ヒロイン「リリア」
リリア・エヴァンスが王立学院へ編入してから、十日ほどが過ぎた。
平民の娘が王侯貴族の子弟が集う学院へ途中から入学することは、極めて珍しい。もっとも、リリアの場合は誰か有力者の推薦だけで入学したわけではなかった。学院側が実施した試験において、彼女自身が文句をつけようのない成績を残したのである。
歴史や算術だけなら、幼少期から専門の教師を付けられてきた貴族の子弟にも優秀な者は多い。しかしリリアは十分な教育環境を与えられてこなかったにもかかわらず、ほとんどの科目で上位へ食い込んだ。
特に目を引いたのは、初めて見る問題に対する対応力だったという。
覚えている知識をそのまま答えるのではなく、与えられた情報から出題者の意図を読み取り、その場で答えを組み立てる。教師の一人が「この娘に足りないのは教育を受けた時間だけだ」と評したほどだった。
そして実際に学院へ入ってからも、リリアは周囲の期待を裏切らなかった。
「セレスティア様、おはようございます!」
「おはようございます、リリアさん。学院にはもう慣れましたか?」
「はい。まだ知らないことばかりですけれど、皆さんが親切に教えてくださいますから」
廊下で出会ったリリアは、いつものように明るく笑った。
編入当初にあった平民と貴族という壁も、わずか十日で随分と薄くなっている。リリアは身分の高い相手にも必要以上に萎縮せず、かといって無礼にならない絶妙な距離を保っていた。
失敗すれば素直に謝り、知らないことは知らないと言う。教えてもらえば嬉しそうに礼を述べ、次に同じ失敗をすることはほとんどない。
それだけなら、非常に優秀な少女だった。
「それにしても、セレスティア様は本当に何でもご存じなんですね」
「何でもということはありませんわ。わたくしにも知らないことはたくさんございます」
「でも、昨日の授業も先生より先に答えていたじゃないですか。私だったら、あんな難しい問題を急に聞かれたら何も言えません」
リリアは困ったように笑う。
セレスティアは少し考えてから首を横へ振った。
「昨日の内容でしたら、以前の王妃教育で学んだことがあっただけです。条件が違いますもの」
「王妃教育……やっぱり、小さい頃から受けているんですか?」
「七歳からですわ」
「七歳……」
リリアが目を丸くした。
「私、その頃は一日中遊んでいました」
「普通はそうでしょうね」
「セレスティア様は嫌にならなかったんですか?」
何気ない質問だった。
しかしセレスティアは、すぐには答えられなかった。
「嫌になる、ですか?」
「だって七歳ですよね? 遊びたいとか、今日は勉強したくないとか、そういう日もあったんじゃないかなって」
考えたことがなかった。
いや、正確には違う。
そう思った日くらいは、きっとあったはずだ。しかし幼いセレスティアにとって、それは口にしてよい願いではなかった。
未来の王妃になる少女なのだから。
アルヴェイン公爵家の令嬢なのだから。
普通の子供と同じように振る舞ってはいけない。
何度もそう教えられ、いつしか疑問すら抱かなくなった。
「必要なことでしたから」
結局、セレスティアはそう答えた。
「わたくしは将来、アルベルト殿下をお支えする立場になります。そのために必要な教育を受けられるのですから、恵まれていると思っていますわ」
「そうなんですね」
リリアは微笑んだ。
けれど、その瞳だけがほんの少しセレスティアを観察しているように見えた。
「セレスティア様って、本当に真面目なんですね」
「よく言われますわ」
「私には絶対に真似できません」
それだけ言うと、リリアは友人たちの待つ教室へ向かっていった。
セレスティアも自分の教室へ向かいながら、先ほどの会話を思い返した。
何かおかしなことを言われたわけではない。
むしろ褒められただけだ。
それなのに、なぜか胸の奥に小さな引っかかりが残った。
その日の午後、学院では政治史の授業が行われた。
教師が黒板へ書いたのは、三十年前に王国南部で起きた大規模な農民反乱についてだった。
「では、この反乱が発生した最大の原因は何だったと考えますか?」
教師の問いかけに、何人かの生徒が手を挙げる。
指名された侯爵家の少年が立ち上がった。
「南部諸侯による過度な徴税です。前年に不作が発生していたにもかかわらず税率を維持したことで、農民の生活が困窮しました」
「教本としては正解です。では、ほかの意見はありますか?」
今度は手が上がらなかった。
セレスティアは少し迷った末に手を挙げる。
「アルヴェイン嬢」
「徴税は直接的な原因ではございますが、それ以前から領主と農民の間に意思疎通の仕組みが存在しなかったことも大きいかと思います」
「続けてください」
「不作が起きた時点で農民側から複数回の嘆願が出されております。しかし地方官がそれを握り潰したため、領主へ正確な状況が伝わりませんでした。反対に領主側の救済策についても農村へ十分に伝達されておりません。互いに相手が何もしていないと思い込んだ結果、不満が急激に膨らんだのではないでしょうか」
