第14話 宗教大国
「はぁ、はぁ、はぁ……」
周りに人影が無い光も届かない岩と岩の隙間に、その男は息を荒げ座っていた。
汗が引かないようだが、それを拭う事すらもしない。
汗の原因、それは気温が高いからと言うものではない、岩と岩の隙間のその場所は外よりもかなり温度が低く、むしろ涼しいくらいだからだ。
男は、右腕が左腕に比べ大きかった、それは鍛えて大きくなったのではない、ごつい義手を付けているからである。
男の名はパンチェッタ、英雄連に所属する英雄であり、たった今窮地から脱してきた直後の男だった。
危なかった。
パンチェッタは、素直にそう思っている。
あの場に残っていたら、勝ち目は無かっただろう、あの得体の知れない男が現れなければ、何とかなったかもしれないが、それでも残りの2人、老人の剣呑さは言うまでも無いが、あの凡庸とした若者も、実力の底が知れなかった。一応の用心の為に義手を外し逃走経路を事前に確保していたのは我ながら大した物だと思っている。あの場では間違いなく、逃走こそが最上の策だったのだ。
それにしても、あの得体の知れない男に飛び掛ったとき――
パンチェッタは間違いなく、死神の鎌の鋭さと冷たさをその首筋に感じていた。
不用意にやり合って、どうにかなる相手ではない。
それなりの用意を事前にしておけばどういう相手だろうと、勝てないまでも何らかの対策が練れるが、今回はあまりにも不十分すぎた。
はっきりと自分の浅はかさを感じた、自分の力量ならば、相手がどのような者だろうとどうにかなるだろうと、不用意に近づいたのは、自分の実力に対する慢心の現れだろう、今後は注意しなければならない。
わざと、相手に『自分の今の居場所を知る者は他にいない』と挑発したのは、相手の実力を見極める為だったが、あれも良くなかった、かなり危険な状況に自分はいたのだと改めて分かる、まさしく九死に一生の場面だったのだ。
無傷で逃げられたのは、幸運としか言いようが無いのだ。
それにしても、あれほどの力を持つ者達が集まり、何かをやろうとしている、それが分かったのが今回の収穫だった。
決して些事ではない、何か巨大な計画が動こうとしている予感がした。
あるいはそれは世界を巻き込む事柄のような気がする、あくまで勘ではあるが、これはかなりの大事の匂いがする。
自分がこれからするべき事は2つだ。
1つは、まず今の瞬間移動に消費した体力を回復する事である、この義手は仕掛けを作動させると事前に指定しておいた場所に移動する為の入り口を造ってくれる、だがそれを移動するには並外れた体力と精神力を消費するのだ。だから、これを使って敵陣に乗り込もうとしても、乗り込んだ直後は疲労の極地の為、逆に捕らわれてしまうだろう、非常事態の緊急脱出用に使うしか道が無い。欠点は他にも有る、事前に指定しておく場所だが、これは人気の無い場所に仕掛けておかないと危ない、これが街中に設定していると、出現した瞬間に馬に蹴飛ばされかねない。
だからこのような人気が少ない場所に設定しておいたのだ、この場所も、もしかしたら性質の悪い獣の類が出るかもしれないが、あしらう位ならば今の状態でも何とかできるだろう。
回復には、一日も寝れば何とかなる。
そして次にする事は、仲間に連絡を取る事だ。
今回の事は、あくまで自分と、他の仲間とで何とかしなければならない。
これは義務感でも意地でもなんでもない、他の英雄もそれぞれが重大な危機に直面しているのだ、世界は思っている以上に危険が溢れている、それを食い止める為に奔走しているのだ、自分で出来る事は自分でしなければならない。
仲間は、頼りになる連中だ。
英雄と言う称号を持っている者は1人で、その人は今は抱えていた仕事を終えて手が空いている事も知っている、頼めば二つ返事で手を貸してくれるだろう、残る者も英雄でこそ無いが実力で言うならば自分に引けを取らない連中だ、それにこういう事態に対する対応力も高い、チームとして活動する事は滅多に無いが、今回はそうも言っていられない、連中に対抗するにはそれなりの力が必要だ。
だから、今は体力を回復しなければならない。
これから起こるであろう激闘に備えて。
・
