第17話 礼拝堂前大広場
蛇が爆発する寸前。
ハヤンがとった行動は、その足に絡みついた蛇を引き離す動きと、そして思いっきり背後に跳ぶ事だった。
やはり、予想通りこれらはかなり計算されて動かされてはいるが、正確に操作されてはいないようだ、数秒間巻き付いてから爆発するまでに無駄な間があった。
もしも、巻き付いた瞬間に爆発されていたならば、その衝撃は傷こそファレイが防いでくれる物の、間違いなく意識をどこかへ吹っ飛ばしていただろう。
蛇を引き剥がして、放り投げた瞬間にそれが爆発した。
「うっ!」
ダメージこそ無いが、そのまま後方へ五回転は転がった。
足元の爆発物が爆発したら、本来ならば回転どころか木っ端微塵なのだが、それと比べるとマシではあるが、嬉しい状況でもなかった。
それにしても周囲に人がいなくて良かった、大爆発とまでは言わないが、あの威力ならば人が密集している場所で使われたら2〜3人は死なないまでも重傷を負わせられるだろう。
今の爆発音で人が寄って来るかも知れないので、この場所に長居は出来ない、それに相手からの追撃もあるだろう、あれで終わりとはとても思えない、場所を移動しなければならない。
移動する場所。
どうするか……
ハヤンは考えた。
・
ラルフレスは、仮面を取り、雑踏の中を歩いていた。
このような街中では仮面を被っていた方が目立つ、周囲に旅の人間だと悟られないように民族衣装も着こなし、顔や手など外から見える部分には強烈な日差しの下で生活する者には当たり前の、黒々とした肌を見せているが、これらは自らが施したメイクである。
どの場所でも違和感無く入り込める、そしてその環境に馴染む、それがラルフレスの任務ではかなり重要な事なのだ。
せっかく相手の意識をかく乱しても、外見で敵と判断されたら元も子もないからだ。
女性である事、これすらも変装により隠せるが、治安がよほど悪い場所ではない限りそれはしない、それはどれほど隠しても違和感を悟れる事を恐れての事だ、それにこのような厳格な宗教が浸透している国では、何をするにも女性である方が都合がいい場合が多い。
対象であるハヤンとの距離は少なくとも2〜3km以上離れている。
上空には監視用の鳥を配置して、そこから情報を得て、後続の攻撃を送り込むのだ。
これ以上近づくべきか――
ラルフレスは悩んでいる。
攻撃の正確性の問題だ、これだけ距離が離れていると攻撃のレスポンス差がかなり有る、同時に鳥を何匹放っても、それと同時に他の攻撃を仕掛けてもどうしても微妙に誤差が生じる、それだけの誤差があればこの相手には通じない、現に今の攻撃もかなり上手い具合にいったのだが結局は失敗に終わっている。
近づいても自分の意識をかく乱する能力を使えば、いくら相手が探査能力に優れていようと気付かれない。
しかし、それはあくまで人と対する時だ、相手の力は未知数だ、過信しすぎて近寄りこちらの位置が気付かれると終わりだ、近接戦闘では勝ち目がまるで無い、常人相手ならばどうとでもなるが幻闘獣憑きの異常な戦闘能力を前にしては無力に等しい。時限爆布での攻撃は近接戦闘には向いていない、ラルフレスの能力は遠距離での奇襲向けなのだ、だから気付かれたら負けだ、しかし、近づかなければ攻撃が成功しない。
どうするか。
悩んだのは一瞬だった。
ラルフレスは近づく事を選んだ。
自分の保身など二の次で良い、重要なのは任務を全うする事だ。
それが、例えあの幻闘獣を暴走させ、この街に住む人間が何人いや何百、何千という人数が惨殺されようと構わない、報いならば死んでから地獄の業火に焼かれよう。
ラルフレスは、出来うる全ての能力をここで使っても構わないと、そう考えている。
もちろん相手を警戒している、ここまで来て失敗は許されない。
意識にモヤをかける能力も、普通ならば相手が1人であるなら十分な量の力を使っているが、相手に近づくにつれて、その力を増やしている、相手は幻闘獣憑きである、どういう警戒もしすぎと言う事はないだろう。
少々周囲に対して鈍感になるが、ここは治安が悪い場所ではない、意識を逸らしていても身に危険はそうは無いだろう。
時限爆布を連続で使えば良いと言うものではない、あくまで相手を動揺させるのが目的だ、こちらの攻撃の威力は決まっている、決して強い攻撃ではないのだ。
考えは有る。
不意を突き、至近距離から爆発をさせる、さきほど失敗したのは鳥を完全に相手に気付かれていたからだ、今度は気付かれないようにやる、気付かれても爆発する寸前になるようにする。
それで大丈夫なはずだ。
ラルフレスが、相手の位置を確かめようと意識を監視している鳥に移すと、対象の位置が、どんどんと街の中心に向かっている。
おかしい。
そう思った。
この男は、周りに人がいる場所を避けるはずだと思っていた、それなのに、自ら人が大勢いるであろう街の中心地にある礼拝堂の辺りに向かっている。
どういう事か?
