第二話 同居人と裸で遭遇
ゴトンゴトンと大きな音がする。
音を発しているのは、脱衣所に置かれている洗濯機だ。
もうそろそろ買い替えどきなのかなぁ、なんて思ったりもするけれど、この音に愛着を持っている自分も確かにいたり。
なんというか、落ちつくのだ。初めてこの音を聞いたときは、すわ壊れる前兆か、とも思ったけれど、あれから半年経った現在でも洗濯機は変わらず、一生懸命僕たちのために働いてくれている。
そんなわけで、こんなやかましい音も、僕にとってはすっかり日常のものになっていた。
いや、もはやお風呂に入るときには、なくてはならないものと化しつつあったりして。
そんなとめどもないことをぼんやりと考えながら、僕は風呂場のタイルの上で立ち尽くしていた。
風呂場は真っ暗。僕は裸。もちろん眼鏡だってかけてない。
うすぼんやりとした視界の中、僕はどこを見るでもなく、ただただ、ぼーっと虚空を見つめていた。
空間を満たすのは洗濯機の出す大きな音のみ。換気扇は止めてある。換気は大事だから、シャワーを浴びたり湯船に浸かったりするときには、当然つけることにしているけど、いまこのときに使うのは無粋というもの。
……いやまあ、自分でもなにを言っているのかよくわからなくなってきたけど、まとめてしまえば、これは僕の趣味なのだ。
風呂場の電気を消し、換気扇も止め、洗濯機の音をBGMに、なにをするでもなく立ち尽くす。変わっていると自分でも思うけど、この瞬間が本当に好きなのだから仕方ない。
きっかけは、換気扇を止めると声にエコーがかかっているのを強く実感できることにあった。
まるでそれに、温泉にでも来たかのような錯覚を覚え、どうせならと電気も消してみた。
それがなんとなく心地よくて、癖になってしまったのだ。
半年前、この静寂に洗濯機の音が加わったときには、正直うるさく感じたりしたものの、人間の慣れというものは恐ろしい。いまではその音も含めて、この時間が大好きになっているのだから。
僕は昔から、ぼんやりするのが好きだった。
なぜと問われると困るのだけど、いまだって、教室であらぬほうを見つめてぼんやりしていることが、よくあったりする。
別に、なにか考え事をしているわけじゃない。
悩み事があるわけでも、もちろんない。
黄昏てる自分が格好いい、なんて思ったことも一度もない。
ただ、そうするのが好きだから、僕はそうしているだけなのだ。あるいは、気づけばそうしている、といったほうが正しいのかもしれないけれど。
そもそも、趣味ってそういうものじゃない?
ガチャリ、と扉が開いた音がし、脱衣所の電気がついた。
文句を言うつもりは、別にない。
この家は脱衣所に洗面所があり、そこに洗濯機も置いてあるから、父さんあたりが洗濯機の様子を見にきたか、あるいは誰かが手でも洗いにきたのだろう。まあ、用が済んだらちゃんと電気を消していってほしいけどね。
ちらり、と横目で脱衣所の様子をうかがう。
擦りガラス越しに見えるのは、小柄な人影。
父さんは細いのに背は高いほうだから、あれは義母さんか深山さんのどちらかか。
一応、声のひとつもかけておいたほうがいいのかな。なんか、一向に出ていく気配がないし。
ああ、でもなんの用もないのに声をかけるのも変か? 最悪、僕が入っているのに気づいていない可能性もあるわけだから、驚かせてしまうかもしれないわけだし。
いやでも、家族ならそんなこと気にすることは……ん? 待てよ? 『僕が入っているのに気づいていない可能性もある』……?