レゼベルンという名は、この国の名前でもあり首都の名前でもある、この街は一言で言えば雑多な街だった。
それは決して悪い意味ではない。
ありとあらゆる国の人間がいる、ありとあらゆる国の食べ物が売られている、ありとあらゆる匂いが溶け込んでいる。
ハヤンにとって、それは久しぶりに感じる人が大勢集まる場所特有の賑やかさだった。
今、ハヤンはレゼベルンの中心地に向けて、足を進めている。
正午まで後少しと言う時間帯で、賑わいが増しているようだった。
地面に商品を並べて売る者、声を上げて宣伝している者、それを買う者、値切る者、様々な人間がそこにいる。
動物もいる。
犬や、猫などは平気で道を歩いている、人は動物達が商品に手を出したりしない限り、それに構ったりはしないし、動物の方も平気で人間の横を通り過ぎる、宗教の戒律で動物の虐待が禁じられているのがその理由である。
大きい物は馬や牛や山羊や、見た事も無い動物もいるが、その大きさの者は大抵が首輪で繋がれ、売られるのを待っているのか、荷物持ちとして使われるのを待っている。
この国は、この国が信仰している宗教の聖地と呼ばれている。
だから、世界各地からその宗教の信者が巡礼に訪れるのだ。
観光目的の人間も中に入るだろうが、中心部に向かえば向かうほど観光目的の人間の数が極端に減る、何故ならば知らぬうちに戒律に触れて裁かれるのを恐れているのである、うっかりと取った何気ない行動が、この宗教にとっての重大な戒律違反であれば、この国の法律で裁かれるのだ。
旅行客だろうと免除は無い。
首を刎ねられた者も多くは無いが、いるのである。
まだ、街の中心部から外れた観光客相手の店が並ぶ辺りでは、多少の事は多めに見られる、だが中心部ではそこら辺が容赦が無い。
それほどの場所だと知らずに入る者は今はいないのだ。
だから信心深い者だけが、街の入り口からも見えるほどの大きさを有し、街の中心に聳え立つこの国のシンボルである大礼拝堂で祈るのだ。
大まかにこの国の宗教の、基本的な戒律を上げるならば。
肉食の禁止。
不貞行為の禁止。
自傷自殺の禁止。
不当な暴力の禁止(動物に対しても)
毎月一日、決められた不眠日は眠らずに祈り続けなければならない。
毎日、定時になると神に祈りを捧げなければならない。
食事は決められた時間以外は口にしてはならない。
などが上げられる。
あくまでこれは軽い物だ、旅行者が決められた時間以外に食事をしていても、それを見て不快な視線を送る者はいても、それを捕え首を刎ねるものはいない。
この国の、宗教の戒律の中で厳しいのは麻薬の類全般に対する所持であり、また中心部に他の宗教の偶像を持ち込む事が、厳罰の対象になり、さっき言った首を刎ねられたのもこの場合である。
毎日の祈りの時間になると、全ての機関が一分間停止する。
飲食店も。
警察も。
学校も。
例え治療中の医者であろうと、その患者だろうと、信者で有るならば意識が有る内はこの祈りを捧げなければならないのだ。
誰もこれについて文句は言わない、重病人や重症患者は逆にこの祈りの時間の最中に天に召されると、神のより傍へ近づけるとされているので、むしろ喜ばれるという。
そういう厳しい戒律の街だろうと、強い日差しのこの街のどこにも圧制を強いられているような暗い影が見えない。
そもそも、戒律が厳しくて嫌ならば抜ければ良いだけの話だ、皆好き好んでこの宗教に入り、そして戒律と言う法律に従って生きているのだ。
ハヤンはそういう街を歩いている。
目的地――、噂では中心部の大礼拝堂の奥に目当ての代物が密かに祭られていると聞いた。
夜にいきなり忍び込んで、それを盗み出す事は決して容易ではないだろう。
昼間に一度、見られる場所は少ないだろうが、出来る限りの情報を仕入れて置きたかった、だからこうして中心部に向かっているのだ。
街は広い。
人込みは懐かしかったが、昔からどうにも苦手だった、人の動きに酔ってしまうのがその理由の1つだ。
ハヤンは、大通りから一本外れた人の少ない裏路地に向かった、ここから中心部へ向かおうと考えたのだ。
(……気付いているか)
身の内から声が響いた。
幻闘獣ファレイの声だ。
