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第25話 プルシコフの選択

 

 それからプルシコフは、水を飲む時と用を足す時以外は、その場を離れなかった。

 そして座り込んで睨むように豚を見ている。

 豚の方も、自分は呑気に足元の草を食べながらプルシコフを時折見る。

 その眼には愛くるしささえ感じられる。

 プルシコフには、この場から逃げると言う考えも有ったのだが、それをすると自分は一生何事からも逃げなくてはいけない、そういう予感がしていた。

 そんな生き方は想像するだけで辛いだろうと思う。

 

 学校で苛められても、何とか家に逃げて難を逃れて生きてきたが、それを一生続けるのは無理な話だ、学校から逃げたのは時間が経てばそういうイジメもなくなるだろうと言う予想が有ったからだ、だが大人になってからも似たような事が続くのだとしたら……

 ここで踏ん張るしかない、何故だか分からないが、この事を真剣に考えて、そして結論を出せば自分は変われるのではないか、そう思ったのだ。

 考えてみればおかしな話だ、何で自分はこういう事を今まで1度たりとも考えてこなかったのだろうか、それが不思議で仕方が無い。

 他の同級生もそういう話をしているのを聞いたことが無い。

 するのはせいぜいが、その日の夕食の話だ。

 その夕食の材料をどうやって殺して料理しているのか、そこまでは誰も想像が回っていないと言う事なのだろうか。それとも知ってはいるがあえて言わないだけなのか?

 自分にしても魚は平然と焼いて食べた癖に、豚となると何故こうも躊躇するのだろうか。

 意思を持っているから? 

 そんな馬鹿な、魚だって意思は有るだろう、もしかしたら草にだって有るかもしれない。

 意思を持っている生き物を殺すのは残酷なのだろうか、じゃあそれを食べなくては生きていけない人間は残酷な生き物と言う事だろうか、違う、どんな生き物だって他の命を糧に生きているのだ。

 じゃあ、豚の方が魚よりも賢いから殺すのは可哀想と言うのか。

 それもおかしな話だ。

 殺して喰うのに相手が賢いかどうかは関係無いはずだ、命に順序は無く優劣も無く、ただ姿形の大小の差が有るだけのような気がしてきた。

 

 もっとだ。

 もっと深く考えろ――

 プルシコフは、もう丸一日以上何も食べていない。

 今までどれだけ物を食べなくても、一日以上も食べなかった事は無い、体調を崩して食べ物が喉を通らなかった事はあっても、それ以外は大抵三食共に決められた時間に出された物を食べていた。

 堪らない空腹がプルシコフを襲っていた。

 眩暈がする。

 頭痛がする。

 獰猛な獣の雄叫びのように、胃袋が食料を要求している、どれほど水を流し込んでもその獰獣は満足しなかった。

 水を飲みに立ち上がる足にも力が入らなくなってきた。

 ふらふらする。

 まだたった1日しか経っていないというのに、まるで体中のエネルギーが底を尽いてしまったようだった。


 2日目。

 プルシコフの頬は明らかにこけていた。

 睡眠不足で濃いクマが目の周りには浮かんでいて、そしてその眼には力が感じられない。

 ふとした拍子に意識を失ってしまいそうな危うさがそこに有る。

 明らかに体力が限界を迎えつつあるのが分かる。

 手にはダルマに渡されたナイフが握られている、最初の日からずっと握ったままだった。

 目の前の豚も、足元の草を食べ尽くし、水は時折プルシコフが運んで飲ませてやる分だけなので、この豚にも餓えと渇きが襲っているのが分かる。

 恨めしそうな表情でプルシコフの方を見る、”ねえ、ご飯はまだなの?”そう言っているように見える。

 その様子を2つの暗い穴のような双眸でプルシコフは見詰めている。 

 あらゆる意思が、思考が、思想が、その目からは感じられない。

 ただ目の前のものを見ていると言うのとも違う、では何か、と問われるとそれは本人にしか分からないとしか言いようが無い。

 恐らくもう人に感じられるほどの量を発せられない状態なのだ、だが心の中では様々な考えが、今まで一度も真剣に考えた事のない事柄についてのプルシコフなりの考えが頭を駆け巡っているのかもしれない。

