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第9話 プルシコフ


 静かな教会だった。

 大きな教会ではない、大人が5人ほど座れる長椅子が左右に4ずつあり、そして中央にこの教会の偶像が飾られている。

 それにしても、お世辞にも綺麗な教会とは言えなかった。

 人がこまめに清掃をしているとはとても思えない、最後の清掃が行われてから一体どれほどの年月が経っているのか、床に積もった厚いホコリに人の足跡が見えることから、人自体は出入りしているようだが、それにしても全体的に煤けていた。

 扉も、椅子も、床も、壁も、天井も、そしてこの教会で奉られている偶像すらも古ぼけていた。

 この教会に足を踏み入れた物は、まず一呼吸めにかなりのホコリとカビの臭いを肺に収める事になるだろう。

 そういう教会だった。

 それほどまでに薄汚れ、後数年も経たないうちに勝手に潰れてしまいそうな教会の偶像の下、入り口から入って正面の突き当たりに当たる部分に、人目を引く物が置かれていた。

 ピアノである。

 場違いなほど立派なピアノがそこに置かれていた。

 このピアノだけは、ホコリをまるで被っていない、全体を絵として見ると、そのピアノだけ色が濃く浮いているようにすら見える。

 随分としっかりした造りのピアノで、素人が見ても何となく分かるほど職人が丹誠込めて造り上げた迫力のような物がにじみ出ていた。

 そのピアノの前に1人の男が立っていた。

 身長は185cmほどで長身の部類に入る。

 ごつごつした肉体ではないが、服の下にはかなり鍛えられた肉体が隠されているようだった。

 端正な顔立ちの男である。

 眉も唇も薄く、鼻は高い、瞳は蒼く深い意思が込められているようだった。

 髪の色は金、長髪ではないがやや前髪が顔にかかる程度の髪型である。

 年齢は10代の終わりの辺りと言っても、あるいは30の始まりと言っても不思議と通用しそうな顔をしていた。

 美しいと、そう呼んでも構わないほどの顔立ちであるが、中性的と言うよりはっきりと男として魅力が溢れる相を有していた。

 だが、美しいとそう表現するだけではどこかに足りなさが残る、この男の雰囲気をその言葉だけでは伝えきれない、整った顔立ちの皮膚一枚下に常人とは違う何か強烈な物が潜んでいるように見える、それは例えば狂気と言ってもいいのかもしれない、あるいはそれは慈愛と呼んでも構わないのかもしれない、善悪の枠に捕らわれない超然的な雰囲気がそこにあるのだ。

 この男は、全ての人間を平等に愛し、そして全ての人間を平等に殺す。

 その言葉が適切に男の雰囲気を表しているかもしれない。

 男はピアノの前の椅子にゆっくりと腰を下ろし、右手で前髪を軽くかき上げると鍵盤に手をそろりと伸ばした。

 ピアノから音が発せられ、静寂が破られた。

 もちろん出鱈目に演奏しているわけではない、ちゃんとした旋律が辺りに広がりつつあった。

 男の目の前に譜面の類は一切置いていない、完全に男の頭の中に譜面が入っているようだった。

 男の指が、軽やかに鍵盤を叩き始めた。

 演奏されている曲は、数年前に亡くなったが未だに絶大な支持を得て、今後は必ず後世に語り継がれていくであろう偉大な作曲家の作品だった。

 この作曲家は、若い頃から自分の才能を信じ曲を作り続けていたが、中々世に認められなかった、実際に没後彼が世に知られる前の作品が発見され、それらはどれも深い感動を呼ぶ作品だったのだが、当時の世相自体がまだ若輩も若輩の彼の作品を認めようとしなかったのだ。

