第6話 極限隠技
ファレイの周囲で、泥が不気味に動きながらその姿を人へ変えつつあった。
ファレイはそれらを攻撃せずに状況を見ていた。
楽しそうにそれを待っているようにも見えた。
そしてそれらがとうとう人の形になった。
50人はいた。
アイラとジグドゥがである。
正確に言うならば50体ほどの、ジグドゥの泥人形である。
少なく見積もってもその程度の人数がそこに立っていた。
立っていたのはほんの一瞬で、それらが一斉に四方八方に走り出した。
かなり早い、成人男性の全力疾走と同等程度の速度だった。
ジグドゥが集中すれば、その泥人形はかなり精密に似せたい人間に似せる事が出来るらしい。
まるで型を取ったようにそっくりな形状をしているアイラとジグドゥがいた、しかし精巧に造られているのは半分ほどで、残りの半分はややアイラとジグドゥに似ているというだけで、ほとんど洞窟を襲撃した泥人形と大差無い物もいた。
今の雨が地面をジグドゥの扱いやすい泥に変化させたのだった。
ジグドゥは水は操れない、土も操れない、その2つを合わせた泥のみを操る事が出来るのだ。
例えば地面が乾いた土地で戦闘になった場合、そこではジグドゥの能力は生かせない。
しかしだからと言って、常に大量の水を持ち歩く事も出来ないし、ジグドゥにしても常に身に纏っている泥を持ち歩くのは容易いが、それが大容量の泥となるとそれを操作し運ぶのは無理ではないが、かなり神経をすり減らす作業なのだ。
そこでアイラの雨を降らす鉄柱が必要になる。
地面がそれこそ砂漠でもない限り、この雨を降らせば地面はジグドゥが操りやすい泥に変わる。
実際に今まで何度かこの連携攻撃を行っている。
今の鉄柱も本当は空に投げなくて、地面に突き刺せば湧き水のように水が出現するのだが、そうするとジグドゥが泥を操作するのが丸分かりになり警戒される恐れが有る、そういう考えも含めて空に投げ雨を降らせたようだった。
天に気を逸らしているうちに、ジグドゥは体に纏っている泥を地面に一面に放出し、そこに雨が降ってきたことで一気に辺り一面の土を操る作業を行ったのだった、そして一瞬の閃光の眼くらましのうちに、周辺の泥を一気に集め、それを爆発させるように散ばらせ、偽者を大量に作り、それを四方八方に逃げさせることでファレイをかく乱しようと試みたのだった。
ファレイを倒す事はひとまずは諦め、現状から逃げるのが最優先の苦肉の策だった。
ファレイはその50体の標的を前に、困惑はしていないようだった。
しかし、その霧のような体の一部分に、まるで人間が浮かべるような笑みが浮かんでいた。
それは喜悦の表情のように見えた。
・
ファレイは躊躇わなかった。
驚きもしなければ。
怒りも感じていなかった。
ただ喜んでいた。
目の前の標的が必死だったからだ。
まれに命を惜しまず向かってくる輩もいるがそんな相手を八つ裂きにしたところでまるで楽しめない、生きる為に努力を惜しまない者の生を奪う事こそが真の楽しみなのだから。
目の前に現れた50以上もの泥人形。
この中に紛れて連中は逃げるつもりなのだろう、中々頭を使ったものだ。
発想は悪くない、これがもしも自分以外の相手にならば十分に通じていただろう、しかし自分はこの程度の目くらましには慣れている、今まで何度こういう小細工を労する相手を殺して来た事か。
連中の小細工を見事に打ち破ってやった瞬間の、絶望の淵に叩き込まれた顔は何度見ても飽きる事は無い。
今回もその表情を拝めるかもしれない。
ファレイはそう思いながら、攻撃を開始した。
・
一瞬の事だった。
ファレイの体から、まさしく全身から先ほどの紅い閃光に似た物が幾つも伸び、それが恐ろしい速度で逃げていく泥人形達を襲った。
獲物に飛び掛るときの蛇を思い起こす動きだった。
あらゆる方向に逃げたと言うのに、その攻撃は的確であった、そのどれもが足を狙っていた。
一撃で殺してしまうのが勿体無いという思惑からなのだろう。
50体以上もいたはずの泥人形が、一瞬のうちでその全てが地面に倒れていた。
しかし苦痛に呻く声や、痛みを押し殺す声はどの泥人形も発しなかった。
夏の日差しに照らされた氷彫刻のように、地面に崩れたままその姿を溶かしていった。
どうやら全てが偽物だったらしい。
ファレイは自分の考えが外れた事に激昂しているように見えた。
あるいは何かの楽しみを邪魔された子供が癇癪を起こしているようにも見えた。
