第31話 溶解
ハヤンは思っていた。
自分は平凡であり、そしてそれで良いのだと。
その事に対して不満を感じた事は無い、それに何かをやってやる! という強い願望も無かった、悪く言えば望みが低いのかもしれないが、その事をハヤンは悩んだ事は無い。
だから、このまま自分は平凡で平穏で、そして普通に生きて行くのだと、どこかで思っていた。
その事に喜びも感じていたし、むしろ誇りすら持っていた、父が通り、祖父が通り、そしてそのずっと前の祖先が通ってきた道を、自分が歩き、そして子に伝えていく、それは何か偉業を達成するのと同等以上に意義の有ることなのではないか、そう思っている。
時には長雨や日照りが続き、悲惨な状況になる事もあるが、そういう苦しい状況も含めて満足している。
外部というか都会の知識に対する餓えは有る。
だから、都会の人間であるプルシコフに惹かれて、話が弾んだ。
もし、機会があれば、都会に遊びに行っても良いとは思う、数日観光をしてみるのも悪くない、でも、最後は結局居心地の良い場所に戻る、居心地の良い場所、それはこの村だ。もちろん旅行に行くようなそんな余裕がハヤンにあればの話だが。
それは夢の話だ。
夢はいつか覚める、覚めてそして現実に生きなければならない、夢も楽しいが現実はもっと楽しい、やりがいの有る仕事、充実した生活、平穏で緩やかに流れていく日々、これがずっと続く物だと、どこかでハヤンは確信に近い思いを抱いていた。
それが唐突に終わる事になるとは夢にも思っていなかった。
・
ファレイ。
その男はそう名乗った。
「何であんたは他に人に見えないんだ?」
質問したい事は沢山有る、その中でも単純でそれで一番分かりやすい疑問をハヤンはファレイと名乗ったその男に投げかけた。
問われて、数瞬ファレイはじっとハヤンを見詰めた。
このまま沈黙するのかと思いきや。
「自分の心は人には見えない」
と、だけ言った。
疑問を解く為に質問したのに、余計疑問が深まった。
自分の心? どういう意味なのだろうか。
「意味が分からないよ」
「だろうな、分かるとも思っていない」
投げやりな答え方をファレイはした。
人に対する温かみとか、思いやりとか、そう言う物とは無縁の性格のようだ。
ハヤンは少しむっとした。
「分かるように答えられないのかよ?」
と少しハヤンにしては珍しく、挑発的な口調で言ってみたのだが。
「相手による」
また同じように投げやりに、ファレイは答えた。
会話をしようとする気がまるで無いらしい、会話をキャッチボールに例えるならば、ファレイはこちらが投げた球を手で払っているようだった、あるいはキャッチしたボールを真後ろに放り投げるようでもある。
ハヤンが、ファレイとの会話を諦めようとした時。
急にファレイから声をかけてきた。
ファレイは顔だけぬぅっとハヤンの前に突き出して、囁くように。
「始まったぞ、もう。それほど遠くない場所で……。そしてここでも始まる」
とだけ言うと、強烈な吐き気を伴う悪寒がハヤンを襲った。
全身の毛穴と言う毛穴から汗が吹き出て、背骨が震えて立っていられないほどの悪寒である、眠っている時に得体の知れない虫が、足元を這った時に走るような、感覚を何倍にも強くしたような感触だった。
部屋の中心置かれている唯一の照明器具のランタンの光が、ファレイの顔を照らしてる、その陰影が浅黒いその顔を、何倍も妖しくそして恐ろしく映し出していた。
「何だっ!?」
叫ぶように、ハヤンがファレイに問いかけたのだが、そこには既にファレイの姿は無かった。
辺りを見回してもどこにもその姿は無い、いつも唐突に現れ、唐突に消える。
だが、ファレイの姿が見えなくなっても、まだ何か例えようも無い嫌な予感が体に纏わり付いている。
不安を隠しきれないハヤンは、居ても立ってもいられず家を飛び出していた。
目的地は分からない。
――いや、1つ有る