 彼は悩んだ。

 悩んで悩んで悩み抜き、血反吐を吐くまで苦しみ、そして1つの作品を完成させた。

 それが世では彼のデビュー作となり、世間は彼に注目し始めた。

 しかし、逆に戸惑ったのは彼だった。

 今まで見向きもせずに、虫けらのごとく扱ってきた連中の呆れるほどの掌の返しように、極度の人間不信に陥った。

 あまりの自分の周りの世界の変貌に彼は付いていけなかったのだ。

 ろくに連絡もしてこなかった昔の知り合いが次々と声を掛け、会った事も無い親戚が次々と現れた、彼はそういう生活に心底嫌気が差し、もう少しで早まった事をする寸前だったと晩年語っている。

 名声を手に入れ、富を手に入れ、そして彼は決定的な何かを失ってしまったのだ。

 そんな時に彼が出会ったのは、彼を有名作曲家としてではなく、1人の人間として心配してくれる存在であった。

 それは彼の絶望と不信の暗い海を切り裂く灯台のように輝いて見えた。

 彼は、その光により救われたのだ。

 その苦しみと喜びを1つの曲に込めた、それが今演奏されている曲である。

 その後その作曲家は立ち直り、数多くの作品を世に送り出す事となる。

 

 曲の出だしは極めて重い。

 まるで聴く人間の内臓を腐らせ、肺に病巣を撒き、息を吸う事すらも困難と感じさせるほどの、圧迫感を与える深く暗い闇が襲ってくるような始まりである。

 周りの空気が、コールタールのような粘着性を持っているように思える。

 そして、体がまるで汚物流れる下水道の底にこびり付いたドブ泥の一部に変わってしまった気分に陥り、体がずぶずぶと地面に深く深く沈んでいくような錯覚すら覚える。

 細胞の一つ一つが黒く変色し、その活動をことごとく停止してしまうような救いのなさがピアノから伝わってくる。

 絶望の海の、黒々とした波が全身を押し流してく。

 この世には、しょせん何の喜びも無い、苦しみだけ、苦しみだけ、苦しみだけ……、そう耳元で繰り返し囁かれているような音が満ちてくる。

 もし、この部分だけを延々と繰り返し聴かされたら、精神の弱い人間ならば二度と立ち直れなくなるほどの精神的ダメージを負ってしまうだろう。

 しかし。

 そこから一気に曲調が変わる。

 それは例えるならば光の洪水である。

 音の一粒一粒が、光の粒子となって肉体を貫く。

 今までの暗さがまるで嘘のように消え去り、それは高原に吹く風のような爽快感を伴っていた。

 空気中に音が散らばり、それがきらきらと光り輝いているような錯覚すら聴く者に見せるほど美しく、しかし美しいだけではない物をそこに潜ませていた、しかしそれも決して不快な物ではない。

