宋襄の仁
蔿賈は熊旅に、
「このまま北進して、宋へ行きましょう」
と進言した。宋は陳から見て北東に位置する。この国もまた、今は晋の盟下にあった。
熊旅は首を傾げた。晋軍を見るというのであれば、このまま陳に留まって、晋が陳を援けに来るのを待てばよいと考えていたからである。
しかし蔿賈の考えは違った。
「この度、我らが陳を攻めることが出来たのは、鄭が晋に叛いたからです」
「その通りだ」
盟下の国が攻められれば、それを援けるのが盟主の務めである。
しかし今の晋は、君主が幼年であり、往年の国威はない。東に兵を出すとなると、鄭への備えを薄くしなければならないのだ。
それは楚も同じであり、鄭が晋に就いたままであれば、陳への出兵を躊躇っていただろう。
「ですが、陳、宋の二国が脅かされたとあっては看過することは出来ません。陳、宋が我らと盟を交わせば晋はいよいよ危うくなるからです」
「なるほど。つまり、晋を急かすための急襲ということだな」
そう言いながら、熊旅は釈然としないものを感じていた。
ここまでの話には筋が通っている。今、晋の正卿は趙盾である。幼君を抱え、しかもその幼君は人倫に難があると聞いていた。出征を控えたい気持ちがあり、しかしさらなる苦境を招かぬために盟下の国を援けなければならない、という苦しさがある。故に、必ず宋へ兵を進めてくるに違いなく、それが出来ぬほど優柔不断な執政でないと熊旅は見ていた。
しかし蔿賈はどうも、まだ自らの見解をすべて披瀝していないように思えるのだ。
おそらく蔿賈は、すべてを一度に話さないことで熊旅に考えさせようとしている。だが、熊旅にはどうしても分からず、蔿賈に続きを求めた。
「趙盾は東征することなく宋、陳を救い、且つ本懐を遂げる道を採るでしょう」
「――鄭を攻めるということか」
熊旅はようやく、蔿賈の考えを理解した。
盟下の国を援けなければならないのは楚も同じである。まして、鄭は楚に就いてから日が浅い。晋を見限り楚に就きはしたが、楚の庇護が得られぬと分かればあっさりとまた晋に降るだろう。晋が鄭を攻めれば楚は陳、宋を攻めるどころではなくなり、自然と二国は救われるのである。
こう聞かされると、
――宋を攻めている場合ではないのではないか。
と熊旅は思った。急いで南に軍を返し、鄭に有事あればこれを守れるよう態勢を整えるべきだと考えたのである。
しかし眼前の蔿賈にはまだ策があるようである。
――この男には、私の見えぬものが見えている。頼もしい限りだ。
熊旅は爽やかな笑みを浮かべ、
「向後の進退の策を申せ。すべて、おぬしの言う通りにしよう」
と、格別の信頼を見せた。
「では、私はこれから密かに一軍を率いて鄭に向かいます。王は兵を宋に向けられ、晋が出てきたら即座に帰国なさいませ」
「それで、おぬしはどうする」
「王の撤退を知れば晋は鄭を攻めるでしょう。これを伐って鄭を救ったのち、郢で再び見えましょう」
蔿賈はこともなげに言った。
熊旅を陽動に使い、しかも自らは晋と戦う、と蔿賈は言ったのである。いかに晋の国威に翳りがあるとはいえ、晋が兵を出すということは盟下の諸国の軍も率いているということになり、それを迎え撃つことは困難である。
しかし蔿賈には自信があった。
熊旅もまた、任せると言った言葉の通り、蔿賈の献策を容れてその通りに行動した。
その後のことは、蔿賈の語った通りとなった。晋は諸侯と棐林という地で会盟した。陳、
宋よりも鄭に近いこの地に諸侯を集めたことは、鄭を攻めるということに他ならない。
――蔿賈の読み通りになったな。
そう思いながら、熊旅は素早く軍を返した。
蔿賈のことは信用しているが、万が一ということもある。鄭が、というよりも、蔿賈が窮地に陥った時にはすぐにこれを救えるように、熊旅は郢へ急いで戻らなければならないと思った。
しかしその心配はなかった。
蔿賈は鄭の国都である新鄭に入らず、野外で迎え撃った。北林と呼ばれる地である。
兵数で言えば晋のほうが優っているのだが、宋にいるはずの楚軍が突如として現れたことに動揺した。その動揺を見抜いた蔿賈は、混乱が静まらぬうちに晋軍を襲い、大夫の一人を捕らえてから新鄭に下がったのである。楚軍の被害は軽微であり、晋は出鼻を挫かれた。晋に従う諸侯もこれで気勢が削がれたのを感じていた。
