タイトル未定2025/06/29 10:04
短編です、最後までお付き合いいただければうれしいです。
…それならば放っておいてくださいませ。
何度目か分からない溜息を小さく吐いた。近くで座っている婚約者ヴァセラン公爵家嫡男エルネストは、私と目を合わそうともしない。
ヴァセラン公爵家とシェロン侯爵家、互いの強化を目的とした婚約は、彼が8歳、私が5歳の時に結ばれ、先日10年を迎えた。出会いこそ良かった、そう思っていたけれど、現状を鑑みればブランシュの独り善がりだったと分かる。その証拠に彼との距離は縮まらないまま、節目節目に贈られた誕生日の品や手紙といったものは、直接会って渡される事は無かった。更に、とある理由から全て私の手元には残ってすら無い。彼もそれを知っていたはずなのに。
両親の関心は妹のエステルが生まれた時から、彼女の事で埋め尽くされている。薄紅色の髪に紅色の瞳をした花の精にも似た可憐な容姿で誰からも好かれているエステル。比べて色味のない白い髪に紫色で印象に残らない私はブランシュ、シェロン侯爵家の長女だ。父と母二人の話題は現在、エステルの将来一色だ。どうやら妹には想いを寄せている人が居るようだと知り、侯爵夫妻は誰なのだろうと零す。
揃いも揃って節穴だらけの目だ。
婚約者同士の茶会だというのに、エステルはエルネストと向かい合う席を陣取り、私といえは斜向かい。婚約者も私には見せない朗らかな笑顔をエステルへ向けている。今日だけで無く、毎回この状況だ。
「エステル嬢、そのドレスは…」
届いたその日に妹に盗られたドレス。彼からの贈り物が手元に残らない理由とは、この通り実の妹が原因だ。一度の例外も無く、彼からの贈り物は全て妹が奪っていく。誰にも咎められず、寧ろ正しい事だと侯爵家では認識されている程だ。
そう、今回もこんな事を言いながら。
「お姉様より私の方が似合うもの。お義兄様は趣味が良いわ。今回も素敵ね」
「流石に袖を通す前に渡すのは、公爵家に対しても失礼になるわ。せめて一度はエルネスト様の前で着用した姿をお見せしなくては。もう暫く待って頂戴」
すると父は目を三角に釣り上げた。
「お前はまた何かいただくのだから、それくらい妹に譲ったらどうだ」
「良かったわね、エステル。さぁ着てらっしゃい」
贈られる前提とは侯爵家当主も図々しい。母は既に妹の物として話を進めている。誰もこの異常さに気づかない。
…そんな昨日の事が脳裏を掠めつつ、目の前の情景を他人事の様にぼんやりと眺めた。贈ってすぐだったからか、流石に彼も自分が選んだ物だと気付いたのだ。
「お姉様が要らないからといただいたのですが…。如何でしょう」
ドレスを摘まみクルリと回転するエステル。食い入るように見入っているエルネスト。これもまた見慣れた日常風景。
「…あぁ、そう、か。…似合っている」
「ありがとうございます!お義兄さまからの贈り物ですもの。お姉様とは違って大切にしますわ」
妹の想い人は私の婚約者で、彼もまた妹を好いているのは明白だ。
私だって彼を慕っていたのだけど。初めての顔合わせで、彼から貰ったあの言葉。
「婚約者が君で良かった」
さらりと揺れる黒髪と翠の瞳を輝かせながらそう呟いた。きっと本人は特に深く考えず、社交辞令を言っただけなのだとしても。当時、既に両親の、いや侯爵家の関心は妹だけで、いつも私は独りぼっち。だからとても嬉しかった。飾り気のない、けれど偽りもない真っすぐな言葉が。
