覇業の完成
子反は、どうにか体を立て直すと、牀を出て老人のほうを見た。寝衣のまま、華元を名乗り、地に膝をつく男を見た。
――見たことがないほどに痩せこけているが、それを除けば、どこにでもいるような、凡庸で無害そうな老人だな。
そうとしか思えない。その感想が、かつての子重の言葉と重なったことで、確信した。
――この老人こそが、華元である。
子反は楚の重鎮であり、その寝所には衛兵もいる。しかし咎められることなく、単身、子反の元へ訪れたのだ。普通の老人に為せることではなく、しかしどう見ても、特筆するような才気というものが見られない。かつて子重が感じたという薄気味悪さを、子反も今、味わうこととなった。
「ともかく、暫し待たれたい。衣服を改めてきます。宋の右師と寝衣のままお話しするのは不敬にあたりましょう」
「先に不敬をはたらいたのはこちらであるにも関わらず、恐縮でございます」
慇懃に稽首する華元を置いて、子反は一度、奥へと下がった。着替えたいといったのは、半分は華元に語った通りの理由であるが、もう一つは、衣装を改めながら少しでも冷静さを取り戻さんと考えてのことである。
やがて、礼服に着替えた子反は、再び華元の前に現れる。華元は、変わらず額を地につけたままであった。
「顔を上げられよ、華右師。今は敵対しているといえ、貴方は宋の第一位であり、私は楚の司馬に過ぎません。貴位にいるのは貴方なのです」
「今や、亡国を背にした小国の一臣でございます。大陸に覇を唱える大国、楚の司馬たる公子より貴いとは思っておりません」
華元の言葉は正しく、子反は恫喝して追い返すことも、無礼を口実に一刀のもと斬り伏せることも出来る。それをしたとて、咎めを受けることはないだろう。
だというのに子反は、ただひたすらに、
――やりにくい。
と感じていた。まるで師父を下段に置き、上段で座しながら講義を聞いているような心地である。恭しく頭を下げられているのに、自分のほうが偉いとは少しも思えなかった。
しかし、固辞されてしまえば仕方がない。子反は、どういう訳で単身、自分を訪ねて来たのかと聞いた。
「寡君より、命を受けて参りました。商丘の窮状を楚人にお伝えするように、と」
「商丘の惨状とは?」
「はい。今、城内では食う物に困って、互いに子を交換して食べております。また、薪もなく、人骨を折りくだいてその代わりにしております」
子反は思わず息を呑んだ。想定はしていたが、実際のその渦中から訪れた者に言われると、凄絶さが眼下に浮かび上がってきそうである。静かに、淡々と語る華元に気圧されそうになりながら、子反は堪えた。
――水は水でも、これは江の激流がはじけて襲い掛かってきたようなものではないか。
これまで何度も戦場に身を置きながら、一度も味わったことのない重圧が子反に迫る。
情に訴えて、囲みを解かせるつもりかと考えた。しかし、そんな浅薄な考えで、命を賭けてやってきたとは思えない。商丘からここまでは、幾重にも兵が垣根となって連なっている。その間隙を縫って子反の下を訪ねたとなれば、腹蔵するものがまだあるに違いない。
「君命とは、それだけですか?」
「いいえ、ここから先が、寡君よりの請願でございます」
子反は、思わず身構える。顔を伏せている華元は、言葉を続けた。
「今、我が国はまさに亡びんとしております。されど、宋は湯王の遠裔であり、商の徳が周に移った後には微子啓によって興った国です。たとえ将兵悉く死に絶えることになろうとも、城下の盟いだけは受けることは出来ません。ですが、兵を三十里退いていただけるのであれば、必ずや楚王の命に従うことを誓いましょう」
この時、華元は熊旅のことを楚王と呼んだ。周を支える晋覇の者は、楚の君主のことを爵位と合わせて楚子と呼ぶ。王といえば周王一人だからだ。しかるに今、楚王という呼称を使ったのは、楚に親しむ姿勢を見せたということである。
そして、そこまで言うと華元は、顔を伏せたまま立ち上がり場を去ろうとした。子反は思わず、声をあげて呼び止める。
「それだけでございますか? 他に、何か申されることはないのですか?」
「ございません。今の私はただ、主君の言葉をお伝えするためだけに参ったのでございます。寡君の言葉はこれがすべてであり、私心を語ることは致しません」
その言葉に裏はなく、答えると華元はそのまま去ろうとした。ただただ、文公の言葉と商丘の窮状を告げるためだけに、幾重もの死線を越えてきたのである。なんという決意、なんという胆勇であろうか。敵でありながら、その行動に子反の心は動かされ、敬意さえ抱いてしまったのである。
「分かりました。では、暫しお待ちいただきたい。私の車を用意させますので、それに乗って商丘までお送りいたします」
「ありがたきお言葉でございますが、気遣いは無用です」
「気遣いではありません。今夜の首尾を宋公に伝えていただけねば、後々の話もまとまらなくなってしまいますので」
きっとそのようなことをせずとも、この老人はこともなげに商丘まで戻るのであろう。そう分かっていても、子反として少しでも、華元の勇気ある行動に誠意を示したかったのである。
その篤心は華元に通じたらしく、一揖した華元は、
「では、司馬の好意に甘えさせていただくことにいたしましょう」
と、柔らかい声で言った。
子反は御者を起こし、車を用意させると、華元を商丘の手前まで送り届けさせた。御者は子反の腹心であり、華元の身分こそ伝えなかったが、
「人目につかぬように商丘までお送りせよ。そして、決して礼を失さぬように」