またしてもファレイの全身にあらゆる生き物の口のような物が出現し、その各々が身も凍るような激しい声を発していた。
その時にはもう、地面の泥は青い燐光を放っていなかった。
まったくその気配が断たれていた。
ファレイの体から出現する紅い閃光に似た攻撃で、今度は地面の泥を攻撃し始めた。
泥の中に潜む魚をモリで突付く作業にそれは似ていた。
しかし、まるで手応えが無い。
一体どこに逃げたと言うのか。
ファレイは初めて何かを迷っているような仕草を見せた。
・
ファレイは考えていた。
恐らく、この泥に隠れやり過ごそうとしているのだろう、あの2人は。
先ほどの泥を一気に集めてそして爆発したように辺りに散らばらせた泥で、地表のかなりの範囲が泥で覆われている。
今の50体もの泥人形全てが偽物とは考えていなかったが、全て偽物と言うことは最初のこの辺りのどこかの泥に身を潜ませているということなのだろう。
気配を探ったが分からなかった。
もし、泥を使う奴がまた泥を操作しようとすれば、その動きでどこにいるか分かる、今の50体の泥人形は走って逃げるのに必要なだけの力を持たされた自走式の泥のような物だろう、その全てをどこかから操っていたなら、その流れを探り操っている奴を攻撃できた。
自分は動きか、生命エネルギーのような物を感知する能力に長けている。
だから、本来ならば自分にとって泥に身を隠すと言うのは、ほとんど意味が無いはずだ。
しかし、この足元の泥は操っていた奴の力の残滓とでも言うものが残っているせいで、全体的に生命エネルギーが感じられる、この中でも動けば分かるはずだが、その中でじっと息を殺していられるとさすがに分からない。
足元の泥を全て薙ぎ払う攻撃も自分には可能だ。
だが、それには少し問題が有る。
1つは、その力を今の空腹状態で使用すると、もしかしたら本体が目を覚まし、主導権を取り返される可能性がある。
もう1つ、それはその攻撃だと、本当に自分がその相手を殺したのかどうか分からなくなってしまう所だ、大雑把な爆撃だと対象の死を確認できないように、自分の攻撃も大規模になると把握しきれないのだ。
それだと満足感が得られるとはとても思えない。
しかし、だからと言ってこうして、ちまちまと宝探しゲームを続けるほど自分は気が長くない。
迷った。
迷った挙句に苦渋の選択を下した。
それは、2人を殺すのを諦める事であった。
・
アイラとジグドゥはファレイの気配を感じながら心臓の音すら気にしていた。
堪らない。
耐え難い緊張感が満ちていた。
気付かれるのではないか。
それが常に脳裏をよぎる。
逃げ延びる確率は低くないと踏んでいるが、相手が粘ればお手上げだ、この状況では30分も耐えられないのだ。
ジグドゥも怯えているが、体の震えを無理に押し殺しているのが分かる。
この状況も怖いが、ファレイに見つかる事の方がずっと怖いと理解しているのだ。
10分間はそのまま耐えるのが続いた。
ジグドゥが、アイラに。
(上の気配が消えた)
そう伝えた。
しかし、消えたのは正しいのだろうが、だからと言ってすぐに姿を現す訳にはいかない。
相手は1kmも離れた場所からこちらの位置を察知し、攻撃を仕掛けてきたのである。
どれほど用心を重ねても、用心のし過ぎとは思えない。
出来る限り慎重な行動をとりたかった。
アイラは。
(限界まで隠れていよう)
と、ジグドゥに伝えた。
ジグドゥもその意見には賛成だったようだ。
それから14分後、2人は限界を向かえ、ようやくその姿を外気に晒した。
周囲を警戒している。
しかし、どうやら本当にファレイはどこかへ行ってしまったようだった。
2人は一体どこに隠れていたのか。
それはファレイも想像していた通り、足元の泥の中である。
ただし、表面のただ散らばって積もっている泥に隠れていたわけではなく、一部分をアイラとジグドゥの2人分がすっぽりと入る底なし沼のようにジグドゥが操作した、思いきり深くの地中である。
ただ泥に身を潜めているだけでは、ほとんど運任せである。
そういう運任せの策に身を委ねたくは無かった。
だから、ジグドゥにはかなり無理をさせたが、泥人形の囮を周囲に走らせるのと同時に、辺り一体の空気を出来る限りありったけ泥に取り込み、そして地面深くに、10mはいかないかもしれないが、それに近いほど深くに潜ったのだ。
