セレスティアとリリアの3年間
リリア・エヴァンスの鞄が壊された事件から、さらに時間が流れた。
王立学院へ入学したばかりの頃、セレスティアの周囲にはいつも多くの生徒がいた。
公爵令嬢だからという理由だけではない。成績は常に上位を維持し、困っている者から相談を受ければ可能な範囲で助け、教師から頼まれた仕事も断らなかった。
未来の王妃となる少女として、誰から見ても申し分のない存在だった。
けれど、一年生の中盤を迎えた頃から、その状況は少しずつ変わり始めた。
最初に変わったのは、アルベルトだった。
それまで学院の授業が終われば王宮へ戻り、王太子として必要な報告書へ目を通していた彼が、放課後も学院へ残ることが増えた。
リリアへ勉強を教えるためだった。
最初のうち、セレスティアは問題だとは考えなかった。
平民出身で途中から学院へ入ったリリアには、貴族社会について知らないことも多い。将来的に優秀な人材となる可能性がある少女を王太子自身が支援することは、決して悪いことではない。
だから、アルベルトから一度だけ頼まれたときも快く引き受けた。
「セレスティア。今日提出する予定だった西部三領の報告書なのだが、代わりに確認しておいてくれないか?」
「構いませんわ」
「助かる。リリアが来月の試験について分からないところがあるらしい」
「承知いたしました。こちらはわたくしが確認しておきます」
それだけだった。
一度くらいなら何の問題もない。
セレスティアもそう思っていた。
しかし一度が二度になり、二度が三度になった。
「今日の会議なのだが、父上には体調が優れないと伝えておいてくれないか?」
「殿下、お身体の具合が悪いのですか?」
「いや、そういうわけではない。ただ、リリアが学院で少し問題を起こしてしまってな。本人がかなり落ち込んでいる」
「……そうでしたか」
「一人にしておくのも可哀想だろう」
「分かりました。会議の内容は、後ほどわたくしからお伝えいたします」
「頼む」
その次は、地方から届いた陳情書だった。
さらに次は、王立学院へ支給する予算案の確認。
その次は、春に予定されている視察先から届いた資料の整理だった。
アルベルトが放置した仕事を、誰かが処理しなければならない。
王太子の仕事が滞れば、困るのはアルベルトだけではなかった。
王宮で働く官僚が困る。
地方で返答を待っている領主が困る。
その先には、王家の決定を待つ領民がいる。
だからセレスティアは引き受けた。
最初は婚約者を支えるつもりだった。
やがて、支えるという言葉では収まらないほど仕事が増えていった。
一年生が終わる頃には、アルベルト宛てに届いた資料の一部が、最初からセレスティアのもとへ回されるようになっていた。
もちろん最終的な決裁権はアルベルトにある。
だが資料を読み、問題点をまとめ、複数の選択肢を用意し、それぞれの利点と欠点を書き出すところまではセレスティアが済ませていた。
アルベルトは最後に目を通し、選ぶだけでよかった。
それでも仕事は終わらない。
二年生になると、アルベルトが学院内でリリアと過ごす時間はさらに増えた。
それに反比例するように、セレスティアが王宮で過ごす時間も増えていった。
学院の授業を終えれば王宮へ向かい、夕方から書類へ目を通す。
公爵家へ帰れば王妃教育が待っている。
翌朝は再び学院へ登校する。
そんな毎日を繰り返した。
その頃から、セレスティアの周囲から人が減り始めた。
以前なら昼食へ誘ってくれた令嬢が、いつの間にか別の席へ座るようになった。
廊下ですれ違えば挨拶を交わしていた生徒が、目を逸らすようになった。
以前は相談を持ちかけてきた下級生たちも、次第に近づいてこなくなった。
理由は分からなかった。
リリアに関する噂が残っていることは知っていた。
しかし鞄の事件については教師が調査しても犯人は見つからず、セレスティア自身が関与した証拠など当然存在しなかった。
ならば時間が経てば誤解も消える。
そう思っていた。
実際には、消えていなかった。
セレスティアが知らないところで、小さな話が積み重なっていた。
リリアが階段で転びそうになれば、少し前にセレスティアの友人と話していたことが噂された。
リリアの教科書がなくなれば、以前セレスティアが同じ本について注意したことが語られた。
アルベルトとリリアが親しくなるほど、「婚約者であるセレスティアが面白く思っているはずがない」という憶測にも説得力が生まれていった。
