第7話 疾走・追撃
若干、残酷な表現があります。
ファレイは疾っていた。
その動きはかなり早い。
ぎゅんぎゅんと風を裂きながら、ファレイは一気に目的地に向かっていた。
目的地、それは大量に人がいて、思う存分暴れられる場所である。
意識を別段集中させなくてもその位置はすぐに分かった。
かなり多くの生命エネルギーのうねりを感じる、これほどの規模ならばかなり離れていても察知できる・
アイラの予想通り、ファレイは最も近い場所ネティアリルに向かっていたが、ファレイはその街の名前すら知らない、当たり前だこれから破壊する物の名前などにファレイは興味が無かった。
ファレイの姿は、霧のようではあるが、大地を駆ける時は、地面に何かしらの獣の足が浮かんでいた。
それは狼のようにも見えたが、何か別の生き物のようにも見えた。
それが大地を蹴り、走っている。
動いている時は、もう完全に霧の姿ではなく得体の知れない巨大な怪物の姿態をしていた。
例えるならば地獄の番犬である。
また例えるならば様々な生き物を合成させたキメラである。
あるいは、何かよほどの怨念を残して死んだ動物達の集合霊である。
そのような姿を今ファレイはしている。
興奮していた。
おあずけを喰らった状態から、一気に暴れられるのだ。
あの2人を殺せなかった分の鬱憤を好きなだけぶつけられるのだ。
次の日に何か楽しみのある子供が寝付けなくて興奮している以上に、ファレイの昂りは激しい物だった。
その時。
目的地に着く前に、ファレイは別の人間の気配を感じていた。
気配は3人。
ご馳走を前に前菜を楽しむのも、悪い物ではない。
ファレイはその唇に強烈なそれでいて醜悪な笑みを出現させていた。
襲撃は突然だった。
その3人のうち1人でも正確に事態を把握できていたならば奇跡的だろう。
そういう惨劇が今繰り広げられたのだった。
3人は恐らく旅行者だろう。
その旅の途中、この広大な自然を満喫しようとわざわざ街が有るのにそちらには泊まらずに、この森の中にテントを張って寝ようとしたのだろう。
ネティアリル近くの夜のこの森は、他では見られない希少な獣もいる、幻惑的な舞を披露する蝶もいる、そして何より空気が澄んでいて、ただの水ですら美味い、そして水が美味いと言うことは酒が美味いと言うことだ、こういう場所でこそ味わえる贅沢と言うものがここには存在しているのだ。
普段は自然とは縁遠い国で仕事をし、その休暇でこのローヴァに立ち寄ってバカンスを楽しんでいる、そのようなおおよその想像が付くが、もしかしたらまるで違うかもしれない。
かなり金が有るらしく、テントの周辺に張られている結界はかなり厳重な物だった。
結界を張る技術が無い人間にも身の安全を保障する結界を発生させる道具が売りに出されているのだ、もっともピンからキリまであり、弱い物じゃ蚊を追い払う程度の効果しかない物も有る、今ここを覆っているのはその中でもかなり高価で効き目もかなり確かな物だった。
野生の獣も、もっと性質の悪い盗賊の類も近寄れないような代物だった、もし万が一そういう連中に結界の外を囲まれでもしたら、救援を呼ぶくらいの準備は間違いなくしていそうだった。
だが、そういう普段は味わえないちょっとしたスリルを味わう事も3人は楽しんでいるようだった。
3人はかなりゆったりとくつろいでいた。
体に溜まった普段の仕事の疲れやらストレスを、自然の中に流しているように見える。
3人とも適度に酒が入っているらしく顔が赤い。
全員が仕事の同僚のような話し振りをしていた、全員が男である。
わざわざ女抜きでこのような場所に来ると言うことは、全員が既婚者で家族からの一時の解放が、この旅のテーマなのかもしれない、あるいはまったく違うのかもしれないが。
くだらない話をし、それに笑い声を上げる、それだけでも堪らなく楽しいようだった。
別に街の酒場で繰り返される話と大差ないが、これだけの自然を前に酒を飲みながら話すと、いつもと違った妙が有るようだった。
3人ともが年齢的には30代の中盤程度なのだが、会話の内容はほとんど学生のような内容でしかない、酒を飲みリラックスした状態だとそのようになってしまうようだった。
1人の男が、「小便だ」と言って席を立ち上がり、残った2人は軽く手を振った。