そこまで考えたところで、再度、ガチャリと扉が開く音。
しかしそれは、そこにいた誰かが脱衣所から出た音ではなかった。
そう、出たのとはまったく逆で……。
「…………」
「…………」
目の前には、バスタオルで前を隠したまま立ち尽くしている、それでも肌色の面積が多い深山さんの姿。
そして、そちらに身体を向けた僕は、もちろん全裸。どこを隠すでもなく、呆然と立ち尽くしてしまった。
風呂場に落ちるのは沈黙。ゴトンゴトンという、洗濯機の大きな音だけが耳に遠く聞こえている。
彼女がつけたのであろう脱衣所の明かりが、彼女の肌に綺麗な陰影を作っていた。
いや、もちろん眼鏡を外しているから、ぼんやりとしか見えないのだけれど。それでも、こう至近距離だと……。
「――あっ……」
先に口を動かしたのは、深山さんのほうだった。
頬を赤く染めた彼女のその呟きで、僕もようやく我に返る。
「――っと、あー……」
「そ、その……誰も入ってないと、思って……。……ご、ごめんなさい……!」
絞りだすようにそう言って、彼女は長い黒髪をひるがえし、バタンと扉を閉めた。うわ、髪の隙間からわずかに見える白い背中が、なんかこう、逆に艶かしいというか、なんというか……。
風呂場にいる僕にもわかるくらいのあわただしさで服を身につけ、今度こそ脱衣所から出ていく深山さん。
……電気、消していってくれなかったな、なんてことを、頭の冷静な部分が考える。
「……いや、それよりも、だ」
お互い裸の状態で、風呂でバッタリ遭遇って……。初日からこのハプニングは、いくらなんでも刺激が強すぎだろう。
まあ、あまりにも突然のことで、下半身が反応する余裕もなかったのが、せめてもの救いだったか?
それにしてもなぜだろう、被害者は間違いなく僕のほうなのに、加害者になった気分が、どうしても拭えない。
実際、男のそれなんて減るもんじゃないからなぁ……。
しかし、いま優先して考えるべきことは、他にあった。
「このあと二人きりで話すことになってるってのに、いまので気まずい雰囲気に拍車がかかっちゃったんじゃ……?」
荷物を部屋に運び入れる過程で少しだけ距離が縮まったと思っていたのに、どうもふりだしに戻っちゃった感じですよ? これ。
う~ん、本当、どうしたものか……。
深山さん、あとでちゃんと僕の部屋に来てくれるのかなぁ。
言いだしっぺは彼女だけど、今日、家に来てからの深山さんを見ていると、そんな図太い神経を持っているとはどうにも思えない。
学園での性格そのままの深山さんなら、顔色ひとつ変えずに平然とやってきそうなのだけれど。
「……とりあえず、これからは風呂、ちゃんと電気も換気扇もつけて入ることにしよう」
意味もなく呟きながら、僕はさっそく電気と換気扇をつけに一度、風呂場から出るのだった。あ、もちろん、人がいないことは確認したうえで、だ。
今度は義母さんとバッタリ遭遇、なんてことになったら目も当てられないからね……。
自室に戻り、まだ目を通していなかった新刊のライトノベルを手にベッドに横たわってから、一時間ほどが過ぎていた。
時刻はすでに午後十一時。
家族とはいえ年頃の男女が、個室という一種の密室空間で話をするには、少しばかり問題のある時間帯だ。今日から家族になったばかりの僕たちであれば、なおのこと。
風呂から出て、僕はまずリビングに足を運んでみた。
果たして、深山さんはそこの端っこに置いてあるやや小さめのソファに座っていて、入り口――僕が入ってきたところをじっと見ていたようで、リビングに入ると同時、いきなりバッチリと目が合ってしまい、こっちも困惑してしまったものだ。
当然、深山さんはすぐに視線を逸らし、僕の横を抜けて再度お風呂に向かっていった。
嫌われた、かどうかはわからない。
彼女が僕と目を合わせようとしないのは、さっきからずっとのことだったし、キツく睨まれたわけでも、気持ち悪いものを見るような目を向けられたわけでもなかったからだ。……まあ、気まずそうに頬を赤らめながらうつむいてて、どこか落ちつかない様子ではあったけれど。
でも、それも無理からぬこと。
彼女は母子家庭で育っており、きっと、男の――それも自分と同い年の男子の裸なんて見たのは、初めてだっただろうから。
というか、彼女の目には気持ち悪く映っただろうな、男のアレ……。
……小説の内容が全然頭に入ってこない。
深山さんはもう、お風呂から上がったのか。それともまだ入っているのか。
上がったとしたら、真っ先に僕の部屋にくるものなのか、あるいは気まずくて、今日は来たくてもこれない状態になっているのか。
もし後者だとしたら、僕から会いにいって侘びをいれるべきなのだろうか。いやでも、一応の被害者は僕であるわけだし……。
そんなことばかり考えてしまって、本にまったく集中できない。
そもそも、女の子ってどれくらいの時間、お風呂に入るものなんだ?
