第15話 ラルフレス
鳥による攻撃で気を逸らし、蛇で足元から攻撃をした、その攻撃の効果はまだ分からないが、この程度ではまだ相手を暴走させるには至らないだろう、引き続き攻撃を行わなくてはならない。
作戦中、ラルフレスは、時々考える。いつもではない、作戦の合間にほんの少し考えるだけだ。
それは自分の人生についてである。
あの時、もしもプルシコフ様に出会わなかったら、その後の自分がどうなっていたかを。
それは想像するだけで、震えが止まらない事だ、この世で最も恐ろしい事は、死ぬ事よりもあの日々に戻る事だ、プルシコフ様に出会えなかったらという考えは想像する事すらもも恐ろしい。
ラルフレスは、昔の自分の境遇を思い出していた。
ラルフレスが生まれた場所、それは世界の中でも最下層と呼ぶに相応しい場所だった。
一般的に言われる貧困層よりも更に下の位置で生活していたのだ。
父はいない。
母はいない。
そもそも、両親と言う概念を知ったのも10代の中頃である、世界には親と言う存在がいるという常識すら知らされない環境で、ラルフレスは生きていた。
物心付いた頃から、ラルフレスは孤児院で生活していた。
その孤児院は、とある金持ちが世間に対する評価を上げる為と税金対策で設立された物だった。
孤児院を経営していると、それだけで評判が上がる。身銭を切ってまで、恵まれない孤児を救っている慈悲に溢れた人物であると評される、しかし実態は、その金持ちが金を貸していた病院の持ち主が死去し、借金の代わりに取り立てた施設を孤児院として利用しているだけである、それに孤児院を経営していると国からの補助金も出て、なおかつ税金の一部免除と言う役得も有る、その金持ちが孤児院設立の為に実際に使った費用の額など、その孤児院をたった2年経営しただけで元が取れてしまうのである。
決して、孤児を愛する気持ちから設立された物ではないその孤児院は、子供が生活する上で考えられる最悪の条件をクリアしていた。
衛生状況、劣悪。
栄養状況、最悪。
教育状況、悪辣。
ネズミですらもう少しまともな生活を送るであろうという環境で、ラルフレスは幼少期を過ごしたのだ。
10人が重なりあうような狭さの部屋に押し込められ、毛布すらも与えられない、冬場はお互いの体温により寒さを凌ぐのだ。
体臭がきつくなると、その場にいる大人達にとっても不快である為か、2日に1度程度は水浴びが行われたが、それを喜ぶ者は少なかった、何故ならば水浴びと言っても、自分の意思で浴びるわけではない、強制的に水を激しい勢いで浴びせかけられ、息を吸うのがやっとの状況だったからだ。
食事は、日に、パン1〜2切れが当たり前で、後は泥のような最低のスープが出る程度、成長期の栄養は元より、人間の生存に必要なエネルギーのぎりぎりを摂れるかどうかと言う事も怪しい量だ。
もちろん病気になる者や、倒れる者は多数いた。
そういった者達は、どこかへ運ばれ、そして帰ってこなかった。
どこに運ばれるのかラルフレス達は知らなかったが、大体推測していた、そこがどこにせよ、その場所に行く事は終わる事だと言う事に。そして何人がここからいなくなって代わりなどいくらでもいると言う事に。
孤児院には子供を10人程度のグループ分けにし、その担当の人間は”監督”と呼ばれた。
グループにより監督の質が違った。
質と言ったが残念ながら違うのは、善し悪しではない、例えるならばどのような種類だろうと拷問が拷問で有るように、どの監督だろうとその監督独特の苦痛が孤児達を襲った。
ラルフレスを担当した監督は、言葉よりも暴力を日常で使用する男だった。
行きつけの飲み屋で女につれなくされたから。給料が安いから。歯が痛むから。果ては風が吹くから、雨が降るからという理由で、あるいは理由すらも無くラルフレス達を殴りつけた。
誰を、という決まりは無かった。
目に付いた相手を殴る、叩く、蹴る。
殺さないように手加減はしているが、傷跡が残らないように、などの配慮をしているかどうかは疑問だった。
普通ならば、傷が目立たないように気をつけてやるのだろうが、そんな物を気にする様子はまるで無かった、定期的に誰かが視察に来るような施設では無いのだ、それに普通ならばと言ったが、そもそも普通の孤児院ではこのような暴力などはありえない。
国からすれば、その場所に孤児院がいて、そして孤児がいれば、手続き上それで問題ないから、視察が無いのだ。
そこで、奇妙な事があった。
その奇妙な事に気付いていた人間は、その場には恐らくいなかっただろう。
ラルフレスはその部屋の10人の中で、常に下から数えた方が早いほど殴られる回数が少なかった。詳しく調べる者などそこにはいないが、月ごとで比べると、ラルフレスは常にその部屋の中で2〜3番目に殴られる回数が少ない、人により毎月殴られる回数は違う、先月一番殴られた回数が少ないからと言って来月殴られる回数が増えるわけでもないし、逆に減るわけでもない、ほとんどランダムだ。それなのに年平均で見ると、明らかにラルフレスが殴られる回数が少なかった、毎月必ず下から数えて殴られる回数が少ないが、決して一番少ない訳ではない、それが続いているのである。
