第33話 世界が終わる日
プルシコフは耐えていた。
ラングに攻撃を受けた時からずっと、そしてラングを撃破した今も耐えている。
何にか。
それは例えようも無いどす黒い殺意である。
それが細胞の一つ一つの色を変えてしまうように、プルシコフの中で激しく騒いでいた。
普段ならば、いくらでも感情を抑える事が出来る、感情は任務の最中に邪魔になるからだ。
それなのに、これはいくら水をかけても消火出来ない炎のように、むしろ抑えようと意識すると炎の勢いが増すように感じる。
まるで自分の中に自分の知らない何か別の生き物が荒れ狂っているようでもある、だがそれは特別な事ではない、人は自分の中に何人もの人格を飼っている、多重人格とは違う、だが恋人に接する時と初対面の人と接する時に対応が違うのが当然のように、職場の上司に接する時と旧知の友人と接する時、会話の仕方がまるで違うように、いくらでも人は自分を使い分ける。
だが、今、プルシコフの中から這い出そうとしている禍々しいそれは、今まで感じた事も無い存在だった。
いや、それは嘘だ。
人が時に思う感情、暗く、重く、時に『世界なんて滅んでしまえば良いのに』と思うような、そういう破滅的な感情。
それを何倍にも凝縮した濃密な感情だった。
眼に入った物に敵意を示し、そして攻撃する。
それが気に入ったならば、誰の物でも奪う。
いらなくなったら壊してしまえば良い。
単純な思考である、それは有る意味子供が生まれながらにして持つ感情であり、大人になるにつれて学び抑えられていく原初の欲望である。
プルシコフを支配しようとしているのは、他の誰でもないプルシコフ自身の抑えきれない欲望である、自分の中にそれを肯定する叫びが満ちている。
駄目だ――
プルシコフはそう思うのだが、プルシコフのその必死の抵抗を容易く掻き消すほど巨大な欲望が、肉体を支配している。
抗いきれない巨大な存在である。
これほどまでの存在が、今の今まで自分の中に存在していて、そして静かにしていたというのが信じられないほどに、その力は圧倒的であった。
背後から誰かの声がした。
その巨大な存在はプルシコフの体を振り向かせた
その視線の先には、ハヤン達三人の姿があった。
・
やった。
あの得体の知れない能力を持つ者を、プルシコフは(どうやったのかまるで分からないが)倒したのだ。
自分の部下を自らの手で始末したプルシコフの心境は、ハヤンの想像の範疇を超えている。
ともあれ自分はともかく、ティアとトマスの二人が無事で良かったと真剣に思う。
プルシコフには感謝してもしきれない。
それにしてもこの異常な状況の原因が分からない。
一体どうしてこういう事になってしまったのか。
あるいは――
と言う思いが有る。
あの箱に何か原因が有るのではないか? ハヤンの純粋な勘でしかないが、それは遠くない気がしていた。
根拠は有る。
箱を手に入れてから見えるあの男が、言った言葉を聞いてから行動して、このような事態に巻き込まれたのだ、恐らくそれほど遠い推測ではないだろう。
だがとにかく、現状の危機は脱した。
あの箱にしても、プルシコフの意見を聞けばどうにかなるだろうとハヤンは考えていた。
ハヤンは部下を倒した時の格好でこちらに背を向けて立っている、色々と考える事も有るだろう、感慨深い事も有るのだろうとハヤンは思った。
僅かにその肩が震えているように見えるのは、もしかしたら泣いているのかも知れないと、この時のハヤンは思っていた。
まさか、プルシコフが絶え間無く自分を苛む、強烈な欲望と理性が、まるで最終戦争のように熾烈な戦いをしているとは、ハヤンでなくても他の誰でもまるで考えが及ばない話である。
「なあ、プルシコフ……」
慰めようとしているのかもしれない。
自分よりも色々な経験を積んでいるはずの男を慰める言葉をハヤンは持っていない、だが悲しい気持ちの人間には言葉よりも傍に居てやるだけで癒しになる場合も有る、実際にハヤンは親を亡くした時に悲しんで落ち込んだが、どちらの親の時も村人の誰かしらが傍に居てくれた、正直に言うと初めは一人にして欲しいと思ったりもしたのだが、その煩わしさが温かさに思えたのだ。
だから、ハヤンはプルシコフに近付きその肩に手をかけようとしていた。
近寄るとプルシコフはハヤンの方に向き直った。
その眼には悲しみの色が浮かんでいる……、と思ったが、他の何かもその感情の中には伺えた。
一体何だろうか。
ハヤンは深く考えずプルシコフに近付きながら。
