孟諸沢の怨み
晋に対して、慮外の戦捷を収めた熊旅は、黄河の水神を祀り、先君のために廟を作らせた。これは、自らの力ではなく天意と父祖の遺徳によって勝ったのだと示すものである。
さて、この戦勝に際して、潘党は熊旅に、
「晋の兵士の屍を用いて京観を作られてはいかがですか?」
と進言した。京観とは敵兵の死体をうず高く積み上げた髑髏台のことであり、大勝した時に示威と見せしめのためとするためである。さらに、勝利を形として残す意味もあった。
しかし熊旅はこの進言を容れなかった。
「武という字は、止戈によって為られている」
戈とは武器のことであり、暴力を抑えることこそが武の本質である、と熊旅は説いた。そして、周の武王の事績について語りだしたのである。
武王とは周の開祖であり、貪婪たる商の天子、紂王を斃した名君である。
しかし武王は、兵を用いて天子となりながら、干戈を収め、弓矢を嚢にしまうことで徳を示し、天下を保ちたいとの詩を作ったという。しかもその出兵は、あくまで暴君を討つことによって民心の安定を目指すためであったとも詠った。
「武とは、暴力を禁じて、兵を収め、大国を保全し、功績を立て、民を安んじ、百姓を鎮撫し、財を富ませるためのものである」
そう語り、此度の戦いでは暴威を振るい、兵を出した己の非を口にした。先に挙げた七つを以って武の七徳と称し、自分にはそのうちの一つもないと語ったのである。
「そもそも京観の由来とは、古の聖君明王が悪辣な者の首を挙げて作った、天下に不義を戒めるための台である。今の晋に罪と呼べる者はない。それだというのにどうして、寡人などが京観を作って功を喧伝することが出来ようか」
ここでの熊旅は、謙虚に振る舞った。
しかしその言葉の裏には、
――我が覇業はまだ半ばである。
という、想いがある。
此度の戦いでは大いに晋を破り、覇権は楚に移った。しかし、未だ晋は健在であり、その盟下に集う諸侯も多い。そう考えると、ここで足を止め、満足してはならないと自らを戒めたのであろう。
周の武王の名を出したことは、尊王ではなく、克己心の顕れである。京観を造るということは、覇業の完成であり、躍進の打ち止めを宣言したに等しい。未だ大功が武王に及ばぬのだから、そのようなことは出来ないと言外に告げたのである。
――今の楚には、風が吹いておる。あの日、囚われの車中から遠望することしか出来なかった蒼天が、今ならば、手を伸ばせば掴めそうではないか。
熊旅は不意に、右手を空に向けた。大きく開かれた掌には、空に触れているような感覚が、確かにあった。
熊旅の言う通り、邲で勝利したことで楚の威勢はますます盛んになった。
鄭の襄公と許の昭公が楚に参朝したのである。南方からの蛮風が、畿内を席捲していたのである。
その頃、晋では荀林父が中軍の将として、自害して責を負わんと晋侯に望んだ。この申し出は一度、聴許されたが、士貞子という人が晋侯に諫言したのである。
国相を自らの手で殺すは、他国を利する愚行である。そう説いた言葉が認められ、荀林父は許されて、再び正卿の地位に座った。ただし、軍令に叛いて南進し、敗戦の端を開いた先穀は、翌年にその咎を責められて族滅の憂き目を見ることとなる。
晋の覇道に翳りが生じ、逆に、楚は威勢盛んである。熊旅はこれを好機として、蕭の国を攻めた。この時、宋と蔡の二国が援軍として兵を出したのである。
この蕭であるが、国であるかどうか、少し怪しいところがある。というのも、先に左伝において、宋人が蕭の封人になった、とあるのだ。封人とは戍卒の長のことであり、そうなると蕭は宋の一邑ともとれる。しかし宋は、会盟の誓いを果たすべく派兵したようなので、宋と友誼のあった晋覇の加盟国と見るのが正しいのであろう。
さて、援軍に訪れ宋蔡の軍と蕭の兵は楚と交戦し、公子丙、熊相宜僚という要人を捉えたのである。熊相という語は、後にも、熊相禖という名が左伝に現れる。おそらく、楚の官職であろう。
とにかく、この二人は熊旅にとっては重要な臣であったらしく、撤兵を条件に助命を望んだ。しかし蕭人は熊旅の制止を聞かず、二人を殺してしまった。これが逆鱗に触れたようで、熊旅は蕭を囲み、ついには滅ぼしてしまったのである。