他の孤児を徹底的に叩きのめした後、思い出したようにラルフレスは殴られた。
もしかしたら、ラルフレスがその気になれば監督が殴らないように出来たのでは無いだろうかと思ってしまう、それでも殴られたのは他の皆に対する配慮なのか、それとも自分だけ殴られないと仲間から孤立、あるいはもっとはっきり言ってしまえば排除される事を恐れたようにも思える、どのような場だろうと人が集団で生活する中で、浮いた物は排除されるのだ、それが例え皆が虐待を受ける場であっても、それをラルフレスは分かっていたのではないだろうか。
その頃から、確信的にラルフレスは自分の才能に気が付いていた、殴られる回数が少ないのは、偶然でも、影が薄いせいでもない、監督に好かれていたから等という有り得ない事でもない、確かな能力があるからなのだと。
誰かに、気付かれたくない場合、ラルフレスはその相手に気付かれないで済んだ。
当時は詳しい事情はその時は分からなかったが、それは特殊な気配隠蔽術の一種であった。
特殊な、魔力(魔素を自分の意思で操る力)で、人間の認識能力にモヤをかけるように出来るのだ、それによりどのような相手だろうと、自分の存在に対して鈍感になる、視界に入らない限り、あるいは触れない限り気付かれる可能性を限りなく抑えられる、相手が格闘術の達人で有る場合は、近寄るまでは気付かれないかもしれないが、攻撃をしようとした瞬間の殺気を気取られれば防がれてしまうだろう。
この術を使っている時は、殺気を隠す事が難しいのだ。
大人になり訓練を積み、ある程度は改善はされたがそれがこの術の欠点の1つだある事には違いない。
他には、この術は特定の相手にしか使えない。
条件としては、こちらが相手の意識と気配を認識している事である。
子供の頃は、監督にのみ使っていたが、大人になってから能力を研鑽し、最大に3人にまでは同時に使えるようになった。
しかし、3人に同時に使うと、かなり精神的にも肉体的にも無防備な状態に陥ってしまう。
だが、1人か2人の場合ならば、ある程度の余裕を持って使えるようになった。
だが僅かでも無防備になるのは変わらない、この点も欠点の1つといえる。
話が逸れた。
幼少期のラルフレスの話だった。
ラルフレスは、10歳になり、健康体とは言いがたいほど四肢は痩せ細り、無駄な脂肪が一欠けらも見当たらない肉体だったが、眼だけは生への執着で、他の死んだような眼をした孤児たちとは違いらんらんと輝いていた。
自分の部屋の人間は、どんどん顔が変わる中、ラルフレスだけが病気にかかることもなく、いつの間にか一番の古株になっていた。
外の世界、それを明確に意識した事は無かった。
あるいは自分の能力を使えばここを出られるかもしれない、いやかなりの確率で外に出る事は可能だろう、しかし自分が生まれた場所、この孤児院こそが世界の中心であり、他の何処に行っても同じような物なのだろうなと心のどこかで諦めていた部分が有った。
人間の生命力と言うものは素晴らしいもので、それほどの劣悪な環境でありながら、ラルフレスは見事に適応し、そして生き延びたのだ。
変化は、ラルフレスが11歳になった時に起こった。
経営者である、金持ちが死去したのだ。
その金持ちの親族は誰も、莫大な相続税を恐れ孤児院の運営を引き受けたがらず、そして孤児院は取り壊される事となった。
大半の孤児が他の孤児院に移されていく中、ラルフレスはそこから抜け出し、1人で生きていく事を決意していた。
それは固い決意だった。
自分にとっての世界の中心は、まるで自分と関係のない事情により壊された、なんだ、世界とはそういう物なのかと、幼いラルフレスは幼いなりにその鋭い感性で気付いていた、ここから別の孤児院に移り、そこでここより多少良い生活、あるいは多少悪い生活を送っていく事に意味など無い、例え野垂れ死にをしようとも自分の選択を信じ、それにのみ頼り生きていこうと考えた。
そうしてラルフレスは、孤児院と言う世界を捨て、新しい世界へと足を踏み出した。
世界と言うものは決してぬるま湯ではないが、生き地獄ともいえる孤児院から比べれば過酷とは程遠かった、世間の人間は無関心だし、そしてラルフレスには世界に通用する能力があったからだ。
11歳のラルフレスが生きていく為にしたことは、労働では無かった。
そもそも労働の仕方も習っていない、それに痩せぽっちの力も学も無い子供を雇おうと言う人間も皆無だっただろう、ラルフレスがした事は盗みだった。
ラルフレスの人の意識にモヤをかける能力があれば、店主の目を眩ませ、物を盗む事は容易かった。