プルシコフの所だ、そこに向かうしかない。
辺りは真の漆黒だった、普段ならば星の明かりと月明かりで灯りを持たなくても、歩く事に不自由しないが、今は曇がそれらを覆い隠し一切の光が無い。
そんな中でも、ハヤンの足取りにまるで変化は無い、目的地がしっかり分かっているからとか、村で長年生きてきたから暗くても大丈夫とか、そういう次元の問題ではない、明らかな異常なのだが、今のハヤンにはそれに気付く余裕すらなかった、ちょっとした錯乱状態だったのだ。
それほど、さっきの悪寒が凄まじかったのだ。
プルシコフの居る場所までの距離はそれほどではない、走れば20分かかるかどうかの距離だ。
ハヤンは走っていた、その速度が今までのハヤンと比べるとこれもまた異常とも思えるほどの速度なのだが、それにもハヤンは気づいていない。
ただ必死だったのだ。
その時だった。
突然、村全体を揺るがすような轟音が響いた。
今までハヤンが聞いた事も無い音だったが、それは爆撃に近い音だ。
それと同時に一瞬だが、間違い無く地震が起こった、震度という概念はハヤンには無い(この地方に地震は滅多に無いからだ)、だが震度に換算すれば4〜5の揺れだった。
音の発生地点と思われる場所を見ると、そこには夜だと言うのに空を貫くような光が見えた、一体どう言う事なのか。
ハヤンはその足を止めていた。
何かが起こっている、自分の想像も出来ない何かが。
そしてそれが、決して良い事ではないという確信もハヤンには有った。
強烈な、胃を誰かが掴みあげるような不安と、そして僅かだが興奮? がハヤンを包んでいた、こういう時に興奮などと不謹慎に思う気持ちと共に。
その光の正体が、先ほどプルシコフが目撃した常人ではなくなった隊員の1人が、この村を去る際に放った言わば『祝砲』のような物である事をもちろんハヤンは知らない。
プルシコフの元に向かうべきか、あるいはその光の元へ向かうべきか、あるいはこの異常事態に気付き戸惑って恐怖しているであろうティアとトマスの元へ向かうべきか……
ハヤンにはいくつかの選択肢が有った。
プルシコフの元に向かうのならば、このまま北に15分ほど走ならければらない。光の元に向かうのならば、北東に同じ程の距離、同じ程時間走る必要が有る。ティアとトマスの元に向かうのならば北西の方角に向かわなければならない。
プルシコフの元には何かしらの答えが有る気がした。
光の元には、事件が有る気がした。
ティアとトマスの元には――
ハヤンが迷ったのは一瞬だった。
迷ったのはどれが正解か分からなくてというより、答えは既に頭の中で決まっているのに、それをちゃんと把握するまでの時間のようだった。
ハヤンの、その足は北西に向かっていた。
守りたい物、そこにはそれが有るから。
ハヤンの家の周りには誰も住んでいないが、ティアとトマスの家の周辺には、いくつかの家が並んでいる、それは行っている作業の性質と昔からの付き合いとか色々あるのだという。
もう少しで、ハヤンはティアとトマスの家に着こうかと言う時、道に奇妙な物を見つけた。
夜であり、普通は気付かないかもしれないが、今のハヤンにははっきりとその形が見えていた。
それは、奇妙な水溜りに見えた。
大きさは2mほど、形は普通なのだが、僅かに水が盛り上がっているように見える。
色ははっきりと見えないが、何かが引っ掛かる、一体何なのか。
雨など一切降っていないのに、そこに水溜りが有ると言うそれだけで異常だと、ハヤンは気付いていた。
そう思った瞬間に何かが、真後ろから覆い被さるようにハヤンの体に纏わり付いていた。
蛇が足に纏わり付くのとは違う、全身に、そう例えるならば、何かかなり粘着性のある液体の中に放り込まれたような感触だった。
両手両足が自分の自由に動かない。
まるで蜘蛛の糸に全身を捕らわれてしまったかのようだった。
(何だ? 何なんだ!?)