――楚軍の進退は見事である。
と思った趙盾は結局、鄭を攻めることなく軍を解散させた。
鮮やかな、非の打ち所のない勝利である。熊旅はいよいよ蔿賈を重用するようになった。
同じ年の冬。晋は宋と共に鄭を攻めた。北林の敗戦の意趣返しである。
しかしこの戦いでは、晋鄭ともに特筆するような成果はなかったようである。晋のこの出兵は盟主としての面子から行われたものであり、しかも楚が鄭から退いてから再び攻めたところに晋の劣勢が現れていた。
しかし、ここで反抗の証を見せなければ再び晋が勢いづく。
年が明けると熊旅は、鄭に命じて宋を攻めさせた。鄭と宋は大棘の地で戦った。だがこの地で、珍事が起きた。
鄭の人が、宋の右師(宰相)である華元を捕らえたのである。
戦の最中のことであれば何もおかしなことではない。しかし、華元が捕虜となったのは鄭の軍が勇猛であったからでなければ、宋の軍が惰弱であったからでもない。華元の車騎の御者が馬を走らせ、鄭の本陣へ華元を届けたのである。
御者が鄭に通じていたわけではない。
大棘での会戦前夜、華元は将兵に羊肉を分け与えた。しかしこの御者にだけは肉を与えなかったのである。それを怨んでの行動であった。
これは別に、華元の疎漏ではない。意図的に与えなかったのである。だからと言って、好悪の情からくるものでもなかった。この御者は羊斟という。
――羊氏を持つ者に、戦いの前に羊を食させるは不吉だ。
華元はそう考えた。自らの氏を喰らうという行為に呪詛めいたものを感じた華元の配慮であったのだが、羊斟にとっては肉を与えられなかったことへの怨みのほうが強かったのである。
この話が、鄭を通じて熊旅の耳にも聞こえてきた。
――宋の人間は、襄公の頃より何も進歩しておらぬ。
そう鼻哂した。
襄公とは、かつて成王に敗れた宋の君主である。諸侯の上に立たんという野心を抱えていた襄公が成王と泓水を挟んで対峙し敗れたことは前にも書いた。
この時、宋は寡兵で楚は大軍であった。
しかし、川を挟んでの戦いであれば僅かに勝機はあると見た目夷という大夫が、
「渡河の最中を攻めましょう」
と進言した。しかし襄公はそれをしなかった。
やがて渡河を終えた楚軍は、しかし見知らぬ地での戦いのため、陣容を整えるのに手間取った。目夷は、この隙を攻めるようにと再び進言した。しかしやはり襄公は聞き入れず、楚が陣を整えてからこれと戦った。
互いに万全な状態で、大軍と寡兵が衝突したのである。その勝敗は火を見るよりも明らかであった。
敗れた襄公は国人の非難を受けながらも、
「君子は傷ついた人に追い打ちをかけず、老兵を捕虜としない。そして古来より戦というものは、悪路を進む敵を攻めないものである。陣容を整えていない敵に対して進軍の太鼓を打つことがどうして出来ようか」
と言ってのけたのである。
襄公の言は、なるほど君子のあるべき振る舞いではある。人としては正しい。しかし戦場にそのようなものを持ち込み、挙句に軍を敗走させたのであるから、その振る舞いは愚である。
この話は後に、「宋襄の仁」という故事となった。場を弁えぬ仁義を見せて身を亡ぼす愚者を指す語である。
華元の場合は、無用の仁を見せたわけではないが、配慮というものをはき違えている、と熊旅は思った。
戦となれば、兵士は明日死ぬかもしれないという恐怖の中に身を置かねばならない。夜営での食事が末期の飯になるかもしれないのだから、美食に預かりたいというのは人の心というものであろう。不吉かどうかよりも、その気持ちを汲むのが人の上に立つ者の役目であると思ったので、熊旅は嗤ったのである。
さて、この華元であるが、鄭と宋との間で取引を交わし、宋が戦車百乗と軍馬四百頭を送ることで返されることになった。ところが華元は、その取引が為される前に鄭から脱出したのである。
――見よ。これが、礼だの徳だのというものを口にする者の本性よ。
経緯はどうあれ、戦いの中で囚えた人は戦の成果である。戦が終わった後に交渉し、互いの捕虜を交換しあったり、財貨を用いてその返還を求めるのは常道である。