教師が満足そうに頷いた。
「よく調べています。後世の研究でも、その点は重要視されています」
「ありがとうございます」
セレスティアが着席した直後、もう一人の手が挙がった。
リリアだった。
「エヴァンスさん」
「私は少し違うと思います」
教室が静かになった。
編入してまだ十日の平民の少女が、公爵令嬢であり学院首席でもあるセレスティアの意見へ真正面から異論を唱えたのだから、注目されないはずがなかった。
しかしリリア自身には緊張した様子がない。
「セレスティア様のお話は正しいと思います。でも、それは領主側から見た場合の話じゃないでしょうか」
「どういう意味ですか?」
「農民からしたら、地方官が嘆願書を握り潰したのか、領主が読んだうえで無視したのかなんて分からないですよね。実際に税を取りに来た人間は領主の名前を使っているわけですから、農民からすれば領主に苦しめられているのと同じだと思います」
教師が興味深そうにリリアを見る。
「では、エヴァンスさんは領主に責任があると?」
「あります。だって、自分の名前で税を取っているんですよね?」
リリアは当然のことのように答えた。
「自分が知らなかったから悪くないとは言えないと思います。ちゃんと知る仕組みを作るところまで領主の仕事だったんじゃないでしょうか」
今度は教室のあちこちから小さな感嘆の声が漏れた。
セレスティアも素直に感心していた。
視点が違う。
自分は統治する側として、制度のどこに問題があったのかを考えた。
リリアは統治される側から同じ出来事を見ている。
「面白い意見ですね」
教師も笑った。
「アルヴェイン嬢、どう思いますか?」
「リリアさんの仰る通りですわ」
セレスティアは迷わず答えた。
「わたくしは行政機構の不備として考えておりましたが、最終的な統治責任が領主にあることは変わりません。地方官の監督を含めて領主の責任と考えるべきでしょう」
「ありがとうございます!」
リリアが嬉しそうに笑った。
「セレスティア様に認めてもらえるなんて嬉しいです」
教室の空気が和らいだ。
セレスティアも微笑んだ。
この少女は優秀だ。
教育さえ受ければ、さらに伸びるだろう。
将来的には王宮の官僚として働く道もあるかもしれない。女性官僚はまだ少ないが、これほどの才能を身分だけで埋もれさせる方が国にとって損失だ。
セレスティアは本気でそう考えていた。
だから授業終了後、リリアへ声をかけた。
「リリアさん」
「はい?」
「先ほどの意見、とても参考になりましたわ」
「そんな、私なんて思ったことを言っただけです」
「それが大切なのです。わたくしは幼い頃から統治する側の教育を受けておりますから、無意識のうちに物事を見る方向が偏ってしまうことがあります」
セレスティアは少し考えてから続けた。
「もしよろしければ、これからも気づいたことを教えていただけませんか?」
「私が、セレスティア様にですか?」
「ええ。違う立場からの意見を知ることは、わたくしにとっても勉強になりますもの」
リリアはしばらく黙っていた。
やがて、嬉しそうに笑った。
「もちろんです!」
その笑顔を見て、セレスティアも安心した。
少なくともこの時点では、二人の間に敵意など存在していなかった。
あるいは、セレスティアの側には存在していなかったという方が正しいのかもしれない。
それから数日が経った昼休み、セレスティアは中庭でアルベルトと向かい合っていた。
卒業後に予定されている地方視察について、日程を確認するためだった。
「西部視察の三日目ですが、予定を変更した方がよろしいかと思います」
セレスティアは用意した資料を差し出した。
「昨年の豪雨によって街道の一部が崩落しております。修復自体は進んでおりますが、王太子殿下の一行が通行するのであれば、半日ほど余裕を設けた方が安全でしょう」
「そこまで調べたのか?」
「事前に確認できる危険でしたら、避けるべきですもの」
アルベルトは資料へ目を落とした。
「相変わらずだな」
「何がでしょう?」
「いや、お前らしいと思っただけだ」
褒められたのだろうと判断し、セレスティアは微笑んだ。
「ありがとうございます」
アルベルトが小さく息を吐いた。
その表情の意味を尋ねようとしたところで、後ろから声が聞こえてきた。
「アルベルト様!」
振り返ると、リリアが一冊の本を抱えてこちらへ歩いてきていた。
周囲にいた生徒たちの何人かが驚いたように彼女を見る。
王太子を名前で呼ぶこと自体が、貴族社会ではかなり親しい者にしか許されない。ましてやリリアは平民出身の学生であり、本来なら「殿下」と呼ぶべき立場だった。
セレスティアは一瞬迷った。
注意すべきだろう。
本人が知らないまま同じ呼び方を続ければ、別の場所で問題になる可能性がある。
「リリアさん」