最近は、何とか抑えられているが、声を時折発するようになった。
嫌がらせのように声を掛けたりはしないが、何かと声を掛けてくる、だが気を抜いたりしようものならば、この化物は容赦無く意識を奪おうとするだろう、肉食獣の飼育係と同じだ、いくら毎日顔を突き合わせていても相手の危険性を忘れてしまったら、自分がどれほどの親愛を示していても相手の胃袋に納められてしまうのだ、それにハヤンはそもそもファレイに対して親愛の情など微塵も感じてはいない。
「見られているという事ならな」
小声でハヤンは言った。
今、裏路地を見渡しても、前にも後ろにも人の姿は無い。
1人くらいいてもおかしくは無いが、今は戒律で決められた食事時なのかもしれない、家で食事をとる者はこんな場所をのんびりと歩いたりはしないのだろう。
(この街に入ってから、ずっとだ……。街に入る前よりも距離が近づいている……)
ファレイがまた言った。
「どこにいるか分からないのならば仕方が無いだろうが、それに見られていてもどうと言うことも無い」
ファレイに返答するのが、今や当たり前になっていた、最初は無視していたが、意識して無視するよりも、独り言のように返す方が気分がずっと楽だと気が付いたのだ、それにファレイの言葉が今は気になっていた。
(近づいているぞ、さっきよりもかなり近くにいる)
ハヤンの耳に、奇妙な音が聞こえたのが丁度ファレイの言葉と同時だった。
ヂヂ……
何の音か!?
ハヤンが咄嗟に背後を振り返るが、その音の元が突き止められない。
人影は相変わらず見えない。
こういう時にファレイに尋ねても、それを答えてはくれない、先ほどの忠告めいた言葉は、親切心から言っているのではなくこちらの緊張を高め、そして攻撃を仕掛けられた動揺を利用して、自分が外に出ようと考えているからなのだ。
それにしても、今の音は一体なんだったのだろう。
そう考えた時、またしても、今度は更に近くでその音が聞こえた。
ヂヂ……
目で追う。
ようやくハヤンはその正体を突き止めた。
それは小鳥だった。
黄色い鮮やかな色をした小鳥。
それがハヤンの周りを飛んでいるのだ、先ほど気付けなかったのは振り返ったと同時に空に高く飛んで死角に入ったか、あるいは自分の背後に回りこんだからだろうか。
この辺りでは滅多に見かけない種類の鳥だ、妙に人懐っこい、どこかの家で飼われている鳥なのだろうか、あるいはどこかの鳥を売る店から逃げ出してきたのだろうか?
さっきから聞こえた音はこの鳥の鳴き声か?
それにしては奇妙だった、世界は広い、このような鳴き声の鳥がいてもおかしくはないが、どこか腑に落ちない部分が有る。
その鳥が丁度、ハヤンの顔の右横を通過した時、ハヤンはその異常に気が付いていた。
ヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂ
尻尾だ。
尻尾が、そういう音を立てている、そして火花が舞っている。
いやもう尻尾だけでなく、両方の羽根の先も同じように、まるで花火のように激しい火花を散らしているのだ。
何だ!?
何だこれは!?
ハヤンは戸惑った、当たり前だこれを見て驚かない人間はそうはいない。
よく見ると、その鳥は生き物にしては、どこがどうというわけではないが、妙な違和感を感じた。
精巧に造られていても、人が造った物はどこがどうとは言えないが、実際の生き物とは異質である、そういう物と同等の違和感をハヤンは感じていた。
その鳥は、ハヤンの周りを忙しく飛び回っている。
ハヤンは、その鳥が顔の近くに来たとき、ハヤンはその鳥をじっと凝視した。
その瞬間、鳥が全身から発している奇妙な音を止まり、そして。
爆発した。
棍棒で思いっきり引っ叩かれたような衝撃がハヤンを襲った。
鼓膜は、もしもファレイが自動的に防御していなければ間違いなく破れていただろう。いや、そもそも今の衝撃は鼓膜どころか、頭蓋骨の半分をふっ飛ばしかねない威力があった。
「ぐぁっ!」
思わず、転んでしまいそうになる衝撃だった。
今ので間違いなく分かった事が有る、別にそれはハヤンが別段、勘が良いからとかそういう問題でもなく、子供でも分かる事だ。
――攻撃を受けている!
