第39話 アポルオン
デモニムは、自分は決して気圧されていない、能力的には絶対的に、そして精神的には互角……いやまだ自分の方が優位に立っていると思っている、少なくともそう思い込もうとしている。
だが、どう見ても、能力での勝負はまだ分からないが、精神的に圧倒的優位に立っているのはプルシコフであった。
闘志を全身から迸らせている訳ではない。
激しい気合の雄叫びを発している訳でもない。
全てを貫くような鋭い眼光を向けている訳でもない。
それなのに、プルシコフの持つ独特の雰囲気は、あらゆる他者の存在の1つ上に立ち、全てを見通しているように思えるほどである。
王者の風格とでも言うのか。
かつて、ハヤンの住む村を訪れた時のプルシコフは、それなりに優秀で人望厚い男であったが、あくまでそこまでの男だった。
幻闘獣の力を手に入れ、そして様々な体験を乗り越え、ここまでに成長したのである。
「その力は特異過ぎる……、幻闘獣の力だな?」
プルシコフは、デモニムにそう問うた。
デモニムは驚いた。幻闘獣の名前こそ知る者は多いが、それを詳しく知る者は少ない、こうまで断定的に言えるとは、ハッタリの類では決して無い、その能力と戦った事の有る者かあるいは――
プルシコフからの質問には答えず、デモニムは。
「……英雄連、じゃねぇよな。って事はだ……、お前も幻闘獣憑きって訳だ、間違いねぇ……」
確信を込めてそう呟いた。
英雄連。
世界のあらゆる問題を解決する為に、英雄と呼ぶに値する優秀な人材が多く、世界各地で活躍している集団である。
かつて、幻闘獣憑きがハヤンの生まれた村から、様々な場所に散らばった際にそれを退治出来たのも彼らの活躍が大きいといわれている。
その英雄連の所属ならば、幻闘獣憑きである自分の能力を断定する事は可能だ、そうでなければ異常な能力と言う認識はあっても幻闘獣憑きという考えまではいかないはずだ。
だが、デモニムは直感的にこの男は英雄連とかそういう類の人間ではないと判断していた。
そういう匂いとは別の匂いがこの男からはする。
と言う事は結論は1つだ。
「その通りだ、良かったな」
感情がまるで篭っていない賛辞をプルシコフはデモニムに送った。
子供が他愛も無い問題を解いた時に、親がまるで感情を込めずに褒めたように聞こえる。
「お前を殺せば2人が戻るかどうか分からないが、少なくとも2人を人質にしようと考えない事だ、無駄な考えだと忠告する」
要するに、デモニムが窮地に陥った時に、俺にそれ以上攻撃を仕掛けると2人の命の保障は無いと脅す行為は、自分には通用しないとプルシコフは告げている。
彼の中で、師匠であるダルマ、かつての部下で同じ幻闘獣憑きのクァルゴの2人は、親密な間柄であると思えるのだが、そういう人間的な情を逸脱した思考を有しているのか、虚勢を張っているようには見えない。
「人質? そりゃ、追い込まれた奴のする事だぜ、俺が何でそんな事をしなきゃならねえんだ」
鼻で笑いながらデモニムは言ったが、決して警戒を怠っていない、既に抜け目無くプルシコフの周囲には無数の不可視の異空間の穴が設置されている。
袋小路にプルシコフは追い込まれているのである。
どう動こうとその体が穴に触れるように、綿密に設置されているのである。
上に動こうと左右どちらに動こうと、あるいは後退しようと、プルシコフには道が無い。
それを知ってか知らずか、未だにプルシコフの不敵な余裕は消えない。
「これから追い込まれるからだ」
「楽しみだな」
デモニムがそう言った瞬間、その変化は起こった。
劇的な変化だった。
デモニムの顔の前にいつの間にか壁が迫っていたのである。
顔だけではない、視界全てが一瞬のうちに壁に覆われたのである、しかもそれが自分に向かってきていた。
「何ぃッ!?」
驚愕していたが、体が反応した。咄嗟にその壁を両手で防ごうとし、そして防いだ瞬間に気が付いた、その壁が地面で有る事に。
車の出口の辺りから2人の様子を伺っているエクから見たら、突然デモニムが倒れこんだようにしか見えなかった、プルシコフが何かをして、それでデモニムがやられたようには見えない、だがエクは普通の少年ではない、尋常ならざる魔力を持つ少年である、プルシコフから何らかの力が発せられているのを感じていた。
デモニムを襲っていたのは強烈な吐き気、頭痛、眩暈、脱力感……
何だ!?
何をされた、俺は!?
