第八話
フラッシュバックは、予告なく来る。
昼の外来で、患者が何気なく言った。
「先生、消えたくなることってあります?」
その瞬間、胸の奥がひりつく。
白い処置室。
妹の青ざめた顔。
心肺停止の男性の頸部。
「ありますよ」
口は自然に答える。
だが呼吸は浅い。
カルテ入力の画面が一瞬ぼやける。
——大丈夫だ。
自分に言い聞かせる。
夜勤を増やした。
眠りは浅い。
だが仕事は回っている。
同僚の看護師が声をかける。
「先生、顔色悪いですよ」
「寝不足です」
それで会話は終わる。
本当の理由は言わない。
医師が揺らいでいるなど、誰も望んでいない。
“ここにいる”側が、崩れるわけにはいかない。
だが夜になると、静けさが濃くなる。
モニター音がやけに大きい。
電話が鳴る前から、鳴る気がする。
鳴らない夜も、落ち着かない。
午前一時三十分。
今度は救急回線ではない。
ナースステーションの直通電話。
湊の心臓が強く打つ。
「はい、当直です」
数秒の沈黙。
『……消えたくなりました』
声は震えているが、はっきりしている。
宮下結衣。
湊は椅子に深く座る。
「うん」
『ちょっと、多めに飲みそうです』
背中を冷たい汗が流れる。
だが今夜は、まだ飲んでいない。
「どこにいる?」
『家です』
「何錠、出してる」
『……十錠』
前回より、少ない。
「今、手に持ってる?」
『うん』
窓、開けられる?」
沈黙。がさりと音。
『開けました』
「そのまま、薬を窓の外に投げられる?」
呼吸音。
数秒。
小さな、硬いものが地面に当たる音が、受話器越しにかすかに響く。カラン、と。
湊は目を閉じる。
「よくできた」
電話口で、結衣が泣き出す。
『ほんとは、飲みたかった』
「分かってる」
『でも、練習どおりに言えました』
「聞こえた」
嗚咽が落ち着くまで待つ。
「今から来られる?」
『行きます』
「タクシーで。着いたら受付で俺の名前を出して」
『……うん』
通話が切れる。静寂。
だが今夜は違う。
電話は鳴った。
救急車ではなく、自分の意思で。
結衣が到着するまでの十五分。
湊は立ったまま、壁に手をつく。
鼓動が速い。
安堵と、別の感情が混じる。
——もし間に合わなかったら。
——もし電話が来なかったら。
頭の中で、何度も最悪の映像が再生される。
これは仕事だ。
だが、妹の姿が重なる。
守れなかったかもしれない過去と、
いま守れたかもしれない現在。
境界が曖昧になる。
扉が開き、結衣が入ってくる。
目は赤いが、歩いている。
生きている。
「先生」
「うん」
「投げました」
「見てた」
本当は見ていない。
だが確かに、聞いていた。
診察室に座らせる。
今日は保護室ではない。
処方もしない。
ただ、温かいお茶を出す。
「今の点数は」
湊が聞く。
「死にたい度、ゼロから百で」
結衣は少し考える。
「さっきまで八十」
「今は」
「四十くらい」
半分になっている。電話一本で、半分。
湊はふと、怖くなる。
自分が“装置”になっていないか。
彼女の希死念慮を下げる、夜間専用の装置。
それでも。今は、それでいいのかもしれない。
「今日は泊まる?」
「……帰ります」
「理由は」
「投げたから」
窓の外に落ちた十錠。
その音が、今夜の境界線だった。
「分かった。帰宅で」
立ち上がる結衣。
「先生」
「うん」
「参加してる感じ、ちょっと増えました」
湊は頷く。
だが胸の奥のざわつきは消えない。
救えた夜は、安堵よりも先に、
“次はどうなる”という恐怖を連れてくる。
結衣が帰ったあと、診察室で一人になる。
手がわずかに震えている。
医師であることは、鎧だ。
だが鎧の内側は、少しずつ擦れている。
夜明け前。
窓の外が白む。
電話は、もう鳴らない。
それでも湊は、受話器から手を離せずにいた。




