勤於政事
さて、危地に追い込まれた蔿賈と潘尫であるが、彼らは悪化していく戦況を拱手して眺めていたわけではない。
「相手を驕らせ、油断を誘いましょう」
潘尫はそう提案した。
偽りの敗走を演じ、敵が油断したところで反撃するべきだと言ったのである。
潘尫は潘崇の子であるが、史書に名が現れるのはこの時が初めであり、それまでは潘氏の長は潘崇であった。家長を継いでから長くとも数年しか経っておらず、これが潘尫の初陣である。
そのような状況で、且つ劣勢の時に敢えてこれを言える肝勇が潘尫にはあった。
良い策だと思った蔿賈はこれを容れ、七度負けてみせた。
庸は勢いづいていたが、楚軍の逃げっぷりがあまりに速いので、追撃に参加しているのはたった三邑の兵士たちだけであった。にも拘わらず楚軍は向かってくる様子がないので、庸はいよいよ楚が攻勢に転じてくると疑いもせず、備えすらしていなかった。
臨品という地に来て、
――もうそろそろ頃合いか。
と考えていた蔿賈と潘尫は、南方に砂塵が起きたのを見て訝しんだ。
敵ではないだろう。南は郢のある方向であり、大夫の誰かが助勢に駆け付けたのかと思った。だが、いざ対面してみると戦車に乗っていたのは若き熊旅であったので、二人は大いに驚いた。
「両大夫とも健在であったか。間に合ったようで何よりである」
熊旅は二人に声を掛ける。まだ面立ちは幼くとも、その声には凛とした響きがあった。
「寡人が聴政をせぬ間も、楚の威を保つために軍旅に赴いてくれたそなたらの忠心、嬉しく思う。寡人は若輩であり、不才であるが、二人を死なせてはならぬと思い郢より駆け付けた」
そして、二人を思いやる暖かさがあった。
寡人とは、君主の一人称であり、へりくだった表現である。寡は、すくない、と読み、徳の少ない人という意味である。君主が臣下に対して寡人と称するのは、不徳な私のために苦労をかけてすまない、という慰労の意でもあった。
まだ幼少であり、その若さでありながら豪奢と好色に耽る、亡国の君主が如き振る舞いをする暗君と見ていた二人は認識を改めた。毅然としていて、その中に優しさのある熊旅を見て拝手した。
しかしよく見ると、熊旅の率いる軍はあまりに少ない。戦車がわずかに五十乗ほどだけであり、いずれの戦車も随員の兵士を連れていない。しかし、蔿賈は察しがついた。
「もしや、馹の戦車を乗り継いで来られたのですか」
熊旅は頷く。
馹とは駅舎のことであり、要所に置かれた連絡地点のことを指す。それぞれに戦車と馬を養っており、馬に疲労の色が見えだすと近くの馹で馬を変えることで快足の進軍を実行したのだ。
「うむ。助勢の有無は士気に影響し、勝敗を揺るがす。まずは兵少なくとも郢よりの援軍があるのを知らせるが先決と考えたのでな」
「それは、その通りにございます」
蔿賈は舌を巻いた。
同時に、熊旅が狩猟を好んでいたということを思い出した。
この時代、狩猟は貴族の娯楽としてだけでなく軍事演習を兼ねている。しかし後宮での熊旅の振る舞いを聞き知っていた大夫たちは、
――無邪気に遊びたいだけか、後宮の女に獲物を見せて満悦したいのであろう。
と考えていた。
しかし熊旅は度々の狩猟の中で、戦の機微をしっかりと学んでいたのである。
「二日もすれば子越と子貝も到着する。向後のことは二大夫の策で行うがよい」
先に戦陣にある蔿賈と潘尫には進行中の策なり算段があるだろうから容喙しない、と熊旅は言った。
蔿賈と潘尫は軍を反転させ、快進撃で慢心している庸を攻めた。さらに、子越、子貝の軍が付くと軍を二手に分けての多方面作戦を展開した。
こうして楚は、劣勢をついに覆して一気に庸を滅ぼしてしまったのである。
この時、先だって楚に叛いた夷も、勢いに恐れをなして楚に服従することを誓った。
熊旅は蔿賈、潘尫、子越、子貝を率いて悠々と凱旋した。蔿賈と潘尫にとっては、慮外の戦勝である。
郢を出て攻めるべきだと朝廷で進言し、出兵した二人の想定に庸の滅亡は無かったであろう。敵の油断を誘ったところで手痛い一撃を与え、意気を挫いたところで潔く退く。そうすることで窮状を凌ごうとした、というところであったのではないか。
熊旅の出陣は、庸はおろか楚の者でさえ考えていなかった。その一事が、蔿賈、潘尫の佯敗の策とかみ合ったが故の結果である。
郢への帰路の最中、楚軍は盧に立ち寄った。かつて熊旅が樊姫と出会った地である。
熊旅はこの地で狩猟を行うと言いだし、子越、子貝を先に帰らせて蔿賈と潘尫に供をさせた。
首尾は上場であり、それなりの獲物を得ると、熊旅は盧の料理人に命じて日持ちするように獣の肉を塩漬けにするように命じた。そしてそれを持って郢に帰ったのである。
熊旅は塩漬けにした肉を厨房へやり、調理して樊姫の膳に添えるように命じた。盧の禽獣の肉である、と言うようにとも指示した。
翌日になって、樊姫に従っている宦官が熊旅に告げた。
「樊姫さまは、王の持ち帰られた肉を食されました」
それを聞いた熊旅は喜悦した。
樊姫ははじめから、熊旅が享楽に耽るようになったわけを理解していた。臣を欺き、国王が無能と知った時に大夫らがどう動くかを見極めるための雌伏であると知っていたのである。
