邲の戦い
魏錡の他に、趙旃という人もまた、盟の使者たらんと偽って、楚陣に攻め入ったのである。趙氏であり、しかし過激な開戦派であるため、この人もまた趙氏の傍流の人であった。
これを見た郤克は、現状を危うんだ。もはや晋楚の将の思惑から外れたところで会戦が始まると見て、各軍に備えるように促したのである。
しかし先穀は、これに異を唱えた。というよりも、
「備えたところで何になるというのか」
と、浅慮にて一蹴したのである。無謀の渡河を敢行した時から、先穀という人には戦場において展望というものを持たぬ人であったことは明らかである。先穀の祖父は軍才を以って晋の覇業を翼佐した名将であったが、その兵略は三代を越えなかったようである。
「鄭人が戦いを勧めても従わず、楚人が和睦を求めても容れない。我が軍には定まった方針というものがないではないか」
先穀はそう、声高に批判した。しかしこの時、すでに晋楚の間で和睦の日時まで決まっている。先穀の言葉は個人的な感情に過ぎず、そもそも、中軍の佐でありながら将たる荀林父を差し置いて軍事を語ること自体、身を弁えぬ行為であった。
結局、晋の三軍の中で、郤克の言葉に従い、備えたのは士会の率いる上軍のみであった。
「諸侯同士が相見る時にも衛士を置いて備えるように、我らも防備を固めておこうではないか。守陣であれば、和睦の妨げにはなるまい」
それが士会の言い分であった。
さて、晋楚の小競り合いである。魏錡は潘党という楚の大夫によって撃退されたが、趙旃は、夜に楚陣の前に蓆を敷いて居座り、兵に命じて楚陣に攻め入らせたのである。
攻め込まれては、熊旅としても邀撃するしかない。この戦いは日が昇るまで続き、その末に趙旃は敗走した。熊旅は、これを追走したのである。
――一度目は、こちらにも楽伯の非がある。しかし晋は、再び攻めてきた。
熊旅にしても、忍耐の限度というものがある。ただしこの時の熊旅に、晋の帷幄まで攻め込もうという考えはなく、ただ趙旃を擒と出来ればそれでよかった。
しかし、運命とは数奇なものであり、熊旅のこの行動こそが、楚国の覇業を拓くこととなる。
晋人は、魏錡と趙旃が過度に楚を挑発することを懼れて、迎えの車を走らせた。魏錡を退けて帰陣しようとしていた潘党は、その車が巻き上げる砂塵を遠望して、
「晋が大挙して向かってきている」
と、叫んだのである。しかも、熊旅は兵を進めて晋軍を追っているとの報せも回ってきた。熊旅が晋軍の中で孤軍とならぬよう、楚軍は熊旅の後を追って出撃することを決めたのである。
この時、真っ先に進軍を命じたのは、非戦派であった蔿艾猟であった。
「迅速に進み出でよ。敵との距離を縮めるのに、受け身であってはならない。こちらから兵を進めて薄らねばならぬ」
と、兵を鼓舞し、熊旅に続いた。
この時に蔿艾猟は、“元戎十乗、以て先ず行を啓くとは、人に先んずるなり”、“人に先んずれば人の心を奪う有りとは、之に薄るなり”と説いた。
元戎とは戦車のことであり、戦車を陣頭に立てて出陣することで機先を制し、先手を打って肉薄することで威勢を削ぐ。これこそが勝利の要訣である、との意である。
蔿艾猟は内治を得手とする人であるが、内政と軍事が別たれていないこの時代にあって、楚の令尹を務めている人である。何よりも、蔿賈という名将の子であり、機を見るに敏であった。非戦を唱えていたことが嘘のように、晋軍への苛烈なる攻めを敢行したのである。
楚軍の大挙に、荀林父は狼狽した。
――戦って、とても勝てるとは思えない。
そう思った荀林父は、
「いち早く黄河を渡った者を賞する」
という、およそ三軍の将らしからぬ命を、軍鼓に乗せて発したのである。
将の動揺は、兵に伝播する。晋の中軍と下軍の兵は、競って舟に殺到した。