ラノベをベッドの上に放りだす。
一般的な女性の入浴時間の平均、調べてみるか? 幸い、ノートパソコンなら僕の部屋にあるし。
そんな末期な思考まで、頭には浮かんでくる始末。
と、そのときだった。
――コン、コン。
遠慮がちにされる、ノックの音。
うん、今日家で見た限りの深山さんなら、きっとこんな控えめなノックをするだろうって思ってた。
僕はひとつ、ごくりと唾を飲み込んで。
「――ど、どうぞー……」
ちょっとだけ小さな声で、扉の向こうに返事をした。
おそるおそる、といったふうに開けられる扉。
「ぉ……、お邪魔、します……」
消え入りそうな呟きと共に、うつむき加減のまま彼女は僕の部屋に入ってきた。
少し頭を上げたときに、長い黒髪がさらりと揺れる。そこから漂ってくるのは、女の子特有のいい匂い。
シャンプーやボディーソープはまったく同じものを使っているはずなのに、どうしてこうも違う香りが漂ってくるのだろうか。
「……あ、深山さん、もしあれなら、扉、開けたままにしておいてもいいから」
彼女を怯えさせないように、そんなことを言ってみる。
けれど、深山さんは首を横にふるふると振って、
「だ、大丈夫……。それに、これから話すことは、あまり他の人に聞かれたくないから、わたしとしても扉は閉めておきたいし……」
「そ、そう? でも他の人っていってもこの家、僕たち以外には、父さんと深山さんのお母さんしかいないよ?」
「そのお母さんにこそ、隠しておきたいことだから……」
……どちらを隠しておきたいのだろう?
彼女の性格が、学園でのそれとあまりに違うこと?
それとも、僕とお風呂でバッタリ遭遇してしまったこと?
まあ、僕の部屋に来ること自体は、お風呂で対面してしまう前から決まっていたことだから、おそらくは前者なのだろうけど。
深山さんは所在なさげに立ち尽くし、僕の部屋をきょろきょろと見回していた。
あ、とりあえず座るところを用意してあげないといけないか。
僕はベッドから立ち上がって、
「深山さん、ここ座って。僕は床に直接座ればいいから」
彼女を見上げる形で話をすることになるけど、いまの彼女は上下共に白のパジャマ姿。中を覗くような勘違いはされないはず。
だけど彼女は、再び首を横に振ってきた。
「そ、そんな悪いよ……。ここ、堀口くんの部屋なんだから、わたしが床に座る……」
「う、う~ん……、いっても深山さんはお客さまなんだけどなぁ、この場においては。なのに僕がベッドの上で、深山さんは床っていうのは、ちょっと……」
「……そ、そう? じゃあ……」
ちらちらとベッドの、僕の座っていたあたりに目を向ける深山さん。……これは、言ってしまってもいいものなのだろうか?
