第19話 大聖堂内一室
夜になった。
一体何時頃にあのエクという不思議な少年が来るのか、それは分からない。
明確な時間を報されていないからだ。
――暗く静まったら来て。
そう言われたが、もう既に広場には人影が無い。
どうにもこの街は厳しい戒律で夜間の出歩きは禁じられているようだ。
周辺を見渡すと、歩いているのは街の警備担当の者か、旅行者のような者しかいない。
大広場は夜は立ち入り禁止となっている。
しかし、別に厳重な警備が敷かれている訳ではない、厳重な警備が敷かれているとすれば、大広場を抜けた所に有る礼拝堂かあるいは大聖堂だろう、そこにはかなりの数の武装した僧兵がいるはずだ。
ハヤンは、待った。
あのような自分の中のファレイを鎮める事の出来る能力を持つ少年ならば、この広場の何処にいても自分には気付くはずだ、そう思った。
約束をすっぽかされるとか、これが罠であるという可能性をハヤンは少しも考えていなかった、そういう考えとは程遠い位置にあの少年がいるような気がしたからだ。
そのまま蹲るようにして広場の隅で、人に見られぬように息を潜めて、ハヤンはじっとしていた。
すると――
「待たせたかな」
そういう声がした。
後ろからと言う訳ではない、だからと言って横からでもなければ上からでもない、勿論正面からの声ではない。
頭に直接響いてくる声だ。
だが昼間と同じ声だった。
「どこだ?」
「こっち」
その声が響くと、いつの間にか目の前にあの少年が立っていた。
昼間と同様に、その姿は朧げで、実体ではないように見える。
服装なども昼間とまるで変わらない。
「幽霊の類じゃないんだろう?」
ハヤンは昼間に思っていても聞けなかった事を聞いた。
「もちろん違うよ、僕は意識だけを外にこうやって出す事が出来るんだ」
意識だけを外に出す。
これがどれほど困難な事か、魔法学などに疎いハヤンには分からない事だ。
魔力という力は誰でも持っているが、それを自在に操ると言うとそれはかなり人数が限られてくる、それも対象が火だとか風だとかなら分かりやすいが、自分の意識を操ると言うとかなり難しい、そしてその意識のみを外に出す、そしてこの少年はただ外に意識を出すだけでなく、ハヤンを空中で止めたり、ファレイを鎮めると言う芸当をやってのけている、想像とは桁違いの魔力を秘めていると見て間違いない。
「話をしようか」
急かすようにハヤンは言った。
「話ならばもうしているじゃない」
小さく笑いながらエクは言った。
「悪いが。本題に入って欲しいんだ、時間がそう多くないんだよ」
「それもそうだね、ここでするのも何だから付いて来てくれる?」
「ああ。そういえば俺は君の名前を知っている、エクだ。だけど俺の名前はまだ言っていなかったな」
「うん。聞かせてもらえる?」
「ハヤンだ」
「良い名だね」
エクは、まるで年寄りが子供の名前を聞いて褒めるように、お世辞ではなく本当にそう思ったように心底からの笑みを浮かべた。
そして実体ではないエクの体は、滑るように地面を進み始めた。
ハヤンはその後に続く。
行く先は、どうも礼拝堂の方角のようだ。
「この先は、俺は入れないんじゃないか?」
「大丈夫だと思うよ」
エクは淀みなく歩いていく。
辺りは、礼拝堂に灯されたいくつもの大きな松明によって照らされている。
もしも、誰か見張りが立っていれば、すぐにハヤンの姿を見咎めるはずだった。
衛兵がいても、ハヤンを取り押さえる事は出来ないかもしれないが、衛兵達がハヤンに攻撃を仕掛けてきた場合、ハヤンがファレイを抑え切りながら戦える保証は何処にもないのだ。
ハヤンの顔に緊張が浮かんだ。
しかし。
エクは礼拝堂に向かう途中で、その行き先を変えた。
あと少しこのまま歩いていれば誰かの眼に留めると言うぎりぎりの位置であった。
丁度、松明の死角に入る辺りの、鬱蒼と草が茂っている辺りにエクは向かった。
周りにある樹やら高く生い茂る草のせいで、他の場所からは隠れているように見える場所だ、どうやら人工的にこういう場所を造っているような作為的な物が感じられた。
「ここに石が有るけど持ち上げられる?」
石?
