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信長一人称  作者: 藤原勇治
舞台…桶狭間
1/1

信長日記

「信長日記」


              織田信長


第一章「桶狭間」


 事が順調に進んでいた。

 全てが策略通りである。

 今川本陣は油断をこちらに見せつけている。

 大将の義元は酔っているかのようである。これで大高城を陥れ、丸根砦、鷲津砦もおとした。その度に御唄を披露している。もう、御唄が三番目である。悔しいが、作戦上仕方ない。大将義元を油断させ、隊全体を骨なしにするには、これが最善にして、唯一の策であった。

大将がそんな、ていたらくであるから、家臣も一緒になって、調子に乗っている。まるで阿呆だ。こうはなりたくない。

 東海一の弓取り、と恐れられたのは昔の話で、腹には肥大した肉が垂れて幾重にも重なっている様である。あれが、牛や、豚であればいかなることか。馬であれば使い物にならんと、殺されているであろうし、人であっても、余であれば、まずもって、殺してしまう。至って、殺す事は確実なのであるが、あ奴を殺す価値があるのかと、疑うほどである。

 そして、今まで、あ奴如きに苦しめられていたのであるかと思うと情けなくなってくる。

 太守としての風格も威厳も、成りに全く滲み出るところがない。京被れした、風態は、間の抜けた自惚れにしか映っておらず、挙動が怪しくさえ見受けられる。

 これならば、今ならば、この、過去に怪物と恐れられていた、今川義元を討てる!

 確信を持てた。

「ゆけぇ~っ!!!」

 余は、突撃、の合図を出した。

今こそ、佳境だ。

 最初に飛び込んだのは一番槍の小平太である。

続いて、新助も追随した。それに負けじと犬千代も鬼畜の如くに喚きながらの突進である。

 頼もしい。

 余も家臣の前でいい格好がしたくなってきた。抑えきれぬ衝動のままに草むらを飛び出し、前に、前にと猛進してみせた。

 余の後に、愛しき精鋭が連なった。中でも優秀な者は余を追い抜き、前へ、更に、前へ、一歩でも前へと進む。

 もう、この様な入り乱れた争いの中では勢いを持った方が断然優勢になる。

 この場でも、まだ、今川勢の方が頭数で勝るにしても、それでも、余に軍配が向けられている。

 敵衆は混乱に動揺して、あたふたとしている者がほとんどである。内乱と勘違いをしている者もいるようである。そして、ほとんどの者が兜や甲冑をはずし、雨宿りの為に、大木の下で休息をとっていたのである。とても、戦闘態勢に入れる状態ではない。

 一方、こちらは殺気立ち、闘志をみなぎらせている。

 寄せ集めのへっぴり腰集団とはわけが違う。

 こんな時の為に、普段から、塩分をたっぷり採らせ、塩っからい物をふんだんに、惜しみなく食させていた。あえて、攻撃的な性格を作らせんがための、余の策は食にまで、密に練り込まれているのである。尾張の味噌は塩辛いのである。

 京料理の様な、はんなりと上品な味ばかりを、好んで、毎日、そんなおしとやかな物ばかりを口に運んでいる様では、男の根まで腐りきってしまう。

 そこにきて、我が愛しき精鋭は、短気で、喧嘩っぱやくて、歯止めが利かない。若さと、意気の良さが身上である。狂暴である。我が精鋭は寿命の短さと引き換えに気の短さを会得している。この乱世に兵であるからには長生きは無用。どうせ、いつまで生きていられるか分からないし、いつ殺されてもおかしくない。殺されるのを待つよりも、殺されないように、殺そうと思う位でちょうどいい。臆病であるよりも血気盛んなぐらいでないといかん。特に若いうちは。そうでもしないと国は守れん。ましてや、国を広げんと思うなら、死に物狂いで、死なせるまでじゃ。