彼女もそれを望んでる、と思うのは勘違いはなはだしいと思うけど、この提案が一番自然かつ、場を上手く収める方法な気もするし……。
うん、断りづらくならないよう、軽めに提案してみるか。
「だったら、ここ……僕の隣、座る? あまり大きくはないベッドだけど、二人並んで腰かけるくらいのスペースはあるし」
ベッドに座りなおしながらそう言って、顔から火が出そうな心持ちになる。
ラノベとかで主人公が当たり前のように言ってるセリフだけど、現実に女の子相手に言うとなると、なかなかに緊張するんだな、これ。
主人公のようにモテモテになりたいと思うなら、まずはこれを自然に言えるようにならなければダメってことか。……でもまあ、僕もそこそこ上手くは言えたよね?
それを証明するかのように、
「……! う、うん……っ!」
深山さんは一度、目を大きく見開いてから、大きくうなずき僕の隣に腰かけてきてくれた。
横目で様子をうかがってみると、彼女の顔には、それとはっきりわかるくらいの満面の笑み。……もちろん、変わらずうつむいたままではあるのだけど。
距離が近くなったものだから、自然と彼女の香りが強くなる。
……いけないいけない。なにドキドキしてるんだ。今日からとはいえ、彼女は僕の義理の姉だぞ。
そう自分を戒めながら、胸が高鳴っていることを悟られないよう、僕は少し早口で本題に入った。
「あのさ、さっきはごめん。僕、普段から電気も換気扇もつけずに風呂に入ってるんだけど、それで勘違いさせちゃったみたいだ……」
……って、あれ? これは本題じゃないか?
いやでも、これだって話しておかなきゃいけない大事なことだ。
僕の言葉に、深山さんの顔が真っ赤に染まる。
「あ、そ、それは……こっちこそ、ごめんなさい……。よく、確認せずに入ったから……。中に人がいることに気がつかないなんて、きっとすごく浮かれてた……じゃない、緊張してたんだと思う……」
はて? 彼女いま、なんかすごく聞き捨てならないことを言わなかったか……?
しかし、それを追及しようとする前に、彼女が顔をこちらに向けてきた。気のせいか、瞳が少し潤んでいるような?
「その、謝っても許してもらえないかもしれないけど、ごめんなさい……」
「い、いやいや、深山さんが思ってるほど気にはしてないから。うん、本当になんとも思ってないからさ。……というか、誠心誠意、心を込めて謝るのは僕のほうでしょ、この場合」
「そ……そう、なのかな……?」
「うん、絶対そう。眼鏡してなかったから、ぼんやりとしか見えなかったけど、それでも乙女の柔肌ってやつを見ちゃったわけなんだから。……本当にごめん!」
バッと勢いよく頭を下げる。
「そ、そんな……。ほ、堀口くん、頭上げて……。あれは気がつかなかったわたしだって悪かったんだから……」
「いや、それでも! というか、見ちゃったほうばかりに気をとられて、こっちを謝るのを忘れてたけど、なんか、気分の悪い思いもさせちゃって、そのこともごめん!」
「え、えっと……? 気分の、悪い……?」
「ほら、深山さんのところは母子家庭で、男の……その、アレを見たことなんて、なかったでしょ? 下手したら、吐くくらい気持ち悪くなっちゃったんじゃないかって……」
その言葉に、ぶんぶん、と深山さんは強く首を横に振った。
「そ、そんなこと……っ! 確かに、目に焼きついちゃって、余計に堀口くんの顔が見づらくはなっちゃったけど、別に気分悪くなんて、その、なってないから。本当に……っ!」
目を泳がせながら、そう言ってきてくれる。
気を遣ってくれてるのだろうか。それとも本心? まあ、どちらにせよ、僕の罪のほうが重いことに変わりはないわけだけど。
「本当、びっくりはしちゃったけど、別にショックとかは、その、受けてないから……。むしろ、ぽーっとして、つい、まじまじと……」
むむ、なんかこのままだと埒が明かないような気がしてきた。
頭を上げて、僕はひとつ提案を。
「じゃあさ、ここはひとつ、お互い悪かった、おあいこってことで水に流さない?」
そのほうがきっと幸せだ。男性の裸と女性の裸、それが同じ価値だとは微塵も思っていない僕としては、もちろん、虫のいい話だと思うのだけど。
でも深山さんなら、それで納得してくれる気がした……のだが、なぜか、彼女のほうは不服そうな顔。あ、いや、なぜかって言ったらおかしいか。不服そうで当然だ。
深山さんは再びうつむき、ぽそりと呟く。
「おあいこ、でいいのかな……。わたしは堀口くんの、その……全部、それもまじまじと見ちゃったわけで、でもわたしのほうは、たまたまバスタオルで前は隠してたし、堀口くん自身も眼鏡外してて、ぼんやりとしか見えてなかったはずなのに……」
え、不服に思ってるのって、そこなの!?
