第21話 隠された陰謀
総統府。
ここは、プルシコフやダルマが所属する国の中枢に位置する。
それはその建物が国の中枢で有るという以上に、国の機能としての中枢に値する場所がここなのだ。
幾重にも張られた厳重な結界と警備網、その中の一室に2人の男がいた。
その1人はこの国の軍事と政治、その両翼を1人で支配し、指揮しているのが総統である男。
アルバ・ルジェリオというのがこの男の名前だ。
40代後半なのだが、精力的で野心的な顔付きのせいか30代の最も活動的な年齢に見える。
肌の艶も、もうすぐ50になろうとしている男の物ではなかった。
一国をほぼ独裁国家として成立させている男は、常人よりも遥かに濃い物をその身のうちに秘めているのだろう。
漂う雰囲気は、凶暴でありながら知性を備えた獅子を連想させた。
元々は軍部からの出世で、戦争によって名を上げて国の上層部へ食い込み、そこから知略を用いて現在の地位をもぎ取ったほどの豪腕である、並大抵の人間は、この男の前に立つとこの男の肩書きではなく、この男の持つ迫力に気圧されてしまう。
その横にいるのは、ルジェリオ総統と見比べると多少何か、迫力とか人間的な厚みとかそう言う物が劣っているように見えるが、一般的な成人男性を基準にすれば十分に魅力がある顔立ちをしていた。
30をいくらか過ぎた歳に見える。
「なあ、ファエイル君。君はこの世に偶然なんて有ると思うかね」
ルジェリオ総統は唐突な質問を、横にいる男――ファエイルに投げかけた。
ファエイルは答える前に一呼吸、間を置いた。
相手はこの国の最高権力者である、もしも機嫌を損ねたら出世とは縁が無い場所へ飛ばされるか、もっと悪ければ裁判も何も無しに死を宣告される可能性も無いとは言い切れない。こういう些細な質問の答えにも、慎重な判断が必要だった。
はっきりと意見を言って、それが総統の考えと違うと困る。だからと言って無難すぎる回答や、どちらとも取れる回答をして、逆に総統につまらない男だと思われるのが困る。
こういう時は、悩んでも仕方が無い、思うまま語るしかない、ファエイルはただの世間話だと割り切りながらも、不安定なつり橋を渡るような覚悟を決めた、いつこの橋が切れて谷底に落ちても構わない、そういう覚悟だ。
「私は、偶然は無いと思います、偶然だとか運命とか、そういう事は何もしない人間の論だと思っていますから」
その答えに、総統は笑みを浮かべた。
喜ばれたのかどうか、分かりにくい笑みだった。
「その通りだよ、ファエイル君。この世には偶然など無い、ある人間からすればそれは偶然でも、ある人間から見ればそれは必然なのだよ。例えば、ダルマだ、彼は自分が偶然ファレイと言う幻闘獣と遭遇し、そしてその捕獲の任務に就いていると、そう思っているかもしれないが、本当にそうだと思うか?」
「意味がよく分かりませんが……」
本当に意味が分からない。
ダルマがファレイを見つけたと報告を受けたのが1ヶ月ほど前の話である、ファレイという強力な幻闘獣が憑いた男を捕え、それを軍事的に利用できるのではないかと、そういう話だったはずだ。
それとも自分が知らない、何かが隠されていると言うのだろうか。
「必然の話だよ。ダルマの弟子のクァルゴをその補佐につけたのも必然だ、私がそう任命したのだからな、そうする事でファレイとの遭遇率を格段に高めた、情報も与えた、私が報せるまで強力な幻闘獣が憑いた男が各地に稀に出没するとは知っていても、それが『ファレイ』という名前だとは、ダルマは知らなかったのだからな、。幻闘獣の存在は知っていたとしてもな」
「あの……、失礼ですが質問しても宜しいでしょうか?」
「何だね?」
「何故、総統閣下は幻闘獣の名前を知っていらっしゃるのですか? あの、素朴な質問なんですが……」
ファエイルのその質問に、総統の顔の表情が一瞬固まった。
まるで能面のような、一切の表情が見えない顔になったのだ。
聞いてはいけない質問だったのか、とファエイルは冷や汗を流したが、総統はそのまま口を開いた。
「何故だろうなあ、何故俺は知っているのだろうなあ」
「……?」
「ははは、自分の子供に名前をつけない親がいるかよう、俺が奴らに名前を与えたのさ――、ハヤンのファレイ、プルシコフのアポルオン、クァルゴのヴァルヴァルス……他にもいたなあ、全部で、そう、最初は8体もいたか、あれは少しやりすぎだったかもしれんなあ」
ファエイルは話に付いていけない。
総統がどういう意図でこの話をしているのかも分からなければ、何の話をしているのかも分からない。
――そもそも、総統はこんな話し方だったか!?
