第23話 夢の続き:生い立ち
その男に対するハヤンの最初の印象は、決して悪い物ではなかった。
初めて見る顔の男だったが、何と言うか惹かれるものを感じた、もちろん性的な関心とは違う、人間的に惹かれる物をだ。
初対面の人間に対して、ここら辺の人間は相手が極端に錯乱しているとかそういう場合以外は、敵意とか怯えをまるで見せない、盗賊の類もここら辺には滅多に現れないし、なにしろハヤンの目の前の男は1人だ、そういう物の偵察の可能性も無いとは言い切れないが、そういう可能性を一瞬で払拭させてしまうほどの何かをこの男は感じさせた。
20代の前半の歳だろう、自分とそれほど変わらないように見える。
格好は、整った物ではないが、数日間は旅をしていればこの程度の汚れは付くだろうと言う程度だ、この辺りでは見ない格好だった、ハヤンにはそれが軍が戦闘に準ずる状況で着用する服装であるとは知らなかった。
思わず親しみを込めた笑みを向けた。
「やあ、こんにちは。ここらじゃ見ない顔だね」
農作業をしている手を休めて、その男に声を掛けた。
「ええ、こんにちは。ちょっと軍の演習で近くまで来ていまして」
男はそう言った。
敵意をまるで感じさせない柔らかな声だった。
その言葉を聞いて、驚いたようにハヤンは。
「へえ、あんた軍人さんか、初めて見るなあ。ああ、俺の名前はハヤンというんだ、よろしく」
と言った、若干の緊張こそあるが物怖じはしていない。
「これは失礼、プルシコフと言います」
丁寧な口調でプルシコフは答えた。
相手が辺境の土地の農民だろうと、決して礼を忘れないと心に決めているようだった、何事も上からの口調で言えばまかり通る物ではない、むしろ要らぬ感情の蟠りなどで物事がややこしくなってしまうと言うのを分かっているのだろう。
「しっかし軍人さんってのは俺が思っていたのとは大分違うなぁ、皆あんたみたいな礼儀正しい人なのかい?」
「いえ、人それぞれですよ、あなたがどういう人を想像していたのか分からないけれど、たぶんその想像通りの人もいますね」
言いながらプルシコフの脳裏には、自分の隊長の顔が浮かんでいた。
ハヤンが抱いていたイメージと言うのは、決して良い物ではないだろうとプルシコフは理解している、軍人は威圧的で命令口調で、そして横暴である、そういう印象が辺境に行けば行くほど根強い印象として浸透しているのだ、もし今も軍服を着て近寄っていたら少なからず警戒されていただろう。
それがプルシコフには歯痒かった。
自分が将来、軍部でも発言力を持つ立場になれば、それを何とかしたいと考えてもいるが、それがどれほど青臭く、そして無理難題なのか、それも分かっている。
だからと言ってそれを放棄するような事はしたくは無かった。
昔、まだ子供の頃に色々な特訓を受け、人間不信に近い状態になったことも有る、戦場に出向いたときは人の心の汚い部分も数多く見た、だがそれでも何か、心のそこに有る人間の輝きのような物、それを否定はしたくなかった。
少なくともこの時のプルシコフ青年はそう考えていた。
「それで、何か用かい? プルシコフさん」
「あ、ああ。プルシコフで良いですよ、歳も近いようだし、気にならなければ互いに呼び捨てで」
「それじゃああんたも敬語は無しだよ、そんな丁寧な口調じゃ、こっちが緊張するしさ」
「ああ、分かったよ」
「で、何の用だっけ?」
「申し訳ないが、水を少し分けて欲しいんだ」
「水? まあ、この時期ならば有る程度は分けて上げられるよ、もちろん村長に一言言っておかなければならないけどね」
村には井戸があり、地下水をくみ上げる事が出来る。それに乾季には消えてしまうほどのささやかな大きさの池が有る。
よほど大量に使わないのならば、誰かに分け与える物理的そして精神的余裕がこの村には有る。
「助かるよ」
「しかし、魔法とか使えば、水なんてどうとでもなるんじゃないのかい? 軍隊の人は魔法をバンバン使えるんだろう」
「今回は魔法禁止の演習中でね、それに魔法は使えても水を呼び出したり雨を降らしたりは誰でも出来る事じゃないんだよ」
かなり砕けた口調でプルシコフはハヤンと話している、先ほどの隊の中では上司と部下の板ばさみでそれなりにこの男にもストレスがあったのかもしれない、それで少しばかり話が弾んでいるようだ。
