蔿艾猟と士会
晋楚が、一部の大夫たちによって会戦へと馬首を進める中、鄭から、皇戌という者が晋の陣営へと走った。しかもこの皇戌は、鄭の降伏は仮初のものであり、しかも今であれば楚は傲慢を見せているため、戦えば勝てる、と促したのである。
しかしこれは、どうも鄭伯の思惑ではないような気がする。だが皇戌に、晋楚を争わせる思惑があったことには違いない。しかも、この話を聞いた先穀は喝采した。晋軍の南進を強引に行わせた人であるので、当然である。
しかし、欒書という大夫は、皇戌に懐疑を向けた。
「晋楚は、固く結びついている。我が軍が勝てば鄭はついてくるだろうが、敗れれば、鄭楚の結束をより深くするものとなるでしょう」
欒書は非戦派である。しかし先穀にも、趙括、趙同という味方がいた。
ただし、先穀が血気に逸って交戦を望んでいるのに対して、趙括、趙同がそう望むのには、また違う思惑がある。
この二人は趙盾の父、趙衰の子であり、しかも趙括は趙盾がその死に際して後継として指名した人物である。しかし趙括と趙同には輿望がなく、実質的な趙氏の宗主は、趙盾の子である趙朔であった。
趙朔は欒書と共に非戦派である。故にこの兄弟は、厄介な甥と逆の意見を支持し、同時に、戦いによって武功を挙げようと考えていた。
そういう、趙氏における思惑の錯綜は欒書としても承知している。しかし、先穀の独行から始まった今の晋軍は、積み上げられた卵の上にいるような危うさであることを自覚しており、そこから目を逸らすことは出来ない。戦いを避ければ武威を損なうかもしれないが、敗れてしまえば、晋は覇を失うのである。
「楚子は驕らぬように国人を戒め、出陣にあっては常に万全を期しております。しかも、鄭と楚は互いに、子良と潘尫という、それぞれの国における貴人を人質として交換しあっています。それでもなお、楚を信じられぬ者が皇戌を派して我らをけしかけ、勝敗によって去就を占おうとしているに違いありません」
欒書は懇々と説いた。先穀が中軍の佐であるならば、欒書とて下軍の佐である。韓厥は軍中にある者たちでその責を同じくしようと荀林父に説いたが、欒書としては、
――道理に昏い者の咎を、どうして共に背負いこまねばならぬのだ。
と、いう想いがあった。
しかし先穀らの蒙闇は、欒書の言葉が通じるところではなかったのである。まさに伍参が熊旅に進言したように、晋の大夫たちの和は乱れていたといえよう。
さて、退かぬことを決めた楚であるが、いきなり兵を差し向けることはしなかった。
「晋と和睦を致しましょう」
と、言うことになった。おそらく、そう進言したのは蔿艾猟であろう。伍参の言い分が、晋来ると聞いて南に帰るのは国恥であるというものであれば、向き合った上で退けばよい。そう思い、晋の軍に使者を送ったのである。
この使者は、少宰という官名のみしか伝わっていない。しかし、晋の大夫たちの前で慇懃に、そして堂々と振る舞った。
「我が君は幼くして先君と別れ、今日まで学識を正しく修める暇もありませんでした。それでも先君を継いだ身として、鄭を咎めるべく兵を北に進めたのです。貴国と争うつもりはなく、また、その咎を求めようとも思いません」
少宰の言葉に応対すべきは、中軍の将たる荀林父である。しかし荀林父は、首を軽く傾けて士会のほうを見ると、目語した。士会は頷くと、進み出て口を開く。
「我が国としましても、鄭に赴いたのは、今や周王の命に従わぬ鄭を咎めるためでございます。貴国の事情もまた、了承いたしました」
荀林父と士会は、あくまで楚との戦いを避けようとしている。むしろ士会としては、
――楚子がここまで戦いを望んでいないとは。
と、そちらのほうが意外であった。しかも、楚のほうから使者を遣してくれたことで、晋としての体面も保てる。士会としては、このまま和睦することで互いに戈矛を収めるべきだと考えた。