まさか、自らの身を護る為に、他の人間に紛れていれば隠れられると、そう考えているのだろうか?
(……舐められた物だ)
ラルフレスは、密かな怒りを感じていた。
自分の身を護る為に、他人を犠牲にしても良いと言う行動、それ自体にも多少の怒りを感じていた(犠牲といったが攻撃するのは自分だから複雑では有るのだが)、そして何より自分の能力を相手が過小評価しているのに腹が立っているのだ。
決めた。
心底絶望的な状況に陥れてやる。
絶対に気付かれない方法で、相手に近づき、そして爆発させる。それだけの策が自分には有る。
もう無駄撃ちはしない、決定的な一撃で仕留める、もちろん時限爆布の攻撃程度では命を奪う事は出来ないし出来たとしてもやらない、そういう任務ではないからだ、あまり近づいては気付かれる危険とは別に、相手が暴走した時の危険は有る、しかし、それもどうでも良かった、今度の攻撃で終わらせる。そういう固い決意がラルフレスには有った。
・
ハヤンは迷っていた。
敵が何処から攻撃しているのか、まるで見当が付かないからだ。
ファレイの探査能力を使っているのだが、街の中にそれらしい気配が感じられないのだ。
まさか、街の外からの超遠距離攻撃!?
そういう可能性もあるが、推測ではあるが敵は恐らくだがそんな遠くからは攻撃してきていないだろうと思う、根拠はさきほどの蛇と鳥の連携がかなりタイミングが合っていたからだ、根拠としては薄いがそれにすがるしかない。それに今の攻撃失敗を受けて、相手は更に自分に近づいて来る気がしていた、少なくともこちらを視界で確認できる距離程度に。
ならば、考えがあった。
しかし、これがもしも予想外れで敵がまるで自分に近づいてこなかったり、あるいはまるっきり見当外れで実は街の外からの攻撃だったりすると、取り返しが付かない、それで迷っているのだ。
だが、もう迷っている暇は無い、この相手は自分が街の外へ出るのを待ってくれるとは思えない、相手の攻撃が続くのならば、そこが”街の中心”だろうと”街外れ”だろうと、結果的に暴走したら同じ事だ、どちらにせよ結果的に大した違いは無い。ならば暴走する可能性が低い方を選ぶべきだ。
ハヤンは決めた。
その足は街の中心に向かっていた。
街の中心、そこにあるのはこの街の、いや――この国のシンボルの1つである礼拝堂がある。
その宗教の信者でなくとも、眼を奪われる”立派な”という言葉では言い表せない崇高さと神聖さが感じられる、この礼拝堂に隣接する大聖堂の中の信者であっても滅多に入る事の許されない場所に、この国の王と呼べる存在である”神の御子”がいるという、そしてハヤンの求めている世界樹の神槍も、正式に公表されていないのでどちらに有るか分からないがあるとすればどちらかに有るはずだ。だが今はそれに気を逸らしている場合ではなかった。
その礼拝堂の前には、人が数万人は入れる巨大な広場がある。
世界各国から巡礼者が訪れ、信者がひしめき合う広場は正午直前のこの時間になるともうその間を縫うように走ることも困難だった。
こういう場所だと、さっきの爆発攻撃は難しいはずだ、やってこないとは言い切れないが、成功確率が低い攻撃をこの敵が何度もやるとは思えない、そういう正確さが感じられる気がする。
相手は、恐らく次の攻撃で決定的な何かを仕掛けてくるような気がする、これはほぼハヤンの直感である。
無差別に爆発攻撃を連発してこないとは限らない、そうなったら巻き添えになる人には心苦しいが、自分に出来る最良の方法はこれしかない、そう考えている、じっくりと悩む時間は多くないのだ。
幸いな事に、相手からの追撃は無いが、諦めてくれるとは到底思えない。
広場をぐいぐいと進む。
前へ、前へ。
礼拝堂に入る事はこの期間出来ず、礼拝堂前の大広場での祈りが彼らにとって最も神に近い祈りの場なのだが、前に進むハヤンに口を挟む物はいない、彼らにとって神との距離は物理的な距離ではないのだからだろう、だが、もしこれが礼拝堂に立ち入りが許されている期間中ならば、礼拝堂に我先に入ろうとする人たちにハヤンは取り押さえられていたかもしれない。
それほど強引に前へ進んでいる。
時間内に出来るだけ前に行かなくてはいけない、そういう動きだ。
何かこの男には考えが有るらしい。
大広場のかなり前の位置に迫った時、頭上から降り注ぐように、ごーん、ごーん、ごーん……、という鐘の音が響き渡った。
その鐘の音が耳に入り数秒してから、ハヤンは急にぐいっと左手を捕まれていた。
かなり強い力で引かれた。
何だ!?