そして待った。
相手は、表面の泥を攻撃するかもしれないが、これほど深くまで潜っているとは考えないはずだと思ったのだ。
これも運任せの要素は有るかもしれないが、出来る限りの事をやった後の運任せならば構わなかった。
空気が持つかどうか不安だったが、どうにか大丈夫だったようだ。
そうして2人は生き延びる事に成功したのだった。
「やばかったわ、あんたがいなかったら死んでた、間違いなくね」
アイラは心底そう思った。
相棒の泥を操作する技の応用力の広さに感服していた。
攻撃にも防御にもそして隠蔽にも力を発揮できる、どれも世界のトップクラスには及ばないかもしれない、しかし、これほどの術を使える人間はそういないだろう、全てを合わせた総合力ならばジグドゥはもしかしたら世界的にもかなりの位置にいるのではないか。
アイラは贔屓目無しにそう感じていた。
アイラの、心の底で湧いた尊敬の念に気付いたのか、気付いていないのか。
ジグドゥは、照れたような笑みを浮かべていた。
その時。
アイラは直感に似た物を感じていた。
あの化物。
私達を取り逃がしてどこに行ったのだろう。
あれだけの凶暴な奴が、獲物を取り逃がしてそれでただ諦めて人気の無い場所に行くだろうか。
人気の無い場所。
その言葉が浮かんだ時に、アイラの脳裏には明確な予感が浮かんでいた。
あいつが次に向かうのは、人がいる場所だ。
間違いないだろうと思った。
しかし、どこへ。
「アイラ、どうしたの?」
ジグドゥが呑気な顔と口調でそう問うたが、アイラの顔には引き攣ったような表情しか浮かばない。
「ねえ、アイラ?」
今度は、その手を引っ張りながらジグドゥは尋ねた。
「駄目だわ……」
「ダメって?」
「あいつ! 間違いないネティアリルに向かう、ここから一番近い! それに人が一番多い!」
「え!?」
そうなのだ。
ここから一番近く、そして人が一番多い場所、そこにファレイは向かうだろうとアイラは予想していた。
そう考えた時、悪寒に似た物がアイラを襲っていた。
あの化物が、突然襲ってきたら、どういう対応も間に合わない……
ネティアリルの警備兵は決して脆弱では無いが、自分達より実力が上である訳が無い。
しかも突然の襲撃だ、あれの姿を見た衝撃を感じる前に殺されてしまうだろう。
警備兵が殺されたら、後はもう後手後手だ、街の大半が破壊されて、そこからどうにか対応策を水守様が考えるかもしれないが、良策が出るまでに街はその原形を留めている保障はどこにも無い。
最終的な被害の規模がまるで想像できなかった。
どうにかして、事前に国にあの存在の脅威を伝えるか、あるいは――
「ジグドゥ……」
アイラは呟くように言ったが。
「ど、どうしよう」
ジグドゥも事の重大さをを感じているらしく、パニックの一歩手前の状態に陥っていた。
「ジグドゥ!」
アイラは厳しい口調で言った。
ジグドゥがびくっと飛び上がった。
「ありったけの泥を集めて!」
「え?」
「追うわよ!」
「だって、もう……武器が……」
事実だった、もう2人にあの化物に対抗する武器は無い。
そう言ったジグドゥの頬をアイラがかなり強く叩いた。
地面に転がるように、ジグドゥは倒れたが、倒れたその体をアイラはすぐに起こした、その両肩に手を置き。
「聞きなさい。アレを止められるのは、少なくとも報せられるのは私達だけよ、国が危ないの、私だけじゃ追いつく事も出来ない、ジグドゥ、国を救うにはあんたの力が必要なのよ……、お願い力を貸して……」
母親のように優しい口調で言った。
目には強い光が浮かんでいた、野生の雌獅子が子供を護る為に命を投げ出そうとしたらこういう目をするかもしれない。
ジグドゥは頬を叩かれたショックで、泣き出す寸前だったが、その声を聞き無理やり歯を食い縛ってそれを堪えた。
「……うん」
ファレイがどれほどの速度でネティアリルに向かっているか分からないが。
早馬を飛ばせば2時間ほどの場所にネティアリルは有る。
2人とファレイの差は凡そ30分ほど、追いつくのはかなり難しい話だった。
そして何よりどうにかして追いついたとしても、もうファレイに通用する攻撃手段が2人には無い。
何しろ今も、必死で逃げ延びようと隠れていた所なのだ。
息を殺して何とか逃げ延びた相手を、今度はかなり無理をして追いかけなくてはならない。
無謀な追跡劇だ。
しかし、2人は追う決意を固めていた。