その日から、あの翠の瞳に映るのは私でありたいという願いも空しく、彼はいつでも私に対して無関心だった。
見つめれば視線を背けられ、話しかけても「あぁ」と短い返事だけ。最初の言葉は気まぐれだったのだと知らしめるべく、態度で拒絶された。
そんな矢先に彼は妹と出会ってしまう。運命とは華やかに見えて時に残酷だ。美しく儚げなエステルがエルネストの心の隙間にぴたりと嵌ったようだった。初めて妹を見た彼は瞬きもせず、食い入るように見つめていた。それに応えるように妹もまた婚約者を見つめ微笑んだ。人と人が心を奪われる瞬間を目にした事に、私の心もざわついた。
それでも頑張って彼の隣りに相応しいように努力した。彼の家で女主人としての手腕を叩き込まれ、社交界で立ち回れるようにと貴族社会における暗い陰の部分にも触れた。
一般的な教育に加えて、色々な事を教わった。
一方、妹は蝶よ花よと大切に大切に包まれるように育てられていた。第一子である私が外へ嫁ぐと決まったのも、両親がエステルと離れたくなかったから。興味のない第一子を外に出し、可愛いエステルを嫡子にした。侯爵家を継ぐ妹は「難しい事は旦那様にやって貰えばいい」と提案し、驚く事に両親も賛成したのだった。
もうすぐ妹の誕生日を迎える。同時にエステルの想い人を婚約者に据えるのだと噂に聞いた。エステルが成人するのを見計らって、エルネストの婚約者を私からエステルへと入れ替えるに違いない。
エルネストは公爵家の嫡子な為、相手をエステルに変え我が家に入るのは物理的に不可能。となると妹が公爵家へ嫁ぎ、生まれた子がこちらの侯爵家を継げば良い。そう両親が話していたのを偶然聞いたのだから間違いなく実行されるのだろう。
私の身につけたものは、きっと無意味になる。膨らむ虚無感と同時に、ほっとしている自分も居た。実る事の無い初恋に区切りを付けられる、と。けれど、いつまでも此の家に居座るのも針の筵だ。
普段から教会での奉仕活動に力を入れていたのは、自立する術を学ぶ目的もあった。こう考えると人の為と言いながら己を最優先に考えている辺り、この侯爵家の血筋を受け継いでいるのだと苦笑する。
お陰で簡単な調理に洗濯、繕い物だって熟せるようになっていた。
妹が飽きたと言って投げて寄越したドレスや宝飾品は、有り難く頂戴して金子に変えた。貴族で無くなった時の為に、自分の名前で預けてある。
妹の誕生日、日付けが変わった頃に出て行こうと思う。侯爵家の記念日に妹と家族へ、そして彼には人生で最高の贈り物をする事が出来る。
◇
「お姉様~、どうかしら?お兄様からいただいた髪飾り、似合うでしょう?」
返事も待たず、いきなり姉の部屋へエステルが入室するのは、いつもの風景だったが今日だけは何かが違うと感じた。
ブランシュの定位置である、窓際にある簡素な机と椅子。そこで小難しい本を読んで勉強しているはずの姉が見当たらない。部屋中を見渡すと、寝台に目を留めた。こんもりとした膨らみは、頭からすっぽりと毛布にくるまっている姉だ。
クスリと笑みが漏れる。本当に惨めなお姉様。仕方ないから寝かせておいてあげよう。拗ねて私達の関心を引こうとは、甘え下手なだけあって実に幼いやり方だ。
「具合が悪いと伝えておいてあげる。でも夜には起きてくれなくては。お父様からお話があるわ。大事な…ね!」
そう言いながら気分良く部屋を出た。さぁ、今からピカピカに磨いて、お義兄様…いえ、エルネストがくれたドレスを着なくちゃ。最高に幸せな誕生日を過ごすの!