普段は、よほど親しい人間だろうと、こんな口調でプルシコフは話したりはしない。
どこか仮面を被ったような、他所行きの服を着ているような口調で話す。
それが不思議な事に、この太陽を思いっきり浴びて、汗を掻いているのに爽やかな青年に、何故か心を開いている自分にプルシコフは驚いていた。最初は、あくまで交渉を円滑にするために丁寧に話していたのだが、それが途中から相手が要求したからと言って自然な口調になっているのにも驚いていた。
「へぇー、そうなのかい」
感心したような驚いたような声をハヤンはあげた。
ハヤンは魔法についての知識はまるで無い。
魔法はかなり万能であり大抵の事は可能だろうとさえ、思っていた。
しかし、現実には魔法の世界にもルールがあり、それは畑でちゃんと水を撒かなければ種が芽吹かないとか、そういう当たり前のルールよりも厳しいものだ。
魔法を使用するには、才能だけでなく、それを研鑽する努力も必要である。
現にプルシコフは魔法は使えない、戦闘能力こそ子供の頃に戦闘術の達人とも言える人に徹底的に鍛えられたので卓越しているが、魔法は範囲外だ。
それに魔法にも様々な種類があり、戦闘で比類無き力を発揮できる人間が、サバイバルではほとんど役に立たない事も有る。どれだけ鋭いナイフを持っていたとしても、それをどう使うか知識が無ければ、いずれは渇きと飢えに殺される、そういう事だ。
「俺が魔法を見たのは2,3回くらいしか無いもんでさ」
「どういう時に?」
「誰か怪我をした時とか、そういう時にさ」
一瞬、ハヤンの眼に哀しい色が浮かんだ、魔法を見た数回の内の一回は、自分の肉親との別れの時だった事を思い出したのだ、魔法でも手遅れと言われたあの時の哀しみは忘れられない。
その悲しみの色をプルシコフは見詰めていた。
プルシコフにはハヤンが何を考えているのか詳しい事は分からないが、ハヤンが浮かべた、その悲しみに見える物が自分自身の中に有る悲しみと何か呼応するような気がしていた。
咄嗟に、話を変えるようにハヤンが。
「じゃあ、村長の所へ案内するよ、30分かそこいらは歩くけど」
「ああ、大丈夫だ」
「なら行こう。なあプルシコフ、俺さ他所の人と話すのは久しぶりだからさ、歩きながらで良いから何か話を聞かせてくれよ、良いだろう?」
眠る前に物語を親に強請る子供のように、目をキラキラと輝かせてハヤンはプルシコフに頼んだ。
プルシコフは嫌な顔一つせずに。
「ああ、もちろんだ」
と、答えた。
村長の家へ向かう道中、プルシコフの話を聞くと、プルシコフは若くしてかなりの出世をしているエリートで有ると、ハヤンでも分かった。そして、それを納得させるだけの物をプルシコフには感じられた、教養の風とでもいうのか、知性の香りというのか、ハヤンには縁が無かった物だ。
所々話の内容が世間知らずのハヤンには分からない部分が有るのだが、その部分もプルシコフは丁寧に教えた。
互いに不思議と気が合った。
話していて退屈しない、そして話が止まらない。
元々が互いに話上戸ではない、どちらかと言えば相手が話す事に返す場面が多いのだが、この時ばかりは逆に互いが浴びせかけるように話をしていた。
そして気を使わずに話が出来た、初対面だとどうしても不協和音のように上手く会話が成り立たない部分が有るのだが、その不協和音すらも楽しんで話しているように見えた。
まったく第三者がこの2人を見ていたら、長年の旧知の友が歩いていると勘違いしてしまうだろう。
お互いに不思議なほどに、話が弾んでいた。
ハヤンにとっては他所から来たしかも軍人だ、興味を抱かない訳が無い、その上でこの男の礼儀正しさに驚きながらも、感心している、どういう経緯で軍人になったのか、軍人になってどういう仕事をしているのか、都会とはどういうところなのか、聞きたい事は山ほど有る、村長の家がもう少し遠ければと、そう思うほどだ。
プルシコフにしてみれば、性根の悪い上司から一時とはいえ離れられ、軍部での自分の立場や出世の速度に対して嫌悪感を抱いている連中とのやり取りで内心は苛立ちを感じていて、この目の前の青年のように広大な土地を耕し、それを食み生きる生活。辛いのかもしれない、大変かもしれない、軍隊での生活とはまた違った苦労が有るのだろう、だが、それでもどこかさっぱりと生きている生き様に憧れに近い感情を抱いていた。