「色々複雑だけど……、助かったよ。ありが――え?」
最初にハヤンが感じたのは、痛みよりも骨に触れた冷たさであった。
そしてすぐに、その冷たさが燃え盛る炎のような熱に変じた。
最初の冷たさの正体が、プルシコフが真下から天に突き上げるように振るった刃の冷たさであり、そして熱と言うのが体から溢れ出る血液であるとは、一瞬何も分からなかった。
背後からティアかトマスか分からない悲鳴のような声が聞こえた、あるいは両方の声か。
ハヤンは、自分では気付いていないかもしれないが、現在、常人を凌ぐ動体視力を有している。
それでも避けきれなかったのは完全に気を抜いていたからだった、もっとも反射的に咄嗟に半歩後退して、本来ならば体が真っ二つになるはずの攻撃でも肉体はそこに両断されずに残っていた。
だが、それだけである。
ハヤンから見て左下から袈裟切りに斬られ、内臓も肋骨も鎖骨も刃の通り道に有る全ての物が斬られていた。
致命傷である。
普通ならば出血多量で意識を失うだろう。
だが、ハヤンは意識を留めていた、これはハヤンの身に宿った力の為だけでなく、強靭な意志力がそうさせたのだろう。
プルシコフはハヤンに止めを刺す事も無く横を通り過ぎていった。
向かう先にいるのは考えるまでも無い。
ハヤンは何故? と考える余裕は無い、だがするべき事は分かる、プルシコフを止めなくてはならない。
さっきまでのプルシコフが自分を騙していたのか? それとも何かの力がプルシコフを操っているのか? それを考える余裕もハヤンには無い。
ただ単純に、裏切られたという思い、それとティアとトマスを守らなくてはならないという強い感情、それだけが本来ならば死んでいてもおかしくないハヤンの肉体を支えそして動かしていた。
「がふっ!」
ハヤンは声を出そうとしても溢れる血が肺にまで流れている、まるで溺れる者が必死に叫ぶような声でハヤンは叫んだ。
まともに走れない、大地を這うように進む。
止めろ――
止めてくれ――
ティアもトマスもその場から動けない。
プルシコフの異常な殺気に中てられているからと、目の前でハヤンが斬られたからである。
ティアはトマスの前に立ち、ただ近寄ってくるプルシコフを見ていた。
プルシコフは、無造作に手に持つ剣を、まるでビリヤードで球を突く時のように構えた。
突きの構えである。
もしかしたら一度に二人を同時に殺そうと考えているのかもしれない、それだけの攻撃力がプルシコフには有るだろう。
プルシコフの眼には理性だとか、そういう物がまるで無い、宴の時にティアが見たのは端正な顔立ちでそつ無く自分の役割をこなすプルシコフの顔である、それと比べるとまるで別人のように見えた。
眼は吊り上がり、歯を剥き出しにしていた。
怖い……
どうしようもない恐怖が全神経を支配している。
そうしている間にも、プルシコフの持つ剣の切っ先が自分に近づいて来る。
それは本当なら、物凄く早いのだろう、でもティアにはとてもゆっくりに見えた。
「がああああああああ!」
ハヤンは必死に手を伸ばした、信じられない力が今のハヤンには宿っている。
野獣のような咆哮で、プルシコフの背に飛び掛った。
だが、ハヤンがプルシコフの背を掴んだと思った瞬間に、いつの間にか顔面に強烈な衝撃が走り、ハヤンは真横に吹っ飛ばされていた。
プルシコフは、ハヤンの接近を背後も見ずに把握していて、丁度カウンターのように横面に拳を打ち込んだのだ。
ハヤンの口の中で、ごりっという音がした、舌で探ると口の中に小さな小石が転がっているような感触が有る、そして口に広がる独特の味。
歯が折れたのだ。
それを吐き出すが、その歯に名残惜しい視線を向けてはいられない、そんな事よりもまず動かなくてはならないのだ。
ハヤンの肉体は、先ほどから不思議な事に、斬られた痛みや、肉体を限界以上を酷使している疲労がまるで感じられない、それどころか力がむしろ湧いている感覚を味わっていた。
もしかしたら、命が燃え尽きる寸前の最後の炎の昂りなのかもしれない。
だが、頼る物はそれしかない、命全てを燃やし尽くしても守らなくてはならない物が有る。
ハヤンはもう一度プルシコフに飛び掛った、プルシコフの持つ剣はもう標的であるティアとトマスに向けて動き始めていた。
必死で手を伸ばす。
ここからは記憶が曖昧で、断片的にしか思い出せない。
後から思い出そうとしても、それはいくつかの場面だけである。
ハヤンの手はプルシコフの剣に届いた。
