家族みんなが親友を私の代わりに花嫁にしようとしていたので、私は結婚式を見届ける側になりました
私は結婚の誓いの言葉を読み、十年間一緒に飼っていた犬の話をして、四年前に亡くなった父のことまで口にした。
それでも、圭吾は何ひとつ表情を変えなかった。
そこへ兄が口を挟んだ。
「ある女の子が、十年以上ずっとお前のことを好きだったんだ」
その瞬間、圭吾の目が赤くなった。
母まで小さくため息をつく。
「紗季のためじゃなかったら、真奈美だって四年前にあの子を諦めなくて済んだのにね」
母の隣に座っていた白石真奈美は、困ったように笑った。
「もういいんです」
「明日になれば、この片思いも本当に終わりますから」
次の瞬間、圭吾は俯いた。
肩を震わせて、声まで詰まらせながら泣いていた。
私は婚約者と親友が見つめ合う姿を眺め、それから、いかにも残念そうな母と兄の顔を見た。
ようやく理解した。
この秘密を知らなかったのは、私だけだったのだ。
そこまで惜しいのなら。
私が叶えてあげよう。
1
私の様子がおかしいことに最初に気づいたのは真奈美だった。慌てたように私の袖をつかみ、泣き腫らした目でこちらを見上げる。
「紗季、誤解しないで」
そう言いながら、真奈美はそっと自分のお腹に手を添えた。
「圭吾を好きだったのは、ずっと私の一方的な気持ちだったの」
「この子だって、私一人で育てるつもりだから」
私はゆっくり手を握りしめた。
さっきのゲームで、本当はもう一つだけ話すつもりだったことがある。
圭吾への最後のサプライズ。
私も妊娠していた。
まだわかったばかりで、妊娠週数も浅い。ゲームが終わったら検査結果を用意していた小さな箱に入れ、みんなの前で圭吾に渡すつもりだった。
けれど、もう必要ない。
圭吾はどこか肩の荷が下りたように頷いた。
「話せてよかった」
「式が終わったら、真奈美と月汐島に何日か行ってくる」
私は思わず顔を上げた。
月汐島。
三か月前から、私が二人の新婚旅行のために準備していた場所だった。
ホテルも飛行機も海が見える部屋も、すべて私が一つずつ調べて予約した。
「帰ってきたら、今度こそ紗季とちゃんとやっていく」
「でも、真奈美に一人で子供を育てさせるつもりはない」
圭吾は、何が問題なのかさえわかっていないようだった。
私が三か月かけて用意した新婚旅行は、私の知らないところで別の女に譲られていた。
しかも、誰一人として私の意思を確認しようとはしない。
母など、当然だと言わんばかりだった。
「真奈美はずっとあなたに譲ってきたのよ」
「結婚する前に一度だけ、圭吾とちゃんとお別れしたいって言ってるだけじゃない。今回くらい譲ってあげたら?」
青凪グランドホテルの宴会場は、明日の披露宴に向けてほとんど準備を終えていた。
壁際には私と圭吾の写真が飾られ、その周りを花が囲んでいる。
私は写真の中で笑っている自分を眺めた。
急に、何もかもが馬鹿らしくなった。
「真奈美は、私に何を譲ったの?」
母が目を丸くする。
「私の母親?」
「それとも、私の婚約者?」
言い終わるより先に、頬に強い衝撃が走った。
一歩よろめく。
目の前に立っていたのは、兄の水城直人だった。
「いい加減にしろ!」
「真奈美がどれだけ傷ついてるかわからないのか?」
「四年前だって、お前たちの邪魔をしないために自分の子供を諦めたんだぞ」
「今だって圭吾の子を妊娠してるのに、正式な立場さえ欲しいって言えない。まだ真奈美を追い詰める気か?」
口の中に血の味が広がった。
私は何も言わず、唇の端を指で拭った。
昔は何かあれば真っ先に私の前に立ってくれた兄が、今はまるで知らない人間のように見える。
真奈美は十五歳のときに両親を亡くした。
葬儀が終わってからもしばらく、一人で遅くまで誰もいない家に帰ろうとせず、私は見ていられなかった。
両親に頼み込んで、しばらくうちで一緒に暮らせるようにした。
その「しばらく」が、結局何年にもなった。
当時の私は、兄の手を引っ張ってまで頼んだのだ。
真奈美のことも、私と同じように妹だと思って大事にしてほしい、と。
今になって思う。
約束なんて、軽々しくさせるものではなかった。
圭吾は冷めた目で私を見た。
「昔からこういうところがあるんだよ、紗季は」
「何でもきちんとやってるように見えて、実際は誰より冷たい」
そして、まるで恩でも売るように続けた。
「でも安心しろ」
「真奈美にも約束した。最後にはちゃんと紗季と結婚する」
「明日の式は予定通りだ」
母は真奈美の肩を抱いた。
「やり直せるなら、真奈美が私の娘だったらよかったのに」
「あなたみたいな娘を育てて、何になったんだか」
以前なら、この言葉だけで何日も胸を痛めただろう。
けれど、その夜は不思議なくらい何も感じなかった。
「そう」
私は彼らを見回して笑った。