夜になってもブランシュの具合は良くならず、部屋から出て来なかった。
こうしてエステルの誕生会はブランシュ不在のまま行われた。
姉は体調不良で欠席だと伝えたのに、エルネストは執拗にブランシュとの面会を申し出た。寝込んでいる為、夜着のまま人と会う事は憚られる、婚姻前にその様な姿を見せる訳にはいかないと語気を強めれば、不満そうにしながらも引き下がっていった。
しかし、その後もエルネストから色々とブランシュについて問い詰められ、エステルはうんざりする事となる。もっと違う話をしましょうと提案しても何時の間にか躱されていた。
結局、当事者の姉が居ないのに婚約者の変更という発表はされなかった。否、出来なかった。そんな事をすれば、たちまち変な噂をされるに違いない。
あくまでも表向きは姉の同意の下であり、関係者全てが祝福しているのだと世間に知らしめなければならないのだから。
今日の所は付き添いを頼んだお義兄様との仲睦まじい様子を見せつけるだけにしておこう。
無言のまま差し出された手を取りながら、彼も照れているのだと微笑ましく感じ、初心な反応に思わず笑ってしまった。
それから態と躓き、支えようと差し出された手を押し退け、その奥にあるエルネストの胸へと飛び込んだ。
来客の人々からは「あらあら」「あの二人はもしかして…」といった声や、柔らかな笑顔を向けられ、気を良くしたエステルは更に身体を寄せて、エルネストの逞しい腕に抱きついた。
「仲のよろしい事」
背後から聞こえた凛とした声は、祝福の言葉だとこの時のエステルは思っていた。
◇◇◇
件の義妹を最初見た時、エルネストは気付いた。言葉巧みにブランシュを蔑ろにしている女なのだと。この忌々しい女はブランシュと会う時、何故か必ず居る。鈍い私でも、この妹からの好意には気づいていた。いや、好意なんて生易しいものではない。あれは呪いだ。あの仄暗い魔力は、劣等感からくるもの。白くて昏い影がベッタリと女に纏わりついているのがハッキリと分かった。しかも彼女の両親達もそれに倣っているようだった。
あの程度の魔量では従える者も限られている。だが、普通の人間では太刀打ちできないのも事実。義妹を取り巻く白い靄の一部が、両親に纏わりつき彼等を操っているのも見えた。魔力の少ない者は、より影響を受け傀儡となってしまうからだと頷けた。
侯爵家に安全な場所はない。ブランシュは侯爵家で四面楚歌状態に苦しんでいた。
だから女主人の教育と銘打って、なるべくブランシュが公爵家へ来なければならない様に手を回した。
ブランシュを見ていると自分の邪な気持ちが首を擡げる。彼女の清らかさと真逆にある昏いものを自覚すると、これではいけないと自分を律した。
ある意味、かの妹と私は似ているのかもしれない。同族嫌悪というやつなのか、あれに対して関心は微塵も無いが。
それでも出会う度にブランシュを閉じ込めておきたい衝動に駆られる。でもまだだ。彼女が16歳になり成人するまでは我慢するしかない。成人してしまえば、彼女の同意だけで我が公爵家へ嫁いでもらえる。必要なら彼女の実家であるシェロン侯爵家と縁を切ってしまうのも良い。こちらの親戚筋にどこかにでも養子縁組してもらうなど、手段は幾らでもある。
あと二日後に、彼女は誕生日を迎える。そうすれば漸くこの手に掻き抱けるのだから。彼女も私もよくここまで我慢したと思う。
何人たりとも邪魔はさせない。
そう思っていたのに。
何の前触れも無く、ブランシュが私の前から居なくなった。
◇◇◇
(まぶしい…)
窓から入って来た日の光を浴びて体を起こした。自然に目が覚めるまで寝てしまうだなんて、何時ぶりだろうか。
早朝から夕食の時間まで、みっちり侯爵家を継ぐべく教育を受けていた。婚約してからは公爵家へ場所を変えて行われた。少し空き時間があったとしても、エステルが何かとちょっかいを出してくるので、騒動に巻き込まれていた。ゆっくり本を読みたいとか、刺繍に集中したいというのは許されてこなかった。
昨日はエステルの誕生日だったから、シェロン家は慌ただしかった。廊下に花が足りないだの、ケーキに使う果物に桃も追加したいだのとエステルが注文を付けていたらしい。奇しくもブランシュの誕生日はエステルの誕生日の翌日、つまり今日だが、家族で祝われた記憶は無かった。足早に動き回る侍女達の愚痴を尻目に、ブランシェは十六年弱過ごしてきた家を後にした。