…、余の精鋭たちは、それを理解している…。

 高貴で優雅を処世訓としている、公族まがいの義元には分かるまい。

「各々、今が攻め時よぉ~。今こそが力の見せ時よぉ~」

「おぉ~」

御大将、義元はようやく気付き始めたようである。紫に塗られた輿が、今川勢の旗本から構成されている人垣の向こうに、ムクリ、と持ち上げられて、上八分目以上を見せた。

おそらく、そこに、義元が担がれているはずである、

「輿だぁ~! あの、紫の輿を狙えェ~。あの輿に、義元がのっているはずだぁ~」

「おぉォォォ~」

 義元は自らがここにいる、と宣言しているかの如くに、紫の、敢えて目につく、興しに揺られている。

我が織田軍がここに攻め入る事をまるで警戒していなかったのであろう。

「義元の首だけでいい!」

 むしろ、

「義元の、首! だけがいい!」

 戦前から、それだけは皆に言い聞かせておいた。そして、ここでも、それを連呼した。

我が精鋭は狙いを定めた。

「雑魚はよい。そんな者、どうでもよい。構うな、目もくれるな。狙うは義元の首のみぞぉ~」

一点集中である。

小蠅の如き煩い敵兵を払いよけた。こ奴らに刀をさし向けるのさえ煩わしい。こ奴らを斬りつけたところで、一つの利も生み出さぬ。ましてや、刃が欠けるだけ損である。いざ、余が、義元の面前に対峙した時に、刃が毀れていては、気持ちよく義元の首を落とせまい。切れ味も、切り口も、いま一つでは、せっかくの勝ちに、華も咲ききれぬだろう。義元も余にきられる名誉を気持ちよく受け入れられぬであろう。だから、小蠅どもは蹴るか殴るか打つだけである。

 しかし、こ奴ら、今川勢の小蠅どもは軟弱すぎる。気合いの面でもそうであるし、技術面でもそうである。まるで、お話しにならん。想像通り、今川領地の農民や商人まで駆り出されているのであろう。頭数の確保のためだけに、駆り出された、寄せ集め集団なのであろう。…、…可哀想な話である。それが、内政というものか…、…。駿河が世に知らしめんとする、内政というものか…、…。

 雨は激しいままである。

 余の精鋭たちは突き進む。

 余もそれに引っ張られる様に、前にでる。

 幾つもの屍が転がっている。それらを、飛び越し、ときにはそれさえも面倒で、踏みつけて前進した。雨に濡れ、泥が跳ね、刀と槍が散乱している。この様子、一流の戦場として、見劣りがしない感がある。

 後世に残る一戦、と言ってもいいものかもしれない。

 清州に残った家老共、年寄りが、さぞや悔しく思う事だろう。林や佐久間の歯ぎしりする顔が目に浮かぶ。

もう、義元の姿が見えてもいいころであろう。

随分と中心まで来た事であろう。

「どこじゃぁ~。義元はぁ~。義元は、どこじゃぁ~」

 余に多くの小蠅どもが一斉に群がった。こちら側が義元のみを狙う様に、敵方はやはり余の首が欲しいのであろう。この混乱の中で逃げずに、余に立ちはだかろうとするだけ見上げたものよ。

(少しは相手をしてやろうか)

 とも、思ったが、よくよく見れば目がおびえている。やはり、ずぶの素人である。かたぎである。逃げずに立ち向かって来ているのではない。逃げ遅れて、立ち向かわざるをえないだけなのである。

 やはり、小蠅どもは、蹴散らすだけにした。

(さぁ、早く消えろ。消えてくれ。余は忙しいのじゃ。頼むから、失せてくれ。余に、もっと大きな仕事をさせてくれ)

 小蠅どもを追い払い、前に進んだ。

 そして、前に進めた。

 小蠅どもは瞬く間に飛んでいく。

 散り散りになって消えていく。

 どんどん、どんどん、飛んでいく。次から、次へと、消えていく。しかし、それでもまだまだ、蠅はいる。さすがは、三万とも四万とも言われている今川軍だ。数の評価だけは一級だ。

 そこに、一人、現れた。

 余の前を憚った。

「邪魔じゃ。どけ」

 男はどこうとはしなかった。それもそうだろう、はじめから殺気立てていた者が、どけと言われて、「はい」と、どく訳がなかろう。他の蠅と違って線が太い様であるし、目にも底が入って感じられる。