これは困った。僕は当然、自分のほうが悪いことをしたと思っているのだけれど、彼女のほうもそう思ってしまっているようだ。
おまけに深山さん、どうもお互いの裸を等価値と認識してしまっているらしい。
だから面積的に考えて、悪いのは自分のほうだ、と。
そりゃ、女の子に裸を見られるのは男にとってご褒美だ、なんてことを言うつもりはないけれど、それでも、そこを等価値にしちゃダメだろうとも思う僕。
さてさて、どちらかが折れないと、この場は収まりがつかない。だというのに、こういう頑固で強情なところは学園での彼女そのままだ。どうやら、これはどちらにも共通した『素』であるらしい。
「ほ、堀口、くん……」
「な、なに……?」
しっかりと目を合わせることこそしてこないものの、なにかを覚悟した瞳でこちらに顔を向けてくる深山さん。
「もし、こうすれば埋め合わせになるってことがあれば、遠慮なく言ってほしい……。た、たとえば、彼女になれって、言われたら……なるし……」
どんどんと声が小さくなっていく。
いや、それよりも、だ。
「間違ってもそんなことは言わないよ!? 女の子の弱味につけ込んでなにかさせようなんて、本当、思わないから!」
あまつさえ、それで脅してつきあってもらおう、だなんて!
彼女は僕を一体、なんだと思っているのか。
「そ、そう……」
いやいやいやいや、なんでそこで残念そうな表情をするかなぁ。
あー、けど、そういうのを落としどころにするのもアリなのか。……ふむ。
「――あ、じゃあさ」
僕が口を開くやいなや、ビクッと肩を震わせる深山さん。
ああもう、そんな反応するんなら、なんでああいうこと言うかなぁ。
まあ、この場でなにかを要求しようってわけじゃないから、そのまま続けさせてもらうけど。
「深山さんが僕に借りひとつってことで、どうかな? なにか頼みたいことができたら、そのときは力になってくれるっていうことで」
まあ、僕はいまだに自分のほうが重罪だって思ってるから、釈然としない提案ではあるのだけれど。
彼女は落胆とも安堵ともつかない、なんとも微妙な表情を浮かべて、けれど、ようやく首を縦に振ってくれた。
「……うん。じゃあ、それで」
もちろん、この『借り』を理由に彼女になにかをしてもらおうなんて、僕は微塵も思ってないわけだけどね。
でも、これでひとまずは片づいたはず。
明日も学校はあるのだから、早く本題に入らないと。そして寝ないと。
「ところで深山さん、その、学園にいるときとはあまりに違う、その性格についてなんだけど……」
「あ、うん。そうだよね、それが本題だったよね……。えっと、ね。わたしは、魔道士なの」
「いやあの、ごめん。それ、答えになってない」
「ご、ごめんなさい……。でも、最後まで聞いてくれれば、きっと納得してもらえると思うから……」
「そっか。うん、わかった。あまり口挟まないようにするから、続けて」
「うん。――それで、わたしのお母さんももちろん魔道士で、その娘であるわたしも魔道士。……私の場合は、魔道士になろうとしている、といったほうが正確なのかもしれないけど」
うなずきを返し、目で続きを促す。
「魔道士っていうのは、『本質の柱』を追い求め、それに続く『道』を探す者のこと。『道』を開く方法を探している者の、総称」
そういえば、荷物を運び入れるときに深山さんは言っていた。魔術を使えるようになることが、魔道士の目的なんじゃない、みたいなことを。
「そして魔道士は、その『道』を開くために、どんなものでも利用し、犠牲にする。そう、それは肉親であっても変わらない」
深山さんの声に力が篭もってきた。一瞬、学園にいるときの彼女とその姿が被る。
