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蒼天の比翼  作者: ペンギンの下僕


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不食禽獣之肉

 熊旅は哄笑した。それは楽しさからくるのではなく、愚かしさのもたらす空しい笑い声である。


「もう間もなく殺されるであろう、この私が天意ときたか」


 熊旅は急に、先ほどまでの自分が愚かしく思えてきた。

 確かに陽樊の公孫の話には引き込まれるものがあり、その言葉は水が喉を通り抜けるように体に染みこんでいくのを感じた。

 しかしそれらは、すべてが過去か、あるいは未来の話だからである。

 虜囚の身から離れて夢想に耽ることが出来た、という意味では、先ほどまでの話はとても愉快だった。

 しかし今、陽樊の公孫は、自分たちが虜囚であるという現実さえ忘れて虚妄を口にしている。

 急に現実に引き戻され、いずれ弑されるであろう我が身であると思い出した熊旅は、狂ったように笑った。

 しかし陽樊の公孫は、そんな熊旅をまっすぐに見つめている。

 やがて、喉が枯れるほど笑って疲れ切っても、彼女はまだ熊旅の目を直視していた。


「何をそんな、つまらなさそうな顔をしておる。どうせもう幾ばくも無い命ならば、一国の王が死に瀕して無様を晒すのを嘲笑うがよい。不敬を咎めて刃を向ける忠信の卒の一人さえ、今の私は持っていないのだからな」


 しかし陽樊の公孫は笑わない。

 自棄を起こした自分を顧みて、熊旅は黙り込んだ。

 馬車の中を沈黙が包み込む。耐えきれなくなった熊旅は、聞いた。


「何故、私が晋を斃す天意であるなどと思うのだ」


 そう聞かれて陽樊の公孫は、少し黙ったあと、詫びるように頭を下げた。


「由来のないことを口にしました。あの言葉は、ただの私の願いでございます」

「願いだと」

「はい。潘氏の邸で攫われた時、私の命はここで尽きるものと覚悟を致しました。死ぬことは恐ろしくありませんが、父祖に塗炭の苦しみを与えた晋の衰勢を見ることもなく、また、先祖に晋の受けた報いを告げるための後嗣すら残せずに死ぬは不孝と思っておりました。しかし今、幸甚にも楚王に拝謁を賜りましたことで、道が拓けたように思えたのです」


 なるほどと、熊旅は心の中で一人頷いた。

 熊旅がこの難を越えて命を拾えるのであれば、陽樊の公孫も同様に助かるかもしれない。そして、齢の近い熊旅がいずれ晋を斃せば、彼女は晋が敗れた時に立ち合えるであろうと考えたのである。

 つまり陽樊の公孫の言葉は熊旅に、そうあれかしと焚きつけたのである。

 思えば哀れな童女である、と熊旅は思った。

 今は囚われの身となっているが、少し前までの熊旅にはその将来に展望があった。いずれは楚王となり、諸侯に君臨して晋と覇を競う己の姿を心の底から想うことが出来た。

 しかし、陽樊の公孫にそのようなものはない。父祖から怨毒を注がれ続け、生まれる前に亡びた国の赫怒を背負って生きてきたのである。国を再興するというのでもなく、仇敵が天の咎を受けるのを見ることだけが望みであり、そのためだけに祭祀を継ぐことを強いられる人生はどれほど哀しいであろうか。彼女の生を想って、熊旅は心を昏くした。

 そして、今の自分をひどく愧じた。

 といって、今の熊旅にできることなど何もない。それがまた熊旅を煩悶とさせた。


 ――天の(たす)けなどというものは私にはない。


 陽樊の公孫の話を聞いて、熊旅は確信した。

 ならば父祖に祈ればよいかと思ったが、そもそもからして、此度のことは父の擢登と論功の不手際が招いた事態である。生きている間にそのことに気づかなかった父、穆王に祈ったところで空しい。といって穆王は、親に兵を挙げて囲み、遂には死に至らしめた人である。祖父が、不孝の孫に力を貸してくれるとも思えない。


「ならば、血路を拓くか」


 熊旅は表情を引き締めた。漂う気配が殺伐としている。

 陽樊の公孫はそれを目ざとく見抜いて、首を横に振った。


「それは最後のすべでございます。王たる御方が匹夫の如き短慮を軽々しく起こしてはなりません」

「なるほど」


 頷いて向後のことを問おうとして、熊旅はこれまで自分は彼女に問いかけてばかりだと気づいた。

 少しは自分の頭を使わねばならないと思い、何かできることはないかと考えた熊旅は、壁を何度か肘で叩いた。外には見張りの兵士がいるはずであり、音がすれば様子を伺いに来るかもしれない。その時に少しでも外の様子を確かめようと考えたのだ。

 やがて叔麇(しゅくきん)がやってきた。熊旅と陽樊の公孫とを一つの車にまとめるようにと進言した大夫である。叔麇は閂を外して扉を開けた。このことがまず、熊旅には以外であった。


