火星人が見る夢
〈ナギ、海を見下ろす丘で〉
季節は春。草花が咲き乱れ、その匂いにわたしは嬉しくなって緑の丘を走り回る。少し湿気を含んだ空気を思いっきり吸い上げ、向こうに見える海に向かって言葉にならない声で叫ぶのだ。
あれ?
火星の都市では季節なんてない。
貴重な草花を踏んで走るなんてとんでもない。
それに海なんて境界の世界での再現以外にあるはずもない。
もしかしてこれは夢?
それも地球の夢だ!
せっかくなら堪能しよう。そうしよう。
だって本物を体験できるんだ。
「嬢ちゃん、どこからきなさった?」
この夢は明晰夢というやつだろうか?
聞き取れる声も光景もやたらはっきりとしている。
腰をかがめたお爺ちゃんがゆっくりと丘を登ってきて、岩の上に腰を下ろした。
「お爺ちゃん、ここって地球?」
「嬢ちゃんがそう思うのなら、きっとそうなんじゃろう」
「だよね、夢なんだもん。わたしの思い通りになるはずだよね」
「ほっほっほ、なら嬢ちゃんは何を願うのかね」
「ふっふっふ、そんなの決まってるわ。この丘を思いっきり走るって!」
わたしはウォーミングアップをしながら、足元の小道を海の方へたどりコースを確認した。岬や砂浜、波など地球の記録で見た光景が広がっている事にワクワクする。でもちょっと寂しい感じがするのは人の気配がない事だろうか。ここには丘の下の方に崩れそうな小さな家があるだけなのだ。
「お爺ちゃん、あそこに住んでいるの?」
「そうじゃよ。もう住んで八十年になるかのう。若い者は出て行って、数人の年寄りだけでゆっくり過ごしておるよ」
「ふーん、でもここはとっても綺麗だけどさ、寂しかったり退屈したりしないの?」
お爺ちゃんはからからと笑って、ゆっくりと首を左右に振った。
「ひ孫たちに手紙を書くので忙しいくらいさ。それにちゃんと仕事もしておるでな」
「仕事?」
「迷子を家に送り届けるという仕事だよ。ほら、はやく夢から覚めないと学校に遅刻してしまうぞ」
……夢で学校という現実を叩きつけられ、わたしは肩を落とす。
でもまだだ、せめて一走りしてからでないともったいない。砂浜に向けて、小道を勢いよく駆け出した。
「うーん、気持ちいい! よしあとはあの砂浜をつっきって海に――」
でも砂に足を踏み入れた瞬間、ずぼっと沈んで盛大に転んでしまう。授業で使った地球の記録の教科書め、砂浜がスポンジみたいな感触ならちゃんとそう書いていて欲しい。でも体にかかる重力が心地よく、仰向けになって青空を見ながらお爺ちゃんのまねをしてからからと笑う。
「満足した! お爺ちゃん、わたし、そろそろ起きるね」
「では送ろうか。良い目覚めには、良い歌だな」
お爺ちゃんがよく通る低い声で歌いだす。それは月面では聞いたこともない、何か強い想いを持った歌だった。
野花の上の露のような
夏にそよぐ風のような
美しいあなたの声よ
そう、それは僕のすべて
愛しいあなたのためなら
私はこの命を捧げよう
いや、わたしはどこかで似た歌を聞いたことがある。
「お爺ちゃん、これってアトランティスの歌? ちょ、ちょっとまって、わたしその歌を、恋を研究しているの」
「そうかい、それは良い研究だ。次に会う時には儂の恋話でも聞かせてあげようかの」
「お爺ちゃんは恋をしたことがあるんだ! なら――」
わたしは立ち上がり、そして砂浜に足を取られてもう一度倒れてしまった。ちょうど強い波がきてもろに頭から突っ込んでしまう。
しまった、たしか海ってしょっぱいんだっけ。
あれ、でも甘いってどういうこと?
まったく、わたしの夢もいい加減だな――。
「ナギ、起きなさいっ。遅刻するわよ!」
目を覚ませば、寮の隣部屋にいるはずのカオリがあきれ顔で立っていた。学校へ行く身支度を済ませている辺り、もしかしてこれは緊急事態なのかもしれない。
「……いま何時」
カオリは窓を開け、もう朝日とはいいづらい人工太陽を指し示す。絶望で枕に倒れ込んだわたしに、学校の鐘が始業開始十分前の宣告を突きつけた。
学校の敷地内の寮だけに、身支度とか、自尊心とか、何か大事なものを投げ捨てれば間に合うはずだ。急いで着替えようとした時、寝汗なのだろうか、やたらぐっしょりとして気持ちが悪いことに気付く。その時、何か悪い連想をしてしまった。
寝汗?