「魔道士っていうのは、自分のために生きる者。自分のためだけにしか、生きられない者。他の人のことを考えるような魔道士は、基本、存在しない。……だって、そんな余計なこと考えてたら、足を引っ張られちゃうから」
すうっと、ひとつ大きく息を吸い込み、彼女は続ける。
「魔道士は弟子をとる。それは、自分の成したことを継がせるため。もちろん、それには魔道士の息子や娘も含まれる」
そこで深山さんは「でもね」と寂しげに微笑んだ。
その微笑みを、僕は今日、確かに見たような気がする。
「わたしは、お母さんに魔術を教えてもらえなかった。家には魔術の教本がたくさんあったから、それを元にそれなりの修行はしてきたけど、しょせんはそれなりでしかない。……そういった意味で、わたしはお母さんに『娘』として扱われてないといえるの……」
そうだ、これも荷物運びのとき。
『うん。お母さんも使える。それも、わたしより力量はずっと上……』
あのときだ。
上手く言葉にはできないけど、あのとき寂しげな表情を見せた彼女の気持ちが、いまならなんとなくわかるような気がした。
「……あ、ちょっと余計なこと話しちゃったね。ごめんなさい。――魔道士はね、いつだって、冷徹なくらい冷静でいられないといけない。……お母さんを見て、わたしはそう思ったの」
あの愛さんが、冷徹なくらいに冷静?
ちょっと想像がつかない。あんなに感情の起伏が激しくて、明るい人が?
あ、でも激怒したりは、一度もしていなかったか。そういうのも冷静っていえるのかな。
「でも、こんな性格のわたしが家でいきなり態度を変えるのは、あまりにも不自然。そう思って……」
「学園でだけ、性格を変えようと?」
「うん。冷静で冷徹な、仮面を被ることにしたの。魔道士になって、お母さんに認めてもらうために……」
「でも、『素』をあそこまで隠しきれるものなの? ……あ、いや、実際にやってるんだから、できるわけがないって言いたいんじゃなくて、僕だったらできそうにないなって……」
「それは……魔術を使ってるから。暗示をかけて、自己を変革させる類の魔術。どんなときだって、一言『開放言語』を発することで、わたしは『冷徹な深山綾』になることができる。……あ、もうしばらくしたら『堀口綾』って名乗るようになるわけだけど」
そんな魔術があるのか……。
ともあれ、その暗示は学園を出ると同時に解ける。いまの彼女をみるに、おそらくはそうなのだろう。
「でも、そこまでして冷たくあることにこだわらなくても……。本人を目の前にしてこう言うのはなんだけど、深山さん、学園で孤立してるよ?」
「わかってる。でも、それでいい。……だって、それが自分で望んだ『わたしの在り方』なんだから。魔道士は、孤立しながら群れるもの。他人との慣れ合いは、できるだけしないものなの」
孤立しながら群れるって、また矛盾したことを……。
「それに、お母さんに認められることだけがわたしの目的ってわけじゃない。わたしにも、探し求めているものはある」
そう口にする彼女の瞳には、強い意志の輝き。
「『愛の真理』。わたしは、それを知りたい。すべての他人を信じられなくなる前に、不信に押し潰されてしまう前に、わたしは、それに辿りつきたいの」
「どうすれば、辿りつけるの? その方法を深山さんは、ちゃんと知ってるの?」
「……どうだろう。そう問われると、返答に困るものがある……」
眉根を寄せ、本当に困ったように彼女は呟く。
「やるしかないっていうのが、本当のところなのかも。きっと、魔道士は誰だってそうだよ」
「じゃあ、それを僕が手伝うことは、できないかな?」
なぜだろう、気がついたら、そんな言葉が口をついて出ていた。
「それは……その気持ちは、嬉しいけど。なにかをしてくれるっていうなら、学園でいままでどおり、あまりわたしのことを気にかけないでいてくれるのが、一番助かる……かな」
