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分配

作者: 雉白書屋

 ――コン、コロ……。


「あの、これだけですか……?」


 とある会場。天井の高い無機質な空間に、大勢の人々が列を成していた。皆、器を抱え、黙って順番を待っている。その列の先頭に立つ中年の女性が、プラスチックのバケツの中に落とされた小さな欠片を見つめ、弱々しい声でそう訊ねた。


「それだけですけど、何か?」


 係員はぶっきらぼうに返した。目の下に深く刻まれた隈、土気色の肌に無精ひげ。口調も態度も、到底健全とは言えなかった。


「あの、でも、これだけなんて……」


「あのねえ……」


 女性がなおもか細く言葉を継ぐと、係員はうんざりしたように深いため息を吐いた。


「最初からお知らせしてありましたよね? 全員分はないんですよ。後ろを見てください。まだあんなに並んでいるじゃないですか。 あなただけにねえ、多く渡したら他の人に行き渡らなくなるでしょう。わかりますよね? それなのに、そんな大きなバケツなんて持ってきて。その中いっぱいに入れたら、他の人の分がなくなってしまいますよ。ええ、なくなりますよ」


 抑揚の少ないトーンだったが、ねっとりとまとわりつくような執拗さがあった。中年女性は何も言い返せず、今にも泣き出しそうに顔をくしゃっと歪めながら、バケツをぎゅっと胸に抱えて列を離れた。


「次の方、どうぞー」


「あー……君ねえ、もう少し言い方ってもんがあるだろう」


 次に進み出た中年の男が、くぐもった低い声で言った。


「はい?」


「さっきの女性のことだよ。あんな冷たい言い方をしなくてもいいじゃないか。仮にも我々はね――」


「すみません、ちょっとよく聞こえなかったんですけど、なんですか? 辞退されるということですか?」


「い、いや、それは……その……」


 男はたじろぎ、しどろもどろになりながら、小さな壺を差し出した。


「はい、どうぞ」


 カラン――乾いた音が壺の中に響いた。


「あの、もう少し……」


「はい?」


「あ、ああ、いえいえ、なんでもないです……」


 男は視線を逸らし、壺を抱えてそそくさと列を外れた。そのやりとりを見ていた後ろの六人は、あきらめたように頭を垂れ、黙って器を差し出し、小さな欠片を受け取って列を離れていった。

 次に前に進み出たのは、恰幅のいい老人だった。彼は周囲を気にするように辺りを見渡し、係員に顔を寄せて、声を潜めた。


「あの……少しだけ、少しだけでいいんだ。多めにいただけないかね?」


 係員がじろりと睨むと、老人は口元を引きつらせ、慌てて言い足した。


「あ、いや、違うんだよ。ほら、あの……もちろん、ただとは言わないよ」


 老人は懐からそっと数枚の紙幣を取り出し、手のひらで包み隠すように差し出した。係員はふっと息をついた。


「さっき、唾が飛んだんですけど」


「え……? あ、それは、その……申し訳ない。でもね、どうしても娘の分をね、この器にもっと……」


「はい、どうぞ。次の方ー!」


 係員が声を張り上げた。老人はびくっと肩を跳ねさせ、背中を丸めて人目を避けるように、足早にその場を離れていった。

 その後も、金で買おうとした者が数名いたが、係員が首を縦に振ることはなかった。色目を使う若い女、泣き落としを試みる老婆、やぶれかぶれに訴える男。誰に対しても、係員は粛々と対応を続けた。

 彼はただ“それ”を切り分け、機械のように配った。しかし、最後の一人の番が来る頃には、それはもはや、爪の隙間に詰まった垢ほどしか残っていなかった。


「あの……これだけですか……」


 最期の男は、喉を締めつけられたような、かすれ声で呟いた。係員は一瞬だけ表情を曇らせた。今回はさすがに、少なすぎたと自覚していたのかもしれない。


「……それだけです」


「でも、もう少し……妻の……妻の分を……ううう……」


 しゃがれた声とともに、嗚咽が滲んだ。

 係員の胸に、わずかな同情が芽生えた。だが、態度を崩すわけにはいかなかった。会場にはまだ多くの人間が残っている。今ここで優しい言葉でもかければ、瞬時に攻守は逆転し、秩序は崩壊する。群衆は牙を剥き、押し寄せてくるだろう。

 家族を失った悲しみは本物なのだ。そして、それに付随する怒りも――。


 あるとき、事故が起きた。

 観光用の潜水艇が、乗客を乗せたまま海底で圧壊したのだ。

 船体に穴が開き、内圧に耐え切れず、わずか数秒で潰れた。回収されたのは人ひとりも収まらない、無惨に歪んだ金属の塊。面影はどこにもなかった。

 事故発覚と同時に、遺族たちは激昂した。彼らはツアー会社の社屋に石を投げ、果ては火を放った。社長や従業員たちの自宅を襲撃し、金品を強奪。嫌がらせはその親族にまで及び、家の壁にはスプレーで罵詈雑言が殴り書きされ、脅迫電話は昼夜問わず鳴り続けた。

 港にはテントやブルーシートを敷き詰められ、追悼のカラオケ大会を開かれた。船体の回収に当たった海上保安庁の職員にさえも罵声と暴行を浴びせたが、それでも世論は遺族の側に立った。

 悲劇の被害者。理不尽な事故に愛する人を奪われた人々。そう信じられていた。


 しかし――ある映像がすべてを変えた。


 奇跡的に見つかった艇内カメラの記録。そこに映っていたのは、乗客たちの傍若無人な振る舞いだった。

 乗客たちは禁じられていたにもかかわらず、酒を密かに持ち込んで酒盛りを始めた。女性添乗員が注意すると、執拗なセクハラで応じた。備品を盗み、叫んで窓を叩き、ツアーの目当てである沈没船が見えると陰部をガラスに擦りつけ、大笑い。

  ついには操縦室の扉を破壊して突入。操縦士を引きずり出して椅子に叩きつけ、ふざけ半分に操縦を始めた。そして、艇は制御を失い、さらに深く、深くへ――。


 映像の公開により、世論は一転。怒りと軽蔑は乗客たちへ向けられ、同情はツアー会社の職員たちげと流れた。

 遺族は瞬く間に愚かさの象徴へと貶められた。馬鹿の遺伝子、恥の大山、胴とつながった晒し首と蔑まれた。

 遺族たちの声はあっという間に小さくなり、そして今日、遺体の返還が始まると、かつての勢いは影を潜め、伏し目がちに列を作ったのだった。


 だが今、彼らは潮目の変化を敏感に察知し、一歩ずつ前に出た。この返還の場こそが、最後の逆転の場。亡き者の名のもと、自らをもう一度“被害者”として掲げようとしていた。

 係員もまた空気の変化を察知し、椅子から立ち上がった。

 遺族たちがにじり寄る。その顔には怒りと、勝利を確信したような笑みが交互に浮かんでいた。


 そして次の瞬間、係員が足元の紙袋から素早く何かを引き抜いた。折り畳まれたそれを空中に放ち、勢いよく広げる。

 遺族たちの動きが、ぴたりと止まった。

 震える指で掲げられたそれは――横断幕であった。


 白地の布に印刷されていたのは、沈没した潜水艇の乗務員たち。襲撃で命を落とした会社の同僚。そして誹謗中傷に耐えかね命を絶った、係員の母親の優しい笑顔だった。

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