 

 プルシコフには自分の都合の良い幻覚と幻聴がさっきから何度も見えていた。

 「もう良いよ我慢しないで僕を食べて」そうやって人語を喋っている豚が目に映っている。

 様々な料理に自分の体を使って、それをプルシコフの前に並べる光景だ。

 かなりグロテスクな幻覚なのにプルシコフはまるで反応らしい反応を見せない。

 次の瞬間には、「もう沢山だ! 早いトコこんな場所から逃がせよ、な」と言っている姿が浮かぶ。

 そしてついに怒り狂った豚が、プルシコフに襲い掛かり、プルシコフの体をバリバリと音を立てて食べる光景を、食べられているはずのプルシコフが座りながらそれを眺めている。


 他にも様々な、現れては消える支離滅裂な幻覚に苛まれながら、プルシコフは考えていた。

 自分の心をこれほどまでに、じっくりと時間をかけて見詰めていた事など今まで無かったかもしれない。

 プルシコフは驚愕していた。

 心とはこれほどまでに広いのか。

 思考とはこれほどまでに深いのか。

 そういう驚きが溢れて止まらないのである。

 これは錯覚かもしれない。

 もしかしたら極限の空腹が見せた、ただの幻覚の類かもしれない。

 だが、間違いなくプルシコフは心の中に、果ての知れない宇宙の存在を感じたのだ。

 無限の世界だ。

 目の前の命、自分の命。

 それだけなのだが、それが永遠に果てしなく続く……、そういうイメージが頭に浮かんでいる。

 目の前の命が、豚であれ、魚であれ、鳥であれ、牛であれ、猫であれ、犬であれ、そして人であったとしても、自分の命が極限までに消費されたら、それを摂取しなければ生命は存続し得ない。

 普段の生活で人は犬も猫も、そういう食生活が無い限りは食べる習慣が無い、だがそれでも空腹の極みまで追い込まれたら人はそれを食うだろう、絶対に食わないと豪語する人間は、自分の命を大事に思っていないだけなのだ。

 命に隔ては無い。

 プルシコフはそう考えた。

 

 プルシコフが決断を下したのは、豚の目の前に座り込んでから丸2日と5時間後だった。

 

 「ぼく、食べるよ」

 ぽつりとプルシコフが呟いた時、いつの間にか横にはダルマが立っていた、恐らく何かを決意した気配を悟って、現れたのだろう。

 今のプルシコフならば、気配を消さなくても自分の横に誰が立っているかなど分からなかっただろう、むしろダルマがその言葉を聞いてわざと気配を濃密な物にしてプルシコフにぶつけたから気付いたのだ。

 だが、ダルマの方を向かずに目の前の豚に視線を注ぎながら。

 「色々と理屈は思いつくけど、そんなことこいつには関係ないんだよ、どんな理由だって自分が殺される事には変わらないんだから、だったら単純にお腹が空いたからって理由でぼくはこいつを食うよ、それで良いんだよきっと」

 はっきりと自分の意思を、自分の口で告げている、今までの俯き加減で何を言っているのか聞く方が気を使わなくては伝わらなかった喋り方ではない、まったく別のプルシコフがそこにいた、それは成長と言ってしまえば容易いが、人はたった2日でここまで変わる物なのかというほどの変化である。

 「そうか」

 ダルマは、それを褒めるでもない、慰めるでもない、また戒めるでもない、どのような感情にも取れるが、またどのような感情にも取れない返事を返した。

 「ぼく今まで一体何を考えて生きてたんだろうな。まるで目を開けたまま眠っていたみたいだ、ちゃんと考えていたと思っていたのに、きっとその日一日をどう終わらせるかって事だけに必死になっていたのかもしれない。自分が何をする為に生まれたのか、それを考えない方がよっぽどおかしいのに、それを考える方がおかしいとずっと思っていたんだ」

 「何も知らぬまま、考えぬまま一生を終える者もおる。その方が幸せと言う考え方も有る」

 「ぼく、嫌だな。何も知らないのなんて」

 「お前はその道を選んだと言う事だ」

 「そうだね」

 「そうだ」

 