そういう思いが有る。
現在自分は総統補佐官として、前任の代役として大抜擢されてから、もう2ヶ月になるが、最初の頃とは話し方が変わっているように感じる。
これは親しくなったからとか、そういうレベルではない気がする。
何かがおかしかった、だがその何かが分からない。
最近は時折総統と話しているとそういう違和感に襲われる、突然別の人格がふっと現れたように話し方が変わる、その時の総統の息遣いは獲物の肉を喰らった直後の野獣のように、生々しい物を感じさせる。
一代でこの地位まで登りつめられる男は、そういう狂気を身に潜めているのだ、そう思うと理解も出来るような気もするが、それでも何かがおかしかった。
「最初は、あいつだけだったなあ、うん。ハヤンだ、あいつが俺を起こしたんだ、それからは退屈だったなあ、何しろあの村の奴らときたら、俺に反応する奴がいなかったからなあ、でもあいつらが来たから楽しかったなあ……、それで少し力を使いすぎてしまったんだ……」
「あの……総統閣下、一体何を仰っているのか……」
ファエイルは勇気を振り絞って尋ねた。
何故か猛獣に問いかけるような恐怖をその身に感じていた。
ファエイルは絶句していた。
総統の横顔の異常を見たからだ。
総統の唇の端が一瞬ではあるが、耳まで裂けているように見えた。
ぞくりと、何か得体の知れない物がファエイルの背筋を走った。
だが、こちらを振り向いた総統の顔はいつもと変わりが無い。
幻覚を見たのか?
ファエイルは自問したが、今のは幻にしては異常な生々しさが感じられた。
「私の顔に何かついているかね?」
いつもと同じ口調に戻っていた。
「いえ……」
「どこまで話したかな? この『箱』の事は君は知っているな?」
総統はそう言いながら、総統の机の上に置かれている箱を指差した。
ぱっと見はただの古ぼけた箱だ、決して装飾に拘った造りではない、箱の形自体も別段奇抜なデザインでもない、大きさも別に大きな物ではない、掌からややはみ出す程度の大きさしかない。
だが。
何故か人の眼を惹く物があった。
美術館でなくても、どこかに置いて有るだけで、ふと、人が立ち止まり視線を止めてしまう、そういう何か底知れぬ物を秘めている箱であった。
会話がまともなレールに戻った事を、内心安堵しながらファエイルはその質問の答えを、考え直ぐに口にした。
「ええ、5年前、あの村の跡地から発見された遺物ですね、確か幻闘獣という存在が世に知られたのも丁度その頃でした、ですが私はその『箱』の存在は知っていても、それがただの遺留品という認識しか持っておりませんが……」
「まあ、仕方が無い、この『箱』の意味を知るものは多くない。君の言う通り、この『箱』は、あれだけの破壊の中でも無傷だった、つまりそういう代物と言うわけだ、一体誰がかけたのか知らないが、大昔の人間が封印したのだと研究者は言っていたな、あるいは神話の時代の産物だとも言っていたがね。封印されていてもある条件を満たすと、『箱』はその力を発揮する、それは知っているかね?」
そう言いながら、総統は『箱』を手に取り持ち上げた。
今、総統は、かなり深い秘密を自分に打ち明けているのだとファエイルは確信している。
どういう意味か。
つまりそれだけ信頼されていると言う事ではないか。
信頼されていると言う事は、今後は更に近くで仕事が出来るのではないか、そうなれば今後自分の活動は更にしやすくなる……
そういう思いが有る。
「いえ、初耳です」
「そうだろうな、さっきも言ったが、これを知る者は我が国の中でも数人だろう。特別に教えてやろう、この『箱』は気紛れだ、だが気が向きそしてその素質が有る人間が傍に居るとある作用を起こす」
「作用?」
