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蒼天の比翼  作者: ペンギンの下僕


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天意

 楚の商丘攻めは、熊旅の廟算を越える長きに渡った。

 ここで拱手していては、楚の威信にかかわる。といって、力攻めで()とせぬものとなると、同じ方策ばかりを続けるわけにはいかない。それはいたずらに兵を死なせる愚策である。


 ――宋人が挫けぬのは、孤立が未だ目に見えぬからではないか。


 そう考えた熊旅は、視線を北に向けた。宋の北には()という国がある。

 魯はさらに東方の(せい)と親しくしており、晋覇にも楚覇にも属していなかった。これは魯の独立性というよりも、晋楚の武威が東方にまで及ばなかったと見るべきであろう。さらに言うのであれば、晋楚は鄭の去就に重きを置いており、東方の諸国を注視していなかったのではないか。

 そのために、この頃の東方は、中原で晋楚が盛んに競い合っている中で、そういった南北の争いに乱されない風が吹いていた。しかし、楚が大挙して宋を攻めたとあっては、座して眺めていることは出来ない。宋は中原ではやや東寄りの国であり、楚によって滅ぼされれば、いよいよその戈矛は魯に向けられるかもしれない。

 熊旅は、そういった危機を静かに煽った。

 そして魯でも、やがて楚に(くみ)そうという意見が持ち上がったのである。

 魯の大夫、孟献子(もうけんし)は、主君たる宣公に言った。


「小国が大国に攻められ、滅ぼされぬためには進物をするしかありません。しかもそれは、大国との間に嫌隙が生じる前でなくてはなりません。もしこれが、関係がこじれ、攻め込まれた後であっては、どれだけの財貨、珍品を献じてもその難を逃れえぬものです」


 孟献子が楚と宋のことを語っているのは明らかである。その後、孟献子は宣公に、礼物を献上して楚に親しむべきであると進言した。そして、年が明けると、公孫帰父(きほ)という人を、商丘攻めの最中にある楚の陣に派したのである。

 魯は宋と並ぶ古い国であり、しかもその祖は、周の開祖たる武王の弟、周公旦(しゅうこうたん)である。周の権威の中では格別の国であるが、今は小国であり、孟献子の言葉は、小国故の処世術から出たものであった。


 ――もはや、宋は助からぬ。ならば今のうちから、楚に近づいておくほうがよい。


 少なくともこの時は、これが魯の君臣に通じる想いであったのだろう。

 陣中を訪れた魯の使節を、熊旅は喜悦をもって受け入れた。そして、商丘に聞こえるように盛んに喧伝したのである。これで、東方からの救援という望みも絶えたことになり、その事実を示して宋人の心を挫こうとしたのである。

 一方、宋の君臣も、座して亡国を待っていたわけではない。楽嬰斉(がくえいせい)という人を晋に派して、援軍を請うた。晋が兵を出してくれる望みは少ない。だが楽嬰斉としても、


 ――宋は礼を貫いて亡ぶ道を取った。しかし、諦観を以って待つのではなく、最後まで、生き延びるための最善を尽くさねば、意味がない。


 という激情がある。その熱を全霊に込めて、晋侯の前で熱弁をふるった。

 晋侯、景公はその言葉に心を動かされ、宋を救援せねばならぬと思った。覇者としての責務から目を背けてはならぬ、という想いもあっただろう。

 しかし、この意に反言した大夫がいた。伯宗(はくそう)という人であり、彼は景公に、


「鞭の長きと(いえど)も馬腹には及ばず、という言葉がございます」


 と諫言した。どのような物であっても、出来ぬことはあるとの喩えである。


「今、天は楚に命を授けております。いかに晋が強いといえど、天が(よみ)している者と戦ってはなりません」


 あくまで一大夫の言ではあるが、晋は楚を天意と見なしたのである。邲の敗戦より今日までの間に、晋の朝廷では、


 ――今の楚と戦ってはならぬ。


 という重圧がのしかかっていたのであろう。邲の敗戦はそれほどまでに致命的なものであり、まだ記憶に新しい。その惨敗のことを思いだして、景公は慄然として背を震わせた。

 伯宗は粛々と、天意に刃を向けてはならないと説いた。ただし、永久に楚と戦ってはならぬと言ったのではなく、あくまで、今の楚と戦うことを戒めたのである。

 ここに、天意とは不動ではなく、その時々によって変遷する流動性を持っているという思想が現れている。自らの上に天意がなければ、それを有する者を憚ることこそが是であり、そのために一時の恥を忍ぶことこそが天の望みということになる。

 楽嬰斉は、晋の君臣がこういう話をしているのを、如何なる心境で聞いていたのであろう。楽嬰斉のいる場でのやりとりではなくとも、晋の挙動を見ていれば、感じ取れる思想はあったに違いない。