デモニムは分からない、自分の能力は相手を積極的に攻撃する能力ではない、そして相手の攻撃を完全に防ぐ能力でもない、もっとも能力の使い方次第でそれは異なる、ただ目の前に人一人分の異空間の入り口を造り、その入り口に隠れるようにしていれば、どのような攻撃もデモニムには届かないし、異空間の中に仕込んだあらゆる物で攻撃を仕掛ける事も出来る。
少なくとも、今はプルシコフの周囲に小さく幾つも異空間の穴を造っていただけで、異空間の穴を盾のようにはしていなかった、もちろんプルシコフが何か飛び道具か何かを使ってくる素振りを見せたら、それをするつもりだった、相手がどのような攻撃を仕掛けてこようとそれに対応するのは特に難しい事ではない、そう判断していた。
だが、その判断が間違っていたと言う事か。
”何か”をされた。
プルシコフはまるで動いていない。
少なくとも動いたようには見えなかった。
迂闊だった。
油断といえば油断、過信といえば過信。
相手の攻撃の質が分かっていないのに、それに対する防御を怠ってしまった。
だが、まだ死ぬほどのダメージは受けていない。
立ち上がるのだ、立ち上がり今度はこっちの攻撃の番だ。
足に力を込める――、まるで入らない。
手に力を込める――、上体を起こすには足りない。
顔だけをプルシコフの方に向けるのが精一杯である。
それでも、その状態を維持するのが難しい、すぐに泥の中に顔面を突っ込むように崩れてしまう。
「手加減をしすぎたか」
プルシコフは冷徹にそう言ってのけた。
殺すつもりならばもうとっくに殺していた、それほどまでの意味の言葉である。
全力ではなく、多少手心を加えた攻撃の結果お前が生き残っているのだと言っているに等しい。
その声が耳に届いても、どのような反応もデモニムは出来ない、それほどの余裕など無い。
プルシコフが倒れ伏しているデモニムのすぐ近くまでに歩み寄っていた、デモニムが仕掛けていた異空間の穴は、デモニムが謎の攻撃を受けた瞬間に閉じてしまっていた。
それほどデモニムが受けたダメージが大きいという事を表していた。
もっとも、デモニムは作戦中に攻撃を受けたと言う経験が皆無だった、相手は自分が何をされたのか分からず異空間に送られる場合がほとんどだったし、そうでない場合もデモニムの能力を理解できずに、動揺している間にやられてしまった、稀に恐慌状態に陥った相手が闇雲に攻撃を放つ場合もあるが、そんな攻撃がデモニムに当たるわけも無い。
自分の目の前に異空間の穴を開いておけば、それだけで最強の盾を展開しているのと同等の意味を持つのだから。
それが、今、無様にも先ほどの自分の水攻撃で水を吸い、泥濘となった地面に顔面を押し付ける状態に陥っているのだ。
デモニムは、それでも必死に状況を判断しようとしていた。
何をされたか。
それを考えていた。
分からない。
飛び道具の類ではない、そういう次元ではない気がする。
異空間の穴を探知できる能力を相手が有しているらしい事は分かる、だからその穴の隙間を縫うように何かを投げて、それが自分の今の状況を作り出したとは考えにくい、常人ならばともかく自分がそれに気付かないわけが無い、それに何より相手は何かを投げるような仕草をまるで見せていないではないか。
毒ガスの類か。
それならば、距離が離れていても自分がこのような状況になったという事に説明がつくことはつく。
自分自身は既にその毒に対する免疫が出来ているのならば、毒ガスを散布して後は自分がそれを吸うのを待つだけ、そういう戦法を取っていたとも考えられなくは無い。
だが、矛盾点は幾つか有る。
毒ガスをどこに所持していたのか。
散布していたとしたらいつからなのか、さきほどの水で一瞬吹っ飛ばされたのならばそれもまとめて押し流されてしまったのではないか。
それらは、自分が判断できない方法が有ると仮定しても、1つはっきりとおかしいと思う点が有る。
その毒ガスの範囲は、恐らくかなりの射程を誇るだろう、その射程の中に間違いなく自分のすぐ後ろにいる子供と、車の中で意識を失っている男も入っているはずだ、自分は普通の人間よりも遥かに毒に対する耐性もあり、常人ならば致死量の猛毒でもしばらく体が動けなくなるだろうが、それでも数分もかからずに分解してしまう、幻闘獣憑きの特徴として特異能力とこのような人間離れした身体能力、回復力も有るのだ。
それなのに、一向に体の状況が良くならない、一体何をされたのか――
デモニムは、ふと右手が浸かっている水溜りを見た。
見たと言っても、顔の半分は泥に埋まっている状態でである。
波紋が広がっていた。
自分の手が浸かっている場所、その中心からと言う訳ではない、水全てが震えているのだ。
これは、まさか――
「振動かッ!?」
デモニムは、殺人の被害者が必死に犯人の名前を叫ぶように声をあげていた。
「ご名答。俺の幻闘獣アポルオンは振動を操る、もっとも振動波をぶつけて、ただ相手に攻撃をするだけではなく、他にも色々と用途が有る、振動から発せられる音波で本来ならば感知しようの無い物も感知できる、お前の見えない穴もそれで分かった、その部分だけ反響が無くすっぽりと抜け落ちている感触だったからな」
正直、デモニムにはそれを理解するほど頭が働いていなかった。
少なくとも、自分がどういう攻撃を喰らったのかそれだけしか分からない。
人の肉体はほとんどが水だ、それを振るわされてるとどうなるのか、単純に考えてもダメージは計り知れない。
何しろ、全身を隅々まで駆け巡る血液も振動したということは、満遍なく全身に障害が起きていると言う事だ。
武術の中には、人の肉体を水の塊と考えて相手を攻撃する物も有る、達人になれば相手に外傷を一切与えず、内臓を破壊する事も可能だと言う。
そういう攻撃を自分は受けたのだ。
反撃を!
