弟12話 小手調べ
パンチェッタの動きも、そしてダルマの動きも、人の動きの常識と限界を凌駕していた。
クァルゴは2人の動きに眼が付いて行く事が出来るが、他の人間がこの場にいたとして、その人間は2人の残像を目に捉えられたら大した物だろう、それほどの動きを2人はしている。
そして、その動きがまだお互いに小手調べであると言うことに互いが気付いている。
動きが始まりもう3分は経つのに、お互いに息も切らさず、汗1つ流さずに、最初に会話していた時と同様の笑みを2人して浮かべているのだから。
まだ、どちらの攻撃も相手を捉えていない。
致命傷もかすり傷1つさえも、まだどちらも負っていない。
ダルマは手刀で、パンチェッタは拳で、お互いを攻撃しているが、互いの攻撃を紙一重で避け、そして不自然な体勢からでも信じられない速度で攻撃が飛ぶ、まるで事前に動きを決めて行われている精巧な劇のようにすら見えるが、もちろんこのやり取りは全てがアドリブである。小手調べではあり、様子見の攻撃ではあるが、お互いの攻撃は常に必殺の破壊力を秘めている、相手の技量を見誤った瞬間に簡単に命を落としてしまうやり取りを互いが楽しみながら続けているのだ、常人とは比べられない人種がそこにいた。
パンチェッタが、にやりと笑みを浮かべて、今までの動きよりも速く左拳を振るった。
――おい、爺さんこれはどうだい?
そのような意味の笑みだったようだ。
それは拳撃という枠を超え、まるで光の鞭のように見えた、まるで力を入れているようには見えない癖に、その時の空気を裂く音は尋常ではなかった。
その左拳が、ダルマの両腕の防御をすり抜け、見事に顔面を捉えていた。
鼻はへし折れ、歯は残っている歯より失った歯の方が多くなり、知り合いが見ても判断が付かない面構えになってしまう――、そういう一撃だった。
ダルマは、その一撃を受けて後方に飛ばされていた、だが倒れてはいない。
それどころか完全にパンチェッタの左拳が捉え、そして背後に吹っ飛ばされたはずなのに、不可解な事にダルマの顔には傷1つ、鼻血すらも垂らしては無かった。
その顔からまだ笑みが消えていない。
単純に自ら後方へ飛んだから衝撃を殺した、というレベルの話ではなかった。
「ウナギみたいな爺さんだな」
パンチェッタはそう言った。
確かに拳に感触が有ったが、それは実に奇妙な感触だった、手から送り込んだ衝撃が見事にどこかへ流されていくような、人を殴った感触とは程遠い物がそこにあった。
ウナギの表面の油、それを触った感触に似ていた。
しかし、具体的にはどのように防いだのか分からない。
「これぞ、気影術の1つ、”影武者”よ」
今のは体質でもなんでもなく、技術であると、そうダルマは言った。だが、流石にその技の正体を一々明かしたりはしない。
「わざわざ自分の技術の名前を教えてくれるとはね」
「なぁに。これから死に行く者への手向けよ」
「やはり肉体を強化して戦う人間は、魔法よりも気を使うか」
外部の”力有る場所”から力を借りて放出する技を魔法、内部の”力有る場所”から力を引き出す技を気と、この世界ではそう呼ばれている。
最も、どちらも極めるのが非常に難しく、長所も短所もどちらにもある。
要は本人の資質と気質次第なのだが、一般的には肉弾戦を好む人間は、気を使う場合が多い。
「面白い爺さんだな、あんたほどの使い手が相手なら、これは邪魔だな」
パンチェッタはそう言って、右手の義手を外し、それを地面に無造作に放り捨てた。
ぼとり、と重い音を立てて義手が地面に落ちた。
ダルマはそれも攻撃の1つと考え用心していたが、どうやら本当にただ捨てただけのようだった。
だが変化は劇的だった。
何も無いはずの右手の部分に、はっきりと見えるほどの強烈な気の塊が存在していた。
あまりにも強い気の力が、空気を震わしていると感じられるほどだった。
「おぬしも相当の気の使い手じゃな。それにしても義手に何か仕込んでいるのかと思ったが、わざわざ自分の力を抑える仕掛けをしておったとはな」
「別に相手を騙すためじゃないぜ、自分を鍛える為さ……。さて、こっからは本気で行くぜ――」
「おう」
もうお互いに様子見も牽制もしないつもりのようだった。