「じゃあ、望み通りにしてあげる」
その場が静まり返る。
真奈美はまた目を潤ませた。
「紗季、みんなを責めないで」
「悪いのは私だから」
唇を噛んだあと、意を決したように口を開いた。
「十四年前、紗季が星ヶ丘医科大学に行く前の夜……私、圭吾にキスしたの」
一瞬、呼吸が止まった。
「四年前、おじさんが一番大変だった時期にも……圭吾と関係を持った」
「あのとき、一度妊娠したの」
真奈美の声はだんだん小さくなる。
「でも、子供は諦めた」
「それで全部終わらせられると思ったから」
すでに圭吾は、真奈美の肩を抱いていた。
それでも彼女は私から目を逸らさなかった。
「でも、二人が婚約したって聞いて……やっぱり無理だった」
「これで最後にしようって、圭吾とも話したの」
「その夜に、また妊娠したの」
宴会場は静まり返っていた。
空調の音さえ聞こえそうだった。
十四年前。
私は星ヶ丘医科大学への進学が決まった。
知らない街で始まる生活が不安で仕方なかった私の手を、圭吾はずっと握っていた。
「待ってるから」
何度もそう言った。
四年前。
父が病に倒れた。
その三か月間、圭吾は仕事が忙しいと言い続け、父のところへ顔を出したのはたった二度だった。
父にかわいがられ、進学のときにも随分助けてもらった真奈美も、ほとんど姿を見せなかった。
私は病室に泊まり込み、二日、三日まともに眠れない日も珍しくなかった。
その間に二人は、別のことに夢中になっていたのだ。
真奈美が泣き出す。
「紗季、明日が終わったら、もう本当に圭吾を取ったりしない」
「月汐島への旅行だけ、最後の思い出にさせて」
「帰ってきたら、圭吾は全部紗季のものだから」
そこで初めて知った。
男というのは、こうして譲ったり返したりできる物らしい。
「いらない」
私は圭吾を見た。
彼が眉をひそめる。
「この人、もういらない」
「この家族もいらない」
2
兄が私の手首をつかんだ。
「意地になるな」
「明日の花嫁はお前だ。それでみんな話はついてるんだ」
結婚するかどうかまで、「みんな」で決めることらしい。
圭吾は鼻で笑った。
「行かせろよ」
「今どれだけ騒いだところで、明日になれば戻ってくる」
「紗季には俺を捨てられない」
兄はようやく手を離した。
そのとき初めて、さっき自分が殴った私の頬が腫れていることに気づいたようだった。
「さっきのは……わざとじゃない」
「でも真奈美は妊娠してるんだ」
真奈美のお腹の子に触れた途端、兄の顔にわずかな笑みが浮かんだ。
「あの子が生まれたら、俺だって家族になる」
「帰ったら冷やしておけよ」
「明日、写真も撮るんだから」
そこへ母の声が飛んでくる。
「直人、ちょっと来て!」
「真奈美が泣きすぎて、お腹が苦しいって」
兄はすぐに振り返った。
「紗季は放っておけばいい」
「明日になったら絶対戻ってくるから」
誰も追っては来なかった。
全員が、最後には私が戻ってくると信じていた。
圭吾とはあまりにも長く一緒にいた。私自身、この人生に別の道があるなど考えたことさえなかったのだ。
ホテルを出るとすぐ、青凪市立総合医療センターの同僚に電話をかけた。
「結婚式のために取っていた休み、取り消したいの」
「予定通り勤務に戻る」
電話の向こうで数秒沈黙があった。
「紗季?」
「明日、結婚式じゃなかった?」
「やめた」
その夜、病院へ戻るなり救急患者が運ばれてきた。
くも膜下出血。
検査では脳動脈瘤の破裂が確認され、早急な処置が必要だった。
私は脳神経外科医だ。
誰かにとって私は娘であり、妹であり、婚約者だったのかもしれない。
けれど手術室では、ただ一人の医師だった。
スマートフォンは手術室に入る前にロッカーへ入れた。
それから数時間、ホテルのことも、圭吾のことも、真奈美のことも考えなかった。
顕微鏡の向こうにある血管と神経、それだけを追った。
周囲の組織を慎重に剥離し、動脈瘤頸部を確認する。クリップを正確にかけ、瘤内への血流を遮断した。
手術は無事に終わった。
手袋を外してスタッフルームへ戻ったころには、もう深夜だった。
看護師がスマートフォンを差し出してくる。
「水城先生、ずっと通知が来ていましたよ」
画面には十件以上のメッセージが並んでいた。
最初は母からだった。
『真奈美にリハーサルを手伝ってもらって、あなたのドレスも着てもらったの。妊娠してるから背中のファスナーが閉まらなくて』
次のメッセージ。
『雰囲気がわからないから、後ろの縫い目を少しほどいたわ。明日直せばいいでしょ』
しばらく画面を見つめた。
学生のころから憧れていたデザイナーのウェディングドレスだった。
予算を超えた分は、自分の貯金から出した。
次は圭吾から。
『紗季が選んだルビーのリング、今日の真奈美のドレスに合わなかったから、リハーサルでは別のダイヤの指輪にした』
