士会帰晋
王孫満の言葉を、熊旅は黙って聞いていた。
熊旅は天与の命数、などというものを信じてはいない。
しかし事実として、今ここで楚が大挙して周を攻め滅ぼせば、楚は危うくなるということは理解していた。
周は衰えたりと言えどまだ諸侯に輿望があり、周を攻める者に対しては団結してこれに当たるだろうということは分かっている。だからこそ熊旅は、わざわざ周を脅かす陸渾の戎を討伐し、そのことを報告するために周の国境に近づくという形を取ったのだ。
王孫満は熊旅にそういった情勢を見る目があると分かった上で、敢えて神秘的なことを言ったのである。
最後に王孫満が、鼎の軽重を問う時ではない、と言ったのは、
――敢えて周を攻め、楚を亡国の危地へ追いやる覚悟はおありでしょうか。
と熊旅に言外に問いかけたのだ。
この時の熊旅は、周を畏れる気持ちなどなければ、晋や諸侯を脅威と思う惰弱もない。まして、天というものを憚るような殊勝な心掛けなど持ち合わせていなかった。
王孫満はそういった熊旅の視座を見抜いた上で、強気に出たのである。
熊旅はその胆力に敬意を表した。
王孫満の言葉に熊旅がいかなる言葉を返したか『左伝』には記されていない。しかし、
――このような大夫がいる間は、周を脅かすことは出来ぬ。
と思ったのであろう。その後、楚は周に害を及ぼすことなく楚に引き返した。
同じ年の春。ちょうど、熊旅が陸渾の戎を伐ったのと時を同じくして、晋も出兵していた。
攻める先は鄭である。そう献策したのは士会という大夫であった。季という字を持つこの人は、その字があらわす通り季子であり、一家の長となれる立場ではなかった。しかし、覇者たる文公にその非凡なる才を見出され、大抜擢を受けた人である。
さて、以前、趙盾が襄公の次の君主に秦にいる公子を選んで使者を遣ったことは書いた。その使者となったのが士会である。だが、趙盾が霊公を擁立したために士会は晋に戻ることが出来ず、そのまま秦で客将となっていたのだ。
士会が秦に亡命している時に、晋と秦で戦が起きた。
この時、士会は秦軍に戦略を授け、晋を破ったのである。国内に不安があるとき、外には知略があり、晋の内情を知悉している士会がいる。このことを憂いた郤缺という大夫は、士会を呼び戻すよう趙盾に進言した。
郤缺はこの時、士会について、罪無し、と言っている。
元は趙盾が霊公を擁立したから士会は亡命を余儀なくされたのであり、晋に対して叛意を示したわけではないと、趙盾を批判したのである。
しかしこの言葉を入れて士会を呼び戻す決断が出来るのが趙盾という人であった。
晋に戻ってからの士会は、趙盾と対立することもなく、むしろその治世を扶けた。鄭を攻めるように進言したのもその一つである。
「楚が陸渾の戎を攻めたのは、周を値踏みするためでしょう。そして、我らに兵を出す余力がないと見越してのことと思われます。今、我が国は苦境にありますが、苦境であるからこそ敢えて兵を出さなければなりません」
この発想は、庸が背き百濮が蜂起したときの蔿賈と似ている。
楚における名将が蔿賈ならば、晋の名将は士会であると言ってよく、南北の大国で軍務を担う二人の異才の思考は似ていた。
晋が鄭に兵を出すと、熊旅が周にいて兵を出せる状況にないのを知っている鄭はあっさりと晋の盟下に降った。
熊旅は下手を打ったと思い、周から帰ると返す刀で鄭を攻めた。しかし、鄭は晋の盟下から離れなかった。苦々しく思いながらも、熊旅はその時は諦めるしかなかった。
しかし翌年、鄭の君主である霊公が臣下に殺されるという事件が起きた。
盟主は外敵から敵を守ることの他に、盟下の国内で乱があればそれを収める義務もある。しかし晋が鄭に派兵することはなかった。
