第五話
午前十時半。
結衣は処置室のカーテン越しの光で目を覚ました。
酸素は外れている。点滴だけが細く落ちている。
「……先生」
声は前回より掠れている。
湊はカルテ入力の手を止め、ベッド脇へ移動する。
「分かる?」
「うん」
「今回は多かった」
責める口調ではない。事実だけ。
結衣はしばらく天井を見つめ、それから言った。
「電話、しようと思ったんです」
湊は何も言わない。
「番号も、押しました」
指が、シーツをつまむ。
「でも、コール音が鳴る前に切りました」
「どうして」
少しの沈黙。
彼女は、笑うでも泣くでもない顔で言う。
「昨日、内定取り消しのメールが来たんです」
空気がわずかに止まる。
「理由、“総合的判断”って。面接では普通に笑えてたのに」
大学四年。
春から働くはずだった場所。
「親にはまだ言ってなくて。友達はもう引っ越しの話してて」
呼吸が浅くなる。
「私だけ、急に“なかった人”になったみたいで」
参加していないことにしたい。
あの夜の言葉が重なる。
「電話して、なんて言うんですか」
結衣は湊を見ない。
「“内定なくなったから飲みます”って?」
自嘲が混じる。
「そんな理由で救急って、変じゃないですか」
湊はゆっくり椅子に座る。
「変じゃない」
「でも、死ぬ理由としては弱い」
「死ぬ理由に強い弱いはない」
結衣は初めて視線を向ける。
「じゃあなんで、あの人は死んだんですか」
言葉が刺さる。
同じ夜の、四十六歳男性。
ニュースにもならない一人。
「私より、ちゃんとした理由、あったんですか」
湊は数秒、答えない。
理由を比べることはできない。
方法の確実さと、絶望の深さは比例しない。
「分からない」
正直に言う。
「分からないけど、あなたは今ここにいる」
結衣の目に、わずかな怒りが灯る。
「それ、運が良かっただけですよね」
「そうだね」
否定しない。
「じゃあ次は?」
問いは、挑発ではない。
純粋な確認だ。
湊は一度、息を吸う。
「次も助ける」
即答だった。
「電話がなくても?」
「なくても」
「約束破ったのに?」
「破られたのは約束で、あなたじゃない」
結衣の表情が、わずかに崩れる。
「内定がなくなったことは、治せない」
湊は続ける。
「でも、飲む前に電話する練習はできる」
「……練習」
「いま、ここで」
結衣は戸惑う。
「仮に、今夜だとする。メールを見た直後。どう言う?」
長い沈黙。
やがて、小さく。
「……消えたくなりました」
「うん」
「ちょっと、多めに飲みそうです」
「うん」
「来てもいいですか」
声が震える。
湊は頷く。
「いいよ」
その二文字で、彼女の目に初めて水が溜まる。
大声ではない。嗚咽でもない。
ただ、静かな涙。
「内定がなくなったくらいで、って思われるのが怖かった」
「ここでは、理由の大小は関係ない」
外では違う。
だか、少なくともここでは。
点滴が、一定の速度で落ちている。
昨夜、戻らなかった心拍と、
いま戻っている鼓動。
違いは、ほんの紙一枚かもしれない。
紙一枚でも、
挟み続けるしかないのだと。