 一呼吸間を置いて、プルシコフが口を開いた。

 「ねえ、教えてよ」

 「何をだ」

 「ぼくさ、どうやったらこいつを苦しめないで殺せるか途中からずっと考えてた。おじさんに頼めばきっとこいつ何も苦しみも痛みも無いんだろうけど、ぼくはぼくの手でやりたいんだ」

 「良いだろう」

 そう言うと、ダルマは豚に近寄った。

 プルシコフも立ってその後に続く。

 急に立ち上がったからか、プルシコフの足元がフラついている。

 ダルマが豚の方を向き、そして「ここを一撃でやれば、それほどは苦しまずに済むだろう」と首筋を指して言っている時だった。

 あまりにも無造作に、プルシコフは動いていた。

 本当に食事をしていなかったのかと思えるほど、それは素早く、そしてほとんど音も聞こえなかった。

 風がただ草を撫でる音にしか聞こえなかった。

 プルシコフは手に持ったナイフで、ダルマを背後から突進したのである、ナイフを腰に当て腕力は関係なく体重で相手にナイフを押し込むやり方だった。

 間違いなく突き刺さる。

 そして鮮血が迸る――そのはずだった。


 だが、そのナイフがダルマの肉体に触れる前に、何とダルマは背後を振り向きもしないまま、左手でそのナイフの刃を左手の人差し指と親指の先だけで摘んで止めていた。

 とても人の技だとは思えない。

 例え子供のプルシコフだろうと、いや子供の攻撃だからこそ人は油断してしまう、そして背後から体重を乗せて突き刺せば、子供の非力な腕力でも関係無く致命傷に至る、それが例え栄養失調寸前の子供だとしても。

 それを苦も無く止めたのだ。背後も見ずに。

 それほど自分の技を信頼しているという証拠だった。 


 「惜しかったな」

 ダルマは激昂するでもなく平静にそう言ってのけた。

 普通ならば、自分を攻撃した相手にはそれほど冷静に声を掛けられない、どれほど抑えても震えが声に現れる。だがその声にはむしろ賛嘆の響きが込められているように聞こえた。

 「おじさんがさ、今ので死ぬようなら、その豚を逃がしてやるつもりだったんだ」

 「なるほど、しかし悪い攻撃じゃなかった、わし以外ならあるいは死なぬまでも傷は付けられたかもしれん」

 「今ので傷を負うくらいの力がぼくにちょっとでも有ったら、おじさんは避けてた」

 「避けながら反撃して、お前を殺していたかもしれん。そういう見方をすれば、お前を救ったのはその非力さ故だ」 

 「……じゃ、もう一回教えてよ、どこをやれば楽に殺せるって?」

 何事も無かったようにプルシコフはダルマに尋ね。

 「何だ聞いてなかったのか、ここをな、こうして――」

 そしてダルマも何事も無かったように、もう一度プルシコフに教えたのだった。


 豚はその血までも、骨までも、全てを料理しそれをプルシコフは食した。

 もっとも、2日間も食事を摂らない体に、いきなり肉料理を食わせると体に良くないと言う理由で最初に口にしたのは粥であった。

 その粥の美味さは、今まで食べたどのような食べ物をも凌いでいるとプルシコフは感じた。

 なるほど、極限までに欲すれば人はこのように満たされるのか、と新たに1つ学んだ気がした。

 その日の最後に、ダルマはプルシコフにこう忠告しておいた。

 「お前は今まで体験した事の無い事を経験し、命の意味などを分かったつもりでいるかもしれないが、そんなものは所詮は空論に過ぎん、お前はまだ入り口に立っただけ……いやまだドアに触れた所かもしれん、これからの修行でそれは分かるだろう」

 と。

 その言葉を聞き、プルシコフは静かに頷いたのであった。

 

 異常な世界。

 間違いなく今までプルシコフが生きていた日常世界から、はみ出した非日常世界にプルシコフが踏み出したのはこの時からだった。

 そして、その常人ならば発狂しかねない狂気の世界において、プルシコフはその世界の住人となるべく生まれたと思えるほど、恐るべき速度で適合していったのだった。

 

 