写真も添付されていた。
私のリングはケースの端に追いやられ、真奈美の指には別の指輪が光っている。
値段は、私のものより高かったはずだ。
看護師は何かを察したらしく、それ以上何も聞かなかった。
私は画面を閉じる。
「術後管理は?」
「もう手配済みです」
「ありがとう」
ドレスも指輪も。
もう使うことはない。
翌朝八時。
いつも通り病棟を回っていると、また動画が届いた。
青凪グランドホテルのチャペル。
真奈美はウェディングドレスを着て立ち、圭吾がその前にしゃがんで靴のストラップを直している。
周りでは誰かが楽しそうに笑っていた。
次の映像では、本来なら今日、私と一緒にバージンロードを歩くはずだった兄が、真奈美に腕を貸していた。
母は彼女の前に立ち、ベールを整えたあと、ゆっくりと顔の前へ下ろす。
「美和子さん、本当に娘をお嫁に出すみたい」
撮影していた誰かが笑う。
母は嬉しそうに目元を拭っていた。
兄まで目を赤くしている。
幼いころ、母が兄をからかったことがあった。
「紗季がお嫁に行く日なんて、直人のほうが大泣きするんじゃない?」
兄さん。
ちゃんと泣いたんだね。
私のためではなかったけれど。
圭吾からもメッセージが来た。
『お前が意地張って来ないから、真奈美に一通りリハーサルしてもらった』
『今日はこの通りにやればいい』
私は動画を閉じた。
目の前では患者の妻が不安そうにこちらを見ていた。
「水城先生、主人は……」
「昨夜の手術は無事に終わっています」
「今は経過観察と回復が一番大切な時期です。指示通りに進めていきましょう」
女性の目に涙が浮かんだ。
何度も頭を下げられている間に、また母から写真が送られてきた。
赤飯に、味の濃そうな煮物と汁物。
『真奈美が朝から作ってくれたの』
『こういうのを気遣いっていうのよ』
『あなたは減塩だの、これは食べるなだの、そればっかり』
その写真を眺めながら、四年前を思い出した。
父が亡くなって間もなく、母は初めて脳梗塞を起こした。
兄は父を失ったショックから何も考えられる状態ではなく、私は大学時代の恩師にも連絡し、必要な治療につなげた。
急性期治療が終わってからが、長いリハビリの始まりだった。
私は母を毎日ベッドから起こし、言語訓練をさせ、薬も飲ませた。塩分や脂質の取り過ぎにも神経を尖らせた。
真奈美は看護師だった。
知らなかったわけではない。
ただ、母が食べたいと言えば何でも持ってきた。
母に嫌われないことのほうが、大事だったのだ。
以前、真奈美が脂の多い肉料理を持ってきたとき、私は取り上げた。
母は激怒し、私が用意した食事を床に落とした。
「出てって!」
「真奈美がいい!」
まだ言葉も満足に出なかったころだ。
それでも回復して、最初にはっきり口にできた言葉はこうだった。
「真奈美が娘だったらよかったのに」
四年経っても変わらない。
私の厳しさは嫌がらせ。
真奈美の甘やかしは優しさ。
母の中では、ずっとそうだった。
病棟を回り終えたころ、兄から電話が入った。
「紗季!」
ただならぬ声だった。
「母さんが、また脳梗塞かもしれない!」
3
反射的に立ち上がった。
「いつから?」
「今さっきだ。頭がふらつくって言ったあと、急にうまく喋れなくなって」
神経が一気に張り詰める。
「119番した?」
「まだだ、今から――」
「すぐして」
「症状が始まった時間を覚えておいて。飲んだり食べたりさせないで、あとは救急隊の指示に従って」
電話の向こうが静かになった。
その直後、母の元気な声が聞こえた。
「本当に紗季を呼んだの?」
私は動きを止めた。
兄も黙る。
「紗季……」
それだけで十分だった。
一時間後。
私は青凪グランドホテルにいた。
結婚したかったからではない。
この人たちが、あとどこまでやるのか見届けたくなっただけだった。
母は控室のソファに元気そうに座っていた。
私を見ると、悪びれるどころか眉をひそめる。
「どうして紗季まで呼んだの?」
「このまま真奈美に全部やってもらえばよかったじゃない」
真奈美の目がわずかに輝いた。
けれど圭吾はすぐに否定した。
「それは無理だ」
「親戚にも両親にも、俺の結婚相手は紗季だって話してある」
「父さんの昔の同僚や、会社の上司も来てるんだ」
「みんな、紗季が青凪市立総合医療センターの医師だって知ってる」
真奈美の顔から期待が消えていく。
高校卒業後に看護専門学校へ進み、今は看護師として働いている。
けれど圭吾の一瞬の躊躇を見れば、桐生家が何を重視しているのかは嫌でもわかった。
彼らが欲しかったのは、私ではない。
人に自慢できる肩書きを持った嫁だった。
私は母を見る。
「今朝、薬は飲んだ?」
視線が泳いだ。
「飲んだわよ」
「本当に?」
「もう、うるさいわね」