「晋はまだまだ苦しいのでしょう。いずれ必ず、鄭は王に服することになります」
蔿賈はそう予見した。
熊旅はますます蔿賈を信頼するようになった。そのうちに、
――蔿賈を令尹にしたい。
と思うようになった。
しかし、それが出来ぬ事情がある。旅が即位した時に令尹であった子孔は成氏の人である。しかし、子孔が死に、闘般という人物が令尹となっていた。それは熊旅の擢登ではなく、氏族の後援によるものであった。故に、熊旅がどれだけ望んでも、王権を以ってその人事を覆すことは出来ないのである。
このことを説明するにあたって、以前に少し触れた闘氏のことをより詳しく書かなければならない。
闘氏は若敖氏ともいい、楚の君主から分かれた氏族である。闘般の父は楚の名宰相として名高い子文という人であり、闘氏の中興はこの子文から始まった。
子文は闘穀於菟とも呼ばれる。穀於菟が諱であり、穀は乳を意味し、於菟は虎のことを指す。
子文はその父である闘伯比が私通して生まれた不義の子であり、生まれてすぐに山野に捨てられた。しかし、野の虎が赤子であった子文に乳を与えて育てており、それを見た闘伯比は子文を連れ帰って養育した。
子文は長じると闘氏を継ぎ、令尹となった。成王の代のことである。当時、楚の財政は逼迫しており、子文は私財を国庫に投じてこの難を救った。やがて楚の国庫にゆとりが出てくると、成王は子文の禄を加増しようとした。
成王からすればそれは当然のことであり、子文の行動に報いようという心から出たものである。
しかし子文は頑なにそれを辞した。成王が俸禄を与えようとすると子文は令尹の地位を去り、成王が取り下げると戻る。それを三度も繰り返したのであるから、子文の強情さは筋金入りである。
ある人が不思議がって子文に訊いた。
「人は富貴を求めるものです。それなのにどうして貴方は富から逃げるのですか」
子文はその問いに対してこう返したのである。
「政治に携わる者は民を守らなければなりません。民には貧しい者が多く、彼らから税を得ておきながら自分だけが富を求めれば死に近づくことになります。私は富から逃げているのではなく、死から逃げているにすぎません」
一国の執政とは思えぬほど謙虚な言葉であり、誠意に満ちている。
このような人が一族の長となっているので、闘氏は多いに栄えた。
しかし代変わりして、氏族の権勢や富を受け継いだ者が、清廉な志まで引き継いでいるかと言うと、そうはいかぬのが悲しいところである。今の闘氏に子文のような人はいなかった。
子文の子である闘般と、子文の甥である子越――闘淑は傲岸な人物であった。
とりわけ、闘淑には悪評がついて回る。
生まれてすぐ、子文は甥を見るなり、
「この子は殺したほうがよい。容姿は虎に似ていて、声は狼に似ている。いずれ闘氏を滅ぼすでしょう」
と兄に進言した。しかし子文の兄はこの言を容れなかった。
――虎の乳で育った男が、虎に似た者を蔑むのか。
という想いがあったのであろう。不義の子でありながら、自分よりも高位にあり、それでいて偉ぶらない子文への反抗心もあったのかもしれない。
子文はやがて死の間際に、闘淑が楚で政治を行うようなことがあれば国外に逃げよとまで言った。
しかしながら、楚における闘氏の勢力は絶大である。闘般が令尹となり、闘淑は司馬となった。司馬は軍事長官のことを指し、闘氏が政治と軍事の要職を専有したことになり、熊旅にとっては面白くなかった。
――どうにかして、闘氏の権勢を削がねばならぬ。
即位し、執政を行うようになった時から、そういう想いはあった。そして、鄭への救援の際の人事に異を唱えたのを見て、熊旅のその想いはいっそう強くなったのである。
