままでは最後の最後で両想いになるようなプロットばかり作っていたため、こういうシーンを書くのは、実質、初めてのようなものだったり。
ここから先は、イチャイチャをメインに進めていきたいところです!