ハヤンが振り返りその相手を見た。
そいつは、ハヤンと同じようにローブを頭からすっぽりと被っている、ハヤンと違うのはそのローブがまるで売り物のように真新しい事と、この国の宗教の信者が好んで着るローブであると言うことだ。
だが、一目でその相手の異常に気が付いた。
その相手の目には光が無い。
それに掴んだ手の感触は、人のそれとは違う。
そして、男であるのか、女であるのか、そういう判断がまるで付かない非人間的な顔をしていた。
その相手は口をこれでもかというほど大開にしていた。
その相手の舌が、
ヂヂヂヂヂヂヂヂ
という音と火花を発していた。
正直にハヤンは驚いていた、まさか人型の攻撃を仕掛けられるとは考えていなかった。
だが、奇妙な事に、驚きよりも何か優越感に似た奇妙な表情がハヤンの表情にはあった。
この完全に絶望的な状況の中で、ハヤンはその突然の攻撃よりも反応すべき事があったようだ。
ハヤンの眼は真っ直ぐにある地点を睨んでいた。
・
まだ、ごーん、ごーん、ごーん……という鐘の音が響き渡る広場の、礼拝堂からかなり離れた位置にラルフレスはいた。
そこから、上空の鳥を利用して対象の位置を正確に把握している、人が大勢いるせいで、自身の視力では捕えられないからだ、だが人が誰もいなければ自分の位置から対象は十分に眼に入る位置にいる。
対象は先の攻撃で先入観を持っている、その先入観を逆手に取る攻撃を仕掛けたのだ。
小型の動物しか出来ないだろうという勝手な思い込みを、対象は抱いていたはずだ。
その中で、人の形の時限爆布を送り込んだ。
対象の思惑は分からないが、かなり無礼に信者を押しのけ前へ前へ進んでいる、その中で信者の格好をした爆布を送り込めば、信者の誰かが自分を注意しようと手を掴んだと勘違いするだろう、その一瞬を突く、そう考えたのだ。
これだけ人が大勢いると、時限爆布を人型で移動させると不確定要素が多い、途中でまったく無関係な誰かに接触するとそれだけで時間のロスになる、最悪の場合、対象に届く前に爆発と言う笑えない状況にもなりかねない。
だがそれは上手く行った。
ラルフレスの、奇跡的なタイミングの見切りの成果だといえる。
爆発するほんの数秒前に、見事に対象に接触していた。
芸術的なタイミングで攻撃が成功した。
そうラルフレスは確信していた。
今の自分と相手との距離は1km弱離れている、これほど人がいる中では、どれほど探査能力が優れていようと気付かれまい、それに自分の攻撃は指示した通り自動的に行われる物で、攻撃の瞬間に殺気を悟られる心配も無い、だがそれでも、決して油断せずに相手に自分の気配を悟らせない術にかなりの力を注いでいる、これで気付かれる訳が無い。
だが。
鳥から見た、対象はどうも落ち着いているように見えた。
絶望的な表情が見られない。
何故だ?
死ぬ寸前の悟りの境地だとでも言うのか?
鳥からの映像では、対象が人型の爆布に腕を捕まれている様子が見える、その視線がどうも妙だった。
気のせいかもしれないが、真っ直ぐに自分を見ているような気がした。
いや、気のせいではなかった。
対象と眼が合った。
鳥からの映像ではなく、肉眼ではっきりと見えた。対象は、この大勢の中から真っ直ぐに自分のみを見ていた
対象が僅かに動いたと同時に。
どん。
そういう軽く叩くような衝撃が、ラルフレスの腹部の辺りにあった。
何だ?