母は苛立ったように部屋の隅を指差した。
「早く着替えなさい」
私のウェディングドレスが、床に近い場所へ無造作に置かれていた。
白い裾にはいくつも汚れがつき、背中は真奈美が着るためにほどかれたままだ。
時計を見る。
午後には手術が入っている。
「病気じゃないなら、帰る」
兄がまた私の手首をつかんだ。
「紗季」
「もう招待客も来てるんだ」
「ここでお前が帰ったら、全部真奈美のせいだって思われる」
「違うの?」
兄は言葉を失った。
真奈美がすぐに近づいてきた。
「紗季、まだ怒ってるんでしょう?」
重いドレスを抱えたまま、また目を潤ませる。
「私とこの子から謝るから」
そう言って、本当に床へ膝をつこうとした。
反射的に支える。
顔が近づいた瞬間、真奈美が私にだけ聞こえる声で囁いた。
「そうだ」
「一番謝らないといけないのは、紗季のお父さんかも」
身体が固まる。
「四年前、おじさんの容体が最後に悪くなる前……私、妊娠したことを話したの」
「刺激しちゃいけないって言われてたのにね」
「でも私、怖かったの。紗季に言わないでって頼みたくて」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
四年前。
父の状態はすでにかなり悪かった。
担当医からも、精神的な負担をなるべくかけないようにと言われていた。
私は一週間ほとんど眠らず看病していた。
そんな私に真奈美が言った。
「紗季、今日は家に帰って寝て」
「おじさんのことは私が見てるから」
あのときは、涙が出そうなくらいありがたかった。
数時間後。
病院から急変の連絡が入った。
私が戻ったころには、父の最期に間に合わなかった。
ずっと病状の進行によるものだと思っていた。
あの夜。
他にも何かがあったのだ。
真奈美を支えていた手から、わずかに力が抜けた。
すると彼女は逆に私の腕をつかみ、突然大きく身体を後ろへ倒した。
「痛っ……!」
お腹を押さえる。
「痛い……」
涙を流しながら私を見上げた。
「結婚式が終わったら、圭吾は紗季に返すって言ったでしょう?」
「この子だけが、私に残ったものなの」
「お願いだから、この子まで奪わないで」
兄が駆け寄り、私を突き飛ばした。
「何してるんだ!」
「真奈美は妊娠してるんだぞ!」
その瞬間、私の下腹部にも小さな痛みが走った。
思わず手を添える。
ここにも子供がいる。
けれど目の前にいる伯父になるはずの男は、その存在さえ知らない。
圭吾は真奈美を支えながら、冷たい目を向けてきた。
「次に同じことをしたら」
「真奈美にちゃんと謝ってもらう」
真奈美はまだ泣いている。
「紗季が今日の式に出たくないなら、仕方ないと思う」
「今までだって、私が代わりにやってきたことはいっぱいあるし」
「今日も私が――」
「駄目」
私と圭吾の声が重なった。
圭吾は一瞬気まずそうな顔をした。
「花嫁は紗季だ」
愛しているからではない。
医師の妻という肩書きを、手放したくないだけだ。
思わず笑った。
真奈美は、その意味を勘違いしたらしい。
瞳に露骨な失望が浮かぶ。
私はウェディングプランナーを探した。
「さっきのリハーサル映像、残っていますか?」
「はい」
「披露宴のオープニングムービー、差し替えできますか?」
担当者が戸惑う。
「水城様……何を?」
「少し内容を変えたいんです」
すでに披露宴会場には大勢の招待客が集まっている。
「今日のことは」
「私自身の口で説明します」
チャペルで行う予定だった挙式は中止した。
そのまま披露宴会場へ向かう。
入口で、兄が予定通り私に手を差し出した。
「紗季」
「昔から約束してただろ。俺が一緒に歩くって」
私はその手を取らなかった。
一人で扉をくぐった。
真奈美が着て、縫い目をほどかれ、裾まで汚されたドレスを身につけたまま会場へ入ると、すぐにあちこちから囁き声が聞こえた。
そのまま前方まで歩く。
そして全員の前で、ウェディングドレスを脱いだ。
中から現れたのはスクラブ姿の私だった。
圭吾の顔色が変わる。
マイクを手に取った。
「皆さん、どうして花嫁がこんな格好をしているのか、不思議ですよね」
「午後から手術があるんです」
「時間もないので、手短に済ませます」
後ろのスクリーンを見る。
「まずはこちらをご覧ください」
4
スクリーンに映像が流れ始めた。
最初は昨夜のリハーサル。
ウェディングドレス姿の真奈美。
彼女に腕を貸す兄。
ベールを整える母。
そしてバージンロードの先で待ちながら、ずっと真奈美だけを見つめている圭吾。
最後には母の声まで残っていた。
「圭吾、真奈美のこと大事にしてあげてね」
会場がざわつき始める。
「待って」
「今日の花嫁って、水城紗季さんじゃなかった?」
「あの人は誰?」