「糞田舎侍が。図に乗るな! 成敗してくれる!」

 そう言われて、余は頭に血が上った。

 こいつは殺したくなった。他の小蠅どもと違って、こいつは八つ裂きにして、切り刻んでくれよう、と思った。

 男が、声を上げながら、長い槍を振り上げて突進してきた。余は構えた。男が長い槍を振り下ろそうとした時、横から、飛び交う鳥の影の如き速さで、余の前を横切った一閃があった。刹那、長い槍を持った男は、余の前で倒れていた。やってくれたのは、森であった。

「殿、怪我はありませぬな」

「あぁ。無事だ」

「殿は手を出すまでもありませぬ。どうぞ、前にお進みくだされ。若者どもを鼓舞してくだされば、それで良いかと思います」

「かたじけない。おぬしも頑張るなぁ」

「はぁつ。まだまだ、頑張りまするぞ。それに、また、子供が出来ました。ますます、頑張らねば。殿から、たっぷりと報酬をいただかなければ」

「ふッ。相変わらずだ」

 余と森は小蠅を追い払いながら、前に進みながら、話を続けた。森のおかげで、逆上していた気持ちを落ちつかせることが出来た。

「おぬしはなかなかの子だくさんよのぉ」

「はい。頑張っております」

「おぬしは子供が好きなのであろう」

「はい。子供が好きでありますし、おなごが好きであります」

「ふっ。相変わらずだ」

「はい。すべて、殿の為、と思い、励んでおります」

「よし。この戦、生きてかえって、おぬしの子供らをすべて余に預けよ。悪い様には致さぬ」

「はい。ありがたきお言葉。また、一つ、頑張ってまいります」

 そう言って、森は、余よりも一足も二足も先に、前へ、前へと進んで、道を開いてくれた。

 と、その時、前方で、

「どどーん」

 と大きな物が崩れ落ちた様な音が轟いた。続いて、

「がしゃ、がしゃ、がしゃん」

 と金属がぶつかり合い、割れて、飛び散っている音が響いた。

 紫の派手な輿が、落ちて、崩れて、壊れているのが、人垣というか蠅垣というか、そういった物の合間から、覗けた。その派手な輿から、これまた派手な紫の羽織に無様に絡まった、丸々と肥えた、不思議な生き物が転がり落ちてきた。

「いたぞぉ~」

「義元だぁ~」

「首は目の前だぁ~」

 声が飛び交った。

「さ、さ、さ、さ、さぁ~」

 と瞬時に、落ちて壊れた輿の傍らで不細工に、しどろもどろする者とは思えない物を守ろうと、「腕に覚えあり」といった面構えの者達が円陣を組んだ。こ奴等は円陣の中の物体を、今まで見た事もない生物を守ろうとしている様であった。こいつ等は、少しは骨がありそうだが、こいつ等の中心にいる、中で蠢いている、紫色の絹地の布に不器用に絡まった物はまるで戦の場に似つかわしくない風だった。

「あれが、…、…。あれが、義元…、…」

 開いた口が塞がらなかった。

 あんな、頓狂な成りをした野郎が義元だなんて。東海一の弓取り、と言われている男に憧れというか嫉妬の念を持っていたのに、それがどうしたことか、兜はおろか、鎧もつけてはおらず、公家を意識したような装束である。余の事を田舎侍と苔扱いしていた男がこの有様とは。何も、一つも、この男からは男の匂いが感じられない。自惚れで、勘違いで、自己の満足のためだけに、京被れしているだけのようだ。真の美しさ、真の強さが感じられない。

(はっ!? …、…。もしかすると、余が本当に田舎侍で、分かっていないだけで、これが、本当に、都の匂いで、京の雰囲気で、上品というものなのか…、…? だとすればそんな物、糞喰らえ! この戦国の世に、あんな身なりで、戦う気を微塵も漂わせないで、指先と顎だけで、国を治めようなんて、天下を取ろうだなんて、図々しい。大将が、足を使わず、馬にも乗らず、鎧も付けず、浮かれているとは何事だ。{成敗してくれる}その科白は余のものぞ)

(この戦国の世を、生き抜くという事を、貴様如きでは生き抜けぬという事を、思い知らせてくれる)

(しかし、それにしても、こんな、男とは思えぬ男に、織田家は、代々、何年も脅かされ、一時は下に見られ、哀れな時には囲われていたというのか、織田家に限らず、尾張はおろか、相模も三河も、あの甲斐の信玄でさえも怯えていたというのか?)

