第29話 狂気の宴
突然の事に、ジブデンは反応できなかった。
一体何が起こっているのか。
突然、倒れていたはずの部下が、信じられない跳躍力で飛び上がり自分に襲い掛かってきたのだ。その部下の両瞳の色は真っ赤に燃えるような色をしていた。
獣が獲物に襲い掛かる寸前の獰猛な眼光だった、いやそれよりもなお恐ろしい。
そして、その動きは人の動きとはまるで違う動きだった。訓練された人の動きは、常人の常識では測れないほどの動きを見せるが、それでも”人”の枠にはどうにか収まる動きである、それがディゼルの動きには感じられない、人ではなく別の何かの動きだった。
訓練された人間とどちらが上という差ではない、ただ人間の体の常識を超えたその動きは、純粋に不気味だった。
ディゼルは、右拳を上空から振り下ろす攻撃をジブデンに目掛けて放っていた。
ただ上空から殴ると言うだけでなく、上空で体を捻りながら、明らかに不自然な体勢でジブデンに攻撃を仕掛けている、普通の人間ならばこう言う攻撃はしない、まるで自分の肉体の動きそのものを楽しむような攻撃だった。
そのディゼルの異常な攻撃を、技術とかそういうレベルではなく本能的な反射神経で、ジブデンは咄嗟に避けていた。
あるいは奇跡と呼んでも良いのかも知れない、酔っ払っている状況で、そして戦闘は得意ではないジブデンが、そういう動きを取れた事は紛れも無く奇跡と呼ぶしかない。
左側に転がるように、避けた。
転がりながら床に頭を自ら叩きつけてしまっていたが、その痛みに構っている余裕は今のジブデンには無い。
ジブデンが、必死に体勢を立て直そうと手に力を入れた瞬間、右腕に激痛が走った。
見ると、ジブデンの右腕は有り得ない方向に捻じ曲がっていた。
まるで右腕だけが大惨事に有ってしまったような、そういう破壊であった。
それを見た瞬間、恐怖とそして吐き気が沸き起こった。
今の攻撃、自分は避けたと思ったが、右腕には当たっていたと言う事だ、そして相手の攻撃は標的を逸れて当たったと言うのに、これほどまでのダメージを自分の肉体に与える事が出来るのか、という恐怖がジブデンを貫いていた。
助かる為には、どうするか?
ジブデンは、混乱する頭を必死に働かせて考えた。
もう恥も外聞も無く、他の部下に救いを求めるしかない。
幸いな事に、今自分を襲ってきた部下は、攻撃の手を止めているようだ。
いくら、さきほど反抗的な態度を取っていたとはいえ、俺が死ぬようなことになれば、本心ではこいつらも困るだろう、だから何とか自分を助けるように動く、そういう目論見がジブデンには有った。
這うように、一番近くに立っていた隊員に近寄り。
「おい! あいつを止めろ! 止めてくれ!」
だが、その隊員は、ジブデンの言葉に反応しない。
「おい! 何とか言ってくれ」
ジブデンの眼には涙すら浮かんでいた、苦痛とそして恐怖からである。
その隊員のズボンを引っ張りながら、懇願するようにジブデンは言ったのだが、それにもまるで反応を見せない。
おかしいと思い、その隊員を見上げると、ジブデンは驚愕した。
自分を見下ろしている、その隊員の眼も、今自分を襲ってきた男と同じ、真っ赤な燃えるような色をしていたからである。
そして、その口には堪え切れない笑みが浮かんでいた。
「お……、まえ……」
ジブデンは咄嗟に他の隊員にも救いの視線を送ったが、それが無駄で有ることに気づいた。
他の隊員も棒立ちになり、そして何か体から迫り出してくる物に耐えているような、あるいは喜んでいるような表情を浮かべているのだ。
コテージ内の他の隊員にも同じような異変が起きつつあるのだった。
「俺だ……」
誰かの口からそういう言葉が漏れた。
「いや、俺がやる」
また他の誰かが言った。
「やらせろよ、俺に」
「こいつは俺がやるよ」
「俺が適任だろう」
「俺しかいない」