 この曲は、聴く者を縛るあらゆる物から解き放とうとしてくるのだ。

 縛っている物。

 それは、時間である。

 それは、重力である。

 それは、肉体である。

 そしてそれは、自らに圧し掛かるありとあらゆる苦痛である。

 それらを一瞬の内に爆発したようにどこかへ吹き飛ばすのだ。

 生きていても良いのだ。

 喜んでも良いのだ。

 当たり前だ、悪い事など1つも無い。

 この曲はそう訴えかけている。

 この男の演奏技術は卓越した物であった、しかし、またピアノ自体の音も素晴らしかった。

 男の技術を受け、ピアノが歓喜し、それに応えていた。

 終盤に差し掛かり、男の頬を伝う物があった。

 透明な液体が一滴、男の頬を伝わり顎先から下に零れた。

 男は演奏しながら涙を流しているのであった。

 歓喜の涙であるが、本人はその涙に気付いないかもしれなかった、涙を流しながらでも男の演奏にまるで濁りは無かった。

 ピアノが最後の音を名残惜しそうに空間に放つと、演奏は終了した。

 演奏が終了しても、男はまるまる3分間も微動だにしなかった。

 余韻に浸っているのである。

 僅かに体が震えているようにすら見えた。

 静寂が歓声を上げていた。

 もしそこに誰か人がいれば、その人物は間違いなく立ち上がり喝采を奏者に浴びせているだろう。

 どれほどの広さの会場にありったけ人を押し込んで演奏しても、そのほとんどの人に心の底からのアンコールを口走らせられるほどの演奏であった。

 だが残念ながら、この教会にはこの男以外には存在していなかった。

 不思議な事に、教会のあちこちにまだホコリを被っていない衣服が数着散らばっていた、そして物騒な重火器の類も落ちている、しかしそれを使う者の姿が今は無い。

 男は、ようやく動き、すっと胸ポケットに手をやり、そこから薄い板のような物を取り出した。

 そしてその板に向かい。

 「入ってきて構わない」

 そう言った。

 板は青く輝いた。


 数分も経たずに、1人の男がドアをノックもせずに教会に入ってきた。

 ノックをするとドアが壊れてしまうかもしれないという気遣いもあったかもしれない。

 「失礼します」

 軍服を着た30代の男だった。

 格好を見るに決して低い階級の人間ではないのだろう、軍部では中盤程度といった地位に入るのかもしれない。

 「……何故ここに?」

 金髪の男が、軍服の男に尋ねた。

 どうやら予想とは違う相手が教会に入ってきたようだ。

 「それはこちらのセリフですよプルシコフ様、休暇中のあなたがこんな場所にいらっしゃると聞いて耳を疑いました」

 軍服の男が言った。

 軍服の男の方が、客観的に見ると歳上に見えるが、もしかしたら違うのかもしれない、あるいは歳は上でも属している組織での階級がこの金髪の男――プルシコフの方が上なのかもしれない。

 「テロリストが最近、この教会を集会場所に利用していると情報が入った、それで、部隊の手間を省いてやった訳だ」

 「休暇中にテロリスト退治とは、たいしたものですね」

 それにしてもテロリスト退治と言う割には、この教会自体には損傷が1つも見られない、長い年月が付けた傷以外は何も、それにそのテロリスト自体の姿も無い。

 それなのに軍服の男はこの状況を見ても、”取り逃がしたのですか”等と言う質問も当たり前のようにしなかった。

 この男がこの程度の相手を取り逃がすはずが無いと、確信しているのだった。

 「相変わらずのお手並みで、しかし武装したテロリスト相手ならば他の連中に任せても宜しかったのでは?」

 「彼らは決して優秀でない訳では無い、しかし彼らの得意の突入では、間違いなくこのピアノに傷が付く、無傷で奪還するには私が適任だ」

 「ピアノ?」

 「これは私の敬愛する作曲家に、その愛する妻が造り送った物だ、ある時期を境にその作曲家はこのピアノ以外では作曲活動を行わなかったと言う、どれだけの価値が有るか、分かるか?」

 「さて……、私は楽器関係には疎いもので、一体どれほどの値段ですか?」

 プルシコフの質問に、軍服の男は僅かに考えたが見当が付かない。

 「値は付けられない、付ける必要も無い」

 「は?」

 「金銭的価値など意味が無い、金で買える物は多いが、買えない物もまた少なくないと言うことだ」

 「しかし、それならば何故このような場所に放置されているのです? 博物館にでも置けば――」

 「その作曲家の遺言だ。死後、このピアノをこの場所から動かしてはならない、またこの教会を清掃してもならない、誰の手にも触れさせず自然に帰すのだそうだ、ピアノの整備だけは禁止されていないので、定期的に専門家が行っている。悪戯をするものがいないとも限らないので結界は張って有るが、それも所詮は子供騙しだ。盗もうとする人間も後を絶たないが、これを盗んだらそいつは売りに出す前に殺されてしまうだろう、それほど世界中に熱狂的なファンがいると言う事だ、私も演奏する機会はそう滅多には無い、今日は幸運だった」