何処からって?勿論、正面の玄関から。誰にも気付かれず、引き留められる事もなく堂々と出て行ったのだ。何なら最後に振り返り、これまで育ててくれた礼にと頭まで下げてきたほどだ。
でも誰も引き留めない。否、気付きもしないのだ。何故ならブランシュの持つ魔力量は凄まじく、大体の事は実現できてしまう。今回は姿を眩まし、移動速度を上げただけで容易く目的は達成された。
そして今、王都と辺境の中間からやや隣国寄りにある街で一人暮らしを始めたのだった。シェロン侯爵家から捜索される事はないだろうが、万が一追手が来ても真っ先に調べられるのは王都とその周辺、それから間を飛ばして国境となるに違いない。そこから範囲を広げていくだろうが、後半になれば捜索も荒くなっていくはずだ。国境付近にも居ないなら既に国外へ行ってしまった、そう思うのではとこの地にした。
贅沢をしなければ貯蓄は申し分なくあるが、何もしないのでは、この先不安というもの。そう考えていたブランシュの動きは早く、既に働き先は決まっていた。貴族としての身分を捨てて、いきなり自立した生活に飛び込むのでは身体が追い付かないかもしれない、少し馴染んでからと十日後に町一番の同業組合で事務作業を任される予定だ。読み書きや計算、周辺国の言葉を話せるのを買われての採用だった。
この日に向けて色々準備していた事が全て終わり、気が抜けたのだろう。頑張ったご褒美、いや自分への誕生日の贈り物だから寝坊も悪くはないと言い聞かせつつも起き上がり、手早く身支度をした。
パンとチーズの簡単な食事を摂り、ミルクティを片手に読書にふける。緩やかな時間を噛み締めてしても、時折ふと思い出してしまう。
「エステルに優しくするのは、姉なら当然でしょう」
「エステルに譲ってあげなさい。貴女は他にも色々持っているのだから」
「あぁ、エステルは本当に可愛い。それに比べてあの子ときたら」
「またそんなに厳しいことを言って。可愛いエステルに嫉妬しているのね」
「こんな事も出来ないのか?一体今まで何をしてきたのやら。あぁ、エステルはそんな事しなくていいんだよ」
家族と別れる事に抵抗が無かったと言えば嘘になる。けれどエステルと比べられ蔑ろにされた日々は、ブランシュの心を折るのに十分過ぎた。
エステル、エステル、エステル。この十数年、一生分のエステルを浴びてきた。私はそこまで出来た人間では無い。正直もう懲り懲りなのだ。優しさを妹だけに与えた両親も、全てを当たり前のように享受したエステルも。だから捨ててしまえばいい。彼等の世界から不要なブランシュを。
もう二度と振り回されない、自分の価値を下げるのはもう止めだ。これからの生活に期待を膨らませた。
◇
ラマディエは周辺の街と比べると、農地だけでなく隣国からの旅人が中継地点にしている事もあり、比較的栄えていた。傭兵から便利屋稼業なんでも熟す、所謂冒険者と呼ばれる人々が仕事を求めやって来るのがブランシュが務める同業組合だ。
他国からやって来る者も多い為、様々な国の言葉が交差する。周辺国全ての言語を操るブランシュは出勤初日から実に重宝された。アランブールに入国してきたものの、自国の言葉しか知らない冒険者も多い。腕っぷしが確かな彼等は害獣駆除なんかに最適だから依頼は山のようにある。
仕事の内容確認、道中の案内、報酬の分配など、ブランシュは窓口に来た全ての人へ丁寧に説明した。出身国がバラバラで編成を組んでいた者達ですらも、意思疎通が可能となった。自国語が通じる安心感は相当なものだろう。
休憩時間も削り、帰宅した時はくたくたに疲れていた。でもそれは嫌なものではなく、ブランシュは自分が必要とされていると直に分かり、充実した一日を終えたのだった。
それからは日を追う毎に、目まぐるしく変化していった。
「ブランシュちゃん、今日はもう上がっていいよ」
「まだお茶の時間を過ぎたばかりですけど、宜しいのでしょうか」
「いつも昼休憩だって十分に取れてないだろう?すまないとは思いながら、ついブランシュちゃんに甘えてたからね。今日は人の引きも早いし、問題ないよ」