たまたま何かの事態に巻き込まれた訳でもない、自然に飛んでいた鳥が何らかの理由で偶然爆発するはずなど無い。
今まで、自分を監視していた相手が、こちらを刺激するような行動を取り始めたのだ。
今の衝撃は、危うく意識を手放してしまいそうになるほどだった、こんな人が大勢集まる場所でファレイが暴走したら、一体どうなるか。
まさしく惨劇がここで起きる。
それだけは避けたかった、絶対に。
相手がどういう思惑だろうと、自分はファレイをここで解放しないように全神経を使うだけだ。
ハヤンがそう決心した直後。
ヂヂヂヂヂ……
またしても同じ音が背後から迫ってきていた。
振り返るとそこには、今爆発したのと同じような鳥が3匹こちらに向かって、一直線に飛んできているのだった。
「ちぃ!」
今の爆発と同程度の攻撃を、三連続で喰らっては、どうなるか保障が無い。
逃げるか? いや、相手は鳥だ。逃げ切れるものではない。
だからと言って、泥人形の時にやったようなファレイの力を注ぎ込んで破壊する方法では、爆発物に火薬を注ぎ込むような物だ、この場合は最適な方法とは思えない。
ならば――
意識を集中させる。
身の内に眠るファレイの力、それは例えるならば黒々とうねる大海だ。
その大海からほんの一掬い、掌に溜まる程度の海水の量で良い。その一掬いの海水を手に集め、そしてその海水を固く、堅く、硬く、するイメージをする。
その海水を鋭く、そして出来うる限り薄い刃に――
信じられないほどの切れ味を誇る刃物を連想する。
そうすると、ハヤンの右腕に一般的な刃の半分ほどの長さの刀が、一振り出現していた。
赤黒く、それでいて光を発する刃だ。
ハヤンは走った。
向かってくる三匹の鳥に。
相変わらず奇怪な音を発している、あくまで想像だが恐らくあれは爆弾に付いている導火線のような物だと思う、あの火花が限界まで達すると爆発するのだろう、ならば待ち受けている猶予は無い、こちらから迎え撃つまでだ。
相手の音が導火線であると言う想像と同時に、もう1つ想像ではあるが分かった事が有る、それはこの攻撃がほとんど自動で行われていると言うことだ、それはかなり高い確率だと思う、根拠は有る、この鳥がさっきも今も、こっちに向かってくる動きをするからだ、自身が爆弾ならば近づかなければ意味が無いが、それならば上空に待機していて爆発する寸前に一気に急降下して近づいて来れば良い、さっきのように何度か接近する必要は無い、だから恐らくそういう細かい操作が出来ない自動攻撃なのだろう、という推測だ。
だから今も、自分が向かっているのに、鳥達はそれに対する反応と言うものが皆無だった、これがもし人が操っているのならば、僅かの躊躇いや警戒を見せてもいいものだが、それがまるで無いのだ。
普通、飛んでいる鳥に攻撃を仕掛けてそれが成功する可能性は少ない、飛び道具ならばまだしも手に持った剣で、鳥を斬ると言う事だどれほど至難か、分からなければ試してみれば良い。
ハヤンはファレイの力を持って、身体能力が常人と比べられないほど高まっている、運動能力は元より動体視力・反射神経もだ、その動きは、飛んでくる鳥達を遥かに凌駕していた。
一気に鳥達との間合いを詰めて、そして刃を振った。
三度、刃を振るうと見事に、三匹の鳥を胴体から斬りおとしていた。
軽やかな動きだった、舞うようにハヤンは動いていた、斬られた瞬間、鳥は鳥では無くなっていた。
紙である、紙にしか見えない、何か文字が書いて有るように見えるが、ハヤンにはそれの意味が分からない。
反撃は見事に成功していた。
しかし。
そこで、ハヤンは気付いていた。
自分の失策に。
鳥は上の方に自分の視線と注意を集める為の物だったのだ、と。
何故ならば、一体いつの間に近づいてきたのか――、自分の右足に今絡みつき始めている物がいるからだ。
それは蛇だった。
毒々しい色をした蛇。
1mほどの長さの蛇が、ハヤンの右足の甲から脹脛を回り膝にまでいやらしく絡み付いていたのだった、そしてその蛇の尻尾は、先ほどの鳥達と同様に。
ヂヂヂヂヂヂヂ
という音を発すると同時に、火花を散らしていたのだった。