華元という人
籠城戦における勝敗について、『尉繚子』という兵書には、
『攻める者は、十余万の衆を下らず。それ必ず救うの軍ある者は、則ち必ず守るの城あり。必ず救うの軍なき者は、則ち必ず守るの城なし』
と記されている。たとえ十万を越える敵に囲まれたとしても、外部よりの救援軍があれば城は落ちない。しかし、頼みと出来る軍勢が外になければその城は必ず落ちるのだ。『尉繚子』は戦国時代に成立した兵書であり、当然ながら、春秋時代にその一節を知る者はいない。
しかし晋と熊旅とが解揚を通して援軍の有無を知らせ、商丘の戦意を操ろうとしたことから見て、戦の中に身を置く者たちにはそういう認識はあったのであろう。『尉繚子』はその戦争的感覚を記したものと思われる。
さて、ともかく解揚は、晋より援軍来るの報せを叫ぶことで、宋人の士気を回復させることに成功した。それが虚報であるとはいえ、すぐに知れ渡ることはない。
しかも、まだ解揚の言葉が詐りであると知らぬ熊旅は、いっそう焦りを強くした。そして、言葉に反した解揚に対して赫怒を見せたのである。
「この二枚舌の、不信者め。降りてくるがいい、その首を刎ねてやろうではないか」
熊旅は、自ら剣柄に手を掛けて罵った。しかし解揚は櫓から降りると、落ち着いた顔をしている。自らは寸鉄すら帯びず、目の前にはその背信に対して激昂した熊旅がいるが、怯むことはなかった。
「私の聞いたところによりますと、“君主が正しい命を下すのを義といい、臣はその君命を受けて行うことが信である。臣下が信を守り、君主の義を損なわぬように敢行することを利という。謀略のために利を失わぬようにし、社稷のために尽くすことこそが百姓の上に立つ者の責務である。故に君主は複数の命を出さず、臣下は異なる君命を受けることはない”と」
滔々とした引用である。しかし、熊旅はまだ怒りは収まらないながらも、これを聞いていた。
解揚の言葉には、熊旅を欺いたことを正当化する白々しさがあるが、同時に、人臣としての誠実さがある。堂々と自らの心境を語る解揚を見た熊旅は、
――この男は、はじめから死ぬつもりであったな。
と、わかった。
「貴方は私に賂をして自らに利させようとなさいましたが、それは臣下の信というものを知らぬが故でしょう。君命を受けて国を出たからには死は覚悟の上であり、私の死を以って命を完う出来るのであれば、他に求めるものはありません」
その言を聞いて、熊旅は解揚を許した。解揚を殺してしまえば、決死の覚悟を見抜けなかった自らの不明を示すこととなる。失態の上にさらなる醜聞を重ねてまで、ひと時の怒気を鎮めようとは思えなかった。
解揚の言葉で、商丘を守る宋の将兵は息を吹き返したといってよい。糧食は減り、武器の刃が欠けても、晋の援けがいずれあることを望みとして、防戦に努めたのである。
引き換えに、楚軍の動きは鈍い。
元々が熊旅の独断から始まった戦であり、しかも、苦戦を強いられている。この上、後背を晋が脅かしてくるかもしれないと思うと、当然のことであった。
熊旅は子反に、司馬として兵を鼓舞することを命じ、子重には晋の動向を探らせた。
すると暫くして子重から、思いもよらぬ話を聞かされたのである。
「晋軍は、来ぬというのか?」
「はい。何人もの偵者を放ちましたが、晋が兵を東に出したという話は一つとしてありません。また、盟下にある国が動く様子もありませんでした」
「すると、なんだ。解揚の君命というのは、偽の報せを宋人に与えて、一時の希望をもって劇薬のように半死人を暫しの間だけ立ち直らせるための策謀であったということか?」
熊旅は、口元をわなわなと震わせている。子重は当惑しつつも、そうかと思われますと、短く返した。
たまらず、熊旅は机を蹴り飛ばした。それは解揚への怒りであり、それを許した自らの甘さに対する非難であり、そして何よりも、晋の君臣に対する憤慨であった。
「情けなく、嘆かわしい!! これが覇者のすることか? 諸侯の盟主たる者のすることか!! 譎詐とは敵に用いるものであり、自らを頼みとし、庇護を求めている者に向けることではない!!」
昂然として叫びながら、熊旅は心に決めた。
――必ず、宋を城下にて盟わせてやる。
城下とは、攻め寄せた敵国の都のことを指す。武力を以って攻め落とした地で盟を行わせるということは、亡ぼすのと同義であった。
いずれ宋も晋の欺瞞を知ることになるでろう。そうなった時、信じた礼節や信義というものがいかに空しく虚ろなものであったかを知らしめてやらねばならない。正義という名の華燭に照らされて、その奥に陰黠な欲を隠した盟主を抱いたのだと、後悔させてやらねばならない。
熊旅は、強くそう思った。
熊旅の前から退いて、子反と子重は顔を見合わせた。
「王は少し、眼前が蒙くなられているのではないか」