海に飛び込む夢?
ぐっしょり?
大丈夫、だってシーツはこんなにもさらさらして……いない。
「カ、カオリは先に学校へ行って」
「いいのよ、親友と一緒に遅刻する覚悟はできてる」
「……身支度もあるし。プライベートなことだってあるんだから」
そういってわたしは ごそごそと掛け布団を引き寄せ、寝ぐせや衣服の乱れを整えるふりをする。
「いつも寝ぐせのままで学校に来るのに、何を今さら」
「そ、それはそろそろしっかりしないと、って思ってさ」
「おねしょをする十六歳なんてまだまだ子供です」
「ちょ……し、知ってたの!」
カオリは笑って、少し水が入ったコップを見せつけた。
「なかなか起きないから、目覚ましに薔薇蜜水をかけたのよ。どう、眠気なんてすっとんだでしょう?」
「カーオーリー……」
「や、やーね、ナギったら。ただのお茶目じゃない。それにあなたが喜びそうな、いいニュースを持ってきたんだから」
「いいニュースって、もうどうでもいいわ」
始業を開始する鐘が鳴り、すでに遅刻を受け入れたわたしにはやる気なんてない。
「突然、評議会のお偉いさんが学校を訪問することになって、職員室はてんやわんや。出迎えの準備や会議などで午前は休講よ。よかったわね、これで授業は遅刻じゃないわ」
「え、でも鐘が鳴って――」
カオリは腕輪にタップして、境界の世界上に音楽アプリを表示し、鐘の音を再生し始める。……何のことはない、全ての元凶はこいつだったということだ。仕返しとばかりにプロレス技をかけ、ドタバタと朝の運動をしているうちにあることに気づく。
「そういや、なんで評議会が市庁舎でなく、わざわざ学校にくるの? あいつら空の上での会議ごっこしかしないのに」
「何でも地球から久々に指令が来たらしいわ」
「地球から指令何て数年ぶりじゃない? でもそれこそ学校とは関係ないし」
「ある学生の研究を支援しろって。かわいそうに、その子はこれから大忙しよ」
「ま、その子のおかげで朝寝ができるんだから感謝、感謝」
その時、カオリの腕輪が光り、境界の世界にコール画面が表示される。怖い校長先生が表示され、これまた怖い口調でカオリに文句を言う。
「カオリ君、まだナギ君を連れてこれないのかね。先方は待ってらっしゃるんだぞ」
「残念ながら、当の本人はいまだパジャマです。急ぎ着替えさせますのでお待ちください。ええ、私のせいではありませんので、そこはお間違いなく」
ん? 何がどうしてどうなったんだ?
ちょっと、カオリさん、なんで愉快そうな顔をしているの?
「そうそう、悪い方のニュースもあるんだった。休講にはなったけど、あなたと私は評議会の偉いさんとお話をしなければいけないの」
「え、わたしが? それって何時に?」
「そうね、あなたが私にスピニング・レッグロックをかけていたあたりかしら」
休講で喜ぶ朝の学生寮に、わたしの悲鳴が響き渡った。
《老人、浜辺にて》
「しもた、海水対策はしていないんだがのう。これではみんなに怒られてしまうわい」
老人は大きな人形のようなものをゆっくりと砂浜から引き揚げている。だが寄る年波のせいか、息は荒く、腰は悲鳴を上げていた。一人では無理だとため息をつき、同僚を呼ぶべく近くの古い公衆電話ボックスに向かう。ぼやきつつ受話器を取り、ダイヤルを回していく老人だが、しかしその表情は彼にしてはめずらしく笑顔を浮かべている。それは声にも表れていたのか、電話に出た相手も奇異に思ったらしい。
「ゴールウェイ、レイモア観測所だ……っとなんだ、お前さんか。やけに嬉しそうな声をあげているじゃないか」
「儂らの手紙のことじゃがな、迷子の子が知っておった。ちゃんと届いておったんじゃ」
「本当か、これはみんな喜ぶぞ。いったいどんな子が迷子に来たんだ?」
「それは観測所でゆっくり話すわい。それより義体の回収に何人か来てくれんか」
老人はそれが海水まみれになったことをあえて話さず、同僚に救援を求める。怒られるのは間違いないが、それ以上に土産話に夢中になってくれるだろう。老人は受話器を置いて、あの子がいた浜辺を暫し眺める。
「恋の研究か。そうだ、若い者はあの情熱に身を焦がさなければいかん。熱が強ければ強い程、人は強くも優しくもなれるのだから」
そして老人は歌い始める。
古い古い歌を、空の上の子供達に伝えるために。