その頃には、ラルフレスは自分の能力についてかなり把握しており、教養こそ無いが本能とも言えるレベルで、これはこう使えば良いという事が分かっていた。
盗みは毎回成功したが、ラルフレスは店から盗むのはやめた、もちろん良心の呵責などという物とは勿論違う。盗む際に店主にモヤがかかっても、稀に他の客に見咎められ店主に告げ口される事が有るからだ、もちろん捕まりはしないが、ラルフレスは警戒し、やめた。
それからは、スリを本業とした。
対象は1人だ、自分の能力を用いれば、必ずと言っていいほど気付かれない。
盗んだ金で食い物を買い、その日を暮らした、最初は金と言うものも良く分からなかったが、街中でそれを利用して物を手に入れているのを見てから理解した。そういう生活を3ヶ月も続けた頃、ラルフレスは運命的な出会いをする事となる。
いつものように、街を徘徊し、獲物を探していたラルフレスに妙に小奇麗な格好をした青年が眼に止まった。
一目見ただけで、裕福な生活をしていると分かる、たまたまどこかに行くから金のかかった服装をしているのではなく、日ごろから当たり前のようにそういう服装を着こなしているのが見て取れる、それにどこかしらに気品のような物すら伺える。
ラルフレスは、嫉妬した。
自分はこんなに汚れた格好をし、その日を必死に生きていると言うのに、この青年にはそういう苦労が眼に見えなかったからだ。
こいつだ。
こいつから金を盗もう、そう思った。こいつならは金をなくしても困らないだろう、いや困るのならば困るで嬉しい、こういう世間知らずはどんどん困れば良いのだ、そう思った。
そしていつものように、能力を使い、その青年に近づいた、そして財布を抜き取ろうと懐に手を入れた瞬間、いつもと違う事が起こった。
ラルフレスの細い手を、その青年が掴んだのだった。
素直に驚いた。
今まで、手を掴むも何も、自分の存在に気付いた人間などいなかったからだ。
青年は平然と。
「凄いな、ここまで近寄れるとは……」
どこか、驚嘆している口調だったが、それを理解する間はラルフレスには無かった。
逃げなくてはならない、気付かれたのならば逃げるしかない、それだけが脳裏を占めていた。
「があっ!」
ラルフレスは、その青年の手に噛み付こうとした、青年は片腕なのに自分の両腕の腕力で引き離そうとしてもまるでびくともしないからだ。
しかし。
噛み付こうと行動を起こした瞬間に、ラルフレスの体は宙を舞っていた。
どうやったのか分からないが、投げ飛ばされた事は間違い無い。
背中から落ちた。
背中を襲う痛みを堪え、立ち上がると目の前にはその青年が立っていた。
駄目だ、逃げられない。
間違いなく捕まってしまうと、ラルフレスは覚悟した。
「お前は人か?」
青年は唐突にそう尋ねた。
ラルフレスは学こそ無いが言葉は今までの生活で理解している、文字こそかけないが相手が何を言っているのか位は分かる。
人か? と、問われ、ラルフレスは戸惑った。
人であると、声を高々に言えるほどの自信が自分には無い事に気付かされたからだ。
「獣ならばこのまま何処へだろうと行って好きにすれば良い、だが人ならばその能力を俺の為に使え」
青年は、見た所まだ10代の後半に見えた、それなのにラルフレスが今まで見た人間の誰よりも強い威厳と気高い意思を感じさせた。
外見だけ飾っている人間は多くいた、だがどいつも大した事の無い人間にしか見えなかった、せいぜい自分の為に財布にたっぷりと金を入れていてくれれば良いなとしか思えなかったのだ、どれほどの金持ちだろうと、どれほど立派な家柄だろうとラルフレスにとっては、何かリンゴでも生っている樹を見るのと同じ気分だった。
それなのに、この青年は外見はそれほど派手で飾っている訳ではないくせに、内面から隠し切れない輝きのようなものが見える気がした。
冗談ではなく、この男は本気で自分を誘っているのだ、と確信した。
お前の能力を俺の為に使う気は無いか? という質問ではなかった、俺の為に使えという揺ぎ無い自信に満ち溢れた台詞だった、今まで命令をされ続けてそれが堪らなく嫌だったのだが、この男からのそういう言葉は不思議な事に不快ではなかった。
これは転機なのだ、ラルフレスはそう思った。
自分が孤児院を出て、こういう生活をしていたのはこの人と出会う為だったのだ、とすら思った、それほどの衝撃がまだ子供と呼べるラルフレスを貫いたのだ。
この機会を逃したら、また、盗みで生計を立て、日々を這いずり回って生きる生活を続ける事になるだろう。その生活は紛れも無く人と呼べる物ではなく、獣と変わらない、そのような生活から抜け出すにはどうする? このような好機が二度と巡ってくるとは思えない。
迷うまでも無かった。
ラルフレスはその青年に付いて行く事にした、付いて行き、そこで地獄を見ようと望む所だ、そう思った。
青年の名はプルシコフ、この時はまだただの転機のきっかけでしかない青年だが、後にラルフレスが生涯の忠誠を誓う相手であった。