と言われたため、御者のほうも、
――この老人は、宋の貴人に違いない。
ということは察した。流石にそれが右師たる華元だとまでは分からなかったが、主人に恥をかかさぬようにと、子反を乗せている時と同じような丁寧さで車を御しながら、夜闇を縫って商丘の城門まで華元を送り届けた。
東の空が白みだした頃に、御者が帰陣すると、子反はさっそく熊旅の下を訪れた。
熊旅もまだ起きて間もないが、よほどの急用であろうと思い、招き入れた。
「昨夜、臣の下に華右師が参りました」
「なんだと?」
熊旅は目容に不審を浮かべつつ、怪訝な声を出した。子反がくだらない戯言を言う男でないとは知っているが、その上でなお不可解な言葉である。言葉を聞き違えたかとも思ったが、子反は確かに華右師と言った。華右師、すなわち華元である。
「おぬしは、夢でも見たのであろう。陣中で酒を過ごすはほどほどにせねばならんぞ」
「いいえ。昨夜は少しも酔っておらず、確かに私は、華右師と話しました」
俄かに信じがたいことである。しかし子反の目は、偽りでないと語っていた。
熊旅は子反に、華元と何を話したかを聞いた。聞き終えると、目を伏せて沈黙していたが、やがて子反を見て聞いた。
「司馬よ。おぬしはどう思う?」
「言葉には信が置けます。そして、我が軍の現状を鑑みれば、その通りにすべきかと」
子反は、鋭い声で答えた。その言葉を聞いてもなお、熊旅は心の中で逡巡している。
宋が正しく華元の言葉を実行に移すのであれば、戦は終わる。長く国を空けていることへの懸念もあり、ここで宋を盟下に加えることが出来るのであれば戦果として申し分ない。申舟との誓いも、十全ではなくとも果たしたことになる。
それでも熊旅が果断できずにいるのは、ここで華元の提言を受けてしまえば、覇国たる楚が宋に敗れたように思えてならないからであった。
迷う熊旅を見て、子反が発言を求めた。熊旅が許すと、子反は口を開く。
「王は先に、商丘に拘泥するは不毛とお考えになり、兵を退くことを考えなさいました。然るに申舟との誓いがあるために思いとどまられたのです。あの時に退いていれば、此度の出師はただ将兵を疲弊させるだけの愚行となっていたでしょう。しかし今、宋を盟下に加えることが出来れば、王の覇業は完成いたします」
「覇業の完成、か」
「はい。かつて周の武王は商を討ち、諸侯の上に立ちました。しかしその時には、まだ楚を従えておりません。今、武王より始まった我が国の雄張は邲の勝利によって結実し、この上、宋を盟下に加えることが叶えば、楚の版図は周の武王を越えるものとなるでしょう」
楚が諸侯として封建されたのは、周の武王の子、成王の時であるとされている。楚人はそう信じており、少なくとも、周の武王の威光は南にまで届いていなかったものと考えていた。
楚で初めての王の諡号は武であり、熊旅も、邲の戦いの後に武王の事績を挙げつつ、武という字義について語っている。楚人は周を興した武王という人を強く意識していたことに違いはない。それだけに、武王の版図を凌駕できるという子反の言葉は、大いに熊旅の心を動かした。
同時に熊旅は、出師の前に樊姫に言われた言葉を思い出していた。
『王が耳を傾けるべき臣とは、王の師を務めるに足る人を置いて他にいないでしょう』
子反は、子重と共に太子である熊審を教導している。ならば二人は王の師と言ってよく、あの時の樊姫は、窮した時には子反と子重の言葉を聞くようにと暗に告げていたのだと、今になって気づいた。
「兵を退く。子重には左右の軍を率いて先に郢に帰らせて、子反は寡人と共に中軍に残って宋の使者を待て」
「――了解しました」
そう決めてからの楚軍は速かった。雲霞の晴れるが如く、商丘を囲んでいた兵は南に動き出したのである。子重は命令どおり、左右の軍を率いて帰国した。そして熊旅は、商丘から三十里離れたところに再び陣を敷いたのである。
宋人が信義を守るかどうか、という懸念は、実は熊旅の中には未だにある。それでも兵を動かしたのは、華元を信じたのではなく、華元の言を告げにきた子反を信じたが故であった。
熊旅は自ら陣頭に立って、北を睨み続けた。その傍らには子反がいる。
日が天頂に至り、やがて西の方に消え入りそうになっても、動く影はない。熊旅は少しのいら立ちを見せた。
「もし宋人が言を違えたならば、おぬしはどのようにしてその罪を贖う?」
「その時は、我が家の烹人、獣師にこの身を差し出し、膳夫に命じてその肉を王に供させましょう」
烹人、獣師は煮方、肉料理人のことであり、膳夫は配膳係のことである。自らの肉を調理して食べられてもよいと言ったのだ。そして、そこまでの大言を吐きながら、子反は平静を保っている。華元は必ず約束を守ると信じているからだ。
熊旅は、小さく鼻哂した。
――大仰なことを言う。
かつて、蔿艾猟が伍参に対して、晋と戦って敗れればその肉を喰らってやると言ったことを思いだした。まだ、たった三年前のことであるのに、熊旅にはそれが遠い昔日のことのように感じられた。
いよいよ日も暮れかかり、心地よい涼風が吹き始めた頃である。北の地平に、旗を立てた車が見えた。
「どうやら、おぬしの肉と羹にはありつけそうにないらしい」
言葉と裏腹に、声は笑気を含んでいる。子反のほうは、安堵する様子もなく、当然のようにその影を眺めていたが、やがて、その車上にいる男の顔を見て目を見開いた。
その驚嘆は、熊旅には見えない。しかし、
「ほう。あれが、華元という男か」
と、面識のないはずの車上の男を一目見て、そう言ったのである。