「はい?」
「アルベルト殿下をお名前だけでお呼びするのは、学院内でも控えた方がよろしいですわ」
リリアの笑顔が消えた。
「……いけなかったんですか?」
「王族に対する呼称には決まりがございます。学院では多少寛容に扱われますが、今のうちに慣れておいた方が――」
「ごめんなさい!」
セレスティアの言葉を遮るように、リリアが深く頭を下げた。
「私、そんな決まりがあるなんて知らなくて……。アルベルト様が、学院では気にしなくていいって言ってくださったから」
周囲の視線がアルベルトへ向いた。
セレスティアも婚約者を見る。
「殿下が?」
「ああ」
アルベルトは少し気まずそうに頷いた。
「私が許した。学院にいる間くらい、身分を気にせず接して構わないと伝えたんだ」
「そうでしたか」
それなら事情が変わる。
「事情を存じ上げず、申し訳ございません。殿下ご自身がお許しになっているのでしたら、わたくしから申し上げることではありませんわ」
「違うんです!」
リリアが顔を上げた。
「セレスティア様は悪くありません。私がちゃんと説明しなかったから……」
目元がわずかに潤んでいた。
セレスティアは困惑した。
「責めているわけではありませんわ」
「はい。分かっています。でも私、貴族の皆さんの常識をまだ全然知らないから、セレスティア様を怒らせてしまったのかなって」
「怒ってなどおりません」
「リリア」
アルベルトが優しく声をかけた。
「気にする必要はない。私が許可したのだから、お前が謝ることではない」
「でも……」
「セレスティアも悪気があって言ったわけではない。それでいいだろう?」
その言葉に、セレスティアは小さな違和感を覚えた。
自分がリリアを責め、それをアルベルトが仲裁したような形になっている。
実際には、知らずに失敗して後から困らないよう教えただけだった。
けれど、わざわざ訂正するほどのことでもない。
「ええ。もちろんですわ」
セレスティアはそう答えた。
リリアは安心したように微笑む。
「ありがとうございます、セレスティア様」
その日の出来事は、それだけで終わったはずだった。
ところが翌日、セレスティアは友人から思いがけない話を聞いた。
「昨日、リリアさんをお叱りになったのですか?」
「叱った?」
「王太子殿下をお名前で呼んだことについてです。中庭でかなり厳しく注意なさったと聞きましたけれど」
「厳しく注意したつもりはありませんわ。殿下がお許しになっていることを知らなかったので、一般的な呼称についてお伝えしただけです」
「そうでしたのね」
友人は納得したようだったが、その隣にいた令嬢は少しだけ表情を曇らせた。
「でも、リリアさんは泣きそうだったと聞きましたわ」
「それは……」
セレスティアは言葉に詰まった。
確かに目元は潤んでいた。
だが、自分は声を荒らげてもいなければ、身分について侮辱したわけでもない。
「誤解ですわ」
そう答えるしかなかった。
その日の昼休み、廊下を歩いていたセレスティアは、少し先でリリアが数人の令嬢に囲まれていることに気づいた。
「昨日は大丈夫でしたの?」
「本当に大丈夫です! セレスティア様は何も悪くないんです」
リリアの声が聞こえた。
セレスティアは思わず足を止めた。
「私が貴族の決まりを知らなかっただけですから。セレスティア様は親切で教えてくださっただけなんです」
「でも、あれだけ大勢の前で注意する必要はなかったでしょう?」
「そんなこと言わないでください。セレスティア様は将来の王妃様なんですから、私みたいな平民にもちゃんと教えてくださったんですよ」
リリアは一度もセレスティアを悪く言わなかった。
むしろ、ずっと庇っていた。
それなのに話を聞いている令嬢たちの表情には、少しずつセレスティアへの不満が浮かんでいる。
なぜなのか分からなかった。
悪口を言われているわけではない。
嘘を言われているわけでもない。
それでも会話を聞けば聞くほど、自分が立場の弱い少女を人前で叱りつけたかのような印象だけが強くなっていく。
セレスティアは声をかけようとして、やめた。
ここで自分が現れれば、リリアたちは気まずい思いをするだろう。
それに、彼女自身が誤解を解こうとしてくれている。
ならば問題にする必要はない。
そう判断して、セレスティアは別の廊下へ向かった。
その背中が完全に見えなくなってから、リリアは令嬢たちとの会話を続けながら、ほんの一瞬だけ先ほどまでセレスティアが立っていた場所へ視線を向けた。
そこにはもう誰もいなかった。
リリアは何も言わず、すぐに困ったような笑顔へ戻った。
「本当に、セレスティア様は悪くないんです。だから皆さんも、変なふうに受け取らないでくださいね」
その言葉を聞いた令嬢の一人が、ますます納得できないという顔をした。
リリアは誰よりも早く、それに気づいていた。
けれど彼女は訂正することなく、最後までセレスティアを庇い続けた。




