第24話 修行
ダルマが、プルシコフに大して行った修行は、プルシコフが想像していたものとはまるで違っていた。
プルシコフが考えていたのは、まず自分の貧弱な肉体を徹底的にそれこそ吐くまで、それも血を吐くくらいまでは容赦無くしごかれるのだと思っていた、きっと最初からそんな事をされていたら1週間も持たずにプルシコフは音を上げていただろう、最初に聞いていた話では、プルシコフはもう修行を止めたいと言えばすぐに止められると言う事だったので、あんまりにも厳しかったらすぐにでもギブアップ宣言をするつもりでいた。
忍耐力とかそういう類がその当時のプルシコフにはあまり無かったのだ。
だが、ダルマの考えではそういう体力や技術は後の話だと言う。
まず肉体よりも更に、根本的な部分から鍛えなければならないと、そう言った。
「動物は人より優れた能力を持っているが、それは何故か考えろ。それは生きる為だ、生きる為に必要だから自然と身に付くのだ、”生きる”と言う目的が有るから連中は自身でも明確に意識をしないでも修練を積んでいるのだ、だからまずお前は目的を考える必要が有る、それは動物と同じようにただ生きると言う目的でも良い、例えば何かをこの世で成したいと考えるのならばそれで良い、何もしたくないと考えるのも良いだろう、明確な目的が頭に有るのならば、それに向かって行く為に必要な物は自然と手に入る物だ、お前が何かをする為に強さが必要ならばそれはいつの間にか身に付いているだろう」
ダルマは、そうプルシコフに説いた。
幼いプルシコフには良く分からない部分も有る、納得できない部分も有る。
本当にそうなのかどうか分からない、自分が何かをしようと真剣に考えるのならば本当にそれに必要な力が手に入る? それならば何故学校でイジメられていた時に、真剣に何とかしたいと考えていたのに、どういう力も手に入らなかったのは何故なのか。
そう考えていた。
「ま、言うよりもまず、行動だな……。とりあえず腹ごしらえをするか」
ダルマはそう言うと、プルシコフと共に川に向かった。
そこは水が澄んだ美しい川であった、川幅も深さもそれほど大きく無い。
向こう岸まで5m程度の距離だろう、太陽の光を受けて、泳いでいる魚の腹が何度もキラキラと光って見えた。
流れは速くない、ここで溺れても余程の事が無い限り死ぬことは無いように思えた。
川の中腹まで歩いて行っても、せいぜいが太股の根元辺りまで濡れるほどの深さだろう。
今は8月の初めである、水温も適度で水遊びも楽しめそうだが、ここにはそれをする人の姿は見えない。上流には何人か釣りをしている人の姿が見える、ここで水遊びをすると恐らく釣り人とケンカになったりするからしないのかもしれない。
まさか、ここで魚を素手で獲れとか、そう言うんじゃないのか? そういう視線をプルシコフはダルマに向けたが、それに気付いたのか気にしていないのか。
「少し待っておれ」
そう言うと、ダルマはひょいと無造作に川に足を踏み出した。
家の玄関から出るほど躊躇いが無い足取りである。
そこでプルシコフは不思議な物を見た。
ダルマはその川に足を踏み込みはしたが、その靴の底のほんの僅かな部分しか水に接しない。
つまり、水に浮いているのだった。
まるでアメンボのようだった。
アメンボは、泳いでいるのではなく、自身の体重の軽さと足で水を弾く性質を持っているから水に浮いているのだが、ダルマの体重を考えればどう考えてもありえない現象であるのはプルシコフにも分かる。
恐らく何かプルシコフの知らない技術を使っているのだろう、だがをそういう技術を使って歩いているにしてもかなり手馴れている、恐る恐る慎重に一歩ずつという感じではなく、川に波紋すらも立てずにすっすっと歩いている、そしていつの間にかダルマは川の真ん中に立っていた。
それが気の力を足の裏から放出して反発を利用して立っているとか、そういう理屈はまだプルシコフには分からない。
まだ何もちゃんとは教わっていないが、何気ない――と言っても常人離れしているのだが――動作だけでこのダルマと言う男が、わざわざ自分を教育する為に呼ばれきただけの事はあるとプルシコフにも伝わった、下手に口で自分の能力を説明するよりも遥かに理解できた。
ダルマは、川を数瞬眺めると、まるで足元の小石を拾うように、ひょいひょいと両手を川に突っ込んだ。
最も、プルシコフには正確にそれは見えていない、他に誰かいてもそれを正確に眼で捕えられた人間は多くないだろう。
それほど素早い動きであった。
何しろ、ダルマは長めのゆったりとした服を着ているのに、川に手を突っ込んだはずの手にも服にも水が僅かほども付いていなかった。それに水に手を突っ込んだら発せられるはずのバシャッという音もまるでしなかった。
僅かに聞こえたのはチッという何か鋭い音だけだった。
見ると、ダルマの両手には一尾ずつ魚が捕らえられていた。
ぴちぴちと、活きが良く必死に逃げようと足掻いているのだが、しっかりと捕えているダルマの手からは逃れられないようだ。