「ありがとうございます、フィリップさん」
それではと、組合長のフィリップにお辞儀をして職場を後にした。太陽はまだ高く、活気あふれる街並みを照らしている。今日の夕飯は少し凝ったものでも作ろうかと市場に足を向けた。
野菜売りの店主はトマトをおまけしてくれたし、肉屋の奥方は味の感想を聞かせてくれと自家製の燻製肉をわけてくれた。具沢山のスープにしようと考えがまとまった。
こんなにも眩しい日々があるなんて、シェロン家に居る時には想像できなかった。仕事も身の回りの仕度も楽ではないが、その分、生きているのだと実感する。案外自分は適応能力が高いのだなと、思わず笑みを浮かべながら足取り軽く家路についた。
◇◇◇
エステルは晴れやかな気持ちで指示を出していた。
「何て古臭くて地味なのかしら。シェロン侯爵家に相応しくないわ。もうこれは必要ないでしょ?処分して」
飾り気の一切ない小さな机と椅子、寝台に衣装箪笥が部屋から運び出されて行く。それも必要最低限しかない為、あっという間に何もない空間が出来上がった。
「こうして見ても狭い部屋ね。物置にもならないわ」
独り言ちながらエステルは周りを見渡した。
日に焼けて色褪せた壁紙は所々傷つき、端は剥がれている。絨毯の毛足は摩耗し潰れていて長い年月使用されていたのが窺える。
ここの住人である姉が居なくなった。
手紙が残されていた。今までの感謝が一言と、成人するのを境に自らの意思でシェロン家から抜ける、事前に申請も済んでいるから誕生日を迎えれば自動的に平民になると書かれていた。
不器用過ぎて、いっそ不憫にすら思えてくる。きっと探して欲しいのだろうけど、そんな事は絶対にさせない。漸く邪魔な姉がブランシュが居なくなったのだから。
ブランシュだけはエステルを、お姫様扱いしなかった。常に正論でエステルの心を抉っていくのが許せなくて。妹を甘やかすのが姉として当然の務めなのに。
だから徹底的に蔑ろにしてやった。両親や使用人、ブランシュの友人もエステルが涙ながらに訴えれば、すぐさまブランシュが悪いと言ってくれた。
周りに誰も居なくなったのに、ブランシュは涙一つ見せない。それもまた頭にきた。
そんな中、ブランシュが表情を変える瞬間を見つけた。それは婚約者のエルネストと一緒に居る時だ。
だから奪ってやろうと思ったのだ。エルネストは非常に美しい男だったから、エステルの隣に置いてやってもいいと感じたのもあるけれど。
姉が居なくなった今、婚約者をブランシュからエステルに入れ替えるように、お父様を急がせないと。エルネストも喜ぶだろう。
「お父様!お母様!お願いがありますわ!」
「何だエステル、上機嫌じゃないか」
笑顔で返す父につられて、横に居る母も微笑んだ。
「あらあら、エステルが笑顔だと私も嬉しいわ」
「家族三人水入らずで今後の侯爵家の事を相談いたしましょう!」
ブランシュという姉の存在は初めからなかったようだ。エステルは思い通りの未来が広がっていくのを感じた。
◇
「どうしてよ!シェロン家の娘なら私でいいはずじゃない!」
エステルの悲鳴にも似た叫び声を背に、エルネストは振り返る素振りも見せない。
「私はブランシュ嬢以外、ヴァセラン公爵家に迎えるつもりはありません。彼女の代わりなど居はしないのですから」
「だから私が!お姉様より美しい私が貴方を選ぶと言っているのよ」
「…話にならない。小公爵である私に対して侯爵令嬢如きが口を慎むがいい。ここまで言っても理解できないとは、第二子の教育に失敗しましたね、シェロン侯爵」
普段のエルネストからは想像もつかないほどの強い語気に、シェロン侯爵であるヴィクトルは何も言い返せなかった。実際、ヴァセラン公爵家に睨まれたら、立場が危うくなるというのもあった。
エステルに至っては、今まで一度も自分を否定しなかったエルネストからの拒絶に、怒りを通り越し口をハクハクとするだけだった。
「縁が無かったのでしょう。エステル嬢との婚約は、そもそも無かったという事で。侯爵家のこれからのご活躍をお祈り申し上げます。それでは失礼」
ふと立ち止まり、くるりとこちらを向いた。今日初めてエステルはエルネストと目が合った。
