陽樊
陽樊という国は史書にほとんど現れず、それでいて、その名が記される時には慶事が一つとしてない悲運の国であった。
陽樊は単に樊とも呼称され、最初にその名が現れるのは『左伝』の隠公十一年のことである。
ちなみに『左伝』は『春秋』という歴史書の注釈であり、『春秋』は魯国の歴史書であるので、この隠公とは魯の隠公のことを指す。
この時の樊は、周の桓王から鄭国に与えられた土地の一つとして挙げられている。
しかし樊は歴とした、周から封建された国であり、しかも周と同じ姫姓の国であった。しかしこの時、周から鄭に下賜された理由として、
『己有つこと能わずして、而るに以て人に與う』
と、つまり、自分で領有することが出来ないので他人に与えたと書かれている。
こう書かれていると樊は周の采邑のように思えるが、どちらかと言えば付庸国であったと考えたほうが正しいであろう。
さて、この樊であるが、その七十二年後の僖公二十五年に、
『之に陽樊、温、原、欑、茅の田を與う』
と『春秋左伝』にある。
ここで指される、之、とは晋の文公であり、与えたのは周の襄王である。
樊は一度、周から鄭に与えられたはずである。しかしいつの間にか再び周に帰属しており、そしてこの時にまた周から諸侯国に下げ渡されたということになる。七十二年の空隙について『左伝』は何も記していない。
だが襄王が文公に与えた地の中に『温』という地があることから推察することは出来る。
襄王には王子帯という弟がいた。彼は母から愛されていて、それがために傲慢であった。一時は太子になれそうであったのだが、即位したのは兄の襄王であった。それを怨んでか、戎を周に誘致して乱を起こしたことがあり、失敗して出奔している。
しかし襄王はのちに王子帯を呼び戻している。しかし王子帯はそのことに感謝も反省もせず、帰国してからわずか二年の間に襄王の正后と密通した。襄王はしかし、王子帯を罰することはせず、后を罰した。
この時の后は隗氏という人であり、狄の出身の人である。狄とは北方諸族への蔑称であり、本来ならばその子女が周の正后となることはあり得ない。しかし襄王は以前、狄の軍を借りたことがあり、その恩として隗氏を正后として迎えたのである。
まずい、と思ったのは、周と狄の橋渡しをした頹叔、桃子という二大夫は襄王の行動が狄に忘恩と見られ、その報いが自分たちに来ることを懼れた。
そこで狄に通じ、王子帯に助力して襄王を攻めたのである。
襄王は鄭の氾という地に逃げた。だが王子帯も周都には留まれない事情があったのか、あるいは、襄王を追撃するために出征したのか、鄭に向かった。
ここで王子帯が留まった地が温である。
その後、襄王は文公の尽力あって周都に帰ることが叶った。ちなみにこの出征の際に文公が陣を置いたのが陽樊である。
これらのことから推測できるのは、文公に与えられた四国は周、または鄭の付庸国であり、王子帯を支持したのではないかということである。間違いなく温は王子帯に味方している。そして、与えた、と書かれているが、原と陽樊は文公の支配に抵抗し、文公は二国に兵を向けている。
ただし、陽樊は文公が襄王を助けるために出征した際の拠点となっているので、文公が襄王を助ける姿勢を見せたので王子帯から離れたのかもしれない。しかし、襄王は一度味方したのを罪として文公に与えたと考えると、一応の説明はつく。
話が長くなったが、つまり陽樊は小さくとも一国でありながら、周王によってその支配権を晋への褒美として与えられてしまったのだ。それも、文公が陽樊を攻めているということは、襄王は、
――この四つの土地は自由に攻めて晋の土地にするといい。周は見て見ぬふりをする。
と暗に告げたに等しい。
これらの地を“与えられた”文公は、なるべく穏便に済まそうと、陽樊に服従を命じた。
しかし陽樊の人は事のいきさつを知り、猛然と反発した。
ならば、と文公は陽樊を攻めて囲んだのだが、陽樊の蒼葛という大夫は城内から大音声をもって晋軍に呼びかけた。