「人に幻闘獣の力を与える力が有ると言う事だよ」
「何ですって!?」
総統が言ったので無ければ簡単には信じられない事柄だった。
それだけの力を持つ『箱』を、いくら厳重な警備が布かれているとはいえ、こんな所に無造作に置いておいていいのかとも思った。
「いいかね、『箱』は封印されている、というよりも眠りについていると言う方が正しいかもしれん、今まで5年も費やして出来たのはせいぜいほんの少しの時間だけ眼を覚まさせる事だけだ、だがほんの僅かな時間の目覚めでも、今まで数体の幻闘獣憑きを誕生させる事に成功した、もっともそれらの大半はすぐに死んでしまったがね。これでもし『箱』の力が完全に解放されたらどうなると思う?」
「凄い……、幻闘獣憑きの軍団が作れますよ、ファレイという幻闘獣の戦闘能力がいくら凄くても所詮は一体、それと比べたら何て事は無い、世界が獲れますよ総統!」
興奮を隠し切れない口調でファエイルは言った。
恐ろしい話だ。
あれほどの力を持つ人間を、長年の修行も無く誕生させる方法を独占できたら。
そういう人間が何人も何十人も何百人もいれば――
それは文字通り世界を獲れる。
だが。
その興奮と対照的に、総統は落ち着いた物だった。
「かつては……、私もそう考えいた時期が有った」
「かつては? 今は無いと仰るのですか?」
「なあ、ファエイル君。この世界に必要なのは一体何か分かるかね?」
「必要な物ですか、……それは世界を導く国家では無いでしょうか? 優秀な国家が、他の愚鈍な国家をそして無知蒙昧な民衆を導いてやらなければならない、総統も常々そう仰っていたと記憶しておりますが」
「必要なのは国家ではない、たった一つ、唯一無二の『個』、全人類の『王』が必要なのだよ、国家とは所詮矮小な『個』の集合体に過ぎない。国家も、歴史も、文化も、宗教も、人種も、それら全てを超越しなお新しい場所へ人々を導く全知全能の『王』こそが、これからの世界には必要不可欠なのだよ!」
「おお――、総統がその王になられると仰るのですね」
「私? くかかかか、私がそんな器に見えるかね? 自分で自分がどの程度の器か、私は分かっているつもりだよ、その器足り得ない事もね」
「では一体、誰がその王に……?」
「誰だろうなあ、でも、1つだけはっきりと分かる事が有るよ、ファエイル君」
「何でしょうか」
「王が産まれる時、その時はきっと人は減るだろうなあ」
「減る?」
「今、この世界に何人人間がいるか分からないが、きっとそうだな、半分、いやもっとか、もしかしたらほんの一握りしか残らないかもしれんな」
「それは……、その、死ぬと言う事でしょうか」
「まあ、死ぬだろうな」
あっさりと総統は言ってのけた。
明日の天気を尋ねて答えるよりも呆気ない口調だった。
「俺も死ぬかもしれん、君も死ぬかもしれん、だがそれは安い犠牲と言う物だ、『王』の誕生に比べたら、全てが微々たる物なのだよ」
「……」
「もうすぐだ、きっとファレイならば俺の封印を解いてくれる、あれが最初の俺の子だからなあ、あれほどの力を持っていれば俺を起こせるだろうさ」
喜悦の極みと言った笑い声を高らかに総統はあげた。
今、はっきりと総統は、俺の封印と言った。
その意味は、正確にはファエイルには分からない。
だが、これだけは分かる、総統は自分を見失っている、何かしらの狂気に取り付かれてしまっているのだと。
そして、真に恐ろしいのは、この男がただの妄言で言っているのではない事と、例え全てが妄言だとしても、それを実現できる為のあらゆる力を持っていると言うところに有る、この国の政治力、軍事力、その他諸々が雄弁に語っている。
世界に戦を仕掛けようとこの男が言ったら、誰が止められる?
