鄙我亡也
申舟の死を聞いて、楚の朝廷は騒然とした。
とりわけ驚いたのは熊旅である。自らの不見識と侮辱を、心から愧じた。
――宋が、あの華元が、ここまでやるとは。
申舟を見送った時に感じた危殆が、臣の死という結果で現れたのである。顔面を青白く染め、しかしやがて怒りで赤く染めると、熊旅は礼服の袂を揺らして立ち上がり、駆け出した。
「出陣である。ただちに、宋を攻める」
そう言うと熊旅は、身に寸鉄すら帯びることなく駆け出した。慌てたのは群臣たちである。過去に、ここまでの迅速さをもって決められた出陣はなかった。
この時の熊旅は履もはかず、自らの足で走ったというのだから、その狼狽と激昂は相当に烈しいものであっただろう。朝廷の外で従者が追いついて剣と履とを持参し、城市まで走ったところでようやく車騎が追いついた、というほどである。
主君たる熊旅がこうなのだから、楚の廷臣たちが兵を率いて城門を越えるには、さらなる時を要したであろう。郢を出た時の熊旅には、その背に追従する戦車は十乗となかったに違いない。
誰よりも早く熊旅に追いついたのは子反であった。熊旅がそうであるように、楚の要人でありながら、その車騎の後ろを走るものはない。司馬という軍事の要人であるが、その身には胸甲すら着こんでおらず、戦陣に向かぬ礼服のままである。何を置いてもまず熊旅の下に向かうことを一義として進発したという装束であった。
「王よ。暫しお待ちください。王がいかに勇壮であれど、車騎の一乗で戦うことは出来ませんぞ」
「側か。案ずるでない、我が国の誇る大夫と麾下の強兵たちならば、一両日のうちに追いつくであろう」
側とは子反の諱である。他の者は子反を字か官職で呼ぶが、唯一、主君たる熊旅だけは子反のことをそう呼べるのだ。
「追いつくでしょう。王が一人で行って宋人の凶刃に倒れられれば、邲の大勝が水泡に帰します」
「おぬしが分かっておるのであれば、楚の廷臣は一様にそう思っているに違いない。一日一舎を越えて、快足で宋に向かわねばならぬぞ」
長髪を風にたなびかせながら、熊旅は力強く叫んだ。その顔は子反から見えない。そもそも、主君の顔を覗き見るということ自体、不敬である。しかし声と振る舞いからだけでも、分かることはあった。
「王は、逡巡しておられますな」
「……なんだと?」
熊旅の声が剣気を孕んだ。先ほどまでの怒声は宋に向けられたものであったが、今は、それは子反に向けられている。
「宋は所詮、小国です。しかも、先の蕭援助の報復に際しても、その地を侵す程度でお済ませになられました。今、我が国の大夫を殺されたからといって、王親ら出征されることはございますまい」
子反の言葉には、道理があった。
「王は先に申舟と交わした誓言を主君の責務として為さんとお望みなのでしょう。そして、我ら朝臣の諫言、反弁を封じ込めるために、このような火急の出師をなさったのではありませんか?」
「どうせ兵を出すのに、不毛な軍議など要るまい。少勢を繰り出してせせこましい消耗を繰り返すくらいであれば、大軍を以って併呑すべきである」
熊旅は舌鋒を激しくしたが、しかし子反の言葉に強く言い返せないでいる。
楚の軍隊とは、前にも書いたが、どこまでも貴族、士大夫の私兵を総括したものなのである。故に王が出師を行うには彼らを朝議にて納得させる必要があり、此度のような、王の独断による出兵というものはまずありえない。
それでも子反が言った通り、いずれ貴族たちは兵を率いて参じるだろう。宋を攻めることは、楚国の利となることでもあるからだ。
ただし子反としては、どうしても、熊旅の親征に対して思うところがある。
そしてこれは、熊旅としても感じているところであった。
戦いを恐れるわけではない。しかし、言い知れぬ薄気味悪さがあった。熊旅が、子反のような争臣を封じ込めるかのような専断に出たのは、それを振り切るためであり、諫められれば、心変わりしてしまうかもしれぬ自分を恐れてのことであった。
「……とにかく、寡人は征く。もう、何も言うでない」
それは、車上の風に吹き流されそうな小さな声であった。
子反は、この場でこれ以上の諫言は意味をなさぬと悟り、一礼すると、それ以上は口を開かなかった。
さて、宋国である。
熊旅は、いかに横柄と不遜を貫いても、申舟を殺すことはあるまいと見た。それは全くの検討違いというわけでもなく、宋の朝廷としても、許諾なしに自国を通過せんとした申舟を捕えた後には苦慮の葛藤があった。
当代の宋公は、後に文公と諡される人である。その在位は、始まりから波乱に満ちたものであった。文公は、かつて成王に敗れた襄公の孫であり、一代前の宋の君主は兄である。しかしその治世は悪しきものであり、襄公は兄を討って即位した。
華元はこの時には既に宋で右師であり、文公と華元という君臣の統治は内訌から始まったことになる。しかも、擾乱によっての即位であったため、晋に問責の兵を派されてもいる。さらに、即位して間もなく、兄の遺児を擁しての乱にも見舞われており、兵火の難を知る人であった。