 それから一ヶ月、夏休みの間という区切りは特に意識していなかったが、プルシコフはダルマに連れられ、戦場などを巡った。

 プルシコフは自分が考えた命の定義を、その根本からまた覆されるような光景を何度も見て、そこでまた学習していった。

 教科書の何百倍も、いや何千倍も勉強になった。

 命の教科書が目の前に開かれているのだ。

 もちろん戦場と言っても、その中で戦闘を行ったわけではない、いくらダルマだろうと子供一人抱えて戦場を行動するわけには行かない、行ったのはほとんどが戦闘が終わった地域ばかりだったが、それでも悲惨さは今まで新聞に載っているのを目にしてはいても、本当にその両目で見ていなければ決して伝わらない物がそこにあった。


 たった一切れのパンを巡って殺しあう光景。

 年端もいかない少年少女が売買される現実。

 何の理由も無くただの愉しみの為に殺される命達。

 

 あるいは激情渦巻く最前線よりも、その光景は人の浅ましさや卑しさを表していると言えたかもしれない。

 何度も激昂し、何度も絶望し、何度も泣き、そして何度も吐いた。

 それでも気が触れなかったのは、最初の豚の事が有ったからだろう、あれを体験していなければ、きっと泣きながら逃げ出していただろう。

 だがプルシコフには、この修行をギブアップする気が無くなっていた。

 楽しいとは少し違うかもしれない。

 しかし、今まで体験してきた事とはまるで違う世界を見る好奇心は有ったかもしれない、それに他の様々な理由が合わさって、まだこうして師事されている。


 そしてあっという間の一ヶ月を送ったのだ。

 人生で最も早い1ヶ月であり、そして最も濃い1ヶ月だった事は間違いなかった。

 最初にダルマが言った事が本当だと思ったのはこの頃だった、何故ならプルシコフはこういう環境で生き抜くために、誰に言われることも無く自然なことの様に体を鍛え始め、そしてダルマに自ら頭を下げ技を習った。

 弱い生き物は死ぬだけである。

 生きたいのならば強くならなければならない。

 ダルマという強者の庇護が無ければ、きっとその場所で一日も無事には過ごせないだろうと言う間違いようも無い実感がそうさせたのだった。

                       

                     ・

 

 そしてプルシコフは、不登校の時期を合わせるとほぼ半年振りに学校に戻る事となる、もちろんダルマの修行から逃げ出したわけではない、ダルマに任務が入った為、手の空いたプルシコフは1度今まで自分がいた世界と言う物を確認したかったのかもしれない。

 豹変したプルシコフに驚いたのはクラスメイトだった。

 プルシコフの目には、今まで感じられなかった強い意志が漂い。その目の力は、顔全体の様相を変えて見せた。

 ひょろひょろで脆く、そしてすぐに折れてしまいそうだった四肢には適度な肉が付いていた。

 何より変わったのは、例えようも無い、そう同世代のこの年頃の子供にはありえないほどの魅力をプルシコフは纏っていたのであった。

 クラスの女子は、今まで毛虫のように扱っていた存在のプルシコフに対して少なからず好感を感じていたのは間違い無かった、もちろんいきなり声を大にしてそれを言う者はいないが雰囲気で伝わる物が有る。

 それが気に食わないのが、プルシコフを苛めていた連中である。

 放課後に6人ほどでプルシコフを呼びつけ、そして痛めつけた。

 ほとんど言いがかりに近い言葉をぶつけ、なじり、そして殴り、蹴った。

 意外な事にプルシコフは反撃をしなかった。

 もしかしたら、この時、プルシコフはやろうと思えば、反撃を出来たかもしれない。

 6人の中には、それなりに格闘技を学んでいるものもいて、全員を倒す事は出来ないかもしれないが、1人2人ならば何とか必死にやれば倒せたかもしれない。

 だが反撃はせずに、一方的に地に這わされ、そして体中を蹴られた。

 今までとまるで変わらない光景がそこにあった。


 いや、違う事があった。

 今までのプルシコフならばそういう場合は、泣いたりはせずに、何かを諦めたような目線でどこかを見詰め、これは現実ではないと逃避するように歯を食い縛って耐えていた。

 だが今のプルシコフは、攻撃を受けながらも、何か強固な意志を手放さずにいるように見えた、その目線はしっかりとした物で、とてもリンチを受けている者の目とは思えないほど力が有った。