そう思い、ハヤンが見ると、草に隠されて見えにくいが確かに石が有る、石と言われて想像するよりもかなり大きい。
岩といった方が正しいかもしれない。
大の大人が2人ほどで持ち上げられるかどうかという大きさだ。
だがハヤンならば、もちろん簡単に持ち上げられる。
「出来る」
「じゃあ、お願い」
ハヤンはその岩に手をかけ、一気に持ち上げた。
ずずずず……、そういう音がして岩がその巨体を大地から浮かせた。
そのまま、ハヤンはその岩を頭上高くまで持ち上げ。
「それでこの岩をどうすればいい?」
ハヤンはその作業の途中で平然と問うた、普通ならば顔を真っ赤にして、とても口が利ける状況ではないはずなのだが、さすがに幻闘獣の力は凄い、苦しい様子がまるで見えない、汗1つも掻いていないだろう、足元の小石を拾う程度の労力しかハヤンは使っていないように見える。
「その岩は、こっちにでも置いてもらえる?」
エクは、傍らの平地を指差した、ハヤンはその通りにその岩を置いた、持ち上げる時よりも置く方に気を使った、構わずに放り投げたらその音が誰の耳に入るか分かった物じゃない。
「ここを見て」
エクの声を聞き、岩が有った場所を見ると、そこには奇妙な物があった。
地面に描かれた、奇妙な円である。
魔方陣のように見えるが、随分と古ぼけている。
どうやら今の岩で隠されていたようだった。
「これはね、非常用の出入り口だよ。大分使われていないけれど、魔力を注げば使えるんだ」
そう言うとエクは、その魔方陣の中心に立つと、古ぼけていたのが嘘のように鮮やかな色が辺りを照らした。
一瞬、誰かに見られたのではないかと、ハヤンは辺りの気配を探ったが、誰の気配もない。
「ここに立ってくれる? そうすれば、もうすぐだから」
エクの言葉どおりに、ハヤンはその魔方陣の中心に立った。
急に、眩暈に似た感触がハヤンを襲った。
座っていていきなり立ち上がると起こる立ちくらみにも似ている。
これが魔方陣による転移と言う奴か――
話でしか聞いたことが無い。ハヤンには初めての体験であった、実際にこの世界で魔法に携わっているのはいわゆるエリートと呼ばれる人間だけで、それ以外の人間は魔法にほとんど触れる事無く生活している、魔法が発達している国では、魔法が使えない人間の為に魔法道具が売られているが、魔法がほとんど発達していない国ではそれも滅多に手に入らない。
気が付くと、ハヤンは豪華な装飾品の数々に彩られた部屋にいた。
高価そうな絵画。
高価そうな彫像。
高価そうな壺。
そして高価そうな壁と柱と床。
恐ろしく金のかかった場所らしい。
そういう事に詳しくないハヤンでも、その圧倒的な迫力が感じられる。
恐らく、この部屋の物に贋作などは無いのだろう、そしてこの部屋の中で唯一金がかかっていないのはせいぜい空気程度の物だろうと思った。
「悪趣味な部屋だよね」
頭に響く声ではなく、背後から耳に届く声がした。
エクの声だ。
そこには、実体のエクが立っていた。
外で会った時とほとんど何も変わっていない。
「この部屋は嫌いだよ、お金さえつぎ込めばいい部屋になると本気で思っている人の気が知れない……」
とても10歳前後の子供の言葉とは思えなかった。
「ここは?」
「大聖堂の中の、先代の部屋の1つだよ。僕はもうこの部屋は改装してもいいと思うんだけど、色々と面倒な事が多いらしいんだよ」
今の転移魔方陣により、ハヤンは大聖堂の中にもう入ってしまっているようだ。
不思議な事に、ここだとファレイの力がいつもよりも大分抑えられているように感じる、何か建物の性質が関係しているのかもしれない。
「先代って……君は一体?」
「この部屋で話すのもなんだからこちらに来て」
そう言うと、エクはやはり金のかかっている扉を開けて、ハヤンを招いた。
ハヤンは言われるままにその扉に向かった。