分からない、それよりも強い疑問が頭の中を占めていた、何故自分をこの大勢の中から見つけられたのか――
相手の意識はまだ、かく乱しているはずだ、それも普通の人間に対するよりもずっと力を注いでいる、気配を気付かれるはずが無い。
そこまで考えて、ラルフレスはようやく気が付いていた。
周りの異常に。
その大勢の人が溢れかえっている広場の中で、立っている人間が、自分と対象と、他に数えられる程度の数名しかいない事に。
時間は正午。
そうか――と、ようやく気付いた。
迂闊だった、意識を対象のかく乱に使いすぎて、周囲にまるで気を使わなかったのだ。
これだけ人が大勢いる中、さっきまでは人の壁で相手の姿が見えなかったのに、鳥から意識を戻した瞬間に、肉眼で対象と眼があったと言う異常の理由もその時点でようやく気が付いた。
この時間は、礼拝の時間だ。
この宗教の戒律の1つ。
毎日決まった時間に神に対して祈りを捧げる。
”地に膝をつき、頭も地につけて、祈りを捧げる”のだ。
個人差はもちろんある、礼拝の時間内である5分以内に祈りを捧げれば良いのだから、時間前から地に頭をつけている人間もいれば、時間ギリギリにやる者もいる、だがそれは他の場所での事だ。この場所は違う、熱心な教徒のみが集まるこの礼拝堂前の大広場で、合図の鐘と同時に祈りを捧げていない者の方が少ない。
1万はいるはずの広場で、まだ立ったままなのは自分と対象と、それと他にほんの数名程度だったのだ。
致命的だった。
どれほど周囲に溶け込む変装を施そうと、他の人間が地に伏している状況で、立っていると言うのはそれだけで致命的だった。
逃げなければ――
そう考えた時には、ラルフレスは既に終わっていた。
ラルフレスはそこで、さっきの衝撃の意味が分かっていた。
腹部に、穴が開いていたのだった。中心ではない、やや右の腹の辺りに親指と人差し指で作る輪程度の大きさの穴が開いているのだ、恐る恐る背に手を回すと、そこにも似たような穴が開いている感触が有った、この穴は貫通しているのだ。
一体どういう攻撃を受けたのか――
穴の大きさ自体はそれほど大きい穴ではない、だが完全に肉体を貫いている穴だ、人間の体に穴が開くと言うことは、どれほどの意味を持つのか、人はナイフなどで刺されると普通に想像する以上に簡単に命を落としてしまう、それが完全に向こう側が見えるまで穴が開いていると言うことは……
声も発さずにラルフレスは動いていた、機敏な動きだった。
爆布で傷口を一瞬で焼き、塞いだのだ、調整が難しく、下手したらそれで致命傷に至るかもしれない威力を持っている爆布であったが、さすがにラルフレスはそれを使い慣れている、見事に傷口だけを焼いた。出血を最小限に抑える為にだ、決して過剰表現でなく気が遠くなるほどの激痛がラルフレスを襲った。
こちらの居場所は相手に気付かれてしまった、奇襲が専門なのに気付かれたと言うことは、この場での勝ちはもう無いと言うことだ、身を挺して攻撃してもそれは相手に通じない、ただの悪あがきに過ぎない、それならば全力で逃げる、相手からの攻撃の可能性も十分にあるが、逃げる事のみが今の自分に出来る最後の手段なのだ。
この程度の傷ならば、治療設備が整った場所に行けば何とでもなる、そう思った。
それに紙を他の生き物のように操る術も、意識が乱れると思うようには使えない、今の状況では鳥を作っても、それは少し飛ぶかもしれないが、その形はお世辞にも鳥とは似ても似つかない物になるだろう。
ラルフレスは走った。
大勢の信者達が地に伏しているその上を、人と人の隙間を縫うように足場を探し、走った。
幸い、相手からの追撃が無い、しかし、どうしたのかとそちらを見て取る余裕もラルフレスには無い。
走るしかなかった。
走って、走って、走って……
もう何分走っただろう。街の中心から、一気に街の出口に近い所までは走っただろうか。
気が付いたら、ラルフレスは天を見上げていた。
大きな赤い球体が空に見える。
走りながら一瞬気を失い、そのまま地面に倒れ、仰向けになり空を見上げていた。
暑い……、日差しがジリジリと肉体を焼く。
しかし、どうしたことか、暑いのに肉体はその熱を望んでいるようだった、体温がどんどんと下がっている様ようなのだ。
おかしい、傷口は塞いだはずなのに、塞いだはずの傷口から血が湧き水のように滾々と溢れているのだ。
祈りの時間が終わったのだろう、周囲の人々も、倒れているラルフレスを中心に一定の距離を保ち円を描くように集まっていた。
悲鳴に近い声も聞こえる、誰かが医者を呼んだかもしれない。
これ以上、騒ぎが大きくなるのは望むべき所ではない、直ぐに立ち上がらなければ――
そう思った時、ラルフレスは誰かが自分の近くに立っていることに気が付いた。
誰だろう?