似たような言葉が、次々と隊員達の口から発せられていた。
6人全員が矢継ぎ早に言い合っている。
まるで獲物を捕えた肉食獣が、誰から先に獲物を食べるのか、それを話し合っているようだった。
そして、それはあながち間違いではないのかもしれない。
「なら、早い者勝ちだ」
「そうだな」
「そうするか」
「いっそ全員でやるか」
「それも良いが、早い者勝ちだ」
「やるか」
「やろう」
「おう」
その言葉と同時に、コテージ内のジブデンを除く隊員6人が、一斉にジブデンに飛び掛っていた。
ジブデンは、自分の喉からこういう声が出るのかと思えるほどの、あらん限りの声で叫んだ、ジブデンの人生で最大の叫び声だった。
しかし、その叫びで動きを止める人間も、助けてくれる人間も、そしてまともな”人間”もこのコテージのどこにもいなかった。
絶叫は5秒もしないうちに止んだ。
・
ジブデンの絶叫が途切れてから、数分後。
見張りに出ていた2人の隊員は、交代時間になっても代わりの人間が来ない事を不信に思い、コテージの見える場所まで戻ってきていた。
何しろこの2人は宴の最中も、差し入れこそあったが、食事もろくに摂らずに、見張りを続けていたのだ。
それなのに見張りの交代に来ない事に、かなり2人は不機嫌になっていたが、それ以上に何か不穏な雰囲気を2人とも感じていた。
その気持ちが、コテージに向かう足取りを慎重なものにさせていた。
「何か有ったのかな?」
1人の隊員が、もう1人に声を掛けた。
声を掛けた男の名前は、アルバート。
もう1人の男はグラハムという。
「分からないが、プルシコフさんが見張りの交代時間に気付かないはずが無い、他の奴らだって自分でそれくらい覚えているはずだ、それに今までこんな事は一度も無かった」
「酒が入って寝ちゃったとか?」
「有り得ない、王様の奴ならきっともう泥酔状態かもしれんが、他の奴らはしっかりしている」
「じゃあ……」
もしかしたら、何か不測の事態が起こっていると言う事か?
何かに襲撃されているとか、それをアルバートが口に出そうとしたが、グラハムはそれを遮り。
「行って見なければ分からない、迂闊な事は言えん。ただ用心は必要かもしれない……」
グラハムは慎重な発言をした。
内心ではもしかしたら、本当に宴で騒ぎ疲れてうっかり忘れただけかもしれない、という思いもあるが、それはほんの僅かだ。
宴に参加する事も無く、見張りを続けている仲間を忘れる連中ではないという思いの方がずっと大きい。まだたった数週間共に行動しただけだが、それだけの信頼関係が築けているとグラハムは思っている。
では一体何が有ったと言うのか、それはやはりアルバートに言った通り、コテージを見に行かなければ分からない。
「行くぞ」
重厚な口調で、グラハムはアルバートに声を掛けた。
コテージの周辺は、妙な雰囲気だった。
近寄れば近寄るほどそれを感じる。
何が、という訳ではない。
具体的には分からないが、妙に肌に粟粒が浮くような感触が有る。
そして、あえて言うならば、隊員達が中に居て、いつも大声で騒いだりはしないが、それでも僅かな話し声が聞こえても良いはずなのに、まったく聞こえない。
人が動いている気配も感じられない。
そして明かりも付いていない。
時間はまだ11時を過ぎていない、酒が入っていたとしても眠るにしても早い。
静か過ぎる――
何かと闘っているとは思えない、もしも何か突然の襲撃が有ったとしたら、今はもうその襲撃が終わっていると言う事か。
あるいは息を殺して潜んでいる者が居ると言う事か。
グラハムは僅かに、筋肉の緊張を覚えた、意識していないが、肉体が自然に何かの異常を感じ取って対応を始めているのだ。
異様な緊張感がその場を占めていた。
アルバートとグラハムは共に、その頬に僅かではあるが冷や汗が垂れていくのを感じていた。
