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蒼天の比翼  作者: ペンギンの下僕


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問鼎

 晋の正卿(せいけい)である趙盾(ちょうとん)がその君主である霊公(れいこう)を弑するという大事件が晋で起きた。

 その仔細を語る前に、まずは霊公即位の経緯から話さなければならないだろう。

 霊公は文公の孫にあたる。父は襄公という君主であったが、この襄公は在位七年で(こう)じ、太子である霊公は年少であった。この時、楚では穆王が健在であった。国難の多い時期に年少の君主が即位しては国家を保てないと考えた晋の大夫たちは、太子を即位させず、国外にいた公子を迎えて擁立することに決めた。

 これに猛反対したのが、霊公の生母である穆嬴(ぼくえい)である。

 穆嬴は(しん)の公女であり、おそらくは文公が君主となるのを援助した秦の穆公(ぼくこう)の娘である。

 穆嬴は、霊公が廃されると知ると、幼い霊公を抱いて朝廷に出て号泣した。


「先君にどんな罪があり、またこの子にどんな罪があるというのでしょうか。嫡子を即位させることなく、国外から君主を求めてこの子をどうするつもりでしょう」


 穆嬴の言は、時世を見ていない、と言ってしまえばそれまでである。

 しかし、国外から迎えられた公子が即位して、霊公に害を加えないという保証はない。母子とも殺されるということもあり得る世の中であり、穆嬴も必死であった。

 この時、穆嬴が最も頼みとしたのが趙盾である。

 趙盾は襄公から霊公の養育を頼まれていた。そこには、後見として我が子を託すという意味でもあっただろう。

 趙盾は悩んだ。しかし、霊公を即位させることに決めた。

 だがそう決めた時には、すでに晋から大夫を遣って、国外――(しん)にいた公子を迎える算段がついていたのである。そして既に秦の軍を伴って晋の国内にまで入って来ていたのである。

 腹を括った趙盾は苛烈であった。夏日の日と評された性格の趙盾は、


「我らが秦の兵と公子を受け入れると決めたのであれば賓客である。しかし、受け入れないと決めたのであれば敵である。我らは太子を即位させると決めたのだ。それなのに秦に対して気を緩めれば、秦は容赦なく攻め寄せてくるに違いない」


 と言って、兵を出し、激しく攻め立てて秦を追い返したのである。

 しかし趙盾にとって不幸なことに、これほどまでして擁立した霊公が暗愚であり、且つ残忍であった。

 租税を増やして宮殿の装飾を増やし、楼台を作ってその上から石を弾いて往来の人を狙い、挙句、食事に出された熊の掌の煮込みが足りないという理由で料理人を殺す、というような残忍な行いを平然と行ったのである。

 趙盾は霊公を度々諫めた。

 そのうちに霊公は、


 ――口うるさい奴め。


 と思うようになり、趙盾に刺客を放った。しかしこの刺客は義侠の人であり、趙盾が高潔な忠臣であると知ると、君命との狭間で揺れ、ついに自害してしまったので、趙盾は難を免れた。

 しかし、一度の失敗で諦める霊公ではなかった。次に考えたのは、宴席に招いてその場に兵をなだれ込ませて殺してしまおうという案である。

 しかしこれも、寸前のところで不首尾に終わった。

 二度の危機を見て、趙盾はいよいよ身の危険を感じたので国外へ逃げることを決めた。

 一国の執政として、国家の危機を前に立ち去るのは無責任である。だが、趙盾の父は文公の覇業を支えた名臣であり、その氏を継ぐ者として、いかに暗君と言えど君主に弓引くことは出来なかった。

 しかしここで、趙氏の中で立ち上がった者がいる。

 趙盾の従弟にあたる趙穿(ちょうせん)という者が霊公の悪行に憤慨し、兵を挙げて霊公を殺してしまったのである。

 晋の国境を越える前にこの知らせを聞いた趙盾は、すぐさま馬首を翻した。

 しかし帰国した趙盾は、宮廷の中で驚くべきものを見ることとなる。


『趙盾弑其君』


 と大きく書かれた布が、中央に張り付けられていた。書いたのは晋の史官である。

 趙盾は抗議した。趙盾が殺したわけでなければ、趙穿にそう命じたわけでもないのだから当然である。しかし史官は、


「正卿でありながら逃げて国境を越えず、引き返しても君主を弑した者を咎めない。貴方が君主を弑したというしかない」


 と毅然と言った。

 趙盾はその通りだと頷き、それ以上の抗議をすることなく、霊公殺しの汚名を受けたのである。

 そして改めて、国外から公子を迎えて晋の君主にすることを決めた。

 ちなみに歴史書において、


『臣何某、弑其君』


 と、臣の名を書き記す場合は、臣下の行動に非がある時である。君主に非があるのであれば、


『弑何某君』


 と書かれる。

 霊公は暴君であり、しかも趙盾は何度も命を狙われた。しかし霊公を擁立したのは趙盾であり、正しく教導出来なかった責があるので、趙盾に非があるとされたのであろう。史官や歴史家の評は辛い。