「どうして新婦のお母さんもお兄さんも、別の女性のリハーサルを手伝ってるの?」
兄は俯いた。
母の表情も硬くなる。
続いて、昨日母から私に届いた音声を流した。
『真奈美のほうが、あなたよりこのドレス似合ってるわ』
『だってもう圭吾の子を妊娠してるんだし――』
そこで音声は切れた。
会場が一気に静まった。
圭吾の両親――桐生隆志と祥子も、そこで初めて顔色を変えた。
二人は真奈美が妊娠していることも、圭吾と長年関係を持っていたことも知らなかった。
単に新婦の友人がリハーサルを手伝ったと聞かされていただけだった。
けれど今の映像を見れば、そんな説明では済まないことくらい誰にでもわかる。
圭吾が壇上へ駆け上がった。
「止めろ!」
「誰がこんなもの流せって言った!」
慌てて機器の電源を落とす。
けれど、もう遅かった。
招待客の中には隆志の元同僚だけでなく、圭吾の勤務先の上司や取引先もいる。
何人かは明らかに不快そうな顔をしていた。
「隆志、お前の息子は何をやってるんだ?」
「婚約者の友達を妊娠させたのか?」
「それで今日、普通に結婚式をするつもりだったのか?」
桐生夫妻は必死に「若い二人の間で少し行き違いがあって」と説明している。
すでに席を立とうとする人までいた。
「まだあります」
私はスタッフを見る。
「次をお願いします」
予備の機器に切り替えられ、スクリーンが再び点灯した。
今度は今朝のチャペルでの映像だ。
真奈美の足元にしゃがみ、靴のストラップを直す圭吾。
ドレス姿で微笑みながら、その手を差し出す真奈美。
言葉などなくてもわかる。
あれは、ただの友人を見る目ではない。
映像の最後。
リハーサル中につけていたピンマイクを、真奈美はすでに切れていると思っていたらしい。
小さな声が、そのまま録音されていた。
「紗季は本気でいなくなったりしないよ」
「美和子さんも直人さんも、こっちの味方だもの」
「私が泣けば、最後には二人とも紗季を説得してくれるから」
兄が顔を上げた。
真奈美は血の気を失っていた。
兄はずっと、両親を亡くした真奈美をかわいそうだと思ってきた。
自分が守らなければならないと思い込んでいた。
真奈美が泣けば、きっと誰かに傷つけられたのだと決めつけた。
彼女が何かを譲ったと言えば、その分だけ私が我慢するのが当然だと思っていた。
自分の「優しさ」が、いつの間にか実の妹を傷つけるための道具にされていた。
兄がそれに気づいたのは、たぶん今が初めてだった。
圭吾の会社関係者が何人か帰り始めた。
隆志は一人ずつ謝りながら見送ったあと、険しい顔で戻ってくる。
「もう十分だろ」
「言いたいことは言ったはずだ」
「これだけ招待客が来ているんだ。今さら中止になんてできるか」
思わず笑った。
「誰が、まだ圭吾と結婚するって言いました?」
隆志が言葉を失う。
祥子まで焦った顔をした。
「紗季、圭吾とは長い付き合いでしょう?」
「五歳のころから、大きくなったら結婚するって言ってたじゃない」
「十歳のときには、お小遣いを全部使って指輪まで買ったのよ」
「あなたが星ヶ丘に進学したときだって、圭吾は夏休み中ずっとアルバイトして、お金を貯めて会いに行った」
「全部忘れたの?」
「いいえ」
私は圭吾を見る。
「忘れたのは、私じゃありません」
圭吾は何か言おうとした。
けれど結局、何も言わなかった。
そのとき、母が突然真奈美を前へ押し出した。
「紗季が嫌なら、真奈美が結婚すればいいでしょう!」
「圭吾の子だって妊娠してるのよ」
「会場も料理も全部揃ってるんだから、花嫁を替えれば済むじゃない!」
驚いたことに、真奈美は別のウェディングドレスまで用意していた。
恥ずかしそうに頬を染める。
「圭吾」
「前に紗季のドレス選びについて行ったとき、私も一着だけ試着してたの」
「……似合う?」
招待客の何人かは、すでにスマートフォンを向けていた。
「え、あの人って本来の花嫁じゃないよね?」
「婚約者の友達を妊娠させて、そのまま花嫁にするの?」
「何これ……」
真奈美はまた涙を浮かべる。
「圭吾、困るならいいの」
「子供は一人で育てるから」
圭吾が手を伸ばした。
「真奈美、俺は――」
乾いた音が響いた。
祥子が真奈美の頬を叩いていた。
真奈美は頬を押さえたまま、呆然とする。
「おばさま……?」
「そう呼ばないで」
真奈美の目から涙が落ちた。
「私はてっきり……いつかお義母さんって呼べるのかと」
祥子の顔がさらに険しくなる。
「圭吾に婚約者がいると知っていて、ずっと関係を続けていたんでしょう」
「そのうえ、今日ここで花嫁の代わりになるつもり?」
「私はあなたの職業がどうこう言っているんじゃない」
「今日あなたがしたことを、受け入れる気はないと言っているの」
隆志も低い声を出した。
「帰りなさい」
母がすぐに真奈美の前へ立つ。