すぐに分かった。
自分がこの世で唯一心を許せる相手である。
プルシコフがそこに立っていた。
「私……死にますね」
呟くようにラルフレスは言った。
ラルフレスは確信していた、プルシコフがどこでどうやって自分を見ていたか、それは分からない。
しかし、プルシコフがわざわざここに来ると言うこと、それの意味は良く分かる。
「ああ、あれの攻撃は強烈な呪詛と同じだ、常人があの攻撃を受けるとあらゆる回復手段の効果が無い――」
プルシコフは、膝をつき、ラルフレスの額を左手で触りながらそう言った。
回復手段が無い、今の自分の状況で、回復が図れなければ待つのはやはり死のみだ。
普通ならば、嘘でも大丈夫だと言うかもしれないが、プルシコフは包み隠さず事実を伝えた。
ラルフレスはそれでも動揺は見せなかった。
「最後に、1つ……聞かせてもらえますか?」
「何だ?」
「私の名前、一体何故ラルフレスと?」
そう問われ、一瞬口をつぐんだプルシコフだったが、すぐに答えた。
「……妹の名だ、産まれてすぐに死んだが」
「妹様の名を私なんかに――」
「迷惑だったかもしれないが。だが……、お前の事は、その、妹のように想っていた」
プルシコフは、倒れているラルフレスを抱きかかえながらそう言った。
この男にしては珍しく、口篭っていた。
常に自信が満ち溢れ、威厳が輝いているように見えるこの男が、今は、慣れない言葉が口から出た事に照れているようにすら見える。
「嬉しい――」
ラルフレスは泣いていた。
この世に生を受けてから、涙と言うものをラルフレスは流さなかった。
どこかで全てを諦めている部分があったからだ、泣いた所で何も変わらない、ならば私は泣いたりしない。
そういう信念があったのかもしれない。
そのラルフレスの頬を涙が伝っていた。
ああ――
自分はこの瞬間の為に生きていたのだな。
そう思った。
地獄のような孤児院生活も、人から物を盗んでいたドブネズミのような生活も、あれほどの苦痛であったのに、今はこの瞬間をもう一度味わえるのならば、また生まれ変わり同じ事を繰り返しても悪くない、そう思えた。
正直に本音を言うと、妹のようにというのは悲しむべき所かもしれない。
しかし、妹のように想っていた……
その言葉で満足だった。
高望みはしない、それに嘘偽り無く充分に満たされたのだ。
「私が息を引き取る前に、あなたの手で――」
ラルフレスはそう言った、もちろんこの言葉は滑らかに発せられたわけではない、切れ切れに発せられた言葉だ。
このままでは遅かれ早かれ死ぬ、どうせこのまま死ぬのならば、この世界の他の誰でもなく、あなたの手で殺して欲しい、そういう意味だった。
プルシコフは、静かに頷いた。
そして、ラルフレスはその瞼を閉じた、その瞼は二度と開かれる事は無かった。
次の瞬間、プルシコフの手に抱かれていたラルフレスの肉体が消失していた。
プルシコフの手の中に、ラルフレスの身に纏っていた衣服のみが残されていた。
一体、どうやったのか? そして更に次の瞬間にはその衣服すらも消失していた。
辺りの人間から驚きの声が上がったが、プルシコフはそれにはまるで興味を示していない。
その瞳は、この街、いやこの国ではたった一人の人間だけを見ていた。
視界に入る距離にはいないが、間違いなくその視線の先にいる、ただ1人の人間を。
「ハヤン……、なるべく早くに会いに行く」
そう呟いていた。
その双眸には、心なしか陰が潜んでいるように見えた。
「必ず行く……」