樊姫が熊旅の持ち帰った肉を食さなかったのは、まだ成果は得られないと暗に告げていたのだ。そして昨日、初めて肉を口にしたのは、雌伏の先に得るものがあると教えるためである。
熊旅は初めて聴政を行い、朝廷の人事を刷新した。
とりわけ、蔿賈、潘尫、伍挙、蘇従は熊旅から格別の信認を得たのである。
熊旅は国は一人の英邁な王だけでは治められず、不足を臣下の才で補うということを理解していた。
そのことを如実に表す逸話がある。
ある日、熊旅は大夫と謀議を行っていた。熊旅の示した策に対して、それよりも良い方法を提示できる大夫はいなかった。しかし、朝廷を出た熊旅は昏い顔をしていた。その理由を聞かれた時に、
「寡人は才の乏しい者であるのに、そんな寡人よりも優れた策を立てられる者がいない。これでは、楚という国の命運は危ういであろう」
と憂色を示したのである。
自らに自信のある王は臣下と才知を競い、優れていると得意げになることもある。そして、臣下のほうが優秀と見るとこれを遠ざけてしまう愚を犯す君主もいる。そのような中で大夫の不才を嘆く熊旅の姿勢は、正しい君主としての在り方を知っていたと言えるだろう。
――国とは、巨大な車騎のようなものである。
と熊旅は考えていた。
馬が走り、御者が曳き、車右、車左が戈と弓を持って敵を討つ。その戦車の主である者は、馬より早く走る必要などなければ、手綱や武器の扱いで兵士より優れていなくともよい。しかし、進むべき道筋を示すのは主であり、その決断に責任を負わなければならないのである。
さて、熊旅が後宮より出でて庸を滅ぼしてから三年が経った。
鄭という国が、晋の盟下より離反した。
「晋は與するに足らざるなり」
というのが理由である。盟主としての晋を見限ったのだ。
鄭という国は北面が晋と接し、南面が楚と接する国である。陳と並んで去就の定まらぬ国であり、この両国は情勢次第で晋とも楚とも盟を交わした国であることは前にも述べた。
しかしこの時、陳は晋の盟下を離れなかった。
かつて楚の盟下から離脱した陳に対して、楚は咎める力がなかった。しかし鄭が晋から離脱したことで、
――好機だ。陳を伐とう。
と、熊旅はそう決めた。即位して初となる、熊旅主導の出兵である。
それだけに熊旅は慎重さを持って事を進めた。まずは人をやって陳を偵察させたのである。派遣された臣は任務を終えて帰ると、
「陳を攻めるべきではありません」
と復命した。
熊旅は愠色を示した。しかし、吉報ばかりを喜び、己に都合の悪い報告を遠ざけていては大業は為せない。熊旅はその訳を聞いた。
「陳は、城壁が高く、その周囲に深く濠を巡らせております。備蓄に富み、国は安らかに収まっていて隙がありません」
そう聞いた熊旅は、
「いや、陳を攻めたほうがよい」
と返した。
偵者の見聞を疑っているわけではない。信用しているからこそ、その内容を聞いて判断したのだ。
「陳は小国である。であるのに備蓄が多いのは租税を取り立てているからであろう。城壁の高さ、濠の深さにしてもそうだ。民を労役に駆り出して行っている。陳の百姓は国への恨みを抱え、また疲弊しているに違いあるまい」
熊旅は軍を率いて陳に攻め入った。
首尾は上場であり、余力を残しつつ十分な成果を上げることが出来た。
こうなると、このまま引き返すのは勿体ないと熊旅は思った。戦には勢いというものがある。この勢いこそが勝敗を決定づける最も重要なものであり、威勢のよい時は勝ちに乗じて進み続けたほうが良い。
勝ちに乗じることと、勝ちに驕ることは違う。
熊旅はそう思い、蔿賈を帷幕に招いて意見を求めた。
「王にお聞きしたいことがあります」
蔿賈は厳かな声で訊いた。
「王は先王の遺産を継ぎ、楚を保全なさらんとお思いですか。それとも、二王の無念を晴らし、大陸に覇を唱えることを望まれますか」
二王とは、父である穆王と祖父である成王のことである。
成王は南方に大国を築きながら、晋の文公を懼れて北進することはなかった。しかし成王は、その臣下である子玉が城濮で敗れはしたが、自ら軍を率いて文公に敗れたわけではない。成王は文公のことを、天佑を受けた人と見た。それ故に、真っ向から戦うことをしなかったのである。
その決断は楚の国威を保ったが、同時に楚の伸長に歯止めをかけた。
穆王は盟下の国を晋と奪い合い、多くの国を楚の盟下に従わせることは出来た。しかし、ついに晋と直接戦うことはなかった。
蔿賈が二王の無念を晴らしたいのかと問うたのは、晋と戦う展望があるかということである。
熊旅は、
「いずれは、晋と戦うことになるであろう」
と蔿賈に告げた。
この言葉は蔿賈の意と一致した。
晋と楚は長きに渡って対立してきた。それでも正面切っての会戦が起きなかったのは、時節を得ていなかったからにすぎない。両国ともに、国内で互いへの敵愾心は堰に湛えた水のように満ちており、いつ決河してもおかしくなかった。
ただしそれは今ではないと熊旅は言う。
その通りだと蔿賈も考えていた。まだ熊旅は即位して日が浅く君臣は纏まっていない。まして此度の出兵は陳を伐つためのものであり、ここでの会戦は避けなければならなかった。
だが、後々のことを見据えて布石を打つことは出来る。
「ならばまずは、晋軍を見ておくことにいたしましょう」
感情を廃した静かな声で、蔿賈は言った。