激しい動揺を抱えながら、それでも必死にその物から逃れようと必死に動いた。
このままでは呼吸が出来ないほどの状況になってしまう、そう思ったからだ。
生命の危機。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、ハヤンの体はハヤンが思っている以上に素早く、そして力強く動いた、自分自身が一番知っているはずの体の機能とその限界を軽々と凌駕する動きだった。
その力は、体全身を覆いつくそうとする謎の粘着性の物体の力をぶち破り、自由を獲得する為には充分すぎるほどに動いた。
今まで眠っていて、たった今目覚めたような。あるいは生命の力の源を直接注ぎ込まれたような素晴らしい動きだった。
体の自由が戻った時、ハヤンが足元に転がっている物を見ると、それは奇妙な物体だった。
海をハヤンは知らない、だが海を知っているものならばその物体をクラゲに似ていると思ったかもしれない。
何故か、空気に触れると皮膚が痛んだ、全身の皮膚から煙が上がり、痛痒いような感触を感じていた。
もしも後少しあれに触れていたら、あるいは皮膚が溶かされていたかもしれない。
「っかしいっスね〜」
まるで場違いな声がハヤンの耳に届いた。
その方向に視線を向けると、いつの間にかそこにはハヤンの知っている男がそこに立っていた、知っていると言っても自己紹介もしていない、向こうにしてみればハヤンの顔も知らないだろう。
その男はプルシコフと一緒に、村を訪れた隊員の一人だった。
だが、昼間に見た時、そして宴の時に見た時とは明らかに表情が違う。
確か、その男の名前はラングと言ったはずだ。
「何で溶けないんスかね? 今まで試した奴らは全員溶けたのに、それにアレから逃げられるってのは納得出来ないスね〜」
その言葉が、耳に届いた時、ハヤンはその意味をかみ締める前に、激しい感情が体の奥から呼び起こされるのを感じていた。
今までの奴ら? 溶かす?
と言う事は、他の村人を溶かしたというのか、殺したというのか。
はっとした、もしや今さっき見た水溜りは、今の奇妙な物に取り込まれて溶かされた人の残骸と言う事なのか。
それはもしかしたら――
そう思った時には、ハヤンは自分の細胞の一つ一つを焦がすような、今までの人生で感じた事の無い強烈な感情と共に、体の内部に濃密な力が沸き起こるのを感じていた、全身がぐらぐらと煮立ったような気分だった。
ハヤンを今、支配している感情、それは憤怒だった。
「あんたちょっと他の奴より丈夫なのかな、なら念入りに溶かしてやるだけスよ」
ラングが、その言葉を発した瞬間だった。
ハヤンの右拳の鉤打ちが、ラングの左頬に思いっきりめり込んでいた。
ラングの顔は千切れんばかりに右に捻れながら、そして信じられない速度で後方に吹っ飛ばされていた、吹っ飛びながらラングの首が嫌な音を立てていた。
ラングとハヤンの距離は、5〜6m以上は離れていた、その距離を一気に詰めて殴ったのだ。
技ではない、単純な腕力だった。
だが、ハヤンのその単純な腕力が、人を簡単に溶かすような能力を持つ怪物に通じた。
殴った瞬間に、ハヤンはへなへなと大地にへたり込んだ。
信じられない力が溢れた事によるショック症状のようなものだ。
確かに、今の動きは人間の常識をはるかに超えていた。。
ハヤンの肉体に、想像を絶する異変が起きているのは間違い無かった。
それに人を殴ると言う事も、ハヤンの人生でも初めての経験だった。
今のように首が捻れたら首の骨が折れてしまうのではないか、死んでしまうのではないか。
そういう恐怖も有る、自分は人を殺してしまったのか?
ラングはピクリとも動かない。
良いじゃないか、あいつが先に攻撃してきたんだから殺したって――
そういう声が聞こえた気がした。
どこか物凄く近くで。
「ハヤン……なの?」
知った声が耳に入り、背後を振り返ると、ティアとトマスがランタンを手に持ちそこに立っていた。
2人共に不安げな表情が隠しきれない。
だが、ハヤンは良かったと、心からそう思った、少なくとも2人は無事だった……
だが、それと同時に1つの思いが巡った、この2人がわざわざこんな夜に、いくら先ほどのような異常な音がしたからと言って、出てくるか?