しかし、少宰が退くと、その後を趙括が追った。
「先ほどの言葉は、応対した者の誤りです。我らはどこまでも、敵と会えば退かぬ覚悟でこの地に参りました」
趙括がそう言った背後には、先穀の下知がある。だが、そうと知らぬ少宰は、その通りに復命した。
熊旅としては、悩ましいところである。独断で決めるわけにはいかない。そして、この難問を諮ることが出来るのは、蔿艾猟だけであった。
「士氏は我が軍と戦いたくなく、しかし、会戦を望む者もいる。今の晋は、大夫どうしの思惑が一致せず、故に軍として多頭の状態であると思われます」
「うむ、寡人もそう見た。確かに、こうして見ると伍参の申す通り、晋は人の和に欠けておる。ならば、戦うが吉なのやもしれん」
熊旅は、その貌に欲を出した。敵が纏まらぬのであれば、晋がいかに大軍であっても、それは雑軍である。楚が将兵一丸となれば、晋を打ち倒し覇を唱えることも出来るやもしれぬと、思い始めていた。
しかし蔿艾猟は、楽観を見せ始めた主君に対して、どこまでも怜悧のまなざしを向けている。
「戦うは凶です。我が君はあくまで、晋と和睦なさいますように」
蔿艾猟は一歩も退かない。熊旅は、
――この場に、伍参を呼ばなくてよかった。
と、安堵した。もし二人が会せば、喧々囂々の論陣が繰り広げられたであろうことは想像に難くない。
とにかく、蔿艾猟は終始、非戦を唱えている。しかも、熊旅がどれだけ聞いても、その真意を明らかにすることはなかった。
ただし熊旅としても、晋と――さらに言うのであれば、士会のいる軍と戦うのは恐ろしい、という想いは拭えない。しかもその士会が晋軍の中で非戦を主張しているというのが、いっそう薄気味悪く思えた。
普通であれば、士会が楚との戦いを避けているということは、楚と戦えば敗れるという危殆を有してのことと考えるのが自然である。しかし熊旅からすれば、士会に並ぶ名将として蔿賈という人を知っており、その薫陶を受けた蔿艾猟もまた、頑なに戦いを避けようとしているのを見ると、
――危うきは、晋でも楚でもなく、晋楚が争うこと自体ではないのか。
と、考えた。むしろ、士会に近しみ和睦を纏めたほうがよいと思い、再び使者を派遣した。
すると、驚くほどあっさりと、晋楚の和睦は成立し、盟いの日取りも定まったのである。しかしそれはあくまで首脳だけの話である。熊旅は自軍の挙国一致を信じていたが、実は楚にも、隠れた主戦派がいたのである。
楽伯という男が、晋の陣を挑発し、攻めた。熊旅の望まぬ形で、楚のほうから戦端を開くこととなってしまったのである。
一方、晋のほうでも、魏錡という人が楚陣を挑発した。しかも魏錡は、使者として出陣を許されながら、戦いを望んだのである。明らかな背命であった。
魏錡は、楚の陣を攻めた。しかし、軍使として出向いたために、率いるのは寡兵である。軍容厚い楚の守りを抜けるはずがなく、攻めあぐねて、兵を返すこととなった。
逃げる魏錡を追ったのは潘党という人である。この人は潘尫の子であり、弓の名手であった。その強弓は、七重の甲鎧を貫くほどである。残念ながら此度の戦いにおいてその隔絶たる射技を伝える逸話はないが、後には戦中において、本邦でも知られた弓の天才、養由基と技を競った人であると書けば、その凄絶さは伝わるのではないかと思う。ちなみに養由基もこの戦陣に参じているのだが、潘党と同様に弓の逸話は残っていない。
ともかく、潘党は手勢を率いて魏錡を追った。しかし潘党は、熊旅は晋との戦いを忌避していることを察していた。故に、追撃は緩慢であり、得手たる弓も使わなかった。魏錡はこの闘争の最中に鹿を見つけるとその一頭を仕留め、潘党に献じたというのだから、潘党の追撃が形式的なものであったことがうかがえる。しかも、潘党は、鹿を受け取ると魏錡をそのまま去らせてやった。