残った2人は、今席を立った男の話をし出した、本人を前にしては中々話しづらい話も有るのだ。
特に悪口でもないが、悪口に近い場合ももちろんあった、しかし根にはかなりの親しみがその互いの口調には込められていた。
基本的に悪口を言い合っても、仲が悪いわけではないのだ、そもそも仲が悪い人間とここまで出てきて酒を飲んだりはしないだろう。
その時。
2人の鼻に奇妙な臭いが届いた。
中々嗅ぐ機会が無い臭いだ。
なんだろうと、互いが顔を見合わせた瞬間。
それが現れた。
それは巨大な熊に一瞬見えた。
あるいは後ろ足で立ち上がった獅子に。
しかし、そのどちらでも無かった。
それらの表現では生温すぎた、それほどの存在が目の前に突如として出現したのだった。
その肉体から何かが吹っ飛んできたと思った瞬間、2人のうちの1人の胴体が真っ二つに切断されていた。
残った1人はその光景を目には入れているが、正確にそれを脳が受け止めていられなかった。
現実を素直に受け止める勇気が男には無かった、しかしこれは別段彼が弱気だからと言うわけではないだろう、そのような状況に放り込まれれると一般的なリアクションは決まっている。
ありったけの力で悲鳴を上げるか、それとも何も出来ない。
この男は後者だったようだ。
悲鳴も上げられなかった。
辺りを真っ赤な液体が染め上げた時、残った1人が呆然とした表情で一つの事に気が付いていた。
さっきの臭い、あれは最初に小便に行った男の血の臭いだったのか。
今、この場所を漂っている吐き気を催す臭い、これとまったく同じだった。
それをどこか遠くの場所で納得しているような顔つきだった、茫然自失状態の男を目の前の存在は楽しそうに見詰めていた。
そして次の瞬間、目の前の化物の体の一部分が獣の口になり、残った男の肩の肉をごっそりと噛み取った。
リンゴを丸齧りするよりも容易く、男の肉体の一部分は体から消失していた。
骨の白さが外から見て取れた。
しかし、それも一瞬ですぐに溢れ変える赤で染められていった。
目の前でファレイが、物を喰う必要が無いのに、その男に見せ付けるように咀嚼する音を聞かせた。
自分の肉片が目の前の存在の口で噛み砕かれている事を、男は理解できているのだろうか。
ファレイはその噛み取った肉片を、男の顔面に吐き出した。
顔に生暖かさを感じながら、そこでようやく男は出せる限りの声で悲鳴を上げていた。
意識がどこか遠くから、激痛により引き戻されたようだった。
あまりの出来事に麻痺していた痛みが全身を襲い始めた。
転がった。
そして、のた打ち回りながら、何とか逃げようとした。
まるでうわ言のように何かを呟いていたが、ほとんど意味を成している言葉は無かった。
旅に来なければ……、結界が……、痛い、あの時はあれだった、痛い、棄てなければ、言いたい事を言っておけば、痛い、バカ。
何とか言葉になっているものも有るが、ほとんどが口から勝手に出る意味不明な言葉ばかりだった。
その大半が、後悔の言葉のようだった。
その這いずりながら逃げようとする様を、ファレイは満足そうに眺めると、急に興味が無くなったのか紅い閃光に似た物が逃げている男の背中を突き刺し、その命を簡単に奪った。
どうにも物足りないらしい。
ファレイに取っては、小動物を殺すのと大差無かった、最後の1人の恐怖はかなり楽しめたが、2人をほとんど衝動的に一瞬で殺してしまったので、楽しみが随分と減ってしまっていた。
相手が反撃をしてこなかったのも不満だった、相手の攻撃を容易く防いでやった後に見せる相手の表情を見るのがこの化物の楽しみに1つのようだった。
やはり前菜は前菜に過ぎない。
ファレイはそう考えながら、またネティアリルに向かい走り始めた。
残されたテントの近くには、凄惨な3体の死体が転がっていた。
結界を発生させる道具、札が見事に両断されていた。
いくら優れていようと民間で売りに出されている商品である。
相性にも寄るのだろうが、こんな物は、このファレイの足を止めるには何の効力も発揮しないと言わんばかりに容易く破壊されていた。
ファレイは惨劇の現場を後にした。
更なる惨劇をこの手で演出する為に。
ファレイは月明かりもない真の闇を疾走していた。
闇の中を泳ぐように走る、人が本能的に感じる闇に対する恐怖など微塵も感じないようだ。