「何よ、その言い方!」
「真奈美のどこが紗季より劣ってるの?」
それまでなら必ず味方した兄が、今回は動かなかった。
真奈美が不安そうに彼を見る。
「直人さん」
「生まれてくる子のことも家族だって、言ってくれたよね?」
兄はしばらく黙っていた。
「俺はずっと、真奈美が我慢してるんだと思ってた」
「紗季には親も仕事も圭吾もあって、真奈美には何もないって」
「だから紗季に、もっと譲れって何度も言った」
兄が真奈美を見る。
「でも今の言葉、聞いた」
「俺が必ずお前の味方をするって、わかってたんだな」
「だから利用してたのか」
「違う……」
兄はもう聞こうとしなかった。
私へ顔を向ける。
「紗季」
声が小さくなる。
「さっき殴ったこと……悪かった」
私は答えなかった。
会場の前へ立ち、招待客に深く頭を下げた。
「本日いただいたご祝儀は、後日すべてお返しします」
「お料理はもう用意されていますので、よろしければそのまま召し上がってください」
少しだけ間を置く。
「私の再出発のお祝いということにしておきます」
どこかから小さな笑い声がした。
やがて、拍手も聞こえた。
私はマイクを置く。
「それでは失礼します」
「本当に仕事がありますので」
5
予定より早く病院へ戻れた。
まず食事を済ませ、着替えて午後の手術に備える。
患者は七歳にも満たない子供だった。
病変の位置が難しく、高い精度が求められる。
手術室へ向かう直前まで、母親はベッドの横にしゃがみ込み、子供の手を握っていた。
扉が閉まれば、その不安は外に残される。
あとは、私たちが引き受けるしかない。
スマートフォンは今回も外に置いた。
最初から消音にしてある。
数時間のあいだ、結婚式も、母も、圭吾も存在しなかった。
目の前の子供を、無事にこの手術室から出す。
それだけだった。
手術は無事に終わった。
最後の処置を助手に任せ、手袋を外したときにはスクラブの下まで汗で濡れていた。
看護師がスマートフォンを持ってくる。
「水城先生、ご家族から何度も電話がありました」
「本当に何かあったらと思って……」
受け取る。
兄だった。
折り返すと、ほとんど泣き声だった。
「紗季」
「母さんが……今度は本当に倒れた」
私は黙って続きを待った。
「朝、薬を飲んでなかったらしい」
「昨日も式の準備で夜中まで起きてて」
「さっきから言葉が出なくて、右半身も動かない」
「119番は?」
「した」
「症状が出始めたのは?」
兄が時間を答える。
「その時間を救急隊に伝えて」
「あとは指示通りにして」
兄の声が震えた。
「どこの病院に運ばれるか、まだわからない」
「紗季、来られないか?」
「もし手術になったら……お前がやってくれないか?」
私はまだ完全に片付いていない手術室を見た。
「無理」
電話の向こうが静かになる。
「今、私は別の患者を担当してる」
「母さんには母さんの救急チームがつく。私が途中から勝手に入ることはできない」
「今は、母さんを診ている先生を信じて」
電話の奥から、母のぼんやりした声が聞こえた。
「真奈美……」
私は目を閉じる。
「兄さん」
「今はそばにいてあげて」
その後、子供は無事に集中管理室へ移された。
両親に説明へ行くと、母親は私を見るなり涙をこぼし、深く頭を下げた。
なかなか顔を上げない。
「本当に……何てお礼を言えばいいのか」
「この子を助けてくださって、ありがとうございます」
「お礼なら簡単です」
「これからの治療と経過観察を、きちんと続けてください」
「手術が終わっても、それで全部終わりではありません」
「わかりました」
父親も何度も頷く。
「先生に言われたこと、必ず守ります」
しばらくして、兄からメッセージが来た。
母は急性期の治療を終え、状態はひとまず安定したという。
ただし、言語や手足の機能がどこまで戻るかは、これからの経過とリハビリ次第だった。
『わかった』
それだけ返した。
四年前から、母に必要なことは一通り伝えてきた。
けれど母は、私に管理されているとしか思っていなかった。
薬も生活習慣も徐々におろそかになり、再発のリスクはずっと高いままだった。
今回のことも、決して突然起きたわけではない。
翌日、病室へ顔を出した。
目を覚ましたばかりの母は、私を見ると手元にあった紙コップを投げてきた。
避けて、そのまま出ようとする。
兄が追いかけてきた。
「紗季」
「母さん、まだ頭が混乱してるんだ。気にするな」
私は足を止める。
病床の横に保温容器が置いてあった。
「真奈美?」
兄が頷く。
「スープ」
「脂っこくてさ」
「母さんにはやめろって言ったら、怒鳴られた」
妙に懐かしい光景だった。
四年前。
ここで怒鳴られていたのは私だった。
兄は頭を掻いた。
「このままじゃまずい」
「前はお前が何とかしてくれただろ」