廊下に出るといくつかの部屋の扉が眼に入った、どの部屋もその扉の間隔の広さから見て、中はかなり広いように思える。
「こっち」
エクに導かれて、その1つの部屋に入ると、部屋の広さこそは先ほどの部屋と大差ないが、装飾品の類がまるで見られない部屋だった。
悪く言えば殺風景な部屋。
良く言えば質素で落ち着いた部屋といえる。
「それで君は一体誰なんだ? 大聖堂の中への秘密の魔法陣を知っているだけでも、この教団の関係者としても特異だとは思うが」
部屋に入って開口一番にハヤンは聞いた。
「この国では、いや、この宗教ではもうじき僕が、皆の祈りの対象となる……それで分かるかな?」
祈りの対象。
それはすなわちこの宗教の核たる、『神の御子』の事である。
と言うことは、この少年はこの国の次期最高指導者と言う事になる、その事はもう決定事項で、例えこの少年が死んだとしても逸れは変わらない、次の『神の御子』が見つかるまでは死んでいても最高指導者には変わりが無く、政策などはその声を聞く代弁者が語るといわれている。
先代は80過ぎの老人であった、その先代が亡くなったのが一昨年である。
つまり、この教団とこの国は一昨年からは、生きている最高指導者がいないまま政治を行っていたと言うことになる。
他の国ではありえないことだ。
だがこれも無理はない、『神の御子』として認定された人物は途中で交代がされないからだ、死ぬまで、あるいはその力が失われるまではその『神の御子』が続けれられるのだ、『神の御子』は飾り的な一面もあるが、その半面で常人離れした魔力が必要とされる、その圧倒的な力で信仰を集めるのだ。
「他にも候補者がいるんだけど、皆、僕よりは魔力が低いらしくて。それで10歳を迎えるまでは誰も次の『神の御子』にはしなかったんだって」
ハヤンは絶句した。
それほどの存在を目の前にして、言葉が思い浮かばない。
世間に大して興味が無いハヤンであったが、実際に目の前に一国の王となる存在がいると、どうしても緊張のに似た感覚を覚える。
「……たまにね、意識だけを散歩させるんだ。滅多な事じゃ僕は外に出る事も出来ない身分でね、昨日もそうしていたら、あなたを見つけたんだ」
「俺を?」
「そう、こんなに哀しみに満ち溢れた魂は見た事が無かったよ、まるで大木、そう朽ちて体中に鳥が穴を開け、虫が巣食っている巨大な老木のようだ、よほど精神が磨り減っているようだね」
「……」
「そしてあなたは、その魂の浄化にこの国に訪れたということだね」
「別に入信する気は無いけどな。あ、えーと」
ハヤンはエクの名を呼ぼうとして迷った。
一国の次期指導者を呼び捨てにするのも気が引けるが、子供に対して、様をつけて呼ぶのは白々しすぎる気がする。
「ふふ、エクで良いよ、もっとも本名は別に有るんだ、この名は死ぬまで誰にも言ってはいけないんだけどね。僕をエクと呼び捨てにする代わり僕もあなたの事はハヤンと呼んで良いかな」
「ああ、それで構わないよ。それで、そろそろ本題に入ってくれないか、エク」
「ハヤンに必要なのは信仰じゃない、もっと具体的な方法でしょう? 医者が祈りを捧げても病が治らないように、ハヤンが欲しいのは患部を取り除く術だ、つまりこの国に有る世界樹の神槍と言う事になる」
「……ああ、そうだよ」
「あれはこの国の信仰のシンボルの1つだよ、あれが無くなると――」
エクは僅かに声を小さくしながら言った。
「この国が滅ぶと言いたげじゃないか、槍一本だろう? それに持ってどこかへ行く訳じゃないんだ」
ハヤンは、元々それほど口数の多い男ではない。
ファレイが憑いてからは、滅多な事では他人と口を利かなくなった、話すとしても必要最低限のことだけだ。
それが、エクの不思議な雰囲気につれられてか、この男にしては口数が徐々にだが増えているようだった。