その一つ一つについて、セレスティアが説明を求められることはなかった。
だから彼女は、自分の知らないところで何が起きているのかを知らなかった。
もちろん、調べようと思えば調べられた。
公爵令嬢としての人脈を使えば、学院で流れている噂くらい簡単に集められただろう。
誰が何を言い始めたのかを調べることもできた。
けれど、そのためには時間が必要だった。
そしてセレスティアには、自分の評判を調べることより優先すべきものがあると思えてしまった。
「北部からの穀物輸送が遅れております。こちらを先に確認しなければ……」
自分が少しくらい嫌われても、国は困らない。
しかし王太子の仕事が遅れれば、多くの人間が困る。
それならば、どちらを優先すべきか。
セレスティアにとって答えは考えるまでもなかった。
そうして二年が過ぎた。
そして王立学院最終学年の春を迎える頃には、かつて彼女の周囲にいた人間の大半が離れていた。
それでもセレスティアは、王太子の婚約者としての仕事を続けた。
アルベルトが処理しなかった書類を読み、視察計画を整え、地方からの陳情を分類し、必要なら担当官へ追加調査を依頼する。
学院の成績も落とさなかった。
王妃教育も休まなかった。
公爵令嬢として参加すべき行事にも出席した。
誰かに弱音を吐くこともなかった。
ただ、その代わりに自分自身のことだけが、どんどん後回しになっていった。
なぜ友人が減ったのか。
なぜ廊下ですれ違った生徒が自分を避けるのか。
なぜアルベルトが自分との時間をほとんど作らなくなったのか。
考えることはあった。
けれど、そのたびに机の上には新しい書類が届いた。
そしてセレスティアは、いつも書類の方を先に取った。
卒業の日も同じだった。
王立学院の大広間には、卒業を祝うための華やかな音楽が流れていた。
三年間を共に過ごした生徒たちが正装に身を包み、あちこちで笑い声を上げている。
その中心には、アルベルトとリリアがいた。
リリアは学院へ編入した頃とは比べものにならないほど洗練されていた。
貴族社会の作法を身につけ、それでいて持ち前の親しみやすさは失っていない。成績も最後まで上位を維持し、今では平民出身であることを理由に彼女を侮る者はほとんどいなかった。
その隣で、アルベルトが楽しそうに笑っている。
セレスティアは少し離れた場所から二人を見ていた。
かつてなら、自分がアルベルトの隣に立っていた。
未来の王と王妃になる二人として、式典でも夜会でも並んでいた。
いつから変わったのだろう。
セレスティアには、はっきりとした境目が分からなかった。
「セレスティア様」
声をかけられ、振り返る。
そこには王宮から派遣された文官が立っていた。
「このような場所で申し訳ございません。南部から急ぎの報告が届いております」
「南部から?」
「河川の水位が上昇しており、複数の村で避難を始めるべきか判断を求めているとのことです。本来なら殿下へ確認していただくべきなのですが……」
文官が申し訳なさそうにアルベルトの方を見る。
セレスティアも視線を向けた。
アルベルトは大勢の生徒に囲まれ、リリアと話していた。
「分かりました。資料を見せてください」
「しかし、本日は卒業パーティーです」
「だからといって、川の水位が下がるわけではありませんわ」
セレスティアは迷わなかった。
「殿下へお渡しする前に、必要な情報だけでも整理しておきましょう」
「ありがとうございます」
文官から資料を受け取る。
卒業を祝うために用意したドレスのまま、セレスティアは壁際の小さなテーブルへ向かった。
河川の水位。
上流地域の降水量。
周辺村落の人口。
避難先までの距離。
必要な馬車の数。
頭の中で情報を整理する。
音楽も笑い声も、次第に意識から消えていった。
今日くらいは自分も楽しんでいいのではないかと、考えなかったわけではない。
けれど、自分が資料を見る数十分の間に避難準備が早まるのであれば、その方が大切だった。
セレスティアは、そういう少女だった。
ーーーリリア視点ーーー
リリアはアルベルトと話しながら、広間の端にいるセレスティアを見ていた。
卒業パーティーだというのに、あの女は書類を読んでいる。
周囲には誰もいない。
かつてセレスティアの周りに集まっていた令嬢たちも、今ではほとんど近づこうとしない。
三年間かけた結果だった。
リリアは一度も、大勢の前でセレスティアを悪く言わなかった。
むしろ何度も庇った。