先ほどまでのやり取りが、まるで他愛ないおままごとのように感じるほどの、格段の殺気が互いから放たれている、その重圧感に押しつぶされてしまいそうなほど空気が重い。
ほんの少しのきっかけ。
それは、例えば鳥の囀りでも良かった。
あるいは、一陣の風が吹くと言う事だけでも良かった。
もうお互いに限界まで空気が入ってしまった風船だった、些細なきっかけで弾けるしかない、そうなってしまっていた。
そのきっかけこそあれば、お互いの体が動き、そして相手の体の動きを止めるまで機能し続ける、そういう空気になっていた。
その時だった。
「ぬっ!?」
「なっ!?」
まだ、きっかけは無かったが、まるで巨大な鉄球を振り下ろしたような激しい陥没音と共に、お互いにその場から飛び退いた。
後数秒も経っていたら、きっかけが無くても始まってしまう戦いだった、それが何故、2人してその場から飛び退いたのか、もちろん戦いが始まってしまう恐怖から逃れたわけではない。
理由は2人がいた地面に有った。2人が飛び退いた場所には、まるで隕石が落ちたかのようなクレーターが生じていたのだ。
これはパンチェッタとダルマの気がぶつかり合って出来たと言う訳ではない、まったく2人とは関係のない場所からの攻撃だった。
もしも、2人して飛び退かなかったら、2人同時に今のクレーターを生じさせた何かをまともに食らってしまい、戦闘不能になるか、少なくとも傷を負ってしまっていただろう、それほどの威力がそこには感じられた。
だが、一体どのような攻撃をすればこのような事が出来るのか?
ダルマとパンチェッタは、お互いに相手から意識を逸らせないまま、第3者の存在を探った。
一体誰が!?
「クァルゴ! 今のは誰がやった!」
クァルゴが勝手にそういうことをする訳が無い、それをダルマは理解している口調だった。
クァルゴでもなく、パンチェッタでもなく、そして自分でもない存在、それが間違いなく今の事をしてのけたのだ。
それを聞いたクァルゴは。
「え? あぁ、あの人ですよ」
クァルゴは、相変わらずの口調でそれに答え、その相手を指で指した。傍観しているだけのクァルゴはその第三者の接近に気付いていた、だがわざわざそれを戦っている最中のダルマに報せたりする気も無かったようだ、積極性が欠けている性格のようだ。
ダルマはその指の先を視線で追った。
パンチェッタもその指の先を追った。
そこには1人の男が立っていた。
距離にして10mも離れていない。
いくら戦闘状態になったとはいえ、いや逆にそういう神経が張り詰めた状態の方が通常よりも周囲の変化に対して気をつけるはずなのに、2人ともその存在に気付けなかった、それは2人が迂闊だったというだけでなく、その男がそれほど気配をコントロールしているという事を現していた。
そこには金髪の男が静かに立っていた。
その男は美麗な人相を有していた。
そしてこの場に場違いなほどの、整った服装と顔立ちの持ち主だった。
その男が理知的な蒼い瞳で2人を眺めていた。
プルシコフ、それがその男の名前だった。
「おぬし……」
もちろん、ダルマはその男の名前を知っているが、口には出さない、突然現れた相手が動揺を隠し切れない相手であっても、それをわざわざ口に出して目の前のパンチェッタに不必要な情報を与える必要は無いという考えが骨にまで染み込んでいるのだ。
「見ていたい気もしたが、止めさせてもらった」
プルシコフは、2人にゆっくりと近寄りながら、短くそう言った。
その場にいる誰に対しても気負いも、緊張も、そして恐怖も、その他一切の感情を感じさせない口調だった。
「誰だ」
パンチェッタは、明らかな警戒を持って、そう尋ねたが、もちろんプルシコフは名乗らない。
「こいつらの仲間と考えて良いのかな?」
「そうだな」
「ふぅん……」
状況は明らかにパンチェッタにとってかなり不利な物となった。
1対2でも客観的に見て不利なはずだったのに、そこに、得体の知れない相手の参加となっては、どう考えても厳しい状況である。
しかし、その圧倒的窮地の状況であるはずなのに、パンチェッタはまるで生き生きとした表情を浮かべていた、こういう苦難を楽しめる性格なのか、あるいはもう諦めて最後の負け惜しみの笑みなのか。