それは鮎だった。
やや小ぶりに見えるが、養殖で太らせた鮎より自然な大きさのような気がした。
それを、ダルマはプルシコフに2尾とも放り投げた。
慌ててプルシコフは、それを受け止めようとしたが、当たり前のように2尾とも地面に落とした。
急に投げられた魚をキャッチするのはかなり難しい、一尾であれば両手で抱えるように何とかなるかもしれないが、二尾ともなると困難だ。
「ごっ、ごめんなさい……」
咄嗟に、謝ったのだが、それに大してダルマはほとんど反応せずに、懐に手を入れながら、
「ほれ、これをその魚に刺しておけ、焼きやすいように頭から尻尾までしっかりな」
そう言い、懐から長い鉄の串を取り出し、それをプルシコフに渡した。40cmほどの長さの、先端が異常に鋭い太さは人の指程度の串だ。
その時のプルシコフは特に何も感じなかったが、それが本来どのように使われているのか知っている人間ならば、それを使って魚を焼いて喰うという事に抵抗を感じるだろう、ダルマは基本的には人を殺傷する武器以外を身に帯びていないのだから。
「……分かりました」
か細い声でプルシコフは返事をした。
「わしは火を熾す」
そう言うと、足元に落ちている木を拾い集めだした。
プルシコフは魚を直に触った事も初めてだった、そして魚に串を刺す仕事も。
最初は上手く行かなかった。
水から陸に出ても、鮎はまだ元気に跳ねて、プルシコフの串から逃れようとして暴れるし、表面がつるつる滑るので何度も地面に落としてしまった。
下は土でなく石の川原なので、鮎が泥まみれになる事は避けられたが、どうにかやっとの事で串を通した頃には、鮎は下の石に何度も体をぶつけたせいで傷だらけになっていた。
だが、初めてやった作業を終えた達成感があった。
10分かもう少し程は時間がかかったかもしれない。
気付いたらいつの間にかダルマが背後に立っていた。
「出来たか」
それだけ言った。
遅い事にも、鮎が傷ついた事にもまるで触れなかった。
プルシコフが振り返って見ると、いつの間にか大きめの石に囲まれた真ん中に火が熾きていた。
「焼くか」
ダルマは言った。
良い香りが漂っている。
鼻腔を擽り、胃袋を騒がせる香りだ。
鮎の焼ける匂いである。
ダルマとプルシコフは互いに一本ずつ鮎を刺した串を手に持って、火に翳している。
串を地面に刺して火の近くに置いておけば、魚は放っていても焼けるが、それだと焦げる可能性が有る、手に持って焼いているならばよほど何かに気を取られない限りは焦がしたりはしない。
鮎が丁度良い焼き色を見せている、ダルマが持参した塩を適度に振りかけている、その背ビレが白みがかった小麦色とも茶色付かない絶妙な焼き色を見せていた。
プルシコフの喉と腹が鳴っていた。
「もう良いだろう、食え」
その言葉と同時に、プルシコフは鮎に齧り付いていた。
もし、修行の1つと言う事でこの魚を食わずに我慢しろと言われたらどうしようと、内心不安だったのだ。
口に広がる鮎の味は、堪らない幸福感を与えてくれた。
爽やかな香りがした、臭みがまるで無い。塩味も口に広がり、それが鮎の味と見事に調和が取れていた。
同じようにダルマも、鮎に齧り付いている。
「美味いか?」
ぼそりとダルマはプルシコフに問いかけ。
「……うん」
プルシコフはそれに素直な返事を返した、その返事を聞き、ダルマは笑みを浮かべた。
プルシコフは鮎の頭と背骨を残し、ダルマは骨も残さずに頭からバリバリと鮎を平らげた。
美味かった。
だが、不思議な事に美味い物を微妙な量、食べたからか、余計に空腹感が増していた。
もう少し食べたい、プルシコフはそう思っていた、だがそれをこの目の前の相手に要求していいものか、その判断が付かない。
言った途端に豹変して、過酷な修行が始まるのは耐えられない、出来るだけ相手が言い出すまでは先延ばしにしたい。
「足りんなあ、あれだけではな」
ダルマも同感だったようだ。
「付いて来い」
そう言われ、ダルマの後を付いて行き、10分ほど歩くと一本の大きな木に豚が一匹、紐で括られていた。
まだ生きている豚である、飼い主を待っている犬のように見えた。
愛くるしい瞳をしている、仔豚だった。
「盗まれていなくて良かったなぁ」
どうやらダルマの豚のようだ。
確かにこんな場所に置いていたのならば、盗まれてもおかしくない、もちろんこの場所を通りかかる人がいればの話だ、丁度回りの地形の関係で陰に隠れている場所だった。
「次の食事はこれだ」
「……」
そう言われ、プルシコフは言葉に詰まった。
仔豚は自分の目の前でどういう会話が行われているのか分からないのだろう、何かをねだるような視線を2人に向けている。
「お前がやるのだ」
そう言いながら、ダルマは懐から良く切れそうなナイフを取り出した、刃渡り30cmほどのナイフである。
「えっ!?」
思ってもしなかった言葉に、プルシコフは動揺を隠し切れなかった。
この豚を自分が殺す? 殺さなくてはいけない?