「今後二度とお会いする事もありません。ささやかな餞別として風を通しておきましょうか。ここは酷く匂いますから」
エルネストは、パチンと指を鳴らした。魔力を圧縮した衝撃が、この家に渦巻く白くて昏い呪いに穴をあけた。エルネスト以外には見えていないようで、不思議そうな顔を向けていたが。
「あぁ、それから汚らわしいものは回収させていただきました。こちらで処分しておきましょう」
そう言う彼の掌には薄く輝く光の珠が浮かんでいた。
次の瞬間、勢いよく握り込みもう一度手を開くと光の珠は砂のように細かくなりサラサラと消えていった。
「真実を目の当たりにして、これまでの愚行を悔いるがいい」
エルネストは二度と振り返る事なく、静かに立ち去った。
◇
「別にエルネストなんてこちらから願い下げだわ。ちょっと顔が良いからといって調子に乗って…。私を選ばなかった事、後悔させてあげるんだから」
誰に言うでもない心情をエステルは独り言ちていた。
鋭く光る眼光だけが、やけに記憶に焼き付いていてエステルは身震いした。
そんなエルネストからの仕打ちを消し去るべく、早めの湯浴みを澄まし三人の侍女を使い髪と肌の手入れをさせる。
忘れかけていたエルネストの言葉を思い出すと、苛立ちも甦ってくる。
「ちょっと!髪を引っ張り過ぎ、痛いじゃない。次やったら辞めてもらうわよ」
誰かに当たらないと気が済まないエステルは、侍女達の粗探しをして喚き散らかした。今までも同じような事はあったが、これが今後の主人としての信頼を損なう行為だとは思いもせずに。
鏡に映る自分の姿を眺めて、小さく頷く。
「こんなに美しいのだから、皆が私を求めるはずだわ。お父様も言ってたじゃない、釣書がたくさん来るだろうって。エルネストなんかより素敵な人なんていくらでも居るもの。そう言えば、隣国の皇太子殿下が妃候補を探していると聞いたわ。確か私より二つ年上だったかしら、ぴったりじゃない!」
明日からきっと釣書の選別が大変ねと心を躍らせながら眠りについた。
◇
「一番いい家格が子爵?そんな下級貴族、相手にする訳が無いでしょう?お父様、全てお断りして!」
いつもならこれだけ言えば何でも言う通りにしてもらえていたはずなのに、今日に限っては違っていた。
「しかしなエステル、お前が希望する優秀な令息は既に婚約者がいる。入り婿として侯爵家を支えてくれる者となると、次男以降が普通なのは分かるだろう。早く決めないとお相手を平民から探す事になるぞ。…隣国の皇太子殿下?何を言っているんだ、そんな尊いお方、お前が嫁ぐ事すらありえない。目を覚ましなさい」
「…エステルったら、こんな事を言う子だったかしら」
言い聞かせようとする父に加勢するべく、隣の母も呆れた表情で小さく呟いた。
こんなにも思う通りにいかないなんて。何かがおかしい、エステルが親指の爪を噛んだ時、慌ただしく家令が入室してきた。
「ご歓談中失礼いたします。領地からの報告で季節外れの暴風雨により川が氾濫、収穫前の小麦に甚大な被害が出たとの事です。急ぎ領地にお戻りいただき指示を仰ぎたいと」
「分かった、直ぐに仕度を。此方の事はシェロン侯爵夫人に任せる。ミラベル頼んだぞ。エステルもミラベルの言う事に従うように」
「承知しました、お任せください。貴方、いってらっしゃいませ」
「…えぇ、お父様」
大急ぎで出ていく侯爵の背中を見送りながら、言い知れぬ不安が侯爵家を包んでいった。
◇
「ライアン商会から手紙が届いただと?あそこの後ろ盾であるケーリオ伯爵家とは良好な関係だったはずだ!使者は他に何か言って無かったのか、ミラベル」
領地内の災害による作物の影響は思った以上に酷く、水に流され使い物にならなくなった物を片付けるのに莫大な費用がかかると判明した。
加えて、今年の冬を過ごすべく食料等の補填を隣接する領地の貴族に縋れば、相手の言い値に近い利息を約束させられた。かなり苦しい経営が続く事が決定し、失望のまま帰宅した侯爵に追い打ちをかけるべく更なる問題が勃発した。
シェロン侯爵家で開発したインクと紙の取引を今後一切停止にするというものだった。