子反は、言葉を選びながらも、はっきりと子重に言った。二人は共に臣下であり、今や楚の軍事と政務を担う重鎮であり、そして熊旅の兄弟である。それ故に、他の臣下とは話せないようなことも腹蔵なく晒し合えるのであった。
今、熊旅の長陣に対しては兵を抱いている貴族、大夫たちの間から懐疑の声が挙がってきている。これは向後の士気、戦況にも影響するし、何よりも、楚王としての熊旅の威信に関わってくる。
「いいや、確かにこの苦戦は予見せぬものであった。しかし、宋の華元はなかなか侮れぬ男だぞ。ああいう人物が右師であると思えば、宋が晋に就いているということは脅威であるといえよう。故にこの戦いにて、確実に膝をつかさねばなるまい」
「子重どのは、華元という男を重視しておられるのですね」
子反にはそれが意外であった。子反としても、熊旅ほどに宋を軽んじ、華元を侮る気持ちはない。司馬の要職にある身として、敵を見下すことはしてはならないと、常々戒めている。
ただし、楚宋の国力を鳥瞰した上で見れば、楚が優位であることは揺るがぬ事実である。そう考えている子反にとって子重の言葉は思いがけぬものであり、あるいは自分の見落とした何かがあるのではないか、という気になってきた。
「あれは、水のような男だ」
子重はそう言った。よく分からぬ喩えである。今一つ要領を得ない様子の子反を見て、子重は言葉を重ねた。
「お前は、剣を手にして水に克つことが出来るか?」
「克つ、ですか? それは、難しきことかと」
そもそも、何を以ってすれば水に克ったと言えるのかさえ分からない。
「ならば、泉から浩々と湧き出でる水をすべて飲み干すことはどうだ?」
「出来ません」
「そうであろうな。華元という男には、そういう得も言われぬ底知れなさがある。しかし別に、剣で水に克てず、泉の水を飲み干せなかったところで、人は困りはしないのだ」
そこまで説明されたところで、ようやく子反にも呑み込めた。華元の恐ろしさというのは、敵対することで初めてわかるということであろう。しかも、わざわた戦おうとせねば無害であるがために、つい侮ってしまうのだ。
子反は、数か月に渡る包囲戦をもってしても未だ陥落しない商丘のほうを見た。大仰な比喩が、過度に敵を恐れての言葉でないことは分かる。
しかし不思議なのは、子重という人がここまで華元という宋の大夫に精通していることであった。
「前に、宋を攻めた時に一度だけ顔を合わせたことがある」
子重の語る出師があったのは、夏氏の乱の年のことである。同じ年の春に鄭が楚に与した。しかし鄭はその前年には晋の盟に参加していたのである。楚の兵がさればまた晋に就くやもしれぬと思った熊旅は、晋が諸侯を率いて鄭に向かうことがないようにと、掣肘のための出兵であった。
ただし効果は少なく、鄭は再び楚の下を離れたために、翌年に邲での会戦が起こったのである。
とはいえ、子重はいちおう、宋の挙動を封じ込めるという任務には成功していた。その時に、華元と会談していたらしい。子反には初耳の話であった。
「子重どのは、華元とどんな話をされたのですか?」
「大した話はしていない。こちらが兵を退くのであれば、宋は暫くの間、静観している。そういう約束を交わしただけだ。穏やかで人はよいが、闊達な弁舌などは持ち合わせず、市井にいる門番の老爺のような男であったよ」
子重の言葉は、どこか鈍い。まるで実在しない妖異のことでも語っているようであった。しかしその評は、凡庸な人であると語っている。
「私も、これよりうまく表す言葉を持ってはいない。しかし一つだけ言えることは、凡庸に見えるからこそ恐ろしいということだ。今の宋公は祖母と繋がって兄を謀殺し、即位した人物だぞ。そして、即位から今日に至るまで宋で右師といえば華元ただ一人だ。しかも、不悌を晋に攻められながらも楚の盟下に降ることなく、逆に晋を説き伏せている。このように知略と胆勇を以ってのし上がった主君が、凡夫を執政の座に置き続けることなどありえない」
「それは、そうですな」
「しかし、私の目に華元は、どうしても平凡な男にしか見えない。華元の底知れぬところは、そこだ」
子反はようやく得心した。子重が、水のような男と言ったのも頷けた。
話しているうちに段々と、子反は商丘の長陣に不吉なものを覚え始めたのである。退いたほうがよいのではないか、とさえ考え始めた。
――だが王は、未だ剣を振るって水に打ち克ち、従わせようとしておられる。
臣として諫めるべきであろうか。しかし、今の熊旅に対してそのような進言をしようものならば、叱責を飛ばされるに違いない。ともすれば、それよりも重い処断を下されるかもしれない。
幸いにして晋からの援軍は来ず、解揚の言葉によって昂った士気は、それが詐妄であると宋人が知れば激しい落胆と虚無に転ずるであろう。そうすれば、宋を降すことも出来るかもしれない。
子反は、半ば自分を説き含めるようにそう考えた。