熊旅は蕭を滅ぼすと兵を南へと返したが、この一事から、宋を怨むようになったのである。しかも宋はこの後、楚に靡こうとした陳をも攻めてその咎を正したので、熊旅はいよいよ宋という国を、
――小国の分際で、正義をかざしおって。
と、苛立った。そして実際に、翌年、熊旅は宋を攻めた。
それは蕭を援けた宋への牽制としての派兵であったのだが、そこに、人としての熊旅の愠怒がわずかに含まれていたのである。この行動を、熊旅という人の君主としての頽朽の兆しだと見抜ける人は、楚の朝廷にいなかった。
一方で、邲の地で楚に敗れて以降、晋の挙動は鈍い。進んで楚と争おうとはせずに、背信、背盟の中小国を咎めることで威信を保とうとするようになっていった。
その象徴たる事件が、邲の戦いより二年後に起きた。『春秋左伝』にて、魯の宣公十四年と記されるこの年に、晋は鄭を恫喝すべく、諸侯より兵を集め、閲兵によって武威を喧伝したのである。鄭人に揺さぶりをかけるための行為であり、実際に脅威に感じた鄭の襄公は楚に赴いた。向後のことを相談するためである。
この時、鄭から楚への人質となっていた子良という人がいる。かつて鄭の朝廷にて、
『晋楚は徳を示さず武威を翳してばかりである。故に我らも信義を抱くことなく、晋楚が攻めてきたのであれば、攻めてきた国に与すればいい』
と言った人であった。襄公が楚に赴いたのは、国難に際して子良を鄭に戻してほしいと熊旅に頼むためでもあり、熊旅はこれを聴許した。
子良の考え方であれば、楚が強勢であれば、鄭は楚に叛かないということになる。今の晋楚を比肩すれば、明らかに楚のほうが勝っていた。子良は、それが分からぬ人ではないと見たのである。
――やはり、蒙昧なるは宋である。
宋は、鄭についで楚に近く、南北を晋楚に挟まれた国である。しかし、無節操に離合外交を続けてきた鄭と違って、その心境は晋に近しいと言える。何よりも、礼節と義を重んじ、現状が見えぬ頑迷さを唾棄していた。
しかし今の晋覇の諸国の中で、友国の苦難を救わんとする構えを見せているのもまた、宋だけであった。
つまり、宋を楚の盟下に置くことが出来れば、その時こそ完全に、晋を楚に屈服させることが出来るといえよう。
そこで熊旅は、申舟という臣を呼んだ。命としては、東方、斉への使者である。ただしその旅次には宋を通らねばならない。他国を横断するのであれば、その国に礼を尽くし、道を假りることを請わねばならない。
しかし熊旅は、
「宋に許諾を請うことはしなくてよい」
と、言った。これは、宋を挑発してこいとの、死を賭した命である。
申舟は、声を震わせて反言した。その君命の詭激もさることながら、申舟にはもう一つ、宋を懼れる理由があったのだ。
まだ楚の君主が穆王であった頃の話である。穆王は当時、楚の盟下にいた宋公と孟諸沢の地で狩りをしたことがあった。だがこの時、宋公が狩りの号令を聞きそびれ、動けないということがあった。
狩りは軍事演習に通じる。その不手際とあって、左司馬であった申舟は、職分として宋公の僕を鞭打った。軍人としては正しい行動であるが、人臣に過ぎぬ身の人に国君が辱められたとあって、宋の人は申舟を憎んだのである。
申舟もまた、自らが宋人の憎悪の対象となっていることは承知していた。それ故に、熊旅の言葉は、君命といえど承服できなかったのである。宋人に殺されることによって、戦いの口実を作る。それこそが熊旅の思惑であると感じたからである。
ただし、熊旅の思惑は違った。そして、自らの命が、死を命じるに等しいものと誤解されたのを悟って、安堵させるように笑貌を浮かべたのである。
「案ずるでない。宋に、敢えておぬしを殺す気骨ある者などおらぬ。宋の右師は、あの華元なのだぞ」
華元とは、かつて御者に肉を与えなかったがために敵陣に捨てられて虜囚となり、しかも賠償を踏み倒して遁走した男である。今もなお、その華元が宋における最高位の人であった。
