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蒼天の比翼  作者: ペンギンの下僕


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蒼天の比翼

 宋との盟を交わした熊旅は、子反とともに、軍を率いて帰国した。

 廷臣、貴族たちは戦勝を祝い、喝采と共に熊旅を迎えた。そして、代わる代わるに祝辞を告げにきたのである。

 そういった政務をすべて終えるのに、三日かかった。ようやく解き放たれたかと思うと、それまで張り詰めていた糸が切れたかのように、雪崩のような倦怠が熊旅を襲ったのである。

 ふらつきながら、しかし吸い寄せられるように、熊旅は樊姫のもとへ向かった。

 そこには、悠然とした姿の樊姫が、到来を予見していたかのように膳と酒を並べて待っていたのである。無論、熊旅は、樊姫を訪ねることなど事前に告げてはいなかった。


「驚いた。我が后には占卜(せんぼく)の心得があるらしい」

「そのような学識はなくとも、王のことであればわかります」


 慈愛に満ちた声を聞いて、熊旅の体はやや軽くなった。王という立場をすべて忘れて一人の男として考えると、


 ――私は、この声を聞き、その姿を見るためだけに、帰ってきた。


 という気になってくる。それは熊旅の立場からすれば、たとえ余人の耳目なき後宮であっても発することの出来ない想いであるが、この時の熊旅は、確かにそう思った。


「此度の戦勝、まことにおめでとうございます。今宵はどうかごゆるりと、旅塵を落としていかれますように」

「ああ、そうさせてもらおう」


 食事をし、酒を呑んだ熊旅は、寡黙であった。しかし樊姫は不服そうな顔をせず、静かにその横に座っている。酔いが回ってきた熊旅は、体を傾けた。そして、樊姫の膝の上に頭を沈めたのである。




 熊旅が宋を盟下に加えてから、晋楚の戦いというものは起きなかった。

 晋は敢えて楚とことを構えようとせず、その視線は東西に向くこととなる。

 熊旅としても、晋にそのつもりがないのであれば、戦おうとはしなかった。

 そんな中で、宋との戦いの二年後、晋の朝廷のある動きを知った。士会の引退である。驚いたのは、熊旅だけではなかった。

 士会は前年には兵を率いて赤狄(せきてき)という族を討ち、晋で正卿(せいけい)となっている。さらには、典礼を調べて新たな法を定めるなど、精力的に軍事、政務に励んでいた。

 かつては政争のために亡命までした人が、帰国を果たし、大功を上げて位人臣を極めたのである。それなのに、わずか一年ほどで、惜しげもなくその地位を棄てたのだ。驚かない人はいないだろう。

 表向きは老齢であるからとなっているが、聞くと、その勇退も含めて政治のためであるという。

 この時の晋における他の六卿は皆、士会よりも若い。士会は文公時代の最後の臣であり、世代の変遷を感じ取った士会は、自らが前時代の宿老として執政の座にあることで、新たな時代の気風を閉塞してしまうことを危惧したのである。


 ――敵としては、厄介であった。しかし、最後まで大した男であったな。


 士会という人は、その生涯において、陰黠な謀略や血生臭い策を用いて他者を陥れたという経歴がない。その上で晋の中で卿として在り続け、鮮やかに身を退いた。


 ――一度くらい、会って話してみたかった。


 戦場を同じくすることはあったが、ついに熊旅は士会という人と言葉を交わすことはなかった。

 引退によってその機会が永久に失われてしまったと思うと、無念に思う気持ちはある。ただし、敵である熊旅をしてそう思わせるところもまた、士会という人の余韻であろう。人の心に名残りの秋風を吹かせつつ去っていくことの出来る立場は、熊旅からすれば羨ましくさえあった。君主たる熊旅は、死ぬまで王座にあらなければならないのである。

 一方で、士会と同じく一国の宿老というべき宋の華元は、未だ右師の地位にある。新緑が芽吹きつつある国もあれば、年輪を持つ大樹によって支えられている国もあるということである。


「楚は、どちらであろうか」


 熊旅は、小さく呟いた。今の楚において宿老というべき人は、申叔時くらいのものである。熊旅の生きている間はいいが、次代にはどうなっているか分からない。そう考えて、熊旅はやめた。


 ――これは私が考えることではない。(しん)が考えることだ。


 当代の君主として出来ることはすでにした、と熊旅は思っている。遺すべきものを遺したうえで、なお次代のことを考えるのは、太子として定めた熊審への侮りであると感じた。

 ふと、気が抜けた。眠気におそわれ、欠伸をした熊旅は、体を横に倒し、午睡することにした。




 熊旅は、夢を見た。

 体は鳥のように空にあり、茫洋たる蒼天を泳いでいる。

 かつて、囚われの車中から羨望を向けた空がそこにあった。

 しかしどう考えても分からないのは、翼も持たぬ身でありながら、こうして悠然と空にあることであった。夢とはそういう荒唐無稽なものであると言ってしまえばそれまでだが、どうしても不思議に思えてならない。


「王よ、天意はそこにございます――」


 声がした。

 忘れるはずもない。まだ幼き日の、樊姫のものである。

 后として常に傍にありながら、初めてその声に触れたような気がした。そして、囚われの車中を教場として教えを受けたときのことが、鮮明に蘇ったのである。


 ――ああ、この人だ。私の比翼となって蒼天へと導いてくれたのは、陽樊の公孫どのに他ならない。


 天意は人には知る術がなく、その去就は定まらないものである。

 しかし、そこへ至るための翼を、熊旅ははじめから持っていたのだ。そう気づいたとき、熊旅の心はとても穏やかなものとなったのである。

 これにて完結となります!! ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!!

 何か感想などありましたら、いただけますれば幸いです!! 歴史的な指摘などでも全然かまいません!!


 もう一つ宣伝を。熊旅の次代、作中でも少し出てきた熊審という君主についてはこちら、「大鳥のかげ」という作品で書いております。「蒼天の比翼」に比べれば短めですが、よろしければこちらも併せてお読みください

https://ncode.syosetu.com/n0045kd/

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