「徳というのは礼を知る中原の人に向けるものであり、刑罰や武力は四方の蛮夷を恫喝して防ぐためのものである。それなのに貴方は今、我ら中原の民に対して蛮夷を脅すように兵を差し向けている。どうして我らが従うものか。まして、我ら陽樊の者はみな姫姓である。それなのに我らを虜囚にするおつもりか」
この演説は文公の心を打った。だが、それはそれとして陽樊の地は諦めがたい。文公は姫姓の誼によって恵恤を見せることなく、実益を採ったのである。
しかし、わずかに憐憫を見せようとした文公は、城を明け渡せば危害は加えぬと告げさせた。武力の差は歴然であり、従うより他に道はない。陽樊の人たちは袖を濡らしながら城を出たであろう。いともあっけなく、陽樊という国は地上から消え去った。
しかし、国は消えても人は残っている。城から追い出された陽樊の人々はどうしたのであろうか。
同姓のよしみで姫姓の諸国を頼ったと考えるのが自然であろう。
しかし文公は着実に勢力を伸張させ、やがて中原の覇者となる。しかも文公は周王を助け、蛮位を退ける中原諸国の庇護者のように振る舞いだした。その覇業の礎を築くために、勝手に下げ渡され滅ぼされた陽樊の者たちは、
――晋の威光の届く地に身を置きたくはない。
と激憤したに違いない。
しかし晋は北には遠く、狄とも結びつきがある。そこよりも北は未開の地であり、ならば南に行くしかない。
中原に比べると少ないが、南方にも姫姓の国はある。姫姓の大家もいるにはいた。今、熊旅と共に囚われの身となっている陽樊の公孫の娘は、姫姓の縁を頼って潘氏の世話になっていたのである。
熊旅は陽樊の公孫からその話を聞かされた。
ちなみに陽樊の滅亡は、熊旅が攫われた年から数えて二十二年前のことである。当然、この公孫は生まれていない。しかし親族から教えられたのであろう。公孫は周の横暴、晋の躍進、そしてその威圧を避けて南下して来た陽樊の民の悲哀を、まるで見てきたかのように告げた。
「晋や周は、我らを南蛮と呼んで蔑んでいるらしいが、しかしやっていることは変わらぬのだな」
熊旅はそう鼻哂した。むしろ、徳や礼節というものを口にしながら公然と強掠をしている分、卑劣さは増しているとさえ感じたのである。そう考えた時に、ふと思い出したことがあった。
「そういえば文公の先祖は、確か分家が本家を排斥して興った国であったな」
「はい。ですので、晋もいつかはその報いを受けるでしょう。罪をなし、悪徳を重ねて手にした栄華はいつか潰えるものです」
お互いに囚われの身でありながら、陽樊の公孫は傅のように堂々と、それでいて身分を弁えて熊旅に説いた。熊旅もまた相手を年の近い童女と思わず、師に問うように話しかける。
「しかし、悪徳を重ねた当人はその咎を受けずに天寿を全うしているではないか。晋の文公も、その最後は安らかであったと聞いている。罪を犯して利を貪りながら、その悪徳を後代に押し付けて黄泉に逃げるのであれば、子孫が不憫であろう」
「仰せの通りにございます。ですが周は、そのような理に合わぬものを信条として生きているのです」
「では、楚はどうであろうか」
と聞くと陽樊の公孫は、
「楚は天意でございます」
と言った。
熊旅は首をかしげる。天意によって悪が報いを受ける、というのは周の治下にある思想だと彼女は言った。しかしその天意は楚であるとも言ったのである。
「晋はますます傲り、覇者として諸侯の上に君臨することでしょう。しかしながら、犯した罪をそのままにして徳を施すことを怠れば、その栄華は断ち切れます。そしてそれが為されるとすれば、それは晋の庇護を受けた国に叛かれるのではなく、楚が晋を斃すより他にありません。故に、楚こそが天意であると申し上げたのです」
なるほどと頷きながら、熊旅は他人事のようであった。
そうだとしても、きっとそれは自分とは関係のない話だと思ったからである。
そしてそんな心の様子を、陽樊の公孫は目ざとく見抜いた。そして、
「貴方こそが、その天意でありましょう」
と静かに言った。