むしろ嬉々として闇を進む。
あと少し。
あと少しで、お楽しみが待っている。
その思いが、ファレイを突き動かしているようだった。
どれほど走ったのだろうか。
森が終わった。
木々の群れを抜けると、そこは崖になっていた。
常人ならばそこで迂回しなければならないほどの切り立った崖である。
だが、そこでファレイはそれを見つけていた。
まだかなりの距離は有るが、確かな街の明かりである。
テーブルの上に乗ったご馳走を見るように、ファレイはそれを見た。
もうご馳走の香りが鼻に届いたかのように身震いすると、もう待ちきれない、と言わんばかりにファレイは加速し、そして一気に崖からその身を投げた。
普通ならば自殺行為に他ならないが、ファレイにとっては何の問題も無い。
地面に着地する瞬間には、体中から何本もの足が出現し、その身を支えた。
その足は全て獣の足のようだったが、その大半が何の獣なのか分からないような形状をしていた。
飛び降りて、そして後はもう一直線に走るだけとなった。
ファレイが、最後の直線に全力を注ごうとした瞬間。
その気配に気付いていた。
何か。
そう、何かが近づいてくる。
それは大きい物だ、自分と同等かそれ以上の巨大な存在。
生命エネルギーの量も半端な物ではない、陸を滑るように迫る鯨の量感がそこにあった。
そして、その速度は凄まじく速い。
人ではありえない存在が、自分を追ってきている――
ファレイはそう確信していた。
そして、それを迎え撃つ決心をしていた。
お楽しみの邪魔をされたような雰囲気ではない、祝い事の前に予期せぬ幸運が舞い込んできたような雰囲気すらある。
こういう状況を楽しんでいるようだった。
来るなら来い。
ファレイは崖の下で、上を見上げながら、それを待った。
数分と待たずに、それは来た。
最初は何か分からなかった。
巨大な物が、崖の上から降ってきたのだ。
生き物ではない。
では、何かと問われると判断が付かない。
それは船だった。
ジグドゥが造り上げた、陸を走る泥船である。
細部まで精密な設計の戦艦のような代物ではない、子供が砂場で捏ねて作ったような大雑把な造りの帆船だ。
さきほどの周辺一帯の泥を掻き集めて造った物がこの船だった。
これだけの質量を集めて形にするだけでも想像を絶する精神力が必要だろう、それをジグドゥはやってのけた。
地面が土で出来ている場所以外ならば不可能な追跡方法だった。
ジグドゥが、地面の土を操作し船を進みやすい状態にし、そして泥船を動かす、もちろんジグドゥだけの力では早くは動かない、動いたとしても先行するファレイに届く速度はとても生み出せない、泥で作った帆の部分にアイラが、台風の際に発生する強烈な突風の塊のような風の魔法を叩きつけ、それで加速してここまできたのだ。
ファレイの位置はもちろん勘だけで分かったのではない、ちゃんとした目標が無ければとてもじゃないが追いつける物ではないのだ。
ファレイの体には泥が付着していた、ジグドゥの術が一度はかかった泥がである。
ある程度の距離まで接近すれば、ジグドゥにはその泥で相手の位置が予測できる。
そして、まるで尻に火が付いたかのように魂を削るような全速力でようやく、追いついたのだった。
アイラとジグドゥの執念の塊のような泥舟だった。
それが崖からの落下速度と合わせて降って来たのだ。
凄まじい迫力がそこにあった。
一瞬、空が落ちてきたような錯覚すら見せる光景だった。
並みの人間ならば肝を潰してしまう、いや並みではないそれなりに経験を積んだ人間でさえ、一瞬思考が停止してしまう状況である。
さすがのファレイもそれには僅かに動揺を見せた。
しかし、それはほんの一瞬に満たない時だ。
すぐさま、ファレイはその船目掛けて攻撃を仕掛けていた、攻撃に対する本能が桁違いなのだ。
体から3本の閃光に似た紅い槍のような、剣のような、舌のような、尾のような形状をした物を放っていた。
それが船に突き刺さった。
まるでその攻撃を予測していたかのように。その瞬間、船は船で無くなった。
艶かしい触手が、船体から出現し、8本の触手が獲物を絡め取る仕草をするように、それはファレイの体に巻き始めていた。
船が今度は、大蛸のようにファレイの体に纏わり付いていたのだった。