「四年前だって、紗季がずっと見てたからあそこまで回復できたんじゃないか」
「兄さん」
「四年前は私がやった」
「でも、母さんは私一人の母親じゃない」
「今度は兄さんの番」
兄の顔が強張る。
「俺だって放ってるわけじゃない」
「でも全然言うこと聞かないんだ」
「このままだと、本当に歩けなくなるかもしれない」
「本人だって、それは知ってる」
私は遮った。
「大人なら、自分で選んだことには自分で責任を持たないと」
「私たちにできるのは、必要なことを伝えて、正しい治療を受けられるようにするところまで」
「代わりに生きることはできないよ」
兄は長い間黙っていた。
それから、母のことで私を呼び戻そうとする電話はなくなった。
一通だけメッセージが来た。
『母さんのことは俺が見る』
『今回は俺がやる』
6
以前手術をした子供は、順調に回復した。
退院後、両親から病院へ一通の手紙が届いた。
大げさに「命の恩人」と書くのではなく、毎日どんなふうに指示を守りながら子供の回復を支えているのかが丁寧に綴られていた。
その症例は後に、術後管理について紹介する院内の取り組みにも使われた。
しばらくして、青凪市が高齢者向けの脳卒中予防講座を開くことになり、病院から私も講師として参加した。
会場に立った瞬間、何人かが意外そうな顔をした。
前列の男性など、隣の人に小声で言っている。
「今日はもっと年配の先生じゃないのか?」
聞こえていた。
けれど何も言わなかった。
私は実際の症例を交えながら、脳卒中の予防、リハビリ、服薬の継続について話した。
専門用語を並べるのではなく、なぜ必要なのかを説明する。
どういう症状なら迷わず救急車を呼ぶべきか。
治療後のリハビリがなぜ大切なのか。
講演が終わるころには、最初に席を立ちかけていた人たちまで私の周りに集まっていた。
「水城先生、さっき言ってた家庭での血圧記録、もう一回教えてくれる?」
「脳梗塞のあとでも、リハビリでそんなに戻るものなの?」
「うちの主人、勝手に薬をやめるの。先生から怖いこと言ってやってくれない?」
最後の一言で周囲が笑った。
私は一人ずつ質問に答えた。
本来一時間で終わる予定だったのに、結局そこからさらに一時間近く残ることになった。
帰ろうとしたところで、一人の女性に腕をつかまれた。
「先生、私も一つ聞いていい?」
「どうぞ」
にこにこしながら私を見る。
「彼氏いるの?」
会場中が笑いに包まれた。
隣の男性がすぐに割り込む。
「ちょっと待った。うちの孫も独身だぞ」
「写真あるから見てくれよ」
健康講座が見合い会になりかけたので、午後も予定があると言って慌てて逃げようとした。
そのとき、誰かが私の顔をじっと見た。
「あれ?」
「私、桐生さんの結婚式であなたを見なかった?」
隆志の元同僚の妻だった。
私は頷く。
すると彼女はすぐ周囲に話し始めた。
「ほら、前に話したあの結婚式よ」
「こんなにしっかりしたお嬢さんなのにねえ」
「もったいないことしたわよ、桐生さんの息子さん」
別の人も話に加わった。
「今はあの女の人と一緒に住んでるんでしょう?」
「結婚式もしてないって」
「親にも反対されてるし、しょっちゅう喧嘩してるらしいわよ」
圭吾の会社に以前勤めていたという男性が首を振った。
「圭吾君、本当は管理職候補だったんだ」
「もちろん、あの結婚式だけで会社が処分したわけじゃないよ」
「ただ、そのあと仕事まで荒れた」
「遅刻や欠勤も増えたし、同僚とも揉めて」
「結局、昇進審査にも通らず、地方の営業所へ異動になったらしい」
誰かが小さく言った。
「自分で選んだ道だからね」
私は何も言わなかった。
四年前。
星ヶ丘医科大学附属病院で長期研修を受けないかと声をかけられたことがある。
けれど、母が倒れたばかりだった。
兄もまだ父を失った悲しみから立ち直れず、家のことを任せられる状態ではなかった。
だから私は断った。
今は違う。
そろそろ、自分の先を考えてもいい。
7
圭吾が私を訪ねてきたのは、それからしばらくしてからだった。
外来を終えて病院を出ると、建物の外で待っていた。
目の下には濃い隈があり、髭もきれいに剃っていない。
結婚式の日よりずっと疲れて見えた。
「紗季」
「少し話せないか?」
断りはしなかった。
ただし、二人きりになる場所へ行く気もなかった。
病院近くの人目がある場所で、そのまま話を聞いた。
圭吾は長い間黙ったあと、ようやく口を開いた。
「今までのこと、本当に悪かった」
「父さんたちには、俺も真奈美も家を出された」
「親に頼れなくなったら、生活も前とは全然違って」
自嘲気味に笑う。
「昔は、真奈美って優しいと思ってた」
「俺を責めないし、何も口出ししないし」
「でも一緒に暮らし始めたら……俺が思ってた人とは違った」