 何か考え事をしているように見える。

 こんな事に今まで怯えていたのか――そう言っている目にも見える。

 

 プルシコフが動いたのは次の日だった。

 自分を苛めているリーダー格は、同じクラスのプルシコフの義理の兄に当たる少年で、いわゆる正統な頭首の長男であり、じき頭首と言われていた。

 その少年が1人でトイレに行き、小用を足している時に、プルシコフは背後から音も無く近寄り、その首筋に冷たい物を押し当てた。

 少年は声を発せられなかった。

 何故なら、明らかに金属と分かる冷たさを少年は感じたのである。

 少年は動揺し、そして恐怖した。

 「おっ、お前……」

 少年の足が震えた。

 自分が今までプルシコフにしてきた行いを客観的に考えると、いきなり刺されてもおかしくない、そう判断したのかもしれない。 

 自分の命の危険をそこで少年は痛感したのだった。

 「お前達は、鍛えられているかもしれないが、こういう時はどうする?」

 プルシコフは、首筋に当てている金属よりも冷たい口調でそう言った。

 一族の家訓で、一族全員が文武両道を目指している、当然この少年も格闘技を学んでおり、それなりの実力を持っている、もちろんこの年齢にしてはと言う意味だが。

 だが、どういう技術を持っていようと、それがこの状況で生かせるとは思えなかった。

 ダルマほどの使い手ならともかく、ただの少年が、ズボンをずり下げた状態で、首筋に武器を押し当てられている状況ならば、どういう反撃も難しい。

 助けを呼ぼうにも、呼んだら自分は今まで苛めていた相手に、情けない姿で襲われている姿を目撃される、これから後どのような権力を手にしたとしても、それは頭から拭えないだろう、自分にとってはもちろんそれを見た者にとっても。

 「怖いか?」

 プルシコフはまた尋ねた。

 少年は答えられない。

 もしもこれがトイレでなければ、少年は漏らしていたかもしれない。

 「つまらないな……」

 その声と同時に、首筋から金属の感触が離れた。

 その瞬間だった。

 唯一の反撃の好機だと思った少年は、右拳の裏拳をプルシコフ目掛けて放っていた。

 

 だが。

 

 それは、空を切っていた、それどころかズボンを下ろした状態だったので足元が不安定で、プルシコフが何かした訳でもないのに、自分の攻撃の反動で思い切りトイレの床に顔からつんのめった。

 床は汚れてはいないが、それでもトイレの床である、決して気分の良い物ではない。

 さすがに受身を取り、傷を負うことは無かったが、手にはじぃんとした痛みが走り、軽い眩暈もした。

 その時少年は目の前に転がる物を見ていた。

 

 それはスプーンだった。

 

 どこにでもある何の変哲も無いスプーン。

 はっとした、もしかしたら今まで自分の首筋に当てられていたのは、自分が想像していたナイフなどではなく、これだったのか!?

 プルシコフはあえてこの殺傷能力の無いスプーンで自分を脅し、そして貶めたのだ。

 屈辱と恥辱が胸を焼いた。

 復讐を――、だが誰に頼む?

 誰に言える?

 こんな恥を。

 既にプルシコフの影も形も見えないトイレの床に這い蹲りながら、少年は今まで味わった事の無い感覚をかみ締めていた。



 その日以降、プルシコフは学校にはまたいかなくなった。

 反撃が恐ろしかったのではない。

 行く意味が見出せなかっただけだ。

 あそこで何か学ぶよりも、ダルマに付いて行きそこで学ぶ。

 それを決心したのだった。

 実際に、学校で見に付く学力は既に身に付けているのだ。 

 そうして、そこからプルシコフはダルマに正式に弟子入りしたのだった。

 さすがに個人授業はもうほとんど行われなかった、他の弟子と共に技と精神をそこで学んだのだった。

 誰も文句を言わなかった。

 どうせ一族の中でも厄介者だったのだ、頭首もプルシコフが引きこもっているよりはずっと良いと考えたのか何も言わなかった。


 そして3年後。

 プルシコフ、13歳の時。

 初めて実戦の任務に就いたのだった。




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