使用する者の魔力を組み合わせて使う事で他人からは見えなくなり、秘密が漏れるのを防げる優れもの。非常に人気が高い商品の独占販売を許していたというのに何が起こったのか。
「…品質の低下を理由とする、そう仰っていたわ」
「管理はどうなっている!これまでこんな事はなかったはずだ」
侯爵夫人だけでなく、家令たちも下を向く。エステルは良く分からずに首を傾げる。
「…あの商品の最終行程はブランシュお嬢様がなさっておられました」
「なっ…!」
シェロン侯爵は驚いたものの、すぐさま思い出す。寧ろ何故忘れていたのだろうと。そもそもあのインクと紙はブランシュが内緒の手紙として父親である自分にくれたものから発想を得た事を。
作り方を聞き、その通りに作成したが、最後の仕上げだけは上手くいかずブランシュに任せていた。彼女が居なくなれば当然、他に出来る者はない。納期だけはやって来る為、恐らくそのまま出荷していたのだろう。
「兎に角、ケーリオ伯爵家へ先触れを。謝罪の申し入れと契約の続行をお願いしなくては」
皆の慌てぶりに経営の事など何も分からないエステルですら、シェロン侯爵家が置かれている状況が良くないのだと理解できた。
◇◇◇
「ブランシュ、待っていて。必ず見つけてみせるから」
シェロン侯爵家を後にしたエルネストは馬車の中から流れていく景色を見ながら、そっと呟いた。
ブランシュが籍を抜いたシェロン侯爵家には最早用は無い。別離宣言をしに来たついでに、あの家に渦巻いていた白く昏い呪いの囲いに穴を開けた。ブランシュの妹でなければ視界の端にすら入れたくないあの女からは、魔力の核から魅了を取り上げ破壊した。今後は碌な魔法が使えないはずだ。単純に腹いせだが、これまでしてきた事を考えれば大いに苦しめばいい。
あいつらが余計な事をしなければ、今頃ブランシュはこの腕の中に居たのだから、その報いは受けるべきだろう。
恐らく一ヶ月もしないうちにシェロン侯爵家は崩壊が始まる。ブランシュを蔑ろにしてきたはずが、その実、誰もがブランシュに依存していたという歪な関係で成り立っているのに気づいていたのはエルネストだけだった。
シェロン侯爵は経営手腕に不安を持つ中、ブランシュが生み出した文具をあたかも自分の手柄のように発表し人気を博した。ブランシュが本当の事を公表しないか常に怯えていた小心者だ。
ミラベル夫人は嫡子として男児を産めなかった事を前侯爵夫妻から詰められ、精神的に追い詰められていた。気の毒には思うが、ブランシュに当たる理由にはならない。
そして一番の害悪、エステルは微弱ながらも魅了の魔力を持ち合わせていた。生まれた瞬間からシェロン侯爵夫妻を虜にしてしまった。魔力量が上回っていれば、影響される事は無いのだが、残念ながらシェロン侯爵家にはブランシュ以外、誰も居なかった。思い通りに動かないブランシュにイライラを募らせ、更に何に置いても姉に敵わない劣等感から、標的にして彼女から全てを奪い始めた。
記念日に貰ったドレスや宝飾品から始まり、専属の侍女。両親の愛を独り占めして、侯爵家の令嬢としての立場もエステルだけのものにした。エルネストがブランシュに贈ったものも一つ残らずエステルが身に着けているのを見せられ、殴りかかりそうになるのを何度我慢したか分かるまい。
こうしてエステルはシェロン侯爵家でただ一人の姫となり、我儘放題でも許されてきた。使用人にも強く当たり散らし、彼等は行き場の無い感情を溜め込み唯一の捌け口としてブランシュを選んだ。
早く助け出したかったが、表立って行動を起こせば逆にブランシュが危ないと、慎重にならざるを得なかった。エルネストがブランシュに好意を見せれば、それに比例してエステルはブランシュに害を与えるなど、簡単に予想出来たからだ。だがこんな事になるのなら、さっさと掻っ攫えば良かったと舌打ちをする。
まぁ、いい。
彼等が奪った分、自分が与えればいい。
その為には先ず、この追いかけっこを終わらせるとしようか。
◇◇◇
「ブランシュが出ていくのを誰も気づいていないとは、どういうことだ。侯爵令嬢が一人で生きていける訳がないだろう?」
焦るシェロン侯爵と憔悴するミラベル夫人を尻目に、のんびりとお茶を飲んでいるエステル。
