鳴かず飛ばず
伍挙の伍は氏であり、伍氏は楚の公族であるとされている。
それを信じるのであれば、伍挙もまた羋姓の人であり、春秋時代の楚の朝廷には羋姓の人ばかりということになる。
この頃の楚における有力な氏族を挙げていくと、
闘氏
成氏
蔿氏
屈氏
申氏
といったところであり、ここで列挙した氏族はすべて羋姓である。これらの氏でなくて国政に関与した者と言えば熊氏の人であり、つまり王族であった。これは楚が閉塞的というよりも、中原の人たちが楚を蛮夷と嫌った結果、異姓の人が居着くことがなかったからではないかと思われる。
結果として、楚は羋姓の王国となった。これは周の建国に際して武王が姫姓を各地に封建し、弟である周公を子の摂政にしたのと似た成り立ちと言えるだろう。
北にある姫姓の王朝と、南にある羋姓の王朝の対立構造こそが春秋時代であった。
ある人はこれを、「春秋は晋楚の南北朝時代であった」と評したが、まさにその通りであると言えるだろう。
さてこの伍氏であるが、おそらくは歴代の楚王の公子から分かれた氏族であろうが、その源流ははっきりとしない。伍氏の人が史書に現れるのは伍挙が熊侶を諫めた時が始めであるので、新興の氏族であり高位ではなかったのかもしれない。
しかし伍挙は、諫めれば死罪という命令を知りながら敢然と熊侶を諫めた。
熊侶はこの時、左右に美女を侍らせて伍挙と会い、伍挙が何を言うかを待った。
「丘の上にあり、三年の間、飛ぶことも鳴くこともしない鳥がいます。これは如何なる鳥でありましょうか」
伍挙は謎々で問いかけた。これならば諫言にはならない。しかし、この鳥が熊侶を指していることは明らかである。
ところで伍挙は三年と言ったが、これは足掛け三年ということであろう。
というのも、この時代の君主は先君が死ねば二十五か月の喪に服すのが決まりであり、その間の国政は宰相が行う。楚であれば令尹の子孔である。
熊侶が即位後、後宮に籠ったことについて『史記』は、
「位に即きて三年、號令を出さず」
とあるが、即位した君主が即座に政治を行うことはまずない。
服喪を怠り享楽に耽るのはよろしくないが、政治に無関心であることを諫める臣下はいなかったのではないかと思われる。
少なくとも『史記』には伍挙より前に諫臣の名はない。伍挙が熊侶の元に現れたのは、服喪の二十五か月を過ぎても後宮から出ようとしないことを窘めるためであったのではないか。
とにかく伍挙は、このままではいけないと思い、しかしまだ熊侶という君主を測りかねていたので、謎々という形で問いかけた。
左右に美女を抱きながら、しかし熊侶は、
「飛ばぬのは、飛び立った時に天にまで至るため。鳴かぬのは、口を開いて鳴いた時に大いに人を驚かせるためであろう」
と堂々と答えた。
そして伍挙を下がらせた。その時に、
「そなたの意は分かっている」
と言った。
伍挙を退けた熊侶は、翌日、狩りに出かけた。そしていつもの如く、狩った獲物を樊姫の膳に並べさせた。しかし後で聞いたところ、やはり樊姫はまったく口をつけなかったという。
熊侶はなおも後宮に籠り続けた。
その間に、楚に兵禍が起きた。
この頃、楚の盟下の国は次々と晋の盟下に流れており、加えてこの年は凶作であった。四方の蛮夷が楚に攻め寄せ、特に楚の盟下にいた庸国は蛮夷を率いて楚を攻めた。
また麇という地の人も、百濮という夷を率いて楚と対立する構えを見せたのである。
この時、楚の朝廷では遷都してはどうかという意見すら出た。
熊侶は朝廷に出てこないので、令尹である子孔と大夫らの方針である。北には晋の脅威があり、国内で蛮夷の軍が擾乱を起こしている。内憂外患であった。
しかしこの時、及び腰の楚の首脳に向かって否を説いたのが蔿賈という人である。
蔿氏は先ほども書いた通り、羋姓である。
この蔿賈という人は慧眼で知られていた。成王の時代、楚と晋が城濮という地で戦ったことがある。この時、晋の君主は文公であり、成王に文公と戦うつもりはなかった。しかし令尹の子玉という人物は文公のことを嫌っており、決戦を主張したので成王はこれを許したのである。
