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蒼天の比翼  作者: ペンギンの下僕


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天意の帰趨

 地平に浮かぶ車は、仲夏の涼風におされるように悠然と楚の陣に近づいてきていた。

 車上には、御者の他には、目の大きな、痩せた老人が一人だけである。やがて、陣門に車が着くと、老人は車を降りて頓首した。


寡君(わがきみ)、宋公より命を帯び、楚王に降りに参りました」

「大儀である、華右師よ」


 熊旅は華元の顔を知らない。にも拘わらず、車に揺られてやってきた老人が華元であるとすぐに見抜いた。そして、肩を軽く叩いてその顔を上げさせると、か細い体を一瞥した。


(でめ)は仄聞した通りだが、(きょふく)ではないな。噂というのは、あてにならぬものよ」


 宋の右師は出目で大腹である、というのは有名は話であり、しかし今はすっかり瘦せこけた華元を見て、熊旅は揶揄った。


「王のおかげで、このとおり、痩せることが出来ました。かつては車の乗り降りにも不自由しておりましたが、今は足元がはっきりと見えます」


 長きに渡る籠城戦で、食うに困って贅肉が落ちたと、皮肉を言う。子反は肝を冷やしたが、熊旅は腹を立てることもなく、


「そうか。それは何よりだ」


 と、軽く流した。それから、華元の後ろにわざとらしく目を遣る。


「ところで右師よ。おぬし一人か?」

「はい。後々、正式に使節は参りますが、今の商丘に動ける者は少なく、まずは私が質として赴きました」

「質か。それは、盟を交わすまでか。宋公がよければ、郢まで同道してもらい、寡人(かじん)にその知見を授けていただきたいものだが」

「郢に参り、楚の朝廷の方々に此度の過誤を詫び、宋の忠誠を伝えるようにと仰せつかっております」


 盟が為るまでの質ではなく、降った証の人質として郢に行く。熊旅はそう望み、華元もはじめからそのつもりであったらしい。

 無論、一国の宰相がいつまでも他国で人質となり続けることなどない。楚宋の関係が落ち着けば、宋公から人質を替えてくれとの請願があるだろう。それでも、郢に行き、暫くの間は留まらねばならない。熊旅という君主の苛烈な性情は知っているであろうに、華元には死に怯えている様子はなかった。


「ならばそれまでに、元の(きょふく)に戻ってもらわねばな」


 熊旅は人を呼んで、膳を用意させた。熊旅と子反、そして華元の三人分である。

 日は沈み、三人は夜風を避けて帷幕の内で膳を並べた。熊旅は北に座し、子反が東、華元が西という座席配置である。古代は、座る方位で立場を表す。主君は北、臣下は南。そして、主人が東で客が西である。

 今であれば、熊旅という主君が場にいるとなれば、子反は南に座るべきである。しかし熊旅は、子反を東に座らせた。これは華元という客の饗応を任せたということである。突然の要請であったが、子反はよくこの任を務めた。

 宴もたけなわとなり、ほどよく場に酒精が立ち込めはじめた頃に、熊旅は華元を見た。


「ところで華右師よ。何故に、今ごろになって降ってきた。どうせ晋の庇護を離れるのであれば、初めからそうすればよかったであろう」


 初めから、という言葉には多義が含まれている。楚が商丘を囲んだ時に、とも取れるが、晋が邲で敗れた時に、という風に解釈することもでき、華元がどういう受け取り方をするだろうかと、熊旅は好奇の目を向けた。


「人はいずれ死ぬものです。しかし、その間に何を為したかで、その生の重みは変わってくるものでしょう。帰結がすべてではありません」

「宋は晋に義を尽くしたが、晋は応えなかった、と言いたいのか」


 華元は頷く。宋は鄭とは違う、と言いたいらしい。そして、思えばその信義と忠節こそ、熊旅が盟下の国に対して最も求めたものであった。

 この話を聞いた熊旅は、


 ――晋は、誤った。


 と、思わざるを得ない。たとえ大軍でなくとも、晋が苦境を圧して宋のために兵を出していれば、宋は決して降らなかったであろう。そう考えると此度の戦果というのは、晋の惰弱がもたらしたとも言える。

 しかし、子重や子反がそう見たように、熊旅から見ても華元という宰相は、平凡に映る。だというのに、義を通すためであれば臣民を巻き込んで、骸の山を積み上げる覚悟を以って熊旅の挑戦を受けた。晋の援軍が来るかどうかは分からずとも、そういった廟算は二の次であり、まず宋が国としての筋を通すことをこそ何よりも重視したのである。