「お姉様なんて放っておけばいいじゃない。戻って来ても居場所なんてないのだから」
以前の侯爵夫妻なら、肯定しただろう。魅了されていた心がほぼ戻っている今、エステルの非常識さに驚愕した。同時に自分たちのした事を自覚させられ絶望に染まる。
どうしてエステルでいいと思えたのだろうか。侯爵令嬢としての教育が身についていないエステルがシェロン家を継ぐ未来など見えやしない。このままでは取り潰しまっしぐらだ。
エステルの事は、一先ず置いておこう。折を見て、いずれ修道院にでも放り込めばいい。最優先は侯爵家存続のためにブランシュを連れ戻さなくては。
「エステル、今日は天気も良いから庭園の四阿でお茶をしたらどうだい。私達は領地の事で話があるから、執務室へ行くとするよ」
「はーい、新しくドレスを新調したいからお茶と一緒に準備させておいて」
…一刻の猶予もない。早くブランシュを探さないと。必要なら冒険者を雇ったっていいのだから。
◇
私の邪魔をするようであれば容赦はしない、そう思って警戒していた。だが、シェロン侯爵領を躍起になって探しているとは、見当違いにも程がある。何故自分を虐げた家族のお膝元に戻ると思えるのか。
もう放っておくだけで自滅するだろう。
エルネストはシェロン家に付けていた見張りを解いた。
エルネストの予想通り、一ヶ月後にシェロン侯爵家は褫爵した。領地は取り上げられ一代限りのシェロン男爵家となった。当主のヴィクトルは最下級の文官に追いやられた。妻であるミラベル夫人もまた、問題児ばかりが集められた教室で下級貴族の家庭教師として雇われる事を命じられた。厄介な仕事が集まるそこで、二人とも生涯使い潰され続けるのだ。
夫妻は優秀だったブランシュの行方が分からなくなった事を、嘆いていたという。時に罵り合い、末娘エステルに騙されていたのだと責任転嫁をし、生涯反省は見られなかった。
エステルは国の貴族の力関係を壊した責任を取らせられ、シェロン家から籍を抜かれた上で国境付近の鉱山にある娼館へ送られた。訳も分からぬまま客を取らされ、促されるまま要望に応えた。元貴族出身の遊女として人気が出ているとか。
こうして家を継ぐ者も居なくなったシェロン家は、ヴィクトルの代でアランブール王国から無くなる事が確定したのだった。
◇◇◇
それからもブランシュは慎ましやかに組合で仕事をした。誠実な働きぶりは正当に評価された。
知り合いも増え、友好的な関係が気付けていると実感していた。
「ブランシュさん、先日の御礼を兼ねて一緒に食事でも?」
仲の良い友人と呼べる冒険者も現れた。エスは一匹狼として急成長を遂げている、将来有望な魔導剣士だ。当初は、外套の頭巾を目深に被っていて、口元しか見えないというその見た目からブランシュも警戒していたが、寡黙で真面目な性格が分かると次第に打ち解けていった。
冒険者ならば人に知られたくない過去の一つや二つ、あるものだ。ブランシュだって元貴族令嬢という事は伏せているのだから、お互い様というもの。
切欠は定かではないが、エスが他の冒険者と揉めていたのをブランシュが仲裁した辺りからだったように思う。無骨ながらも気持ちが分かる礼の言葉を受け取り、その為人を好ましいと感じた。
何時しか彼に惹かれている自分に気付いた。
本当に些細な事だった。必要な書類の署名が丁寧で美しいとか、さり気なく粗忽者からブランシュを庇うようにエスが盾になってくれたり、仕事の最中に見つけたと言ってくれた小さな押し花を差し出し、
「貴女が思い浮かんだ」
と口数は少ないながらも、気持ちを伝えてくれる誠実さが嬉しかった。そんな日々の小さな積み重ねに幸せを感じていた。
「私の故郷を貴女に見せたい」
跪き差し出されたエスの手を取り、はいと頷いた。
「ありがとう、ブランシュ」
初めて名前で呼ばれて、ブランシュの鼓動が早くなる。そんな彼女の手を半ば強引に引かれて、エスの腕の中に納まった。
「…漸くだ」
ブランシュは気付かない、エスの口元が弧を描いていた事など。もう離しはしないと声にならない呟きがあっただなんて。
頭巾から零れる黒髪が風に靡いていた。
おわり
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