止められる手段を持った人間はいた。
参謀や、国家相談役などの役職の人間がいて、彼らが許可しなければいくら総統だろうと、物事の決定に対しての強い力を持っていて、例え個人に対する処罰などを独断で出来ても、国の利益に関わる事でどう考えてもマイナスにしかならない事は行えない。
そういう仕組みになっていた。
しかし、ここ最近で何故かその全員が死去か行方不明になった、だからまだ日が浅い自分のような人間が代役でこうして総統府にいるのだ。
――偶然ではない。
ファエイルはここに来て理解していた。
決して偶然ではない、この男は自分を止める手段を持つ者を、どういう手段か知らないが排除したのだ。
もうかなり危険な場所まで、この国は来ている。
ファエイルには悩んでいる暇は無かった。
「……それでは総統、ダルマ様の状況に何か変化が有ったかもしれません、確認してまいります」
まだ、この2人はその現場にプルシコフが行った事まではしらないようだ。
元々が休暇中で、応援の要請もプルシコフまでで止まっているから、上層部へ伝わっていないのも無理は無い。
総統は、ファエイルのその声が聞こえているのかいないのか、今ではその『箱』に光悦の表情で頬ずりをしているのであった。
その総統に一礼をして、ファエイルはその部屋を後にした。
部屋を出たファエイルの表情には、迷いは無かった。
今まで、決して使うまいと思っていた切り札を使う時が遂に来たようだった。
ファエイルは自室に戻り、しっかりと鍵をかけ、そして自分の机の中に誰にも気付かれないように隠しておいた通信機を取り出した。
掌に収まるサイズである。
それは、かなり高性能の物で、世界の大半の地域で使用できる、相手が地底にでもいない限りは通話は可能だろうといわれている。
これは専用の通信機のようで、持って『話したい』と思うだけで、その特定の通信機に繋がる仕組みのようだ。
通信機が光を発した。
「……」
ファエイルは沈黙している。
相手の声を聞くまではこちらからは何も言うつもりは無い。
「決心がついたようだな」
相手からの声がした。
男の声だ。
若い声だが、声のどこにも甘さが感じられない。
「ああ、あんたの危惧していた通りだった、今まで総統が危険な独裁者になる危険が有るとして監視していたが、どうやら今はまったく別の危険性があるようだ、早急に手を打たなくてはならないようだな」
ファエイルは先ほどまでと違う口調で喋った。
この男、何かしらの任務を帯びて総統の近辺で仕事をしているようだった、どこかの国の間諜かもしれない、だが通信機で味方と会話している口調ではない。
互いが互いを利用している関係のようだった。
「潜入しているあんたと接触できたのが俺の幸運だった、それで、何か新しい情報は入っているのか?」
「少し待て」
ファエイルはそう言うと、別の通信機を取り出しどこかへ繋げた。
先ほどとはまったく逆に、相手と繋がったと瞬間にファエイルは口を開いていた。
「俺だ、ダルマ様からの報告は?」
ファエイルの言葉に、相手はすぐに反応し。
「先ほどレゼベルンにて、ファレイと接触中との報告がありました」
「なるほど、捕獲したかどうかは?」
「まだ連絡はありません」
「分かった」
そう言うとファエイルはその通信を切った。
「聞こえていたか?」
「ああ、レゼベルンか」
「ファレイが捕まればこちらに運ばれてくるだろう、捕まらなくてもレゼベルンにいる事は間違い無い」
「それだけ分かれば俺達には十分だ」
「じゃあ、あんたはあんたで頑張ってくれよ、英雄殿」
ファエイルのその言葉に返事を返さず、相手は通話を切った。
相手は英雄連の英雄である、その相手にファレイの場所を教えると言う事は、ファレイは捕獲されずに始末されるだろう。
ファレイの力は正直な話、かなりの魅力だが、それを手に入れる方法は思いつかない、ならばどこかが手に入れる前に英雄連に処理してもらった方が手っ取り早い、そう考えたようだった。
そしてあの『箱』だ。
今はまだあれをどう扱えば良いのか分からない。だが現状で封印を解かれてしまって本当に総統の言う通り世界の大半の人間が死滅する事態になっては洒落にならない、だから『箱』を開ける可能性の有るファレイははっきり言って邪魔だった。
ファエイルは、一服しようと胸ポケットから煙草を取り出し、そしてライターを探した。
いつも机の決まった場所に置いてあるのだ。
その瞬間に、ファエイルは驚愕した。
そこには男が立っていた、そしてライターを手に持って何度も付けたり消したりして遊んでいる。