 その激烈が宋の臣民に伝播し、楚の大軍の囲みに八か月も耐えうる堅牢な城になったのであろう。しかし、再び熊旅が華元に目を遣ると、そこにはただ、飢餓に苦しんだ臓腑を労わるようにゆっくりと食事をする痩せた老爺がいるだけなのである。


「あと二つ、お教えいただきたい」

「私にお答えできることでしたら」

「何故、司馬のところに行った? 聞けば右師は、子重と面識があるという。ならばそちらを訪ねたほうが、話も早いと考えなかったのか?」


 名が挙がって、子反も華元のほうを見る。子反としても気になっているところであった。


「私は右師です。ならば、主君の右側におられる方に近づくべきかと考えました」


 子反が楚の右軍の将であることが理由であると、華元は語った。それだけですかと、子反は思いがけない答えに戸惑いの声をあげた。


「楚軍では、左軍は(むしろ)を追い右軍は(ながえ)する、と聞いております。子重どのは王の先を行き、その道を拓く臣ですが、司馬どのは傍にあって王を輔弼する人ですので、司馬どのの下に伺いました」

「面白い考え方だな。ならば、もし私が宋に陳情する必要に迫られれば、その時は宋公の寝所に忍び込むことにしよう」


 諧謔のつもりであろうが、子反としては笑えない。一国の君主が、他国の君主の下に微行して向かうなど、ありえないことである。しかし、実際にそれに近いことをやってのけた華元は、小さく口元を綻ばせた。


「さて、そろそろ夜も更けてきたゆえ、これが最後の問いだ。寡人(わたし)は今、酔っていて、明日には忘れてしまうであろうから、正直に申せ」

「何ですかな?」

「宋は楚に――いいや、おぬしは私に、負けたのか。それとも、勝ったと思っているのか?」


 大胆で、しかも華元にとってはとても答えにくい問いかけである。しかし聞かれた華元はどこまでも悠然としており、むしろ、聞いている子反のほうが気が気でなかった。

 俯瞰して見れば、楚は武威によって宋を降し、盟下に加えたのだから、楚の勝利であろう。しかし、宋という小国が楚に八か月に渡って囲まれながら城下の盟を免れたのは、宋の実質的な勝利と取ることも出来る。

 少なくとも熊旅には、宋を亡ぼせなかったという想いが確かにあり、その事実を華元はどう考えているのか知りたかった。

 ただし子反の胸中としては、


 ――恥を忍び、無難に返答していただきたい。


 と、憂色を帯びた貌で華元に目語した。その陳情が華元に届いたからなのかは分からないが、


「我らのような小国は、徳を慕って覇者の盟下に参じるものです。勝敗で語ることではございません」


 と、答えた。


「そうか。まさに、華右師の申す通りである。寡人(わたし)の問いが適当ではなかった」


 熊旅はそう言って頷くと、それ以上、華元に言葉を掛けることはなかった。やがて華元は、老齢に夜の風は厳しいからと言って、二人に断って先に席を辞した。

 華元の姿が見えなくなってから、熊旅は暫くの間、ぼんやりと杯を見つめていた。まだ半分ほど酒が残っており、帷幕の中の炬火の灯かりに照らされて、杯中が淡く輝いている。


「私は、負けたのであろうな」


 熊旅は、小さく零した。

 邲の戦いの後には掴めそうだとさえ感じた天とは実は幻想にすぎず、慮外の大勝に目が眩み、天を憚る心の(すくな)くなっていた熊旅に、天は宋と華元とを通じて戒めを与えたのである。そう思えてならなかった。


「罪を犯し利を貪るものは、やがて天意によってその咎を受ける。まだ幼い日に、私は陽樊(ようはん)の公孫どのにそう教えられたはずではないか。長く戦陣に身を置く中で私は、そのことを忘れてしまっていたようだ」


 囚われの車中にあった昔日に想いを馳せながら、哀愁を吐く。口を挟んでよいものかと悩んだが、子反は、虚空に向けられたはずの言葉に私見を述べた。


(わたし)はそうは思いません。もし天意が王を罰そうと思し召しであれば、晋を通して楚を潰滅していたでしょう。天意は未だ楚から失われておらず、倨傲に傾きそうになった王を戒めるために、天は華元を通して王を諫めたのではないでしょうか?」

「司馬は、良いものの見方をするものだな。しかしまあ、負けたのだと思っておこう。天を畏れるとは、そういうことだ」


 熊旅は杯を手に取って、残っていた酒を一息に吞み干した。

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