そのことを知っている熊旅としては、宋に人はいない、と思っている。しかも熊旅はつい一昨年、囚われの身となった臣下を殺された報復として、蕭の国を滅ぼした。その惨状を目の当たりにしている宋人に、楚の臣を害することなど出来まいと考えていたのである。
しかもこの考えは、ただ宋を侮るだけのことではなかった。今の晋は、邲の大敗から未だ国威を立て直せていない。実は楚が蕭を攻めた少し前にも、晋は会盟を行っていたのである。しかし、蕭を救うべく兵を出したのは宋だけであった。
今の晋には、楚と正面切って戦うだけの力はない。そのことを知らぬ宋ではなく、晋の助勢なしに楚と戦う愚をするはずがない、というのが熊旅の見解であった。
しかし一方で、熊旅としても、敢えて外征を行おうとは思っていない。邲で大勝したといえど、楚にも疲弊はある。故に兵を用いず、その志を折ることで心服させようと考えたのだ。さらに言うのであれば、
――宋など、この程度でよい。
という心があった。
熊旅の言い分には、実際に宋公の僕を鞭打った申舟としても頷けるところがある。しかし、まだ懸念は拭えなかった。
「しかし、人の生死は、ただ天のみこれを知り得るものです」
と言うと、熊旅は、
「もしそなたの身に害が及べば、寡人が宋を伐って報いてやろうではないか」
と、力強く答えた。もはや、この任を辞することは出来ないと諦めた申舟は、死を覚悟した。
そして、国を出るに際して、その子である申犀を謁見させて欲しいと望んだのである。
熊旅に子の後見を頼む意味もあっただろうが、
――私の死後、王はどうかその言を違うことをなさいますな。
という、無言の圧力でもあった。ただし熊旅としては、遠く東方へ任を受けて向かう臣に、大度を与えた、というくらいにしか考えていない。
申舟の望みを叶え、東へ送り出した日の夜のことである。熊旅は、久しぶりに樊姫の下を訪れた。
つい先ほどまで、熊旅は悠然としていた。しかし、車上の人となり、やがて東の果てに消えていった申舟を見送ると、急に心が騒然とし始めたのである。こういう時、熊旅は必ず樊姫の下を訪れるのであった。
熊旅が来ると樊姫は、すぐに酒の支度をさせた。
「審は、近頃はどうしておる?」
胸中の不安をどう吐いてよいか分からず、無難に、我が子の近況を問いかけた。まだ成人していない子の養育は正后の役目であり、父といえど王である熊旅が容喙できることではないのである。
「子重どのと子反どのに、朝夕に学んでおります」
樊姫の挙げた二人は、共に熊旅の兄弟である。ちなみに子反は司馬であり、子重は、後に楚の令尹となる人である。また、先に邲の戦いでは楚の左右の軍の将を務めた人であった。今や、楚における軍政の要たる二人であり、太子たる審を教導するに申し分ない人物である。
それはよい、と頷くと、熊旅は粛々と酒を呑み続けた。
「何か、お話しがあったのではございませんか?」
玲瓏たる声で言われて、熊旅は口ごもった。
落ち着いて樊姫と言葉を交わしていると、急に、つい先ほどまでの自分を愧じる心が生じたのである。
邲の戦いの直後は、熊旅にもまだ己を戒め、倨傲を静める気持ちがあった。しかし、晋の惰弱を衰兆を見ているうちに、段々とその心が薄まりつつあったのである。此度の宋への対処は、その慢心がにじみ出したが故のものであったと、今更ながらに気づいたのだ。
「のう、樊姫よ。この先、もし寡人が窮したら、その時は誰の言を頼めばよい?」
「広く群臣の進言を聞き、善き言を用いなさいませ」
樊姫は、当たり障りのない言葉を返した。そもそも、熊旅の問いは、いかに賢妻といえども、一国の王が后に投げるようなものではないのである。それでも熊旅は、敢えて、と聞いた。
「王が耳を傾けるべき臣とは、王の師を務めるに足る人を置いて他にいないでしょう」
樊姫はそう言うばかりで、ついに、それが誰であるかと語ることはなかった。熊旅としてもさらに踏み込んで聞くことは出来なかった。
やがて、十数日ほどが経った。宋を通った申舟の末路が楚に知らされたのである。
申舟は、宋人によって殺されたのであった。