あるいはそれは奇跡と呼ぶに相応しい出来事かもしれない、どうかんがえても致命傷と呼べる傷を負い、なおかつ一度命を燃やすように飛び掛ってそれも返り討ちにされた人間は、もう一度同じような事をできない、肉体的にも精神的にも。
だが、ハヤンはやってのけた、ハヤンの肉体に常人とは比べ物にならない異常が起きているとはいえ、誰にでも出来る事ではないだろう。
手は届いた。
手は届いたのだ。
だが――
その手を貫いて、プルシコフの刃はティアの胸を貫いていた。
手の痛みよりも、ハヤンが感じたのは魂の痛みである。
憎悪でもない。
憤怒でもない。
憐憫でもなければ。
哀愁でもない。
そして絶望ですらない。
それを現す言葉をハヤンは知らない。
もしかしたら、この世にハヤンの心境を語るに相応しい言葉など存在しないのかもしれない。
自身の魂に皹が入る音すらもハヤンにははっきりと聞こえたようだった。
泣いていた。
叫んでいた。
その時だった。
溢れる。
溢れる。
力が。
命が。
欲望が。
ハヤンの全身の全ての骨格から、全ての器官から、全ての細胞から、全ての毛穴から、間欠泉のように噴出しているのは力の塊である。
まるで熱湯に浸かった様に全身が熱かった。
燃えるようだ。
脳を焼く熱である。
小規模な太陽が体内に出現したかのような熱である。
血液が沸騰している。
細胞が焦げ付き始めている。
ハヤンという純朴な田舎の村の青年は、たった今壊れてしまった。
そこに出現したのは、別の何かである。
そしてそれは決して善良な存在ではなかった。
もちろん、普通の状態ならばハヤンが同じ状況に陥ったとしても、これほどの心の傷は負わなかったかもしれない、もちろん普通の状態ならば剣で斬りつけられた所で終わっているが、明らかにハヤンの中の何かが精神の破綻に拍車をかけていた。
もちろんプルシコフも、目の前のハヤンの異常に気付いていた。
咄嗟に剣を引き抜こうとしたが、まるで動かない、ハヤンが手を貫かれながらその剣を握り締めているのだ。
まるで万力に挟まっているように動かない。
それどころか、何と鈍い音と共にその剣をハヤンはいとも簡単に握り潰したのだ、もちろん普通そんな事をすれば手の傷が広がってしまう、というよりも手を貫かれた状況で片手で握力のみでその剣を破壊できる人間などいるのか?
次の瞬間、プルシコフは剣を諦め、自身の持つ特異能力で攻撃を仕掛けようとしたのかもしれない、だがその瞬間に熱病に冒されていたようなプルシコフですらも眼が覚めるような感覚を味わっていた。
まるで氷水を浴びせられたような感覚だった。
プルシコフの中の何かが、眼の前にいる同類の存在に初めて気付いたのだ。
その時だった、ほんの僅かではあるがプルシコフの中の何かが動揺した瞬間を突いて、プルシコフは自分を操っている何かから意識の主導権を奪い取る事に成功していた。
並外れた精神力がなければ出来ない芸当である。
どうにか意識を取り戻したが、今までの記憶が曖昧である。
ラングをどうにか倒した所までは覚えているのだが、そこから先はほとんど記憶に無い。
だが現状を見ればどういう状況か判断できる。
自分の剣がハヤンとそしてハヤンの恋人? を貫いたのだ、それでハヤンは正常でなくなっている。
どうすべきか!?
その間に、ハヤンはプルシコフに向かって動いている。
激情の濁流のような勢いで向かってきている。
攻撃しなければならない――、だが自分の新しい能力はまだ制御が出来ない使うとかなりの確率でハヤンが死んでしまうかもしれない、逆にまったく通用しない可能性も有るのだが、どちらにせよその能力を使わないとハヤンの攻撃を凌げそうも無い。
どうすれば良いのか?
戦場において、迷いは禁物である。
それを骨の髄まで叩き込まれているはずのプルシコフだったが、ほんのコンマ何秒ではあるが迷った。
それが明暗を分けた。
何かがプルシコフの全身を叩き付けた。
体の一箇所ではない。
例えば腹を殴られたとか、顔を殴られたとか、足を蹴られたとか、そういう類の衝撃ではなかった。
全身である。
余す所無く全身に衝撃が走っていた、どういう攻撃を受けたのか想像も出来ない、ただハヤンがこちらに手を翳しただけのように見えた。
プルシコフの肉体は軽々と数mも宙を舞っていた。
受身を――
そう考えたのだが、思考が肉体まで届かなかった。
全身が痺れているのだ。
そのまま地面に叩きつけられた、呼吸が止まった、背中から打ち付けられて背骨にダメージが有るのだ、その衝撃が呼吸器官に一時的な機能障害を齎しているのかも知れない。
死ぬのか?