しかも、混乱した兵たちは目についた手近な舟に向かったので、やがて定員を越えて傾きかけた。そのため、先に乗り込んでいた兵士たちは、後から縋る兵の指を斬り捨てて舟を出したため、舟中には両手で掬えるほどの指が転がっていたという。
はじめは、趙旃を追っての進軍であった。
しかし後方から鬨の声が響き、しかも眼前では晋の中軍が戦わずして潰走している。
――どうやら、私の謀らぬところで、天意が転がりはじめたようだ。
熊旅は、そう思わずにはいられない。晋楚の賢人たちが互いに図り、会戦を避けんと奔走した。にも関わらず、晋は既に大敗したかのような醜態を晒している。天意という言葉の他に、熊旅は現況を現すことが出来なかった。
――しかしこれが天意であるとして、座して勝利を受けるだけというわけにはいかぬ。
ここで驕ってはならないと、熊旅は自らに言い含めた。そして熊旅のいう驕慢とは、何もしないということである。
既に大勢の決した戦いである。ならば、その勝ちを盤石とするために動かねばならない。
熊旅は、盟下の国である唐侯の軍と、潘党の兵に命じて晋の上軍に攻め込ませた。上軍――すなわち、士会の率いる軍である。
熊旅は、逃げる中軍、下軍を追わず、唐侯を先鋒として、全軍を以って上軍を攻めることにした。
楚は三軍であるのに対し、士会は一軍である。ならば士会は退くであろう。退かずとも、攻め切って士会を破ることが出来れば、最上の戦果となる。
さて、楚の三軍の標的とされた士会は、晋楚の軍が熱狂の最中にある中でも、怜悧な双眸を以って戦場と向き合っていた。
――この形は、晋楚の誰もが、今の今まで予期しえぬものであったに違いない。
そう沈思する士会にとっても、それは同じである。
小人の愚行とは恐ろしい。しかも此度の戦いは、共に大軍を有しながら、双方の将帥がそうと望まないままに、我欲に憑りつかれた者たちが血光を滾らせて走った果てに開かれたものである。
「楚の兵が迫っております。邀撃なさいますか?」
士会の下にいた、駒伯という大夫が聞いた。既に晋の中軍、下軍は潰走している。未だ壮健なのは上軍だけであった。しかも、ここで上軍までが圧し切られるということがどういう結果をもたらすか。上軍にいる者は皆、それを分かっている。だからこそ、迎え撃つや否やと士会に迫る駒伯の声は、昂然の気に満ちていた。
しかし実際に、楚軍の動きを見た士会は、
「いいや、退く」
と、短く言った。誰もが、その言葉を疑ったのである。
士会の軍才を知らぬ者などおらず、その機智を以ってすればこの逆境をも打破できると思っていた。しかし士会は、血気が満ちる陣中にあって、一人、落ち着いている。
「楚の兵の勢いは勇壮である。しかも楚子は兵を散らせず、一丸となってこちらに迫ってきているのだ。戦えば我らは間違いなく全滅の憂き目を見るであろう」
士会は、この戦いにもはや晋の勝機はないと見た。そして、そうと悟るや、退却を即断できるのが士会の非凡の顕れである。
「この上は、韓献子の言った通りに責を同じくし、兵を全うするを以って上策とする他にない」
そう言い切り、上軍の将の命を以って敢行した。ちなみに、韓献子とは韓厥のことである。
さて、撤兵を決めた士会であるが、無策のままに後背を楚軍に晒したわけではない。将としての巧拙は、攻勢よりもむしろ退き陣に現れるものである。
自ら殿軍となった士会は、楚軍の果敢な攻撃を受けながら、破れることがなかった。撤退の際の備えとして、その経路たる敖山の山中に、七重の伏兵をあらかじめ配備しておいたためである。上軍はついに、大きく兵を損なうことなく黄河を越えた。
ただし、晋国として見れば惨敗である。ここに晋の覇業は損なわれ、楚に移ったのであった。