「ま、滅びたりはしないだろうね、盗まれたらその事は秘密にされると思う、偽物でも本物でも誰も見分けがつかないからね、あんな物は――」
エクは遠くを見るように言った。
「あまり感心しないな、随分と投げやりじゃないか?」
「僕はね、ハヤン。宗教と言う物は、本当は無くても良いと思っているんだよ」
「えっ!?」
ハヤンは驚きの声を上げた。
この少年は、この宗教の未来の指導者となるはずの存在だ、その口からこのような言葉が出るとは信じられなかった。
「宗教って何かな?」
ハヤンは答えられない
「心の拠り所だよ、簡単に言ってしまうとね」
「拠り所?」
「うん。例えばね、神様は怪我や病気で死に瀕する人を救ったりはしない」
「救わないのか?」
「救わないね、もし救えるのならば信仰ではなく、それは技術がその人を救うんだよ。でもね、死にたいと言う考えを持つ人の心を癒す事が出来る、それが宗教なのさ」
「良く分からないな」
「それはそうさ、これまで人が誕生してからはっきりと答えを出せた人がいないんだからね」
「それで、何故その宗教がいらないと思うんだ」
「宗教が無くなっても、心の拠り所を人が手に入れられるのならば、宗教などいらないのさ。もっとはっきり言ってしまえば、人を救う宗教ならば必要だけれど、人を殺す宗教ならばそんな物は無い方が良い」
「人を殺す宗教? 邪教とか、そういう意味か」
「宗教が人を殺すんじゃなくて、宗教に狂った人が人を殺すんだけどね、歴史上人を殺さない宗教は無いんだよ、僕の知る限りどこの国でも宗教は人を殺す……、僕の国の宗教も例外じゃないよ、現に宗教団体を護る為以上の軍事力がこの国には有るんだよ、哀しい事だよ本当にね」
まるで世界各国の全ての歴史を網羅しているような口調だった。
あるいは、この少年は文献などでそれらを本当に学習しているのかもしれない、だが、文献などで得られる知識と言うよりも自分の眼で確かに見たような深い感情がそこから感じられるのが不思議だった。
「悪いが……」
重い口調でハヤンが口を開いた。
「宗教の話は俺には分からない、分かるのは俺の身に宿っている物が世界にとって害悪だと言うことだけだ、だから取り除きたい、それだけだ」
「それで例え、あなたの命が失われようとも?」
「構わない」
まるで淀みが無く、何度も言い慣れたようにハヤンは言った。
適当な相槌では無い、自分の命についてこれほどはっきりと直ぐに返答を返せる物はそういないだろう。
「凄いね、そう言い切れる人はそういないよ」
「違う、凄くないから言い切れるんだ、凄い人間ならば自分の命を最優先にするべきだ、次が有るんだからな……」
身を切られるような口調だった。
耐え難い苦痛を必死で堪えている様にも見える。
その時。
エクの表情が変わった。
「誰!?」
ファレイの力が妙に静まっているせいか、エクが言うまでハヤンはその扉の向こうの気配にまるで気付いていなかった。
扉がゆっくりと開いた。
扉が開くまでの静寂がやけに長く感じられた。
そこには、1人の長身の男が立っていた。
美麗でなお端正な顔立ちを有している男。
その男は、黒を基調としたロングコートのような服を身に纏い、理知的でありながらも何か例えがたい情のような物が感じられる双眸で、ハヤンとエクを見下ろしていた。
その手には、槍の様な物が握られていた。
「何故それを――」
エクが驚愕の声を漏らしていた。
その男が突然に現れた事よりも、はるかに驚いたようだった。
「世界樹の神槍……、この国の最高重要秘宝にしては管理が杜撰だな」
突然現れた男――プルシコフが、世界樹の神槍を持ってそこに立っていたのである。
「お前、プルシコフ……」
掠れた声を発しながら、ハヤンの体の周りにはファレイの力があふれ出んばかりに迸っていた。
ハヤンの眼には、狂気の色が宿っていた。
これ以上無い程の憎悪に両の眼が染まっていた。