グラハムは足を止めていた。
アルバートも、不用意にコテージに近寄ろうとはしなかった。
「どうする? やっぱ何かおかしいぜ」
かなり真剣な口調で、アルバートはグラハムに尋ねた。
「あの中で誰かのバースデーパーティーをやっているとは思えんな」
緊張を解す為か、グラハムは不釣合いな冗談を言った。
武骨に見えるこの男がそういう冗談を言うと、妙な違和感が拭えない。
「案外、俺かお前のサプライズパーティーかもな」
だが、アルバートはその冗談に乗っかり、答えた。
すると、グラハムが急に黙った。
「……」
「どした?」
「俺は明日、誕生日だ」
「……」
「冗談だ」
真顔でグラハムは言った。元々グラハムはどう見ても軍人顔のいかつい大男で、冗談は滅多に言わない、それだけこの異常な状況の緊張感を解そうとこの男なりに努力したのかもしれない。
冗談の内容よりも、そういう努力の方がアルバートには面白かったらしい、声を殺して笑っていた。
「冗談はここまでだ」
恥ずかしさを隠すようにグラハムは言った、暗くて見えないが、恐らく僅かではあるが顔が赤くなっているのだろう。
「あ、ああ、そうだな」
笑いをどうにか抑えながら、アルバートはそれに答えた。
緊張は十分に解れた、お互いにもう顔には僅かほどの油断も過度な緊張も無い。
どういう状況だろうと、対処できるといった自負に溢れる表情だった。
2人は慎重な足取りでコテージに近寄っていった。
2人とも僅かほどの足音もしない、気配も見事に消している。
そのまま、猫が慎重に獲物に近付くように、そろりそろりと近寄っている。
ゆっくりとコテージとの距離を詰めている。
後5mほどで、コテージの入り口に辿り着くという所で、コテージの方向から、急に何かが飛んできた。
早い動きではない、直線ではなく上からふわりと投げられたような、そんな勢いだった。
2人に緊張が走った。
飛んできた物が正確に丁度2人の中間の辺りに落ちたからだ。
ぼとりという音を立てて、それは落ちた。
暗くてはっきりとは見えないが大きくはない、小さい物だ。
武器として投げられた物ではない、そういう勢いではなかった、しかし爆弾の類の可能性も有る、咄嗟に2人は左右に飛び退き、そして身を隠すように地に伏せていた。
しかし、何も起きない。
グラハムは自分達の位置が相手に気付かれている事に驚いていた。
何故だ?
そういう思いが有る。
かなり慎重に気配を消していたのに、それに気付いたと言う事か――
それとも偶然か?
その時、丁度雲間から月が姿を覗かせて、大地を照らした。
その瞬間、地に伏せながら2人は息を呑んでいた。
飛んできた物の正体に気付いたからである。
それは人の足だった。
アキレス腱の辺りから、剣などでスッパリと斬り落とされたのではなく、何か常識外れの力で引きちぎられたような印象を受ける足。
切り口が、まだ生々しく乾いていない、少しではあるがまだ血が流れているのだ。
そういう物が転がっていた。
靴を履いたままの足だった。
驚きはしたがさすがに悲鳴まであげるほど2人はこういう状況にウブではない、新兵ではあるが、今までの演習などで人の死やバラバラになった肉体などは何度か眼にしている。
それでもその驚きは尋常ではなかった。
グラハムはその靴に見覚えがあった。
確か、ジブデン隊長が履いていた物だ、この足の太さも間違い無い。
では、ジブデン隊長が何者かに殺され、そしてその殺した相手はコテージに残っていて、そして自分達の場所すらも把握していると言う事か――
咄嗟にそこまで考えた。
危ない。
そう思った。
圧倒的な危機に今陥っているのだと確信した、こちらはようやく敵が存在すると言う事実に気付いた所だが、相手はこっちの居場所も掴んで居るという事になる。
どう考えても不利だった。
――アルバート! 逃げるぞ!