 余の脳裏を様々な思いが駆け抜けた。

 義元と思わしき者を守ろうと円陣を組んでいるのは、ざっと三十人弱。はじめ、三万あった大所帯も、分散し、且つ、絞られて、遂にはここまで萎んでしまった。お付きの旗本であろうから、少しは腕がたつであろう。が、それでも、本物の猛者は各所で大将として戦っているはずである。つまり、ここに残されて、総大将を守っている旗本は今川勢の二級品であろう。一級品だとしても、超がつくほどではないだろう。それに比べて、こちら、我が精鋭部隊は尾張の誇る選りすぐりの者達である。そん所そこいらのちんぴらとは訳が違う。


 下馬評を大きくひっくり返した。

 今や形勢は逆転し、敵の本陣内で、頭数でもこちらの方が数倍は上である。

 義元を背中で囲みながら守ろうとする、今川勢の生き残りと、対峙するにはこちらも、自然と円を描く形になる。

 こちらがじりじりと滲みより、円が徐々に小さくなっていく。敵方の円も少しづつ小さくなっていく。こちらには、軽く笑みを浮かべる者さえいる。大きな緊張の中に小さな余裕が芽生えてきている。もう、勝ちが見えてきた。後は、誰が、最初の一歩を踏み出すか、それだけである。

 日頃から、尋常とは思えぬ稽古を積んでいる、我が愛しき田舎侍たちが、悠々自適とのさばっている、京被れした間抜け侍に負けるわけがない。余も血が騒いできた。久方ぶりに実戦で暴れたくなってきた。

(そうじゃ、この気持ちじゃ。波に乗ってきたこの高ぶりようが好きなのじゃ。これだから、戦はやめられん。頭の中が何やらぱちぱち音をたてて、はじけている。血管が膨らんで、血流が激しくなるのが感じられる。鼓動が破裂せんばかりに盛り上がる。もう、既に勝ちに酔いしれる準備は出来ている。誰でも良いぞ、かかってくるがよい。誰でも良いぞ、踏みだせ! 最後の仕上げを開始しろ!!!)

 小平太が飛び込んだ。

 円陣を掻い潜り、中に入り込んだ。それを阻止せんと、敵の皆が小平太に意識をとられ、円陣が簡単に崩れた。小平太は囲まれたが、その分、御大将・義元は、がら空きになった。

 そこに、こちらの精鋭が雪崩込んだ。

 少しのもみ合いがあった。

 義元は肥えに、肥えて、武士とは程遠い体系であるが、昔の、若かりし頃はそうであったであろう、東海一の弓取りの名の面影を少しだけ感じさせて、それなりの型の様なものを見せて僅かに抵抗をした。どうであれ、まとっている紫の絹地の大きな布がはだけて、もつれて、絡まって、どうにもならない様子であった。登り詰めたと思っているのは己ばかりで、こちらに言わせれば落ちぶれている。…、…。情けない。


でっち上げでも、噂でも、嘘でも、かませでもなく、本当だったのであろう。

「義元は、この度の戦が、自身で単独で指揮をとるのが初めての戦であります」

 そう言われていた。

(いい所の大名の血筋で、大事に、大事に育てられて、京にまで行かせてもらい、学ばせてもらい、お坊ちゃまが御殿様を気取りやがって! つまりは何か!? 四十を超えて、ようやく初陣みたいなものだろう。それでいて、使い方も分からぬというのに、大所帯を作りやがって。数だけ揃えれば勝てると思ったのだろう。京で何を学んだというのだ。京は何を学ばせたというのだ。貴様が言う、この田舎で、この田舎侍の余が、本当の戦を、今、教えてやっている。思い知るがいい。残された、あと、僅か数秒のうちに、戦のなんたるかを、本物の戦の場で感じるがいい。そして、地獄で実践にでも、役立てれば、余と戦えたことに感謝をするであろう)


「獲ったぞぉ~」

 叫んだのは新助だった。

 威勢良く叫んでいるが、新助も怪我を負っているようで、獲った首を振りまわすその右手から、己の血を吹き飛ばしている。それでも、新助は高笑いで、口を大きく、何かをカッ喰らう様に、まるで大鯰が雑魚を威嚇するように、開けて、喜びと熱と安堵を一度にあらわしている。