デモニムは必死にそう思った。
相手が振動波を操れても、それがどうした、奴の周囲にまた細かい異空間の穴を開けてそこから幾つもの攻撃を浴びせれば良いのだ。
何故かは分からないが止めを刺さない今しかない。
デモニムは、気力を振り絞りその攻撃を仕掛けた。
プルシコフの周囲の何も無い空間から、弾丸、鉄槍、ナイフ、斧、鉄矢……爆弾以外の凡そ考えられる限りの武器が一斉に降り注いだ。
どう考えても、元が何であったのか分からないほどの肉塊へ変貌するしかない攻撃である、だがそれでもプルシコフは平然とそれらに視線を送る事すらもしなかった。
その全ての武器は、一瞬その動きを止めたかと思うと、ぶるりと身震いをし、そして最初からそこに何も存在していなかったかのように消滅していた。
デモニムは絶句した。
「分子の結合を破壊する振動、分解振動とでも呼ぼうか、至近距離でしか使えないが、多分どんな物質でも分解する事が出来るだろう」
プルシコフが冷静に状況を報告したが、デモニムの思考はもうひとつのことしか考えられなかった。
逃走
この相手の能力は圧倒的過ぎる、分解振動だと? 自分の能力とは異なるがこれも最強の盾、絶対防御と呼べる代物だ。
この振動を常に周囲に展開しているとしたら、どのような攻撃も通用しないという事になる。
しかも、自分の能力と決定的に違うのは、これが積極的に攻撃にも使えるという点だ、自分は相手が近寄ってくるのを待つか、異空間に収納した武器で攻撃するしかないが、相手はその能力のままで攻撃を仕掛けてくる、まともにやりあって勝ち目があるとは思えない。
だが、逃げるだけならば、まだ可能性が充分に有る。
異空間に逃げ込めばそれでこっちの勝ちだ、相手が追跡できる訳が無い。
それに本国に報告をすれば相手がどれほどの脅威だろうと、相手の能力の質さえ分かれば対処できるだけの知能と人材があるはずだ。
この場での勝利は無くても、最終的な勝者は自分になる。
今の自分は泥に顔を突っ込んだ状態、最後の抵抗も空しく通用しなかったという虚脱感が襲い落ち込んでいるように見えるだろう、僅かでも油断するはずだ、その油断が命取りだと思い知らせてやる。
屈辱は、後の勝利の濃さを高める香辛料だ。
「さて……、どうする? せっかく生き残ったのだから降伏でもするか」
倒れているデモニムの上からプルシコフの声が浴びせられた。
今だ!
デモニムはそう思った。
相手は、自分に降伏を勧めた、完全に自分の勝利が揺るがない物だと信じ、その絶対的優位さからの余裕の発言だ、相手が反撃する余裕が無い、あるいは反撃をしてきた所でもう自分の相手ではないと勝手に判断していると言う事だ。
馬鹿め。
自分が開いた異空間の穴に飛び込むくらい、1秒もかからない。
異空間の穴を開く瞬間に飛び込まないと、この相手には悟られてしまう、だがそれくらいの作業は今のダメージを受けた状況でも可能だ。
やる。
そう思った瞬間、デモニムは自分の体の異変に気が付いていた。
熱いのだ。
緊張をすれば人の体温は上昇するが、それのレベルを遥かに超えた熱が全身を包んでいた。
何なのだ?
焦げ臭い匂いまでする。
「逃がすと思うのか」
冷徹な声がデモニムの耳に届いた。
「熱振動、分子が激しく震えるとそれは熱を発生させる、わざと分解させずに振動させることも可能ということだ」
デモニムの全身から煙が立ち昇り、そしてまるで冗談のように火を噴いたのだった。