しかし一義な国であり、文公と華元は、これまでに一度も楚の盟下に参じたことはない。その心情は晋に傾いていたのである。
しかし、邲で晋が大敗したことで、武威による庇護は減衰した。今の晋に、楚に攻められた国を援助するだけの力はない。
それだけに、申舟をどう遇するべきかについて、宋の人は頭を抱えた。
楚は宋を侮っている。といって、宋は独力で楚に勝てないし、晋は盟主として頼むには心もとない。楚王の侮辱と傲慢は、大陸の力関係を俯瞰した上では正しいものである。
――いっそ、楚の盟に参じてはどうか。
そう思った廷臣はいたに違いない。それが国を全うし祭祀を続けんとする忠義か、単なる保身であったかは様々だろうが、そういう雰囲気はあったであろう。今の楚は、まさに天を衝く勢いなのである。
無言の圧に、文公の思考も流されつつあった。楚の挑発に屈するのは耐えがたいことであるが、それを受けるということは、臣民悉くに死を命じるに等しい。度々の戦火に遇い、兵難が百姓にもたらす塗炭の苦しみを見てきた文公は、心を曲げて民を安んじるのも君主の責務ではないかと考えたのである。
しかし、朝廷が厭戦に傾きつつある中にあって、申舟の処刑を唱える臣がいた。右師の華元である。出目大腹という容姿のこの老宰相は、鼓舞するように裂帛の気勢を吐いた。
「楚が我が国を通るのに許しを求めようとしないのは、我らを鄙しんでいるということである。鄙しまれたということは、国が亡んだのと同義である。といって、ここで使者を殺せば楚子は宋を討って滅ぼすだろう。どちらにしても、宋は亡ぶのである」
鄙しまれたことは亡国に等しい、とは過激な言葉である。しかし、宋は小国といえど、歴とした中原の主権国家なのである。それを、治める者なき荒野のように扱われたのだ。華元の言葉は最もである。
まして宋は、礼節の国であり、楚は宋人の尊厳を踏み躙ったに等しい。
「我らの先祖は、徳なくして天命を周に譲った。しかし今、楚は徳に努めず、ただ暴威のみを以って大陸に覇たらんとしている。子姓、商の裔として屈してはならない」
宋の国祖は、周の前に王朝を主催していた商の一族である。宋の公子で、襄公の兄でもある子魚という公子はかつて、
『商は天に棄てられて久しい』
と言った。これは宋人すべてが根底に抱える思想であったと思われる。
しかし、ただ天の好悪のみで繁栄と凋落とが定まるのが世の中であれば、生きることはとても苦しい。
やがて商の遺民は周王の元にある九鼎を想いながら、天意は有徳の人に遷るのだと考えることで落魄の寂莫を埋めてきた。
宋が周の天子を尊ぶ晋に與してきたのにはこういう背景があり、ただ暴乱なだけの楚に膝をつくわけにはいかない。それが華元の主張である。
文公は、揺れた。しかしついに、申舟を斬った。同じ亡国であれば、楚と最後まで戦い抜くと決めたのである。尊厳を捨てて国を保つよりも、礼節に殉じることにしたのだ。
秋風が陣旗を軽やかに揺らす頃である。刈り入れは終わり、田畑が穂を切られた後の茎を露出されている季節に、熊旅は楚軍を率いて宋都、商丘を囲んだ。
遠望した商丘の城墻の上には、丹漆で装飾された甲を着た兵士が、戈を空に向けて立ち並んでいる。降るつもりがないことは明らかであった。
――申舟を殺したことを、浅慮と悔いるつもりはないらしい。
そう思いながらも、熊旅は使者を商丘に派した。ここで折れ、盟下に降るのであれば宋を滅ぼさぬと告げたのである。しかし宋は、これを拒否した。書簡には、宋は中原の国であり、南方の盟主に仕えるための礼法を知りません、とある。慇懃でありながら、挑発的な文面であった。
――宋公は、鄭伯とは違うらしい。
熊旅は、亡国を感じ取り、肌脱ぎとなり羊を牽いて軍門に下った鄭の襄公のことを思いだしていた。矜持の強い宋人は、恥辱という名の汚水を呑めぬらしい。清流のみを求めて渇き死ぬのが本望であるなら、その通りにしてやろうではないかと、返書を見た熊旅は城攻めに取り掛かった。
兵士たちは、長梯子を持ち、商丘に群がった。商丘は一国の都であるが、決して堅牢とは言えぬ城である。『春秋左伝』に楚と宋の具体的な兵差の記述はないが、楚が圧倒的な大軍であったことに違いはなく、宋は、城市として内包する臣民を含めても楚の半数にも満たなかったであろう。
しかし宋は、将兵一致して、楚の猛攻に耐えた。宋には頼みとするものはない。その先に死しか待ち受けとぬとしりながら、誇りを貫いて死ぬために、防禦戦に勤しんでいるのである。
勁烈を大陸に轟かせた楚兵であるが、宋兵の気概には空恐ろしいものを覚えた。晋が援助の軍を進発させたという報せはなく、近隣に宋を援ける国もない。晋の盟に従って危急の他国を救わんという義俠を持ち合わせる国は今や宋の他にないのだ。
何者にもすがれぬ孤軍でありながら、しかし戦意が衰えることはない。ひと月が過ぎ、二月を越え、ついに雪の舞う季節となった。三月という長陣になりながら、しかし楚軍は商丘を陥とすことが出来なかったのである。