「それで?」
圭吾が言葉を詰まらせる。
「私に、自分が今どれだけ不幸なのか聞いてほしくて来たの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、何?」
しばらくして、圭吾が話題を変えた。
「式の前に」
「一度、俺たちが住んでた部屋に戻ったんだ」
私は黙って彼を見る。
「ベッドの近くに、産婦人科の検査結果があった」
声が低くなった。
「あのとき、妊娠してたんだろ」
知っていたのか。
否定しなかった。
圭吾の目が赤くなる。
「紗季」
「俺たちの子だったんだろ」
「まだ子供がいるなら、もう一度――」
「無理」
すぐに遮った。
圭吾が固まる。
「もういない」
「先月、妊娠を終わらせた」
彼の顔から血の気が引いた。
「どうして……」
その質問に、思わず笑いそうになった。
「どうして?」
「私と一緒にいたときは、真奈美のことを優しくて、素直で、自分を責めない女だと思ってた」
「実際に真奈美と暮らし始めたら、今度は私が生活を整えてたことや、外で恥をかかないようにしてたことが恋しくなった」
「圭吾」
「あなたが恋しくなるのは、いつだって選ばなかったほうだけ」
圭吾は唇を動かした。
けれど言葉は出なかった。
私はバッグを持ち直した。
「あなたがこれからどう生きるかは、あなたの問題」
「私の人生には、もう関係ない」
数歩進んでから、一度だけ振り返る。
「本当に悪かったと思ってるなら」
「もう私を探さないで」
今度は。
圭吾も追ってこなかった。
8
母の回復は、一度目より遅かった。
言葉にも後遺症が残り、右半身も長いリハビリが必要になった。
最初のうち、真奈美は何度か顔を出した。
スープや菓子を持ってきて、母の話し相手になった。
けれど体を拭いたり、着替えを手伝ったり、毎日同じようなリハビリに付き添う段階になると、少しずつ来なくなった。
兄は私に助けを求めなかった。
本当に自分でやり始めた。
母を通院させ、血圧を記録し、食事を考え、ベッドから立ち上がる練習にも付き添った。
母に食器を投げられた日の夜、兄からメッセージが来た。
『四年前、お前も毎日こんな感じだったのか?』
私は返信しなかった。
少しして、もう一通届く。
『ごめん』
それから兄は、自分がどれだけ大変かをほとんど口にしなくなった。
実際に自分で背負ってみて、四年前に私が「冷たい」「口うるさい」と言われながらしていたことの意味を、ようやく理解したのだと思う。
そんなころ、星ヶ丘医科大学附属病院から再び研修の話が来た。
今度は迷わなかった。
応募し、数週間後には正式に受け入れが決まった。
出発の日。
兄から動画が送られてきた。
リハビリ室に座る母が映っていた。
まだ発音は不明瞭で、一つの言葉を口にするだけでも時間がかかる。
「さ……き」
長い間が空く。
「お母さん……ごめんね」
私は画面を見つめたまま、すぐには何も言えなかった。
やがて兄の声が入る。
「真奈美は、そのあと二回来たよ」
「それっきり」
「自分も妊娠してるから、介護みたいなことはできないって」
画面が少し揺れた。
兄がスマートフォンを持ち替えたらしい。
「紗季」
「こんなこと言うのは、戻ってきてほしいからじゃない」
「母さんは俺たち二人の母親だ」
「今まで俺は全部お前に押しつけて、それでもまだ足りないみたいな顔してた」
「今度は俺がやる」
「俺の責任だから」
少し黙ったあと、兄が笑った。
「行ってこいよ」
「行きたいところまで行け」
9
搭乗してから、スマートフォンを機内モードにした。
飛行機がゆっくり青凪市を離れていく。
見慣れた街並みが少しずつ小さくなり、やがて雲の下へ消えた。
四年前にも、同じような機会があった。
あのときは母が倒れ、兄も家のことを支えられる状態ではなく、私は残ることを選んだ。
今度は迷わなかった。
スマートフォンには、星ヶ丘医科大学附属病院から届いた研修予定が残っている。
知らない診療科の仲間。
これまで経験したことのない症例。
これから覚えなければならないことも、まだいくらでもある。
私はずっと、いい娘で、いい妹で、いい婚約者でいなければならないと思っていた。
医師として患者を支えるのと同じように、家族の問題まで自分が何とかしなければならないと思い込んでいた。
けれど今ならわかる。
私が背負うべき責任と、そうでないものは別だ。
飛行機が雲を抜けた。
窓から強い陽射しが差し込んでくる。
不思議なくらい、身体が軽かった。
もう、私が帰るのを待っている誰かの後始末はない。
どこかで誰かの妻になることを待たれているわけでもない。
これからは。
水城紗季として、自分の人生を生きていく。
窓の外には、どこまでも雲一つない空が広がっていた。
明日はきっと、いい天気になる。