 晋はいっそう国威を衰えさせ、国内を安定させるために揺れるだろう。熊旅はそう思い、


 ――北上し、周に近づこう。


 と考えた。霊公弑逆の翌年のことである。

 折しも、陸渾(りくこん)という地の(えびす)が周の近くで不穏な気配を見せていた。しかし、明確に周を脅かす動きをしたわけではないので晋は兵を出さなかった。出兵する余力がなかった、というほうが正しいだろう。

 楚が兵を挙げて北上し、周を侵す構えを見せたのであれば晋とその盟下の諸国は一致団結して楚を攻めるだろう。それは、不安定な晋の陣営の結束を高めさせる悪手である。

 だが、楚が晋に代わって周を脅かす戎を伐つのであれば、咎める理由はない。楚には大義があり、同時に、晋は周の危機に際して何もできなかったという汚点が残る。

 熊旅は兵を率いて北上し、容易く陸渾の戎を追い(はら)った。


「しかし、ここまで来て、敵を倒しただけで帰るのは失礼というものであろう。一つ、周王に挨拶してから帰ろうではないか」


 熊旅はそう言って、周の国境まで進んだ。

 ずらりと戦車が並び、精悍な顔つきの兵士らがにらみを利かしている。

 周の人々はその軍隊を懼れた。諸侯の上に君臨しているのは形式的なものであり、周にはほとんど兵はいない。実践経験も皆無に等しく、恃みとなりそうな晋はこない。攻め寄せられては一たまりもないだろう。

 それでいて楚は、形の上では周を脅かす陸渾を伐ち、その報告のためにやってきたことになっている。

 形だけでも慰労しなければ、礼を失したのは周ということになるのだ。

 だが、周の群臣はみな楚を懼れた。楚の陣に赴くことを嫌がったのである。

 ところが一人、名乗りを上げた人物がいた。

 王孫満(おうそんまん)と言う人である。

 王孫とはその字の通り、周王の孫ということである。この人物は周の襄王の代にも名があり、その時に年少であったとあるので、襄王の父である恵王(けいおう)か祖父の釐王(きおう)の孫であろうと思われる。

 その襄王の御代に、秦の軍が周都である洛陽(らくよう)の北の門の前を通り過ぎたことがあった。晋と秦とで争いが起き、その進軍のために周の圏内を堂々と往来したのである。

 秦は西の蛮夷の国であり、行軍のために国境を侵したことは楚よりもさらに無礼であった。

 周の人々は戦々恐々としていた。洛陽に攻め寄せてくるかもしれないし、秦の戦う相手は諸侯の盟主である晋である。晋が敗れれば、畿内の秩序が崩壊するかもしれない。

 しかし、まだ年少であった王孫満だけは冷静な目で秦軍を見ていた。

 そして、狼狽する群臣をかき分けて襄王に所見を述べたのである。


「秦軍は軽率で、礼というものがありません。必ず敗れるでしょう。軽率な者は浅慮であり、策謀や計略というものがないでしょう。危地にあって粗略であり、策を張り巡らせることのできない軍がどうして破れないということがありましょうか」


 この言を聞いて襄王や周の人たちがどのような反応を示したかは分からない。

 しかし、子供の言葉であり、それを聞いただけで安堵したということはないだろう。礼がない、というのは当然のことである。秦は蛮夷の国なのだ。しかし、それだけに恐ろしいのである。

 野蛮な者は、勝つために何をしでかすか分からない。禁じ手というものがなく、どんな卑劣なことでもやってのけるに違いない。そして秦は現実に、何度も畿内の国と戦い勝利している。