「どうなさいましたか」


 言葉に柔らかさがある。公子爕と闘克からどのように聞かされているかまでは分からないが、二人を粗略に扱うつもりはないようであった。


「こちらの貴女(きじょ)が、長旅で気分を悪くしたらしい。私も、狭い車の中に居続けて鬱屈としてきている。監視はつけて構わないので、少し空が見たい」


 熊旅は言葉を選んで叔麇に言う。

 叔麇はしかし断った。だがそのあとにあたりを見回すと熊旅に顔を近づけて、


「じきに、(えい)の空を見ることが叶いましょう。それまでもう暫しお待ちください」


 と小声で言った。

 そして叔麇はまた扉を閉め、外から閂を掛ける。

 しかし熊旅の顔は明るかった。しかし、これが戯言であるかもしれぬと思い、緩みかけた心を引き締めて陽樊の公孫のほうを見た。


「詐を口にする顔には見えませんでした。吉かと思われます」


 果たしてその通りであった。

 やがて叔麇は、上官である戢梨(しゅうり)と共に公子爕と闘克を謀殺し、二人を郢へ送り届けたのである。


 ――天の佑けはなく、父祖の佑けもなくとも、人の(たす)けはあった。


 そう思いながら熊旅は郢に帰還した。

 潘崇(はんすう)子孔(しこう)は戢梨らの兵に護られて郢に入った熊旅を見て胸をなでおろした。

 熊旅は潘崇を見て言った。


「そなたの家の貴女(きじょ)を、我が正室として迎えたい」


 突然の申し出に、潘崇は驚いた。


「私は望まずして郢の外に出た。この身は骸となって帰るはずであったのを、生きて郢の地を踏むことが出来たのは、公孫どのの天運が私をも拾い上げてくれたからであろう」

「いえ、ひとえに王の徳か、穆王の遺徳でございましょう」

「子に徳を残す君は、その子が即位するに際して国外に出すような苦難を強いることはない」


 潘崇は気遣いのつもりで言ったのであろうが、熊旅は言葉に棘を含ませて返した。


「斉の桓公、晋の文公が共に国を離れたのは父君(ふくん)の悪逆が故である。しかるにこの二君は国を出た時に壮年であり、自らの機智で難を逃れて即位した。幼年の私にそのような機智はないのだから、やはり天運を持つ者のおかげであったと言わざるを得ない」


 潘崇は顔を昏くした。これが穆王の擢登の不手際が招いた凶事であれば、自らの不手際も穆王の悪徳であると言われたような気になったのである。

 そんな潘崇の顔色を見ながら、熊旅は言葉を続けた。


「陽樊の者は、もはや晋の地に住処はなく、故に蛮夷たる我らを頼って南へ来られたのであろう。しかし、私は公孫どのに助けられたのだ。ならば一国の貴女(きじょ)に対してこちらも、最も尊貴な地位を与えて報いなければなるまい」


 潘崇は反論に困った。


 ――どうやら王は、どうしても公孫を后にしたいようだ。


 囚われている時に何があったかは潘崇には分からない。

 しかし、容貌に魅入られたということではないだろう。熊旅はまだ幼く、色に惑う齢ではない。

 陽樊の公孫にしても、凛として落ち着きのある童女ではあり、秘めた気質が結実して玲瓏たる美しさを見せるのはまだ先であろう。

 ならばそのような外見の話ではなく、何か違うところで熊旅は陽樊の公孫に惹かれたに違いない、と潘崇は感じた。


「公孫どのは姫姓であり、羋姓に嫁すことに支障もあるまい」


 潘崇は、左様ですな、と頷いて諾と言った。

 こうして陽樊の公孫は楚王の後宮に入った。

 ところでこの時代、一般に君主の妻となった女性は、国名+姓、または氏+姓で史書に書かれる。史書に女性の(いみな)が現れることはまずない。樊姫は陽樊国の姫姓の女性なので樊姫と呼ばれることとなる。

 さて、正室を迎え、公子爕と闘克の乱の余波も静まったところで、熊旅は喪に服すことをやめた。

 そして後宮に籠り切り、享楽に耽るようになったのである。当然のことながら、大夫たちはこれを諫めた。しかし熊旅は耳を傾けず、それどころか、諫める者は死罪との布告を出したのである。

 だが熊旅は後宮に籠りはしたが、時おり、外に出ることはあった。といって、それは聴政のためではない。

 熊旅は、後宮で管楽に耽るのと同じくらいに、狩猟に熱中したのである。まだ若く、肉体も気力も発達していく年頃であることを想えば、室内で管弦を響かせながら酒と女を楽しむよりも、広大な空の下で武器を手に獣を追いたてることのほうにこそ喜楽を覚えたに違いない。

 熊旅は狩猟から帰ると、必ず樊姫のところを訪れた。そして獲物を調理させて樊姫の膳に並べさせたのだが、樊姫は決まって一口も食べなかった。

 熊旅も特に、それを咎めることはしない。

 望んで正室に迎えておきながら、熊旅と樊姫は一言も言葉を交わしていなかった。

 やがて三年が経過したころである。

 伍挙(ごきょ)という大夫が、後宮にいる熊旅に謁見を求めた。

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