第30話:戻る理由が、もう誰にも説明できない
第30話:戻る理由が、もう誰にも説明できない
王城の応接室は、
その日、妙に広く感じられた。
豪奢な調度品も、
整えられた花も、
すべてが「整いすぎて」いる。
エリザベート・フォン・ローゼンクロイツは、
扉の前で一度だけ足を止めた。
(……説得)
(ええ、分かっていますわ)
(婚約を破棄した私を、
“元の場所”に戻すための)
自嘲気味に息を吐き、
彼女は中へ入った。
⸻
そこにいたのは、
アレクシス王太子ひとりだった。
護衛も、側近もいない。
それだけで、
この場が「公」ではなく
「決定の場」だと分かる。
「……来てくれてありがとう」
殿下は、
珍しく柔らかい声で言った。
エリザベートは、
一礼だけして椅子に座る。
「ご用件は、
お断りしたはずですわ」
「知っている」
「だが――」
殿下は、
言葉を探すように
少し視線を落とした。
「それでも、
話さなければならなくなった」
⸻
沈黙。
先に破ったのは、
エリザベートだった。
「……安心なさってくださいまし」
「私は、
戻るつもりはありませんわ」
殿下は、
小さく笑った。
「そう言うと思った」
「ですが」
彼は、
机の上に一枚の書類を置いた。
「これは、
評議会からの正式文書だ」
エリザベートは、
それを見て、
一瞬だけ眉を寄せた。
「……推薦?」
「正確には、
“確認”だ」
「君が、
再びこの場所に立つ意思があるかどうか」
エリザベートは、
思わず声を上げた。
「ありませんわ!」
即答だった。
「私は、
王妃に向いておりません」
「そのために、
婚約も破棄しました」
殿下は、
頷いた。
「分かっている」
「だからこそ、
この文書が出た」
エリザベートは、
言葉を失った。
⸻
「……理解できませんわ」
「逃げましたのよ?」
「責任から、
身分から、
この場所から」
彼女は、
きっぱりと言う。
「それを、
なぜ“覚悟”だと
受け取るのですか」
殿下は、
しばらく黙っていた。
そして、
ゆっくりと答える。
「逃げられる立場で、
逃げたからだ」
「多くの者は、
逃げられない」
「君は、
逃げられた」
「それでも、
国は崩れなかった」
「むしろ、
落ち着いた」
エリザベートは、
唇を噛んだ。
(……最悪ですわ)
⸻
「君がいなくても、
国は回る」
殿下は、
そう前置きしてから続けた。
「だが」
「君がいないと、
“判断”が遅れる」
「誰かが嫌われ役を
引き受ける必要がある」
「その役を、
自然に引き受けていたのが
君だった」
エリザベートは、
小さく笑った。
「……嫌われ役、
ですものね」
「ええ」
「完璧に」
二人の間に、
奇妙な一致が生まれる。
⸻
「だから」
殿下は、
まっすぐ彼女を見る。
「戻ってほしい、
という話ではない」
「もう、
戻っている、
という確認だ」
エリザベートは、
息を呑んだ。
「……そんな」
「勝手ですわ」
「悪役令嬢に、
選択権はないと
仰るの?」
殿下は、
少し困ったように笑った。
「ある」
「だから、
今日も“確認”だ」
「拒否も、
書面で受け取る」
「だが――」
言葉を切り、
静かに告げる。
「拒否されても、
評価は下がらない」
完全に、
逃げ道が消えた。
⸻
応接室を出たあと。
エリザベートは、
長い廊下を歩きながら、
ぽつりと呟いた。
「……戻らないつもりで、
ここまで来ましたのに」
視線の先に、
王城の中庭が見える。
懐かしくも、
忌々しい場所。
彼女は、
小さく拳を握った。
「なぜ……」
答えは、
誰も教えてくれない。
けれど。
この場所は、
確実に、
彼女を“待っている”。
⸻
その夜。
王城では、
新たな言葉が使われ始めた。
「王妃候補・再確認」
それは、
決定ではない。
だが、
否定もできない。
エリザベート・フォン・ローゼンクロイツは、
今日もまた一歩、
“戻る”方向へ進められていた。
本人の意思とは、
無関係に。
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