「いままでどおり?」
「うん、いままでどおり。思いだしたようにちょっとだけ話しかけてくれる、友達以下の関係性。わたしは、それを心地よく感じていたから。……もちろん、不満もあったけど」
「不満って、どういうところが?」
「……話しかけてきてくれること、それ自体が。たまに、わたしの『素』が出そうになっちゃってたから。……うん、そういう意味では、学園では一切話しかけないでいてくれるほうが一番いいのかも。話自体は、こうして家でできるようになったんだし」
「まあ、それは確かに……」
けれど、あまりにも踏み込めるところが少なすぎる。
「あのさ、もしも僕が魔術を教えてって言うようなら、その過程で深山さんの事情とか、もっと色々と話してもらえるようになるのかな?」
「……ごめんなさい。その問いには、答えられない。だって、わたしには弟子をとるつもりも、とれるだけの知識もないから……。なにより、堀口くんとはそういう、上下関係を作りたくない……」
「上下関係って……。それを言ったら、深山さんは戸籍上、僕の姉になるんだよ? 今日から、ではあるけどさ」
「そうだけど……。それ、あまり話題に出してほしくないな。わたしにとって一番、愉快じゃないことだから……」
「そ、そっか、ごめん……」
頭を下げる。
理由はわからないけど、気分を害してしまったことは事実のようだったから。
けれど、深山さんはやわらかく笑って許してくれる。ちょっとだけ、頬を赤くして。
「ううん、これはわたしの心の問題だから。堀口くんが悪いわけじゃ、ないよ」
その表情に、鼓動が高鳴る。
それをごまかすように、僕は別の話を振った。
「そ、そういえば夕食の席でさ、魔道学会って単語が出てきてたよね? それって、なんなの? なんかの組織の名前っぽいことはわかるけど」
「うん、魔道士が属する組織の名前。でも、それ以上のことはあんまり明かせない。一般人である堀口くんにわたしから言えるのは、お母さんもそこに所属してるってことくらいかな……」
明かせる限りのことを明かすことで、それ以上踏み込ませまいとしてくる深山さん。
それにしても、『一般人である堀口くんには』ときたか。
「そっか。……あ、当然、深山さんも愛さんもたくさんの魔術が使えるんだよね? たとえば、どういうのが使えるの?」
「ごめんなさい。一般人相手には、それも言えないの。ううん、仮に堀口くんが魔道士であっても、弟子以外の人間に手の内を軽々しく明かすような魔道士は、魔道士失格だから……」
その言葉に、僕は……。
「そっか……。秘密主義、なんだね……」
僕は……。
「うん、それが魔道士の――ううん、裏側の人間の、一番共通した特徴。この人なら絶対に大丈夫っていう『同類』にしか、深いことは話さないの」
僕は、『悔しい』って……。
「これからも、こういうはぐらし方で不快にさせちゃうこと、あると思う。前もってそう言っておくことで許されようなんて思ってないけど、それでも、これで納得してくれると、嬉しい……」
『悔しい』って、僕は、そう思ったんだ……。
「……それは、『嬉しい』んじゃない。ただ『助かる』ってだけだよ……」
気づけば、そんな否定的な言葉を、僕は彼女に叩きつけてしまっていた。
深山さんはそれに目を伏せてしまう。
「そう、かもね……」
寂しげに微笑む彼女。
……目の前の少女に踏み込む方法が、僕にはひとつだけある。
それはきっと、僕にとっての反則技で、でも、深山さんはそう思っていない、ただひとつの、最強のカード。
僕の……切り札。
「……深山さん」
使うつもりなんて、最初からなかった。
だから、そのカードをここで失うことに、痛手なんてなにもない。
胸にあるのは、彼女を困らせることに対する、罪悪感だけ。