セレスティア様は悪くない。
きっと自分の勘違いだ。
あの方は未来の王妃なのだから、自分などを相手にするはずがない。
そう言い続けた。
そのたびに周囲は、リリアの代わりにセレスティアを疑った。
小さな出来事もいくつか用意した。
なくなった教科書は自分で隠した。
階段では誰にも押されていない。
机に残された嫌がらせの紙も、自分で用意した。
どの出来事にも、セレスティアが直接関わった証拠はない。
だからこそ都合がよかった。
証拠がないから、セレスティアは反論する機会すら与えられない。
噂だけが残った。
そして何より都合がよかったのは、セレスティア自身だった。
「あの人、本当に一度も調べなかったのね」
リリアは聞こえないほど小さな声で呟いた。
「何か言ったか?」
「いいえ。何でもありません」
アルベルトへ笑いかける。
それから再びセレスティアを見る。
彼女には調べる力があった。
公爵家の人脈を使えば、自分について流れている噂など数日で把握できただろう。
アルベルトへ相談することもできた。
王家へ訴えることだってできた。
それなのに、何もしなかった。
いや、できなかったのではない。
自分のために時間を使わなかったのだ。
リリアはそれがずっと理解できなかった。
学院一年目の中盤から、アルベルトの仕事がセレスティアへ流れていることも知っていた。
その原因の一部が自分であることも、もちろん分かっている。
リリアがアルベルトを誘えば、彼は公務よりこちらを優先することが増えた。
そしてアルベルトが残した仕事を、セレスティアが片づけた。
最初は一つだった。
それが二つになり、十になり、いつしか誰も数えなくなった。
リリアは途中から、それすら利用していた。
アルベルトを自分のそばへ引きつければ引きつけるほど、セレスティアは忙しくなる。
セレスティアが忙しくなれば、自分の周囲で起きていることを調べる時間がなくなる。
彼女が国のために働くほど、自分自身を守る時間が消えていった。
「本当に馬鹿な人」
今度も、声には出さなかった。
そしてリリアは、セレスティアが資料を確認し終えたあと、自分の鞄をテーブルの脇へ置いたまま文官と少し離れた場所へ移動するのを見た。
三年前から変わっていない。
必要な書類だけを持ち、鞄そのものには注意を払わない。
リリアは視線を戻した。
急ぐ必要はない。
今夜のために準備したものは、すでに整っている。
あとは、予定通りに進めればいい。
ーーーセレスティア視点ーーー
「避難そのものは早めに始めるべきです。特に川沿いの二村については、日が落ちる前に高台へ移動できるよう準備を始めてください」
「承知いたしました」
「ただし、これはわたくしの判断です。殿下にも必ず確認を取ってください」
「もちろんです」
文官が頭を下げ、資料を受け取った。
ようやく仕事が一段落した。
セレスティアは小さく息を吐いてから、広間へ視線を戻した。
卒業パーティーはまだ続いている。
同級生たちは笑っていた。
今日で学院生活が終わる。
そう考えたとき、セレスティアは初めて自分が三年間の学院生活で何をしてきたのかを振り返った。
勉強した。
王妃教育を受けた。
アルベルトの仕事を手伝った。
国のために必要なことを覚えた。
けれど、それ以外に何をしただろう。
友人たちと遊びに出かけた記憶は、ほとんどない。
誰かとくだらない話をして笑った記憶も、最初の一年以降は随分少なくなった。
そして今、卒業を祝う広間にいるのに、自分の隣には誰もいなかった。
「……少し、寂しいものですわね」
それでも誰かを責めようとは思わなかった。
自分が忙しくしていたから、自然と距離ができてしまったのだろう。
そう考えた。
セレスティアは知らなかった。
自分が一人になったのは、仕事ばかりしていたからではない。
三年間かけて、誰かが一つずつ自分の周囲から人を遠ざけていたからだ。
そして、その誰かが今夜、最後に残されたものまで奪おうとしていることも知らなかった。
セレスティアはテーブルへ戻り、自分の鞄を手に取った。
いつもと変わらない重さだった。
だから、中に自分の知らないものが入っていることには気づかなかった。
その直後、広間の中央からアルベルトの笑い声が聞こえた。
セレスティアはそちらへ視線を向け、婚約者が楽しそうならそれでよいのだと、いつものように自分を納得させた。
それから間もなく、卒業を祝う乾杯の時間が訪れようとしていた。