外に出たいと言ってもおじさんが止めるはずだ、なら何故2人がここにいる。
様子を見に行った父親の帰りが遅くて、心配で出てきた――そういう考えがハヤンの頭に浮かんだ。
と言う事は、さっきそこで溶かされていた人は……
「どうして2人で?」
声の震えを隠し切れないまま、ハヤンは2人に尋ねた。
「父さんを見なかった?」
「さっき外に行ってから帰ってこなくてさぁ」
2人からの予想通りの答えに、ハヤンは愕然とした。一体どう答えれば良いと言うのだろうか。
その言葉がハヤンには思いつかなかった、それにまだそうと決まった訳ではない、だが本当に溶かされてしまったとするならば、本人と確認する方法も無い。
何とかハヤンが言葉を発しようとしていた時、ティアが悲鳴を上げていた。
ハヤンが咄嗟に振り返った時、そこには首が異常な方向に向いたままのラングの姿があった。
ラングは、無造作に自分の頭部に両手を添えると、強引にぐいっと右に向いていた顔を真正面に戻した、戻す時に吐き気を催すような音が聞こえた。
「な、何だよ、あいつ!?」
トマスにも恐怖の色が浮かんでいた。ティアにいたっては言葉を完全に失っている。
「ってえ、スね……。あんたも同類スかね?」
眼にギラギラと溢れんばかりの生気が漂っている。
今の程度の攻撃など、まるで問題にはならないようだった。
「んじゃあ、手加減しないスよ。けど2人もお荷物抱えた状態じゃ、闘えないけどどうしますぅ?」
嘲るような言い方だった。
だが、確かに言うとおりだった。
自分1人でもこの異常な男を相手に勝ち目が有るか分からない、さっきのような攻撃はまぐれだ、それに相手が油断していたからというのも有る、今度は油断していないハヤンがさっきのような動きが出来ると相手に知られている上に、ティアとトマスを守りながら闘って勝ち目なんか無い。
ラングの両手からボタボタと何かの液体が垂れていた。
その液体は、地面に染み込まない、積み重なるように段々とその液体は大きくなっている。
いつの間にか、それは先ほどハヤンを襲った謎の物体と同じ物になっていた。
透明で大きなクラゲのような物体に。
「こいつは今のところ何でも溶かす事が出来るスよ……、自分で好きなように好きな物を……」
まるでゴム鞠で遊ぶように、ラングはその物体を両手で地面に弾ませていた。
「あんたは、耐えられたけど、普通の人は10秒もかかんなかったスよ、子供なら5秒もかからないんじゃないスかね〜」
心底楽しむように、邪悪な笑みを浮かべてラングは言っていた。
「ハヤン……」
トマスが縋るようにハヤンに声を掛けた。
「2人とも俺の後ろに居るんだ……」
そうすれば最初の攻撃でやられたりはしないだろう、自分が盾になれば……
ラングの殺気が一層強くなった。
来る――
ハヤンがそう思った時、ハヤンの眼は有るものを捕らえていた、ラングはそれに気付いていない、気付かぬまま獲物を前にして笑みを浮かべたままだ。
そして。
「じゃ、もう死ぬスか――、がぶぅ。ヴァれ?」
ラングの喉から刃物が突き出ていた。
刃物の切っ先が、喉から出現し、そして溢れるように血が飛び散っていた。
誰かが、首の後ろからラングに刃物を突き刺したのだ、それを瞬時に理解していたのはその場では2人、1人はハヤン、もう1人はその攻撃を仕掛けた男である。
ティアと、トマスは何が起こっているのかまるで分かっていない表情を浮かべている、ただただ驚くばかりである。
ラングは首を貫かれていると言うのに信じられない生命力で、背後から自分に攻撃を仕掛けてきた相手を振り返った。
少し離れた位置に1人の男が居た。
「どうにか間に合ったようだな――」
よほど急いだのだろう、この男にしては珍しく僅かに呼吸を荒くして、若干顔を紅くして。
ハヤンにとってこの状況で、これほど頼りになると思える存在はちょっと思いつかなかった、付き合いはまだ浅いが、だが信頼に足りえる相手だと思っている。
今、自分を襲ってきた相手は、本当はこの男の部下であり、本来ならばこの男に救いを求めるのはおかしな話だ、一緒になって襲ってくると思うのが正しい反応なのかもしれない。
だがそういう考えを一瞬で払拭させる行動をその男はした、仲間だと思っている相手の首にナイフを突き刺す事は出来ない。
と言う事は助けに違いない、ハヤンは状況は理解できないが、僅かながら安堵の表情を浮かべた。
今、自分と後ろで震えている2人を助けてくれるのはこの男を置いて、この村には誰もいない。
「プルシコフ!」
ハヤンは、思わず大きな声を発していた。
声には喜びすらも篭っていた。