王でありながら、要職に就かせる者を自らの意思で決められず、軍事にも政治にも闘氏の顔色を窺わねばならないようでは、王という名の置物となり果てる。そうなればいずれ自分の身さえ危うくなるだろう。
何よりも――幼き日に拉致された時のことを、熊旅は未だ忘れていない。王座にあって日々、闘氏の権勢に当てられ続けてきた熊旅は、ついに闘氏を除く決意をした。しかし、やり方を考えなければならない。
熊旅の見立てでは、闘般は取るに足りない。家名だけで執政の座にある男であり、除くことは容易いと見ている。
厄介なのは闘淑であった。
粗暴で礼儀を知らぬ男であるが、猛将であり、戦場での働きには目を見張るものがある。こういう男が司馬であることを恐れた熊旅は、先に闘般を誅殺することにした。猛獣を殺すのに、いきなり頭を狙わぬように、段階を踏みながらその力を削いでいこうというのである。
蔿賈に命じて闘般の身辺を調べさせ、過失を攻めて殺したのである。
そして闘淑を令尹にして、空いた司馬の席に蔿賈を着けた。
戦場にあっては勇猛果敢であるが、政治に向かぬのが子越という人である。いずれ必ず失策を見せるであろうから、その時に蔿賈に命じて討てばいい、というのが熊旅の思惑であった。
しかし子越は蔿賈のことを激しく憎んだ。いいや、憎悪の種は成王の時代にすでに巻かれていたのである。
子玉が楚に敗れた城濮の戦いに幼き日の闘淑も参戦しており、敗れて帰国した後に、蔿賈が子玉の敗北を予見したという話を仄聞した。
――味方の負けを予見して、その通りになった。あいつが余計なことを口にしたせいではないのか。
闘淑はこの時から蔿賈のことを嫌うようになった。
そして今、従兄弟の闘般が蔿賈の讒言で死んだ。少なくとも闘淑は讒言だと信じていたのである。
令尹になったことの喜びなどなく、蔿賈への怨みのほうが優った闘淑は、信じがたい蛮行に及んだ。私兵を動員して蔿賈を攫ったのである。
熊旅はその報告をすぐには信じられなかった。
「蔿賈ほどの応変の才に満ちた男が、闘淑ごとき小人の擒になるはずがあるまい」
しかしどうも真実であるらしい。
そのようなことをしても闘氏の首を絞める結果になるだけである。だからこそ、すぐに表立った行動には出ないだろうというのが熊旅と蔿賈の見解であった。しかし、怒りに身を任せた人間の取る行動は時に傍目には理解できないものである。
損得という点でもそうであるし、氏族の長の行動としても、あまりに軽挙に過ぎる。
しかしそれだけに、熊旅と蔿賈は後手に回ってしまった。
それを嘆いても仕方がない。今の熊旅にとって最も重要なのは、蔿賈を取り戻すことである。
蔿賈を司馬から降ろし、新たに闘氏の者を司馬に据えることを条件に蔿賈を解放させようと熊旅は考えた。それも、蔿賈の味方をするのではなく、あくまで君主として大夫同士の私闘を仲裁する形を取れば闘淑も矛を収めるだろうと考えたのである。
しかし子越は浅慮ではあるが、魯鈍な人ではない。激情に任せて動いたからこそ、熊旅の深奥にある怨毒を見抜いていた。
――楚王は闘氏を目の敵にしている。
ということを肌で感じていた。いずれ熊旅は闘氏を族滅させる心算であり、その策謀の先鋒にいるのが蔿賈であることも、また理解していたのである。
蔿賈を釈放してしまえば、いずれ熊旅と蔿賈によって闘氏は地上から消え去るであろう。そう危惧している闘淑は、熊旅が仲裁を申し出る前に蔿賈を殺してしまったのである。
蔿賈の死を知った熊旅は怒りに震え、兵を挙げた。
一方の闘淑も、もう引き返せないところまで来ている。熊旅を斃し、自分に従順な楚王を立てない限り闘氏に前途はない。
両者の対立はもはや避けられなかった。