長身ではない、平均的な身長と比べると低い身長をしている160cm無いだろう。
だが子供と言う訳ではない、顔付きはそういう子供っぽい所が皆無だった。
無駄な肉が無い肉体と言うよりは、貧相と言う言葉が似合う体型をした男だった。
両手に、ありったけのミサンガのようなものや、ブレスレット等の装飾品を見につけていた。
路上で販売しているようなそれらを、ありったけ付けただけのようなセンスの欠片も感じさせない格好である。
眼が特徴的な男だった。
左右の眼の色がはっきりと分かるほど違う。
いわゆる金目銀目と言われる者のようだ。
だが、それにしてもこれほどまでに異常に眼の色が違うものか。
そういう思いを抱く前にファエイルは動いていた。
「ちぃっ!?」
咄嗟だった。
ほとんど条件反射に近い、ラフェイルは懐から拳銃を引き抜き、三発も連続で発射していた。
しかし。
外しようも無い距離からの連発だったにも拘らず、その男は避ける動作も見せなかったのに、弾丸は男の体のどこにも当たってはいない、それに弾丸が何処へ行ったのかも分からない。
外したのならば、壁に穴が開くはずだ。
並大抵の威力の銃ではない。
特殊な魔法装甲弾である。
肉体による戦闘も、魔法による戦闘も自分は得意ではない、だから身を護る為にはこういう物を持ち歩いていなければならない、だから扱いには慣れている、かなり銃の腕には自信が有る、それなのにこの男には当たっていない。
「なぁんで、魔法じゃなくて銃を使ったんだろぅな、考察しよう」
奇妙な事を言った。
道端で歩いている時に、こういう男が声を掛けてきてもファエイルは相手にしない。
無視して歩く。
だが、この場所ではそういう訳には行かない。
自室の、しかも鍵をかけたはずの部屋にこの男はいる。
最初から部屋にいたのか?
そんなはずはない、隠れられる場所など無い。
そんなファエイルの混乱をよそに、男は。
「銃が好きなんだろォォぉぉ!? 間違いねー!」
と言った。
その異様な男にラフェイルは完全に呑まれていた。
「なぁぁぁあぁ、おい。俺が答えてんだよ。正解ならピンポーン、不正解ならブッブーって言えよ、なあ?」
再度、ファイエルはその男に目掛けて銃を放とうとした。
しかし。
自分の右腕を見て、言葉を失った。
そこには銃が無かった。
いや、銃だけでなく銃を握っていたはずの手首までも無くなっていたのだ。
「あ、あ、あ……」
ファエイルは悲鳴を発することすら出来なかった、まだ痛みを脳が認識していない。
「あーあ、ドアに手を挟んじまったなぁぁああァァ」
男はまた奇妙な事を言った。
見ると、男の手にいつの間にかファエイルが持っていた銃が握られている、手首は無い。
「俺の、俺の手首……、俺の手首が……」
血が凄い勢いで溢れている、早く治療しなければ命が危ない。
そういう思いが、ファエイルを正気に押し留めた。
そうでなければ発狂していてもおかしくなかった。
「なぁぁああァぁ、ちゃんと考察しているのかよ?」
ファエイルはそれには答えない、すぐさま首に巻いてあるネクタイを解き、右手首に巻きつけた。
左手しか動かない状況で、それだけの事を瞬時に出来る人間はそういないだろう。
その光景を見ても、男は特に何もしない。
だがその光景を眺めている。
ようやく、ファエイルが手首にネクタイを巻き、止血が済んだ時に、男はまた喋り出した。
「俺の名前はデモニム。俺の事をオッドアイって言う人もいるけどよー。なあ、あんたの手首が何処に言ったかなんてさ、じっくり考察すると良いぜぇー。なぁに、タップリと時間は有るよ、あんたにはさぁぁああぁぁぁ」
ファエイルは身の危険を感じ飛び退いた。
だが、次の瞬間、意味ありげな笑みをデモニムが浮かべた直後に、ファエイルは一瞬でその姿が消えていた。
跡形も無いとはこの事だ。
残されたのは、ファエイルの血痕のみである。
不気味な静寂がファエイルの部屋を満たしていた。
男――デモニムは、ポケットから通信機を取り出してどこかへ繋げた。
「あ、もしもしぃィぃ。裏切り者は処分しましたぜぇぇえぇ」
一応この男なりに丁寧な口調で話しているようだが、どこか無礼な部分が感じられる口ぶりである。
間延びする口調がこの男の癖らしい。
どうにもしまりが無い。
「よくやった、ではすぐに次の仕事に取り掛かれ」
「はいな、総統閣下の言う通りにしますよぉォォおぉ」
そう言うと、デモニムの体はファエイルの部屋から消失していた。
鍵のかけられたままの、その部屋には、ファエイルの血痕と、取り出したまま地面に落ちた煙草のみが残されていた。