しかし結果として、子玉は敗れた。
成王は子玉は敗れると見ており、予見の通りに敗れた子玉に死を命じた。しかしもう一人、子玉の敗北を見抜いていた人物がいる。若き日の蔿賈であった。
子玉は人格に問題があり、傲岸で無礼な人であった。その疎漏を見抜いて、三百乗を超える戦車を率いて戦をすれば敗れるだろうと言ったのである。これが二十二年前のことであり、その頃はまだ若かったというのだから、熊旅が即位した時には壮年であろう。
言葉に重みがあり、動揺する大夫たちは蔿賈の言に耳を傾けた。
「我らが進める道ならば敵も進めるだろう。今は、逃げるよりも戦わなければならない」
と言い、庸を攻めようと言い出した。
麇と百濮はどうするのかと問われたら、
「飢饉に乗じて攻めてきた者たちは、我らが兵を出すことがないと思って攻めてきたのだ。庸を攻めることを知れば退散するだろう」
と断言した。
そして潘尫という大夫と共に庸を攻めるために向かったのである。ちなみに潘尫は潘崇の子であった。
この出兵に楚の朝廷としての思惑はなく、大夫の私兵による軍であった。しかし果たして蔿賈の言った通り、百濮は楚が軍を出したのを見て退却した。
百濮の難が去って、郢に残った大夫たちはひとまず安堵したが、この状況を案じている大夫がいた。
蘇従という人である。
――あの軍は危殆を孕んでいる。
と蘇従は見ていた。
出兵そのものに反対であったわけではない。しかし大夫の私兵ということもあり、寡兵である。加えて、楚は飢饉のため兵糧に余裕がない。王も令尹もいない軍が、空腹と戦いながら一国を相手取るのはいかな名将であっても困難であると蘇従は考えていた。
果たして、蘇従の予感は当たった。
蔿賈と潘尫は兵糧を切り詰め、自分たちも贅沢を戒めて兵士と同じだけの食事を取って庸へ進んだ。しかしそこで庸の反撃に合い、攻め手の大夫が囚われるという痛手を負ったのである。
この報せを聞いた蘇従は腹を決めた。
向かう先は、熊侶の籠る後宮である。
ところでこの蘇従という人は、楚においては稀有な羋姓を持たぬ人であったと思われる。
『春秋』において蘇という氏族は散見され、時には乱にも巻き込まれた氏族であり、その縁者が畿内を避けて楚に来たのであろう。蘇氏は己姓の氏族であった。
管楽が鳴り渡り、左右に美姫を侍らせた熊侶が蘇従を迎えた。
「蘇従か。何をしに来た」
熊侶にそう呼ばれて、蘇従は少し驚いた。
決して位の高くない自分の名を熊侶が知っていたことが意外だったのである。
「王を諫めに参りました」
蘇従は、伍挙とは違いはっきりと言った。
「布告は知っているであろうな」
諫める者は死罪である。その覚悟があって来たのかと、熊侶は眦を決して問いかけた。
「我が一死を持ちまして王に過ちを正していただくことこそが臣の願いであります」
蘇従は平伏しながらも、迷いのない声でそう答えた。
そして管楽を止めさせ、女を下がらせると蘇従に面を上げさせた。
「ならば聞こうではないか。どうせ、おぬしは死ぬのである。言いたいことを口にするとよい」
蘇従は熊侶のこの言葉を、
――死んだ気になって、肝胆にあるものをさらけ出せと仰られている。
と思った。
そして、楚の現状と、蔿賈、潘尫の軍が庸の地で危地にあることを語ったのである。さらに、熊侶が出陣してこの二大夫を救われるべきであると熱弁した。
すべて聞き終えた熊侶は立ち上がると、蘇従の肩を叩いた。
「朝堂へ向かう。おぬしの罪は後日の沙汰を待て」
というと、軍服を纏って朝廷にある大夫たちの前に姿を現した。
それまで後宮に籠り切りであった熊侶がいきなりあらわれたのを見て、大夫たちは驚いた。
「蔿大夫と潘大夫を救いに行く。子越、今すぐに兵車を用意せよ。まずは寡兵でよい。子貝は兵を整えつつ後から追ってこい」
その上で、大夫たちを指名して命令を下したので、彼らは驚きつつも熊侶に従った。
こうして、熊侶に率いられた楚軍は、蔿賈と潘尫を救うべく快速で北進した。




