死見
腹から血がどくどくと流れ滴り落ちている。お前が幾らそれをすくおうとしても指と指の間からこぼれ落ち、結果的に何もすくえていない。
路地裏にどんな風景が広がっているなど想像したことはないが、こんな状況があっても違和感がないと俺はそう感じてしまっていた。
しだいにお前の血圧は徐々に下がっていき、ついには死んでしまうだろう。
こんなはずではなかった、と幾らそんな姿のお前に弁明したとしても許されるはずはない。
お前は俺の言葉など耳に傾けない。
お前が話せる状態ならば、こう叫ぶだろう。
何故、逆のことが起きたのだ、と。
お前は自分で用意したナイフによって、俺に腹を突かれた。
世の中はそのことを正当防衛という。
もし、世の中が俺は殺されそうになったから相手の女の持っていたナイフで女を刺したと認識すればという前提があればの話だが。
図体の大きな男と華奢な女。
華奢な女は、今ナイフで腹を刺されている。
世の中の誰が俺の方が被害者だと認識するだろうか。
幾ら俺が訴えたとしてもそのことを信じてくれる奴などよほどの変わり者に違いない。
だから、俺は逃げる。
警察でもたとえ一般人だとしても俺の姿と血にまみれた華奢なお前が今ここに居ることを見られてはならない。
死ぬ運命にあるお前と一緒に居るところなど決して見られてはならない。
俺はその場を立ち去ろうと忍び足になる。
誰にも見られないようにしなければ、と足音を殺して路地裏の外の世界を覗く。
外の世界は街灯などは乏しく、月の明かりだけが頼りだった。
この路地裏も月明かりだけが頼みの綱となっていた。
当たり前か、と自己解釈をした。
お前は俺を殺そうとしていた。
無駄に理屈で責めようとするお前のやりそうなことだ。
こういうことはお前の計算の内だったに違いなかった。
暗くて人通りがないところを選ぶのは必然のことだった。
皮肉にも自分を刺した憎き相手の逃走路を手助けしてしまったのだが。
お前のその性格のせいで、俺はお前を好きになれず別の女を作ったが、結果的にお前のその性格のおかげで社会的にまだ存命できることとなった。
お前を刺したあの感触は今でもこれからでも忘れることはないだろう。
罪の意識もある。
だが、それを素直に償う気にだけはならなかった。
だから、俺は逃げる。
もう一度、外の世界を確認する。
未だに車も人すらもこの路地裏の前を通り過ぎた気配を感じられなかった。
いったい、どういう所に居るのだろうと俺は思わず不安になってしまった。
まずは出てみないと行けない。
そう思って一歩を外の世界へこの現実から遠ざかるために踏み出した。
その時、足首をガシッと掴まれた。
思わず大声を上げそうになった。
ここで俺の足首を掴む物体はたった一つしかないのだが、俺はそれではないと思いたかった。
男でもこんな強い力を出せる奴がいったいどれくらいいるだろうか。
足首だけが路地裏の闇へと持って行かれそうだ。
反抗しているのにもかかわらず、少しずつ路地裏に戻されそうになる。
俺は必死の思いで足首を掴む何かを引き離して、その場を立ち去った。
後ろからはこの世のモノとは思えない呻き声だけが響いていた。
気が付いたら、そこに俺は居た。
とある都市の有名な高級ホテルの前に俺は居た。
俺はこれから逃亡生活を送らなければならないのか。
もし、お前の死体を誰かが見つけたとしても俺との関係は割り出されるのか。
たった一度だけの関係にもかかわらずなのに。
しかし、ドラマの見過ぎなのか不安に駆られてしょうがない。
当分の間、アパートの自宅に帰るのはよそう。
俺はそう思って、そのホテルの中に入った。
一泊する度にどれくらいかかるのだろうか。
そんなことを今更計算する気にもなれず、フロントに向かう。
まだ俺が学生の頃、このホテルをたまたま大学の受験の際に利用したのだが、サービスがとても良かった。
もう一度来てみたいと思ったが、まさか逃亡生活に使うとはその頃は思いもよらなかった。
こんな夜中にもかかわらず、フロントは少し混んでいた。
部屋の予約のために並んでいるが、あまりにも退屈なので豪華なシャンデリアをぼうっと見ていた。
そうすると、シャンデリアの周りの天井に一点の大きな黒い染みがあるのに気がついた。
あんなにも高いところにどうしてあるのだろうかと想像しているとフロントの順番が回ってきた。
問題なく無事にチェックインし、もう一度そこを見てみるがさっきの染みはなかった。あんなに大きなものを見失うわけはないのだが。
部屋は客自身の家を真似ているかのように豪華な装飾はなく、むしろ素っ気なかった。ただ、テレビだけは大きかった。
俺の自宅にあるとすれば、置き場に困るようなものだ。
俺は気晴らしにテレビを付けようとするが、やめておいた。
もし、お前の死体が見つかっていたとしたらと思うと気が引けるからだ。
その時、テレビの後ろの白い壁にさっきフロントで見たときよりも遥かに大きな黒い染みがあるのに気づいた。人間の頭くらいにある。この大きさならば、さすがに清掃員が気づくはずだというのに。
手前に近づいてよく見ると、それは光の影響で少し黒ずんでいるが、模様があって人の顔のようにも見えた。
何かの間違いだと思い、もう一度見た。
お前の顔そっくりだった。
染みなんかではなかった。
先程まではただの染みだというのに。
俺の背筋が凍った。
胃の中の残留物を全て床にぶちまけそうになる。
今は目を閉じているが、これが見開かれた時俺はどうすればいいのだろう。
ぼやけていた顔の輪郭もはっきりしてきて、もうお前の顔に他ならなかった。
足が不規則に震える。
そして、お前の目が見開かれ、俺の中の何かが崩壊した。
俺は部屋を飛び出し、腸が飛び出てもおかしくないくらいに大声を上げながら、ホテルの迷路をひたすら駆け巡り、後ろから怒りの罵倒が聞こえようが聞こえまいが関係なく俺は壁のない場所に行きたかった。
幾度も迷いながら、俺はホテルを身一つで出た。
振り返ると、フロントの電話がけたたましく鳴っていたがそんなのには興味がなかった。
無駄だった。
幾ら走っても状況は悪化の一途を辿っていた。
もはや何もかもにお前は映っていた。
自動車のミラーにショーウィンドウ、そして、月にもお前の顔は映っていた。
時が経つにつれ、お前は首も鎖骨も見え始め、下半身までに染みのようなものが達した。
そうだ、警察に言って状況を話そう。
逃げてもお前の脅威からは逃れられない。
ちょうど近くに電話ボックスがあり、そこに入って震える手をもう一つの手で押さえ、警察に連絡する。
待っている間、ふと無意識に電話ボックスの外を見ると、昨日降った雨の水溜まりにお前が不気味に微笑んでいた。
もう膝まで見えている。
自首ということで警察は了承し、数分後パトカーがやってきた。
けたたましいサイレンを鳴らさないのは、周りへの配慮か。
俺はパトカーの後部座席から出てきた警察官を押しのけ、勝手になかに乗った。
胸の鼓動がパトカーのサイレンの代わりというかのように早く鳴り響いている。
呼吸が荒くなっている。
俺が押しのけた警察官は不機嫌そうな声で入ってきた。
押しのけてしまったことに
少し申し訳なく顔を見ると、
お前だった。