 ――何も知らぬ子供が、偉そうな口を利きおって。


 と侮られたに違いない。

 しかしその数か月後、秦と晋が戦った。そして秦は敗れたである。その負け方というのが、攻め手の将三人がすべて捕虜になるというものであったので、大敗と言うしかない。

 王孫満にはこの時に、周の人々に分かりやすいように敢えて礼という言葉を用いたに過ぎず、実際には秦の軍としての粗雑さが見えていたのであろう。

 このことで周囲は王孫満に一目置いた。

 今は襄王の孫の定王(ていおう)の代である。しかし昨年、定王の父である頃王(けいおう)が崩じており、定王は服喪している。

 他に意気地のある者はおらず、王孫満は使節を率いて楚の陣に赴いた。

 熊旅は軍容を敢えてさらけ出し、左右に戈を持った兵士を並べ立てて王孫満とその使節団を迎えた。使節の者たちは怯えながら、斬首の刑場に向かう罪人のようにおどおどと歩いているが、王孫満は堂々としていて眉一つ動かす気配がない。


 ――周にも人物はいるということか。


 感心しつつも熊旅はこれを迎えた。

 王孫満は恭しく、それでいて(おもね)ることをせず熊旅に拝した。


「周の大夫、王孫満。周王より命を受けて楚子(そし)の功を労いに参りました」


 楚子、という言葉に熊旅はわずかに不快を示した。

 ここでいう子というのは爵位のことである。諸国家には国ごとに与えられる爵位というものがあり、


 公、侯、伯、子、男


 の順に五つである。公爵が最も尊く、男爵が一番低い。楚は子爵の国であり、ために楚の武王はかつて周に働きかけて爵位を上げようとしたが叶わなかった。そもそも楚の王号は僭称であり、中原諸国にとって楚の君主の呼称は、一貫して楚子なのである。

 そういう事情があり、そして王孫満がこの場において熊旅を敢えて楚子と呼んだということは、陸渾の戎を討った功績を労いはすれど、楚の爵位を上げるつもりはない、と示したことにもなる。

 熊旅は元より、周の爵位になど興味はない。楚は周とは異なる国であり、周の権威を借りて自らを尊くしようなどというつもりはないからだ。

 しかし、


 ――大国の補佐がなければ何も出来ぬ形だけの王が、随分と居丈高なものだ。


 という苛立ちはあった。

 かつて武王が爵位を求めたことを周の人は今でも忘れていないはずである。その裔孫が周のために尽力したのだから、爵位を与えて媚態を示し、親しもうとするのが周の在り方であろう。そうあるべきだ、というのが熊旅の考えであった。

 さらに言うならば、周王のほうからそう打診させて、その上で断ってやろう、というのが熊旅の腹づもりだったのである。周王のほうから楚に媚び、その権威を否定するという形で楚の威勢を示そうと思っていたのだ。

 しかしその思惑は砕かれた。

 面白くないと思った熊旅は、目つきを鋭くして王孫満に訊いた。


「周には伝来の(かなえ)があると聞く。いったいそれは、どれほど大きく、どれほど重いものであろうか?」


 鼎とは、三つ足がついたすり鉢状の青銅器のことである。

 そしてここで言う伝来の鼎とは、九鼎(きゅうてい)と呼ばれる、周の王権を示す神器と言えるものであった。古くは()王朝から伝わり、夏が滅びると(しょう)(殷)に移り、周が商を滅ぼして今は周王朝が保有するという、天子の象徴とも言えるものである。

 その大きさ、重さを問うということは、


 ――すでに形だけとなった周王は、伝説だけが仰々しくあって実際は吹けば飛ぶほどに軽いお飾りのようなものであろう。


 と挑発したに過ぎない。武力をかさに着た恫喝である。

 しかし王孫満は怯むことはなかった。


「鼎の軽重はそれを持つ者の徳にあり、鼎そのものにはありません。最初に九鼎を有していた夏王朝は(けつ)昏徳(こんとく)によって商に移り、商に移った九鼎は(ちゅう)の暴虐によって周に移りました」


 桀、紂は共に夏と商の最後の王である。悪政を行い民を苦しめたために王朝を滅ぼした暴君であり、暗愚な君主の代名詞として使われることもある。


「美徳であれば小さな鼎であっても重く、悪逆であれば大きな鼎であっても軽いのです。かつて周の成王が鼎を安置した時、周が天より与えられた命数を占われました。そのところによりますと、三十代、七百年が天与の数であります。今、周は徳が衰えたと言えど天命を覆すことはならず、鼎の軽重を問う時ではありません」


 王孫満は、淀みなく言い切った。

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