互いに少なからず相手に敬意を払い、そして好感を抱いていた。
この時は、まだ。
・
話はプルシコフの生い立ちまで遡る。
もちろん、ややこしい自分の生い立ちについてはプルシコフはハヤンに話してはいない、プルシコフがハヤンに語ったのは、今の自分の任務や今までの仕事などについてである、それでもかなり深く、もしも一般人に話したのが漏れたら軍から処罰が下されるかもしれないかなりギリギリのラインの話をしている、それだけごく自然にハヤンに対してプルシコフが気を許していたと言う意味だ。
プルシコフの家は国でも有数の名家であった。
この家の出身と言うだけで、どの社交場でも一目置かれ、国の中枢機関や国の大企業の多くはこの家と密接な関係を持っていた。
金と権力を持ち、そしてそれだけでなく、この家の人間はその上に胡坐をかくような体質ではなく、それだけ裕福に満たされていると言うのに、それに浸る余裕を感じさせないほどに、自らを鍛える習性を持っていた。
庶民よりも圧倒的に上の立場でありながら、それだけの優位さが有るからと、怠けるような人間はこの一族ではかなり下に扱われていた。
スタートラインが優位で有るならば、それを生かし更に上を目指すべきである、それがこの家の始祖の教えであるからである。
プルシコフは何もその教えがあったから13と言う年齢から軍隊に出向き、そして死の危険すらも有る試練を潜り抜けてきた訳ではない。
彼は正式な一族の一員として扱われているわけでは無かった。
ややこしい話は省くが、プルシコフは簡単に言ってしまえば一族の現頭首の妾の子供であったのだ、そしてそれだけではなく妾の子供でも一族の頭首の血が流れているのだからという理由で一族の一員として戸籍などで登録もされたのだが、後々の調べで、プルシコフはその妾と他の男の子供であるという事が発覚した、発覚した時にはプルシコフの母は既に他界していた、二番目の子供を産む際にその子供と一緒に命を落としたのだった。
それでも頭首はプルシコフを正妻の子達や他の妾の子達と同じような待遇をプルシコフに与えた。
表立って誰もそれに対して文句は言えない、せいぜいが正妻が『あの子は血が繋がっていないんでしょう? あなたの子ならばともかく、違うのならばどこか施設にでも預けるべきよ、あんな子がいるのが知れたら一族の汚名だわ』と言ったが、頭首はこれに取り合わなかった、他にも数々の忠告や陰口も多かったが、その全てを頭首は黙殺した。
それは、頭首がそのプルシコフの母親である女性を愛していたからかもしれないし、もしくは面子の為なのかもしれなかった、1度決めた事を曲げる事が自尊心が許さないとかそういう考えもあったのかも知れないが、それは本人以外には分からない事だ。
少なくともプルシコフ少年にとって、子供心にもこの環境が住み心地が良いとはとても思えなかったはずだ。
プルシコフは母が死んでからは、乳母に預けられていた。
その乳母は良い人だった、多額の養育費が家から支払われているので、生活にも困らなかった。
だが、プルシコフの心にはいつも隙間風が吹いているようだった。
乳母は優しい人だが、基本的にプルシコフを叱る事はしない、まるで多額の金を貰う為だけに自分は良い義母を演じているのだ、と言わんばかりに優しかった、それは空々しい優しさである。
人の心を豊かにする優しさではなかった。
プルシコフが学校に通う歳になると、学校では少なからずイジメを受けた。
イジメの首謀者は、同じ一族の正妻の子供達であった。
気に喰わない。
それが理由では有るが、恐らく家で母親達が散々プルシコフの悪口を日常会話として言っていたのだろう。
親の言う事は子供にも浸透するのだ。
子供なりに誰かを攻撃するには正当性が必要であり、何の非も無い相手を攻撃する事は滅多に無い、それが親からの許可を得ていると言う免罪符を得たような気分になって、プルシコフを攻撃したのだ。
イジメを受けて、当時10歳のプルシコフ少年は学校に行かなくなった。
イジメをしている同級生達と戦おうとか、誰かに相談して何とかしようとか、相手にしないとか、そういう解決策を思いつかずに。
ただ、逃げたのだ。
同級生から、そして学校から。