今まで豚を食べた事は何度も有る、だが自分が実際に自分が豚を殺して食べた事はもちろん無い。
とても出来るとは思えない。
「嫌か?」
「だ、だって……可哀想じゃない」
可哀想、それだけだと何か言い足りなさが残るが、真っ先にプルシコフの頭に浮かんだのはその言葉である。
それを聞き、ダルマは。
「しかし、お前はさっき鮎を焼いて喰った、その時、お前は鮎の体に串を刺しただろう、あれは可哀想ではないのか?」
もっともな事をダルマは言った。
間違いなく正論だった。
「で、でも……」
「良いか? お前は可哀想といったが、何か別の命を奪うのを可哀想だと言うのならば、お前はもう死ぬしかない。何故なら、植物だろうと何だろうと人は何か別の生き物を喰らって生きるのだからな、そこに善悪は無い、美味かったろうあの鮎は? あれを美味いと感じる事は悪い事か?」
プルシコフは反論できずにいた。
今まで特に考えなかった事をいきなり問われたのだ。
「もう1つ付け加えるならばな、お前がその豚を情が移ったから殺したくないというのならばそれも自由だ」
「え?」
虚を突かれた表情でプルシコフは、ダルマを見た。
殺さないで済むのか、という少しホッとした表情がすぐに浮かんできた。
だがやはりそれほど甘くはないようだった。
「その豚を連れて、一生傍に置いて暮らすと言うのも自由だ。ただ――」
「ただ?」
「お前が殺さなければわしがその豚を殺す、殺して喰う。元々はわしの豚だからな。だからお前がその豚の命を助けたくば、わしから逃げるしかない、その豚を連れてな。あるいはほれ、お前さんの手に持ったナイフでわしを殺せば良い、それでその豚の命は救われるぞ、さあどうする?」
真面目な顔でダルマはそう言った。
とても簡単に選べる選択肢ではない。
豚を助ける為にダルマを殺すと言う考えはもちろん無理だ、心情的な事以上に川で見たあの水に浮くような技を使え、そして素手で川から魚を簡単に獲る事の出来る技量を持った人間を相手にこちらがナイフを持っていたとしてもプルシコフに勝ち目はまるで無い、逃げる事も同様に無理だ、それは子供であるプルシコフにも分かる。
では豚を殺すか? それはやはり出来そうも無い。
あるいは、自分は殺さないと言い張り、自分が見ていない所でダルマに殺してもらうか?
それが一番自分が傷つかない方法であり、そして最も卑怯な方法だと思った。
自分の手を汚さないで人にやってもらおうなんて――
「じっくり考えると良い、ちなみにその豚をどうするか決めるまで、お前は何も口にしてはならん、木の実だろうとなんだろうとな。水は好きなだけ飲めば良い、だが川で魚を獲って食うのも禁じる、もっともお前に捕まる魚などおらんだろうがな」
絶望的な宣告だった。
ダルマの言うとおり、魚を獲る方法は思いつかない、川に飛び込んでがむしゃらに追いかけてもそう簡単に捕まる物ではない、それにもし仮に運良く捕まえたとしても火を熾す方法をプルシコフは知らない、生で魚を食べるしかない。だがダルマが禁じている以上、魚を獲ろうとしたり食おうとしたらそれはきっと邪魔されるだろう。
ならば、ギブアップか? ギブアップするしかないか。
その考えが頭に浮かんだと同時に。
「言っておくが、この決断に棄権は許さない。これだけはお前の父上も了承している事だ」
ダルマはきっぱりと言った。
命綱を断たれた気分だった。
想像してみて欲しい、今まで人はもちろん動物の死とも接する機会が無かった少年が、今目の前の動物の命を奪わなくてはならないのだ。これは生命の輪廻を考えると、ごく自然で当たり前の事なのだが、プルシコフが生きてきた世界から考えると考えられない事だった。
夕食に牛肉や豚肉が出てきた時に、喜んでいた頃が大昔のように感じられた。肉を口に頬張った時の口一杯に広がる肉汁の味が、今ではまるで食欲を湧かせない。
「それじゃあ、しっかりと考えて結論を出すんだな、この豚を食わずに餓えて死ぬか、あるいは他の方法を考えるか、をな」
ダルマはそう言ってプルシコフの前から姿を消した。
文字通りプルシコフが辺りを見渡しても、その姿は見つからない、だが向こうはこっちを監視しているのだという確信があった。
だが、今はそれはどうでも良かった。
プルシコフは、豚の目の前に座り込み、真剣に考え始めた。
自分の選択が1つの命に関わる、それだけでこれほどまでに物事を真剣に考えられるとは思ってもいなかった。
プルシコフは動かない。
微動だにしないまま、座り込んでいた。
ダルマが最初にプルシコフに、ただ単純に自分と言う命、それが何によって成立しているのか、それを知れ、と言っているようだった。
それを知る事が、何を始めるにしても第一歩であると。
そうして、プルシコフの修行の一日目は終了したのだった。