でも、それを払うだけで、彼女の中に踏み込めるというのなら。
僕は、喜んで受け入れよう。
その、痛みを……。
「さっきの借り、憶えてるよね? 頼みたいことができたら、そのときは力になってくれるって」
「……うん」
「できたよ、頼みたいこと。――深山さん、弟子にしてほしいとは言わない。ただ、僕にほんのちょっとだけ、魔術のことを教えてほしい。魔術を使えるようになってみたいから、ちょっとだけ、僕に手ほどきしてほしい」
口調は、あくまでも穏やかに。
絶対に、命令してるようにはならないように。
そして、本当に嫌だったら拒否できるよう、あくまでも『お願い』で留めるように。
だって、やっぱり彼女に『命令』なんて、できないから。
深山さんは、どこか諦めたようにため息をついた。
まるで、この頼みをしてくるって、ずっと前からわかっていたかのような反応。
「魔術に興味を持ってるのはわかってたから、いつかは言われるだろうなって思ってたよ。……うん、しょうがない。なんでもするって言った以上、しょうがないから」
あ、あれ? さすがに『なんでもする』とまでは言わせてないはずなんだけど?
いつの間にか、彼女の中ではそういうことになってしまっていたのかな……?
そんなことを思いながら、けれど僕はほっとしていた。
断られなかったことも、そうだけど。
彼女が、思ったよりも清々しいような、どこか安心したような口調で、ネガティブな言葉であるはずの『しょうがない』を繰り返してくれたから。
「でも、堀口くんが言ったように、弟子にするわけじゃないからね? わたしたちの関係性は、あくまで対等」
「もちろん。それは、僕も望むところ」
そう言って、二人で笑い合う。僕は「ははっ」と。深山さんは「ふふっ」と上品に。
不思議だ。ただ魔術を教えてもらうって約束を取りつけただけなのに、ここまで和やかな空気が僕たちの間に流れるようになるなんて。
秘密の共有とかと、同じ効果があったのかな。
やがて、深山さんが立ちあがる。少しだけ、満たされた表情で。
「じゃあ、堀口くん」
「うん、また明日。……学園では、あまり話しかけないようにしたほうがいいっていうのに変わりは、ないんだよね? 孝広たちにも、深山さんの本当の性格や、僕たちが一緒に暮らすことになったことは言わない方向で?」
「うん、学園でのあれは、わたしの修行にもなっているから。……それと、ありがとう。今日は……嬉しかった」
「……えっと? お礼を言われる心当たりがないんだけど?」
「ふふっ……、わたしのほうは、お礼を言う心当たりが多すぎて、ひとつひとつ挙げられない。だから全部のことに、ありがとう」
「……そういうことなら、どういたしまして……で、いいのかな?」
「いいと思う。それじゃあ、また明日。……あ、魔術講座は明日の夜から、でいい?」
「もちろん。……それじゃ、おやすみ」
最後に「おやすみなさい」と笑顔で残し、彼女は僕の部屋から去っていった。
胸に宿るのは、清々しい充実感。
ああ、そうか。こんなに穏やかな気持ちでいられるのは、深山さんに対する罪悪感が、微塵もないからなんだ。
『しょうがない』と言いながら、彼女は穏やかに受け入れてくれた。それが僕には、とても嬉しかった。
それにしても、『魔術講座』ときたか。
なんか、ずいぶんと本格的なものになりそうだなぁ。
部屋の明かりを消し、ベッドに入りながらそんなことを思う。
そして、今日一日で世界がずいぶんと違って見えるようになったな、なんてぼんやりと考えながら、両のまぶたを閉じた。
これが、僕と彼女の同居初日。
学園ではただのクラスメイトを装い、家では魔術を教え、教えられる関係が形作られた日のこと。
さて、まずは明日から、僕たちの同居を感づかれないよう、気を張って過ごさないとな――。