 先ほどの感動を思い出したのか、プルシコフはやや饒舌気味だった。

 「ほう、それは凄い価値が有るようで……」

 男の眼に一瞬金の色がちらついたようだった。

 それを見てプルシコフは顔色1つ変えずに。

 「なんだったらお前が盗んでみるか? 私を敵に回す事になるが」

 そう言った。

 軍服の男は完璧に青ざめていた。

 目の前に山と積まれた財宝と引き換えでも、この男を敵に回したくは無いと心底思っているようだ。

 プルシコフは、軍服の男に興味が失せたのか、椅子から腰をあげ、立ち去ろうとした。

 「あ、お待ち下さい! 用件がまだ――」

 慌てて軍服の男が、プルシコフを呼び止めた。

 「……休暇中だ」

 「それが、プルシコフ様のお耳に入れて置いて頂きたい事が有りまして」

 「何だ」

 「ダルマ様が、本国に援軍依頼を出しました」

 「老いたな……」

 「老い……?」

 「昔のあの人なら、どのような相手だろうと、応援など決して呼ばなかった、例え限りなく死の危険が有ったとしてもな」

 「それが、相手が相手でして……」

 「確か……、世界に散らばる脅威の確認と、あるいはどこかの国同士の争いの種になる存在を探す等の任務を隠密裏に行っていたはずだな、違うか?」

 「その通りです」

 「何を相手にしている?」

 「それが、幻闘獣でして」

 「……いくら相手が脅威と言っても、確かクァルゴもいるはずだ、やれないはずがない。応援は却下だ、そう伝えろ」

 鋭い口調でプルシコフはそう言い、再度去ろうとしたが。

 先ほどよりも更に慌てた口調で。

 「いっ! いや、待ってください! 伝言があります!」

 かなり必死の口調だった、どうやらこの軍服の男はダルマにも恐れを抱いているようだ。

 正確に伝えずに、応援が来なかったりしたらどういう眼に合わされるか分からないと考えているようだった。

 プルシコフは振り返り。

 「伝言だと?」

 「はい、標的の写真を転送したから、それを確認しろと。あるいは”生き残り”の可能性が有ると、そう仰ってました」

 「写真は?」

 「はい! ここに」

 軍服の男が慌てて取り出した写真をプルシコフは見て一瞬動きが止まった。

 写真を無表情のまま見詰め。

 そしてその写真をすぐにポケットにしまい、そしてまた外に向かって歩き出した。

 「ッ! プルシコフ様!?」

 「応援をすぐそちらによこす、そう伝えろ。それ以外の情報は不要だ。それと、この事は外部に漏らすな」

 今度は振り返る事も無く言った。

 「はっ!」

 軍服の男は畏まったように背筋を伸ばし、そして敬礼をした。

 男の首筋に確かな冷や汗が浮かんでいた、万が一この情報を漏らしてしまった時の事が頭を過ぎってしまったようだ。

 軍服の男はプルシコフが教会を出るまで、その姿勢で固まったままだったが、その後姿が見えなくなってからようやく緊張を解いた。

 重労働を終えたような疲労感を味わっていた。

 「ふぅ」

 そして一息吐くと辺りを見渡し。

 「それにしても……、絶好の隠れ家だと思ったんだろうけどな、こいつらも心底運が無い、餓えた猛獣の寝床で野宿する方が、遥かにマシの場所に迷い込んじまったんだからな。葬式代がかからないのが唯一の救いか……」

 まるでテロリストに同情するような言葉を、吐き捨てるように呟いた。

 その言葉には戦慄が込められていた。 


                        ・


 プルシコフは、教会を出てそしてポケットから写真を取り出し、もう一度じっくりとそれを眺めた。

 美しい顔立ちではあるが、どこか恐ろしさが隠されている顔で。

 「久しいな、また会えるとは……」

 呟いたその声には、どこか嬉しさが篭ってるようだが、その唇に浮かんでいる笑みは、冷え冷えとしていた。

 「ハヤン……」

 その写真には、ローブを纏った白髪の青年の姿が納められていた。

 

 

 

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