このまま追撃されると、どのような攻撃でも防ぎようが無い。
いつでも死ぬ覚悟はしている。
しかし、その覚悟も意識と共に薄れていく――
だが、その追撃は無かった。
・
そこにはハヤンと言う名前の一匹の狂獣がいた。
傷を負い地面に倒れている姉。
その傷を負った姉にすがり付いて無く弟。
ハヤンは僅かな理性で、どうにかその荒れ狂う狂獣を抑えようとした……しかし無理だった。
存在のレベルが違いすぎるのだ、アリが巨木を引き抜くのが不可能なように、それはハヤンには不可能な芸当だった。
いつの間にはハヤンの致命傷とも思えた傷は塞がっていた、傷跡すらそこには残っていない。
吼えていた。
誰かが自分に声を掛けているようだが、それがもう誰だか分からない、いや僅かな意識の中で感知している声を発しているのはトマスだ。
分かっているのだが、それに対するどのようなリアクションも取れない。
ただ思う。
逃げてくれ。
自分に近付かないでくれ。
これ以上自分に話しかけないでくれ。
それ以上近付いたらどうなるのか自分でも分からない。
頼むから、頼むから、心底頼むから、どうか早く二人で逃げてくれ。
ティアも胸の傷を抑えながら、横たわりながらハヤンを見上げている。
プルシコフの剣での傷は、ティアにとって致命傷ではなかったのだ、それを僅かな意識でハヤンは見ていた。
唇が笑みの形に変わる。
しかし、それは異形の笑みである、人が人に向ける笑みでは決してなかった。
肉食獣が、獲物を追い詰め、その獲物が足をくじいて倒れているのを見下ろすような笑みである。
二人の怯えが伝わってくる。
その怯えを喜ぶ自分がいる。
それを必死で抑える自分がいる。
どちらの自分が今主導権を握っているのか、それは考えるまでも無い。
いつの間にかハヤンの全身を赤黒くそれでいて黄金色を発する霧のような物が包んでいた。
そしてその霧がまるで熊のような、あるいは獅子のような、虎のような、大型の肉食獣に似た手を形成している。
何故逃げない、早く逃げてくれ、ハヤンは必死でそれを願った。だがそれはあまりにも小さすぎる声だった。
それと同時にも一人の自分が、一体何処に逃げると言うのだと嘲笑うかのように言う。
異形の右手は天に高々と掲げられ、そして――
止めろ――
振り下ろされた。
・
そして。
一夜明け、ここに村が有ったと言う痕跡も一つ残らず破壊し尽くされていた。
連絡が無い事を不審に思った軍部が、派遣した捜索隊がその村から少し離れた場所で発見した生存者二名。
それがクァルゴとプルシコフである。
プルシコフはあそこで意識を失っていた為か、あのハヤンに気付かれないで済んだのだ、そしてハヤンが別の方向に向かっていたのが幸運といえた。プルシコフは、あの場所から逃げ出し、そしてまだ気を失っていたクァルゴを連れて村から脱出したのだった。
暴れ狂うハヤンは、まるで一つの災害のようだった、あれをあえて止めると言う気はプルシコフには無かった。
その暴れっぷりは、一種の神々しい芸術品のようにプルシコフには見えた。
喜悦の表情すら浮かべて、プルシコフは遠くからそれを眺めていた。
後に、ここで人の常軌を超えた力を手に入れた数名の元隊員達が世界中に散らばり、そして思う存分暴れ周り、誰かが言いいつの間にか付けそして爆発的に浸透した『幻闘獣』という存在は、世界の脅威とみなされ、英雄連を初め、世界各国がそれの撲滅に臨んだのである。
生存者のクァルゴは、記憶が定かではないと言い。
もう一人の生存者のプルシコフは、他には誰も生存者はいないと証言した。
もう一人いた本当の生存者のハヤンは、逃げる訳でもなく当ても無く歩き出し、そしてそのまま消息を絶った。
それが五年前の事件である。
全てを失ったハヤンが失意の旅に出た最初の日であり。
プルシコフが新たに得た自身の能力により、出世街道を更なる速度で登り始めた最初の日でもあった。
ようやく過去のお話を書き終えました。
本当はもう少しグログロにやろうと思っていたのですが…、ちょっと急ぎすぎた感があって申し訳ないです。
さて、これから現代に話が戻るのですが、諸事情により一ヶ月ほどは更新が出来ないかあるいは非常に遅いペースになるのをご了承下さい。
必ず最後まで書き終えますので。
楽しみにしている人も、そうでない人も待っていてもらえると有り難いです。