学校に行かなくなっても乳母は叱らなかった、自分の好きなようにしなさいと、放任主義者の親のような態度を取っていたが、面倒事に関わりたくないと言うのが見え見えだった。
プルシコフは、頭は悪くなかった、家でしっかりと勉強をすれば学校に出ているのと同等かそれ以上に勉強が出来た。
だが、運動神経は素質は有るのかもしれないが、何もやろうとはしない自主性の無さが祟って、もやしのようにひょろりとした子供であった。
腕力は皆無で、いじめっ子の軽い攻撃にも、涙を流した。
現在のプルシコフを知っている人間からすると考えられない事である、その当時のプルシコフ少年は根が暗く、はっきりとした自分の意思も、そしてそれを誰かに伝える術すらも持ち得ない子供であった。
彼を変えたのは、一人の男との出会いであった。
その男とプルシコフを引き合わせたのは、頭首であった。
頭首は有言実行で、実際に口だけでなく行動でも、プルシコフを他の子供と同等に扱っていた。金だけ払って厄介払いと言う事はしなかったのだ。
頭首は、そのプルシコフの現状を危惧し、肉体が鍛えられればそれに伴って精神も鍛えられ、人間的に一回り成長するという持論で、軍部でもトップクラスの戦闘能力と指導力、そして厳しさについても比類無いと言われた男を寄越したのだ。
その男の名前はダルマと言った。
軍部の中では名前が知れ渡っている存在であるが、その顔までは外部の人間にはあまり漏れていない。
汚い仕事もすれば、まっとうな教育係として素質有る人間に手ほどきもするのだが、その厳しさゆえに脱落者やけが人が後を絶たなかった、死ぬ寸前まで追い詰めたりする事も平然と行っていたが、さすがにこの男の指導を受けて死に掛ける物はいても実際に死んだ者はいなかった、それはこの男が見事な些事加減で調節しているからである。。
彼は、去る者は決して追わなかった、わざわざ追いかけて、首に縄をつけて引き戻して訓練をさせたりはしない。
やる気がない人間には周りがどれほど頑張ろうとどうしようもない、『人は馬を川岸まで運べるが、結局の所水を飲むのは馬自身である』という言葉を体現しているような男である。
その男が特別なツテで頭首に呼ばれ、何日か何ヶ月かかかるか分からないが鍛えなおして欲しいと依頼されたのだ。
本来ならば断る。
ダルマも暇な身分ではない、子供1人に時間を割いていられないのだ、実質的な作戦命令自体は現在無いが、時間が有るのならばやるべき事は山ほど有る、自分自身の鍛錬も怠れない。
だが、それでも受けたのは、その頭首に対して少なからず恩が有るからである、ダルマは他人を利用したり冷徹に人を殺したりする男ではあるが、1度受けた恩と借りは決して忘れずに返すと言うのがこの男の信条であった。
もちろん、その少年が逃げたらそこで終了と言う条件を付けて受けた。
・
目の前のまだ髪に白い物が混じる前の30代後半辺りのダルマの前に、10歳になったばかりのプルシコフ少年が立っている。
プルシコフは、ダルマに目を合わせようとしない、オドオドと地面を見ている。
不安なのか、着ている服の裾を両手で弄っている。
わっ、と、急に大声を発したらそれだけで気を失ってしまいそうな気の弱さが伺える。
普通の大人ならば、この少年を前にしてどう鍛えればいいのか途方に暮れるところだが、ダルマは違った。
口に笑みを浮かべ。
「面白いな、鍛え甲斐が有るわい」
と、そう言った。
プルシコフはその笑みにすら恐怖を感じているようだった。
「さて、何からやるか――」
プルシコフは、まるで拷問を受ける前の人間のようだった。
目の前の男は、自分を痛めつける拷問を今考えているのだ、それも考えているのは一つの拷問のやり方などではなくて、何十と頭に浮かんでいるどれも苦しくて、耐え難い拷問のどれにしようかそれを考えているのだ、プルシコフ少年は怯えていた。
実際に、それからの修行は拷問に等しい物であった。
その拷問に等しい修行により、幸か不幸かプルシコフ少年の性格・風貌・雰囲気そして人生観、そのどれもががらりと変貌する事となるのだった。
頭首の人選が間違っていたのか、それとも正しかったのか、それは分からない。
だが、少なくともその日、それがプルシコフの人生の分岐点であった事、それだけは間違い無かった。