「義元の首は、ワシが獲ったぞぉ~」

 新助は高笑いの合間に、何度も同じことを連呼した。周りの、他の精鋭たちも、その度に、それに呼応して、一緒に喜びの声をあげた。

 新助は義元の長く、乱れた髪を鷲掴みにして、自らの頭上で大きな円を書くように、義元の首をブン回している。その、気違い染みた新助の傍に、余は身を寄せた。

「でかしたぞ、新助」

 余は新助に声をかけた。

「アッ、ハッ、ハッァ~!!! ウホッホォッ、ホォッ、ホォッオ~!!!」

 新助の狂乱はまだ収まらなかった。無理もあるまい。新助にとっては初の首級であり、しかも、それが、東海一の弓取りと謳われた今川義元なのだから、新助に限らず、誰でも、いかれてしまう事であろう。それに、ここに至るまで、いくら精鋭部隊といえども、失禁や脱糞は当り前の恐怖心と、否応なく強制させられる緊張感があったのだ。それが、瞬時に解き放たれた結果なのである。無意識に暴れて、叫んで、意思や判断という概念の別の場所で、神経が奴を操っているのであろう。だから、おそらく、格闘の最中に義元に食い千切られたであろう指の痛みにも、今は気付いていないのであろう。

「よくやったぞ、新助。まぁ、落着け。後で、褒美をとらす。おぬしも怪我を負っているようじゃ。一先ず、手当てを受けるがよい」

 小平太も深手を負っているらしい。

 余は小平太の傍にも寄って声をかけた。

「よく頑張った」

「…、…」

 小平太は苦笑いで答えるのがやっとで、声も出せない程に強い痛みを感じていたらしかった。

「おぬしにも褒美をとらせる。暫くはゆっくりとしておれ。治療に専念するがいい」

 他の者に手当てを受けつつ、その事で守られている安心感と、闘いに一区切りがついた心の休息と、余に認められた事の喜びで、いままで無理やり保っていた意識の繋ぎ目が切れて、小平太は深手が襲う痛みの渦に呑み込まれて意識を失った。

(かわいい奴よ)

 そう思えた。

 それとは対照的に、義元の首は醜いものであった。初めて見た生首は吐き気がする程に気色の悪さを覚えたが、余も、歳を重ねていくうちに、無数の首を見慣れてしまい、今では、そこら辺の首は何とも思わなくなった。石ころや虫ケラよりも、でかい分だけ、邪魔にさえ感じる始末である。しかし、悪戯に公家の真似事をして、白粉を塗り、紅をつけ、眉をおき、歯を黒くしている、この義元の首は、今までの、それまでの、他の野趣味溢れた無骨な男たちの首とは違って、薄気味悪い。本人は京に憧れを持っているのか、自身を京の者と自惚れているのか、…、しかし、傍から見れば京に被れているだけの、かわいそうな奴にしか見えない。そう見られている事を、本当は知っていて、それを恨んで、憎んで、呪っているのであるが、口にすると、それを認めてしまうようで、自身の内にとどめている。それが悠根となり、死顔にも滲み出てきている。それが故にこの首は、他の誰の首よりも増して気色が悪いのかもしれない。だが、余もここで貴様如きに潰されるわけにはいかないのじゃ!

「ぺっ」

 余は、義元の首に唾を吐きかけた。武士の端くれとして、首は手厚く扱うものであろうが、己の弱い部分を払拭したいがために、武士の心得をも捨てて、幼き頃より貫き通してきた、おおうつけの魂をもって、義元の首に唾を吐きつけてやった。

 そして、京被れしている己を、周りは嘲り笑っているのであろう、でも、それを口に出したり、態度と行動で、その事に関して嘲り笑う者を打ちのめすと、己の負けを認めているような気がするのが気にくわない、という点が、余にも分かる気がしたのが腹にたった。余も、強い心を持っている振りをしている、と思われるのが嫌であった。実は、この強気は、強がりであって、はったりである、と思われるのが嫌であった。だけど、それを口に出したくない。態度と行動に出したくない。そう思っていた。この、目の前にある、薄気味悪い義元の首と、余は同じ心を持っている。