「ならば、あんたからだ!」
パンチェッタは、今までの動きの中で最も素晴らしく、そして素早い動きでプルシコフに飛び掛っていた。
しかし、プルシコフはまるで表情を変えない。
パンチェッタの左拳が、唸り声を上げて飛び掛る獣のように自分に迫っているというのに、僅かの動揺も見せようとしなかった。
左拳が、プルシコフに当たるしかない、そう思った瞬間だった、その瞬間、突然パンチェッタはびくんと身を強張らせて、弾かれたように後方に吹っ飛んでいた。
それを見ても、プルシコフの表情にまるで変化は見られない。
吹っ飛んだと言っても、体勢を崩した訳ではない、猫が高い所から落ちた時のようにしなやかにパンチェッタはその衝撃を上手に殺していた。
「大した物だ」
プルシコフが表情を変えずに、呟くように言った。
「普通ならば、わざわざ自分でそのように動いたりはしない、さすがは英雄だ。もっともそうしなければその腕は無くなっていたが」
その言葉通りならば、パンチェッタが吹っ飛んだのは、プルシコフが何かをしたからではなく、自分の意思でそうしたようだ、プルシコフの攻撃を長年の勘か、それとも本能かで察知し、咄嗟に飛び退いていたようだ。
かなり無理な体勢から飛び退いた、普通の人間ならば今のような動きをすれば、普段体を動かしている人間だろうと体のどこかを痛めてしまうような急激な動きだったが、パンチェッタの肉体にはそのような事は起きていないようだった、だがパンチェッタの額に初めて汗が滲んでいた。
今、異常な悪寒が全身を襲ったのだ。
攻撃しようとした瞬間に、その気分を感じたのはパンチェッタにとって生まれて初めての経験だった。
虎の顎に手首を突っ込むような、毒蛇の牙に噛まれる寸前のような、そういう感触を何十倍も濃くした物を今味わったのだ。
金髪の男が言った、そのまま攻撃していればその手が無くなっていたというのも、決して過剰表現ではないとそれが理解できている、一体何をやられるのか想像も付かないが、今自分は命拾いをしたのだと確信していた。
しかし、状況は解決していない。
咄嗟の動きではあったが、パンチェッタは今、敵である3人が丁度視界に入る位置に立っている、唯一それだけがパンチェッタの有利とまではいえないが、不利ではない部分と言える。
「さて、どうするかね、英雄殿。もう一対一でとは言わんよ……観念するかい?」
ダルマが、子供をあやすように言った。
「どうするかね。あんたら全員をぶちのめしてこの場を去るのが理想なんだが……」
不敵な笑みを絶やさずに、パンチェッタは言ってのけた。
「世の中は理想通りにはいかんものさ、現実を見詰めなくてはな」
じりじりと、ゆっくりダルマはパンチェッタに詰め寄っている。
今の状況で、逃げられるのを最も恐れているのだろう。
しかし、この程度の間合いで走り去ろうとすると、背後が思いっきり無防備になる、その無防備な背を見逃してくれるような3人にはとても思えない、他の2人がどう出るかは分からないが、ダルマが有言実行しその手首をパンチェッタの背骨に突き刺してくるだろう。
「現実か……、そうだな、あんたら全員とやりあうには日が悪い、逃げるとするか」
「どうやって?」
転送魔法を行おうにも、魔法にはどれだけ熟練者でも近接戦闘中には隙が出来てしまう、パンチェッタとダルマの距離は10mも離れていない、魔法を使う動きを見せただけで、ダルマは飛び掛り攻撃を仕掛けるだろう、魔法を使おうと精神を集中するとその攻撃に反応が間に合わない可能性が強い。
事前に魔法を仕込んだ道具でも持っていれば別かもしれないが、何かを取り出す仕草すらも今の状況では致命的だ。
「そうだな。そういえば爺さん、あんたさっき言ったよな、義手に何か仕込んでいると思ったとかさ……」
「何だと!?」
「もう時間だって事さ――」
その言葉とほぼ同時に、無造作に放り捨てられた義手が淡い光芒を発していていた。
義手の位置は、クァルゴとダルマの丁度中間に置いてある、プルシコフはそこから2mは離れている位置に立っている。
その義手は光を放ちながら、徐々に重力を無視して浮かび上がっていた。