 ――晋の語る天意とは、所詮、力か。


 楚の宋への出兵。その経緯を知っていれば、楚に大義がないことは道理に昏い孺子でも分かる。しかし晋の君臣は、不義の大国を指して、天意であると評した。言葉に荘厳さはあるが、結局はただ、楚の武威を懼れ、戦えぬ方便として天意という言葉を使っているに過ぎないではないか。

 楽嬰斉は、思わず空を仰ぎ見た。

 宋は亡びるであろう。それも、人の手によって都合よく曲解された、野蛮なる天意によって踏み躙られるのである。

 使命を果たせず、悲嘆に暮れる楽嬰斉を、晋人はどう遇したのであろうか。

 憐れんだか。あるいは、後ろめたさを隠すためか。晋は一つだけ、宋のために行動を起こした。大夫の解揚(かいよう)を宋に送ったのである。

 しかし、解揚が帯びた命は、実に欺瞞と背信に満ちたものであった。宋が楚に降らぬよう、晋は大挙して宋に向かっていると喧伝させるためであった。

 これは景公の再びの変心などではなく、ただ虚言を以って商丘の落城を延ばせば、その間に何かが変わるかもしれないという願望からくるものであろう。

 天意という曖昧模糊な言葉を使わず、より仔細に書くのであれば、熊旅の生死である。商丘はこのままだと確実に()ちる。だが、その前に熊旅が不慮の死に倒れれば、宋の命運は保たれる。

 人の生死は定かではなく、熊旅はまだ壮年といえど、不運が訪れぬと言い切れはしない。そのようなものに望みを託すくらいのことしか、今の晋には出来なかったのである。

 ともかく、解揚という大夫は宋へと車馬を走らせた。

 しかし、晋から宋へ行く最短の(みち)となると、鄭を通らなければならない。楚の盟下にある鄭は解揚が楚にとって不利な人であると見て抑留し、熊旅の元に送り届けたのである。

 熊旅は解揚のことを知っていた。

 かつて蔿賈が北林の地で晋を破った時に、一人の大夫を捕えた。その大夫がこの解揚だったのである。


「賠償によって帰国したというのに、今またこうして寡人(わたし)の下を訪ねてきたとは、大夫はそれほどまでに寡人(わたし)の徳を慕っていたのだな」


 熊旅は諧謔の言葉を解揚に投げかけた。そして、陣中に留めて厚遇し、礼物を多く与えた。

 その間に、解揚が使者として宋に来たわけを探らせたのである。

 ない、と断じていたが、解揚が東へ来たとなると、晋が兵を出すことを決めたのかもしれないと、それを恐れた。


 ――晋には、まだ士会がいる。私が士会の立場であれば、兵を出す。


 熊旅は、まだ年若い頃の庸、百濮(ひゃくぼく)の乱のことを思いだしていた。

 その朝議の場に熊旅はおらず、後で聞いた話だが、蔿賈は、反撃を受けないと思って出兵した者は、反撃の兆しを見ると退く、と言った。軍容はまるで違うが、今の楚はかつての庸、百濮と同じである。晋は兵を出さぬと高を括っているからこそ、大挙して宋に攻め寄せているのだ。

 今、楚は三か月を越え、年をまたいでの長陣に倦怠を見せ始めていた。ここに晋軍が来るとなれば、戦いの趨勢はいよいよ分からなくなってくる。しかもその帥が士会であれば、熊旅としては撤兵さえ視野にいれなければならない。


 ――そうなる前に、なんとしても商丘を攻め落とさねばならない。


 焦った熊旅であるが、一つの妙案を思いついた。商丘からよく見えるところに櫓を立てさせたのである。そして解揚には、


「晋の援軍は来ぬと、商丘の者らに告げよ。承服し、その通りにすれば、そなたは死ぬまでの富貴を手にできるであろう」


 と、甘言を囁いた。その背後には、唸るほどの金品を並べている。無論、言葉の裏には剣刃が潜んでおり、拒絶すれば死を免れない。解揚は三度断ったが、ついに折れて頷いた。

 熊旅は嬉々として、解揚を櫓に乗せると、宋人に呼びかけた。まさに、解揚が叫ぼうとしている。


 ――これで、商丘は落ちた。


 籠城戦における要訣とは、その城を援ける軍があるかどうかである。宋は元よりそういう者を頼みとしていなかったであろうが、楽嬰斉を派したということは、三か月の防衛戦の間に、決意に揺らぎが出た者もいたということであろう。

 助かりたいと望む者がいるのであれば、その心を攻めればよい。それが熊旅の考えである。晋は宋に援軍を送らないと解揚が叫んだ瞬間に、宋人が助かる望みは完全に断たれるのだ。


「晋は、三軍を率いて出陣した。もう間もなく商丘に着くであろう!!」


 だが、熊旅の意に反して解揚は、受けた任の通りの話を宋人に向けて叫んだ。

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