そこに嫌気がさして、また、

「ぺっ」

 と唾を吐きかけてやった。これで、弱かったそれまでの自分、義元と似た境遇、似た心境の自分を捨て切れた気がした。

 おまけだ、そう言って、

「ぺっ」

と三度目の唾を吐きかけて、思い切り蹴飛ばしてやった。首はぬかるんだ地面を三、四転して、泥塗れになり、フラフラとした後、止まって、遠くを見る目で、ぼぉ~、としていた。

もう、余には、薄気味悪さを感じる弱い心はなくなっていた。

「行くぞ」

 余はそう言って、その場を離れた。

 雨はもう止んでいた。

 策略通り、行っていたのは、虚勢に過ぎず、この度の戦は、本当のところ、運に助けられた。

 正直、もう、こんな危険な戦はしたくない。


余は信長である。

 天下は手中に収めた。

 余はこの国の王である。

 余は神である。

余は、余以外の神は信じない。

死後の世界や、近頃、余の周りをうろつく、キリストなるものも信じない。しかし、キリストの考え方に趣は感じられる。普及の方法、理論、展開、執念、推進力、どれをとっても、そのどれを軍事に置き換えても、政務に置き換えても、いかせられると思う。感興をそそられるものである。

それはそれで良いとする。

暫くは、泳がせておく。

この国の、民の、民度が上がるなら、まぁ、悪くはなかろう。

しかし、だ。

いずれは、余が、神である事をフロイスらにも分からせる必要がある。

その時は、民にもフロイスらにも、神である、余を信じさせる。

近き将来には、この国を束ね終えるであろう。

 ゆくゆくは大艦を、海の向こうに渡らせる。支那国を制圧し、第六天魔王の名を、その向こうまで轟かせんとする。…、…。耽美な夢としては美しいが、余の提唱する「天下布武」と、ちと趣が変わってくる気もする。そこからすると、海の向こうへは軍事として手を出すまでの必要はないとも思える…。今は、具体的にそこまでの想像が及ばない、というのが実情だ。


フロイス曰く、

「この国は海に浮かぶ、小さき島に過ぎない」

らしい。

海を越え、その向こうの、まだ見ぬ、支那のその向こうには、余が制するこの国とは比にならぬ程の大きな国がいくつかあるらしい。

この地球は、想像を絶するほどに広くて、大きい様であるから、余はまだまだ、多くの仕事をせねばならぬという事である。

心躍るではないか。


ところが、時間がない。

そこが、一番の問題である。

少し、焦らなければならぬのかもしれぬ。

将棋を指したいし、名人の勝負を見てみたい。

相撲を取りたいし、力士の取り口も見てみたい。

ゆっくりと優雅に舞いたいものでもあるが、時間が足りない。

神になりうる力があれど、その力を使い切る時間が残されているか…、…。

みちみちと、小さな仕事に固執している時ではない。


死のうは一定 忍び草

忍び草には何をしよぞ

一定の 語り起こすよの


桶狭間を潜り抜けた。

強靭、巨大な包囲網を突破した。

忍びを潰し、坊主を焼いた。

これからは、家康や信盛に駿河や相模などの東を任せる。

越前、それより北は勝家に睨みを利かさせる。

秀吉に中国を攻めさせ、続いて、九州も落とさせる。

四国は信忠に仕事をさせる。

支那侵略があるならば、光秀にやらせる。もしくは交易としての侵攻を進めさせる。

光秀は優秀な男である。仕事の出来る良い男である。大人しさの中に、隠し持つ匕首のような鋭さが実に魅力的である。そして、表には見せない忍耐強さも魅力である。そこを周りのだれもが認めている。一足飛びに、奇をてらう様な事をしない、固い所がいい。そこは秀吉とは違う。

天下を取れる実力を持ち合わせていそうだ、と家康の場合はなにやらチラつくものがあるが、そう言うものがあると、天下をねらっているのではないか、とこちらは、変な勘ぐりを持ってしまうが、光秀には、そう言った怪しさが、微塵も見当たらない。やはり、大陸への進駐があるとすれば、軍事侵攻が無いにせよ国交を拡げるのであれば、その役目は光秀に限る。

