プロローグ
火星に都市を建設してから百年、人類は生活圏の拡大と共にある感情を失った。それは科学技術の進歩を考えれば、失われてもさして問題がない感情でもあった。人は火星でも食事をし、運動もでき、学び、働くことができる。それに子供も人工子宮を用いればリスクなく出生でき、人口減少で悩まされることもない。恋という感情がなくても人は生きることができるようになったのだ。
――だが、不要なはずのその感情について悩む少女がいたのである。
恋って何だろう?
ベンチに座っている少女――ナギは読んでいた本を閉じ、形のいい眉をひそめて考え込んだ。
地球の記録によると、女性としての肉体を持つ自分にとって恋とは白いウマに乗った王子様が迎えに来てくれることらしい。あるいはなぜか壁に手をつかれ、自分の行動を制限されるものらしい。そして肉体にではなく精神に熱病が現れ、酒に酔ったような不可解な行動をするのだという。
「……まったくわかんないや」
地球に住んでいる人の感覚を疑うが、彼女はそれを振り払うように決意を込めて呟く。
「あきらめるもんか。研究に研究を重ねて絶対に恋をするんだから」
そして勢いよくベンチから立ち上がると、本を置きっぱなしにして駅前のカフェを目指して立ち去った。
しばらくの後、様子を窺っていた一人の少年がベンチに立ち寄り、ナギの後ろ姿をしばし眺めてからその本を手に取って読み始める。パラパラとページをめくり、その内容の時代錯誤のひどさにため息をつく。それでもあの少女がこれを望むのであれば、そしてこの星の人達が恋をするようになるのであればと、ある決心をしたのである。そして本をやや乱暴に指でなぞると、空中で溶けるように消え去った。資源が少ないこの星では、節約のために住人は出生時に脳と感覚器官に手術を行う。リアルとデジタルが融合する境界の世界と呼ばれる新しい知覚を手に入れた人類は、服や本、街路樹やさえずる鳥などもデジタルで表現するようになったのである。
「――結局、この星では全てが嘘っぱちか」
少年はそう毒づくと、境界の世界にて服の表示を変え、慣れない化粧を始めたのであった。