熊旅はきれいごとは好まぬが、敢えてそういう言葉で表現するのであれば、戦いが終われば禍根は流して交渉の席に着き、そこで定めたことを違えぬのが戦における礼であろうという想いがある。
それだけに華元の行動が熊旅には、吝嗇に映った。
華元の意思か、宋の首脳が手引きしたのかは分からない。しかし、華元を取り戻すための財貨を惜しんで姦計を用いたということである。
熊旅はそういった姦智を否定はしない。しかし、礼を口にしながらそれを行う恥知らずが滑稽に映ったのである。
――それでいて華元は、宋に帰ると、そのまま右師の席に座ったままである。華元が執政であり、宋が華元を用い続ける限り、宋は懼るるに足らぬ。
この時、熊旅の中に宋を侮る心が芽生えた。その軽蔑が、最後に熊旅の足元を掬うことになる。
鄭が華元を捕えたことで、ひとまずは、楚に靡いた鄭は晋とその盟下の兵を追い返した。
しかし夏になると、晋は再び兵を出した。これは元々、秦の国に攻め込まれた焦という国を救うための出師であったのだが、この軍を率いる趙盾は、焦を救うと、諸侯の兵を連れて鄭へ攻め込んだ。春先の敗戦の報復のためである。
ここで楚が何もしなければ、鄭は再び晋に降るだろう。楚としては、兵を出さざるを得ない。
熊旅は、蔿賈に任せるつもりでいた。しかし朝廷において、異を唱えた者がいたのである。闘淑、字を子越という人であった。先に庸、百濮の乱の際には熊旅に従い、蔿賈と潘尫を救うために出陣した大夫である。
「蔿氏の用兵は、手緩い。楚が諸侯の上に覇を唱えんと欲するのであれば、その最大の艱難たる晋を避けて通ることは出来ないだろう」
闘淑は声高に叫んだ。闘淑は、先の北林における蔿賈の戦果に不服を唱えたのである。
大夫一人を捕虜とするのみで、真っ向からの衝突を避けた蔿賈のやり方を、惰弱と見たのである。
――用兵の妙も分からぬ奴め。
熊旅は、心の中だけでそう詰った。しかし、それを口に出すことは出来なかった。
所詮は一大夫の言である。王権を以って封じ込めることは容易に思える。だが、それが出来ぬ事情があった。
闘氏は楚において権勢盛んな氏族である。しかも闘淑は、その族長であった。その存在は、楚王たる熊旅であっても憚らねばならぬほどなのである。
しかも闘淑は、王命を拝せぬとあらば、私兵を率いて北進しかねない勢いである。渋々ながらに熊旅は、鄭救援の大命を闘淑に与えた。
勇んで出陣した闘淑は鄭に入ると、陣容を構えて晋と諸侯の兵が来るのを待った。
熊旅の信任と、将としての手腕から考えても、蔿賈が来ると思っていた趙盾は、鄭に来たのが闘淑であると聞いて訝しがった。
しかし、やがて兵を返すと決めたのである。これは、闘淑を恐れたのではない。
「闘氏は楚において強壮であるが、それ故に、いずれ廃れる族であろう。敢えてそのような氏族と争うことはない」
趙盾から見て闘淑とは、南蛮たる楚国において、とくに蛮勇を好む男である。人智と機略とを備えぬ獣のような敵と戦うとなれば、どちらか片方が倒れるまで続けるしかなく、しかも勝ったとしても深傷を負うことは避けられない。
晋軍のみならず、諸侯の兵を預かる覇者の代行者の身で、そのような無益な戦をすることを、趙盾は厭ったのである。
一戦も交えることなく晋軍が退いたので、闘淑は、勇んで凱旋した。その傲岸は、出陣前に朝廷で蔿賈を批判した時よりも増している。
――いずれ、どうにかせねばなるまい。
もともと、即位して間もない頃の熊旅を攫ったのは、熊氏と闘氏の者であった。羋姓の者にさえ不信を覚えた熊旅であるが、楚で君主としてある者が、羋姓を避けていては何も出来ない。といって、熊氏は王族である。そのために熊旅は、やがて怨みの矛先を闘氏に収斂させていった。
その怒りが、静かに、しかし着々と熊旅の中で燃え上がっていたのである。
しかしこの年のうちには、熊旅の心に乱の火種が撒かれはしたが、闘淑の帰国後に晋楚が争うことはなかった。
その代わりに晋で、国を揺るがすほどの変事が起きた。正卿の趙盾が、その君主である晋の霊公を弑したのである。