いずれにしろ、それらを取り仕切るのに、まだまだ忙しい事、この上ない。

実に愉快だ。

仕事があるという事は、忙しいという事は、時間に追われているという事は、実に愉快だ。

実に楽しき、めでたき事だ。

実に心強く、面白い事だ。

しかし、それだけでは、足らぬようで、余が、神々の中の神になるには、まだまだ、なさねばならぬ大義が多く、積み上げられている。

余の唱えていた、天下布武を超えた、更なる所に、世界と申すものが広がっているとの事である。


 人間五十年、

下天の内をくらぶれば、

夢幻の如くなり、

ひとたび生を得て、

滅せぬ者の有¬るべきか


 ここに、これから記すは、余の執り行った業績の過程と経緯である。

 余を神と崇め、祈り、帰依する者の為に、

余、自らが修筆を行う。

 心して読むがよい。



  あとがき、その二「死神の予感」


 少し、外が騒がしい様である。

「何事じゃ?」

 蘭丸に様子を伺いに走らせた。

 町衆の喧嘩か何かであるか?

 それにしても、響き方からして、遠くに大勢が群れているように感じる。

 この、静かに治めた京の、静謐であるべき、余の夜をにわかに邪魔する奴は、事によっては成敗致す、…、…。

 もしや、…、…。

 謀反か?

「城介が別心か?」

 はじめ、嫡男・信忠の造反を疑ったが、どうやら、違ったようである。

 まさか、あの男が、こう来るとは!? 驚きではあるが、起こってしまった事には、致し方ない。

 蘭丸が持ってきた答えは、

「本能寺はすでに敵勢に包囲されておりまする。多くの旗が登ってきておりまする。紋は桔梗でございます」

「そうか、光秀か」

 余はまだ、冷静を保てている。

「堀川小路から、西洞院大路からも、室町小路からも、隊は一万を超すものと見えます」「…、…。小さい」

「は?」

 隊の迫る声が近づいてきているのと、余の声が独り事のように小さかったために蘭丸には聞き取れなかったのであろう。

(神たる余を落とそうというのに、光秀め、たかが一万の隊だけしか揃えられんとは、…、…。やはり、あいつには支那征伐は無理か? では、支那征伐には、余、自ら攻め入ろうではないか。十万、二十万の隊を組んで、進撃してみせようではないか!!!)

「殿、早く、裏へ」

「…、…。是非に、及ばん」

「は?」

「蘭丸よ、弓を持て」

「殿、もしや、表に出られるおつもりで?」

「早く、弓をよこせ」

「はっ。只今」

 ようやく、蘭丸は余の意思を理解し、受け入れてくれたようである。

 余は、蘭丸のもった弓を受け取った。

「蘭丸よ。幾つになった?」

「十八にございます」

「そうか。おぬしの父上によう似てきた。実に良き男になった」

「…、…」

「では、参るぞ」

 余は、頬を軽く釣り上げるように、笑みを作って見せ、それを蘭丸に見せた。

 蘭丸も余の真似をするように、引き攣ってはいたが、笑みを作って見せた。

この期に及んで、愛嬌を忘れないあたり、さすが、余が認めた男の血を引いている。この歳で死なせるのは惜しいと思える。

 何とか、生かせてやりたい。

 そして、余もまだまだ死ぬ訳にはいかぬ。

 四十九にして、まだ、夢、半ばである。

 あの、「信長日記」をもっと早くに手掛けて、それを見直すほどの余裕をもってさえいれば、桶狭間で、自軍を分散し、本陣を小さく、軟弱にしてしまった義元の、自ら、困窮に陥った、義元の最後を、反面教師ととらえることが出来たかもしれない。そうすれば、この度の、光秀の起こした乱を未然に防げたかもしれない。まずは、家康や秀吉、一益や光秀で足元を固めるつもりが、足元となるべく光秀に、足元をすくわれてしまった。

 今さら、何を言っても始まらん。

「さぁ、行くぞ、蘭丸」

「はい」

「覚悟はいいな」

「はい」

 蘭丸は長槍を持っている。

「では、障子を開けるがよい」

「はい」

 バンッ!

 蘭丸は気持ちがいいほどに、勢いよく、障子を開けて、踊るように、外に飛び出した。

(若いとは強さであるな)

 余は蘭丸を援護するかの如く、引いた弓を放った。

 強く、強く、放った。

 支那まで、飛んで行けとばかりに、弓を放った。



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