その言葉が、グラハムの口から出る前に、グラハムは気付いていた。
アルバートの異常に。
少し離れた位置で、自分と同じように地に這い蹲っているアルバートの、”高さ”がおかしい事に。
まるで、そう、地面に体の半分以上が埋まっていないと、計算が合わないほどに低いように見える。
もちろんたまたまアルバートが伏せた場所が、誰かが最初から穴を掘っていて、そこに偶然アルバートが入り込んだと言う可能性も否定は出来ない、そういう地形だったと言う可能性も有る。
しかし、グラハムが、敵から攻撃されると言う危険性を無視して立ち上がり、それを見ると、自分の考えが間違っていなかった事に気付かされた。
グラハムは戦慄を覚えながら、それを見た。
そこにはアルバートの体は半分しかなかった。
まるで底なし沼に引き込まれているように体が徐々に徐々に溶けているように見えた、今では鼻から上の顔と肩ぐらいしか残っていない。
グラハムは、アルバートを助けるという選択肢が頭に浮かばなかった、もし浮かんだとしても体の半分が溶けてしまっている人間を、一体どういう方法で助けられると言うのか。
グラハムは逃げるしかなかった、走るしかなかった。
じっとしてはいられない、この場にじっとしていては精神が参ってしまう。
一体どういう方法で人の肉体をああいう風に破壊するというか、考える余裕すらも無かった。
走りながらグラハムの口からは意味不明の言葉が漏れていた、相手と戦おうと言う意思が完全に殺がれていた、今まで何度もダルマの修行の際に心を鍛える練習をしていたが、今のグラハムには関係無かった、いかつい顔をまるで怯えた幼児のように歪め、全力で走るしかグラハムには道が無かった。
そのまま全力疾走で100mは走ったかどうかという辺りで、必死の形相で走るグラハムの前に、誰かが立ち塞がった。
まるで地面から湧いて出てきたようだった、待ち伏せしていたと言う事だろうか。
誰だ!?
言葉には出さないが、間違い無く敵だ、何故なら隠しきれていない、また隠そうともしない殺気が信じられないほどグラハムに向けられているからだ。
グラハムは、明確な敵の出現にようやく正気を取り戻していた。
不思議な話だが、敵が出てきた事に安堵すらしていた。
相手がはっきりしていない恐怖は無尽蔵に広がるが、相手がはっきりしていれば、それと闘う事が出来る、そう考えたようだった。
パニック状態だったのが嘘のように、顔にはかなり平静が戻っていた。
腰からナイフを引き抜き、その敵と対峙した。
相手は、まるで人の形をした闇だった。
顔も分からない。
じっとこちらを見ている。
森の中から大型の肉食獣に見詰められていたら、きっと同じような感触を味わう事が出来るかもしれない。
しかし、相手は1人、少なくともここには1人だ。
ならば闘える。
どういう相手だろうと、自分より圧倒的に強い相手だろうと、殺される時は一瞬だ、恐怖は薄い、そうグラハムは思っている。闘っている最中には恐怖を感じている暇は無い、全力で相手を攻撃するだけだ、ならばさっきの状況より、今の方がずっとマシだった。
闘って、そして死んでやる。
きっと自分は勝てないだろう、勝てなくても良い、例えこの相手がどれほどの強さを持っていようと、絶対に相手にこのナイフを突き立て、僅かでも傷を負わせてやる。
そういう強い意志がグラハムに湧いていた。
グラハムは叫んだ。
鼓舞の雄叫びだった。
自分自身を奮い立たせる為の、雄叫びである。
来るなら来いッ!
その言葉を喉から発したつもりだった。
だが、グラハムの喉から発せられたのは、熟れて腐り落ちる寸前の果実を齧ったような音と、そしていくら吸い込んでも肺に入ってこない空気の音、そして声を発する為に空気を喉に送っているのにそれがまったく機能していない、空気が漏れるような音だけであった。
え?
グラハムが怪訝な表情を浮かべたが、その時には既に遅かった。
今まで目の前に居たはずの敵の姿が消え、そしてグラハムの喉肉がごそりと無くなっていたのだった。
グラハムがそれに気付いたのは、痛みによる物ではなく、ナイフを持っている右手ではなく左手で、喉に触った触覚からだった。
その気になれば、そこから指を入れて、頚椎に触れる事すら可能のように思えた、それほど深く肉を抉られているのである。
一瞬の事で痛みすらまだ感知しない、ただ不気味な感触だけが有る。
一体いつの間に――
それを考える間も無く、肺にも胃にも熱い物が流れ落ちていく、その今まで感じた事の無い不可思議な感触を充分に堪能する間も無く、グラハムは力無く地に崩れ落ちた。
グラハムは倒れたままピクリともしない。
グラハムの考えは間違っていなかった。
確かに殺される時は一瞬であった。
・
ちょうどその頃、プルシコフはハヤンの家を出て、隊員達が待つはずのコテージに向かっていた。
その時はまだ、いくら聡明なプルシコフであっても、自分の仲間達に起こっている異変に気付くはずも無かった。
風はまだ穏やかに流れていた。